窓ガラスに吹き付ける雨の音を聞きながら、今日も俺はソーシャルゲームに興じていた。時間が早い事もあって、今日は珍しく居酒屋ではなく喫茶店に陣取っている。
昼食の調理するのが面倒だったのだ。家を出るとき雨が降っていたので悩んだけれど、この時間省略に勝るものは無い。故にこの外出を決行した。
先程頼んだカツサンドを片手で食べつつ、テーブルに置いたスマホとタブレットを交互に操作して、もう見るのが何回目になるか分からないイベントボスをタコ殴りにしていく。
操作が五往復に到達したあたりでボスは沈み、俺は一息つく。視線を画面から上げて窓の外を見た。長時間プレイするのもいいが、時々こうして遠くを見ないと目が疲れてくることもある。
眼球に休暇を与えていると、何やら挙動のおかしい人物が目に映った。
雨の中、走ってくるスカートにシャツの女性。一つにくくった髪が、コンクリートを蹴るたびに揺れている。
最初はどこかで見覚えがある程度の認識だったが、喫茶店のドアを開けて店内に入って来たところでその正体に気が付く。慌てて視線を逸らした。だけれど彼女はもう既に俺を捉えている。カウンターの店主に『ブレンド』と告げて、談笑を挟んで、笑ってタオルを受け取った。
どうやら気兼ねなくこういうことができるぐらいにはこの店に通っているようだ。ひらひらと手を振って店主との会話を打ち切って、歩き出す。僕に向けて鋭い目を向けて、それから対面の椅子を引いた。
「ねぇ、無視することは無いんじゃない?」
「席も結構空いているのに、相席することも無いでしょう」
「知り合いを見つけたとしたら案外普通だと思うけれど?」
彼女は首をかしげる。頬についた水滴が重力に従って下に伝う。瑞々しくて、艶っぽくて、思わず手を伸ばしたくなる。
自分にそんな度胸もないし、彼女にそこまで心を許されている訳もない。だからその欲求は胸の内に仕舞った。
「……ポニーテイルの知り合いなんていませんよ」
「じゃあ、解けばいいのね?」
「解けばいいってものじゃ……。はぁ、もういいです。確かにその感じは俺の知り合いだ」
「素直に認めればいいのに」と呟きながら、彼女はヘアゴムから手を離す。ポンポンとタオルを髪に当てた。
「こんなところで何してるの?」
「見ての通りゲームですよ。イベントが忙しいんです」
「ふーん、いつも通りだね。ちなみになんて言うタイトルなの?」
「『スクランブルー・ファンタジー』略してクスブル。ほら、たまにCMやってる」
「ああ、あれね。面白い?」
「面白いですよ。一緒にどうです?」
「遠慮しておく。団体戦のゲームやる君にはついて行けなそうだからね」
「そうですか」
カツサンドの最後の一口を食べ終えると、ウエットティッシュで手を拭いてからペースを上げるために両手で二つの端末を使い始めた。
「そういう貴女は何をしにきたんですか? さっきの様子からしてどこかに行った帰りだったとか」
「うん。今日は映画館に行ってたんだよ。朝の枠だとちょっと安かったりするじゃない? それで朝から一本見て、帰るつもりだったんだけど……まさか雨に降られるとは思わなかった」
「まあ、朝はからっと晴れていましたからね」
「そうそう」と彼女は相槌を打つ。
「それに今日の映画はなかなか仕事で見れなかったし、楽しみでさ。いろいろと抜けていたのかもしれない」
店主が机の上にソーサーに乗ったカップを差し出す。彼女は頭を少し下げて答えると、一口コーヒーを口にした。
「うん、やっぱり美味しい」
「やっぱり、ってことはここにはよく来るんですか?」
「まあね。家が近いのと、雰囲気が好きなんだ。」
俺は「そうなんですか」とだけ返事を返す。ここで俺の家も近いんだとか、余計な事を口走ったら面倒くさい事になりそうだった。話題を少し戻す。
「映画、好きなんですか?」
「うん、好きだよ。休日の過ごし方としては最上に近いかな。一日中映画館で過ごすこともある」
「へぇ、でも丸一日中、それも何作も見るとなると、頭がいっぱいになって苦しくなりませんか? 僕だったら耐えられそうにありませんけど」
「あるよ。でもそれが好きなんだ」
カップに当てていた指がもっと強くなったのが見えた。何となく気になって、スマホから目線を切った。彼女の表情は今日の天気と同じく少し曇って見えた。
「別世界の事で頭をいっぱいにするのがね。なんか自分を現実から切り離せたような気がする」
意外だった。これだけ美人で、苦労も何もして無さそうな癖に、『自分を現実から切り離す』なんて現実から逃げているような台詞が出てくるなんて。何だか、俺に近い部分を初めて見れた気がした。
「そう、ですね。現実逃避もたまにはいいんじゃないですか」
「君は常にしてるんじゃないかと思うけれどね」
「余計なお世話ですよ」
不貞腐れてそう言い捨てる。それを見て彼女は笑う。クスクスと上品に。一瞬見えた表情の曇りは元から無かったように感じられてしまう。
「君はゲームを良くしているけれど、他に好きなことはあったりするの? いくら好きな物でもいつまでやっていたら飽きが来るでしょ」
「俺はゲームに飽きたら別のゲームをやったり、同じゲームの中でも別の物をやったりしますけど、そう言う事を聞いている訳じゃないんですよね?」
「うん、勿論。そういうのはつまらないからさ」
彼女は頷く。
「なら、こうやってコーヒー飲んでいるのは好きですよ。銘柄とか種類とか、大まかにしか知らないですけど、喫茶店で香りを楽しみながら少しずつ飲むのはなんだか落ち着きます」
「へぇ、成程。意外だね。こういうものは作業的に流し込んでいると思っていたよ」
「心外ですね。まさか勝手に食料が出てくるから、なんて理由で通っている訳じゃないんですよ」
「そうだね。よく考えれば、好きじゃ無かったらここにはいないよね。君に食事に無関心なら、その分を課金に回しそうだ」
「……否定できないのが辛い所ですね」
自分がもし食に執着していなかったら確かにやりそうだ。安売りしている袋麺とか、カレーとかで食いつないで、少しでもゲームに回しそうだ。
そういう人間がいるのは知っているし、ここまでゲームをやり込んでいると知り合いにもいる。……なりたいとは思わないが。
「逆に貴方は他に好きなこととか無いんですか?」
「私? 私はお酒と、映画と、この喫茶店も好きだし……それと最近は、君のことも結構好きだったりする」
思いっきり咳き込んだ。唐突に火炎瓶を家にぶん投げられたかのような衝撃だった。飲み物を口に含んでなくて本当に良かったと思う。
出て来た涙を拭って、再び見た彼女の顔は悪戯の成功した子供みたいだった。
「結構びっくりした?」
「そりゃあ……まあ。びっくりするに決まっているでしょう」
「結構ウブなんだね」
「……女性とはあまり関わって来なかったもので」
「へぇ、結構かわいい顔してるのに。周りがほっとかないと思うんだけどなぁ」
「女性に向けて言うならともかく、男の俺に言われても嬉しくないですからね」
「おっと、それは申し訳ないね」
「ほんとですよ。冗談でも言って言いことと悪いことがある。好きだとか、嫌いだとか、そんな事を軽々しく言って許されるのは小学生まででしょう」
わざとらしくため息をついた。彼女はそれを聞いて、一度目を伏せる。窓を通して遠くを見た。その先に何を見ているのか。何を感じているのか。同じ方向を見ても気が付くことはできない。
それから小さく、赤ん坊に話しかけるような優しい声色で切り出した。
「かもね。でもさ、私は……大人になればなるほどちゃんと言っておいた方がいいって、思うこともあるよ」
今日の空気みたいにじっとりと重い空気を感じる言葉だった。いつもみたいにふらふらと揺れながら落ちる花びらみたいに交わされる言葉では無かった。
たぶん、彼女にとっての大事な部分根幹にあるモノなんだ。だから適当に扱うことは止めようと思った。
二台のスマホの電源を落として、それからもう一度彼女を見た。信じられない物を見たかのように、彼女の視線は僕の手元に固定されている。俺だっていつでもスマホでゲームをしてる訳じゃない。そう言ってやりたかったけれど、今はそんな空気でも無かった。
他にもっとやるべきことが、言うことがある。
「俺もっ……貴方との時間は嫌いじゃない。面倒では、あるけど」
一瞬、自分の周りだけ宇宙空間のように無音になった気がした。ぱちぱちと正面の彼女が瞬きをする。恥じらいが肌を撫でて、鳥肌が立った。上手い事口が回らなかった。彼女の様な美しさも、格好良さも持ち合わせていない自分はただひたすらに不格好だったと思う。
身体が熱を持って、ありとあらゆる毛穴からやかんみたいに湯気が出てるんじゃないかと思ってしまう。
それを見た彼女は無音から解放されて、声を必死に抑えながら笑った。人差し指で涙を拭った。そこまで笑わないで欲しかった。
「なにそれ。最後の一言が余計すぎるでしょ」
「でも面倒なのは事実でしょう」
「そんなこと言って照れ隠ししなくてもいいのに。へぇ~。そっか嫌いじゃないんだ。じゃあ好きってことだよね。面倒なコミュニケーションの取り方をするなぁ、君は」
「別にそうは言ってないでしょう」
「じゃあ、ったも同然だね」
「そう言う所が面倒だって言ってるんですよ!」
ちょっと強めに言ってみたけれど、彼女にはあまり堪えないようだった。いつもみたいにニヤニヤとかわしていくスタイルに戻っていた。
「ごめんごめん。ちょっと嬉しくなっちゃったんだよ。私の悪い癖だね」
「分かってるなら治して欲しいですね」
「直し方が分かっていないから悪癖なんだよ」
「ほんと、ああ言えばこう言うな……」
呆れつつ、コーヒーを口にした。熱かったはずがかなり
好きなゲームを放置して、面倒なはずの他人との会話を楽しんでいる。それは、これまでにない逆転現象だった。それこそ天変地異でも起きない限りはあり得ないと思っていた。
でも、そう言ったことは突然訪れるらしい。
「どうしたのかな? 急に黙り込んじゃって」
「ちょっと考え事をしていただけですよ」
自分が時間を忘れるぐらい必死で、他の何もかもが並行して考えられなくなるこの感覚。それを彼女に告げることは、たぶんないのだろう。