華琳から渡された現在の陳留における警備隊の諸々について記された紙の束。それらに一旦目を通した俺は、ふぅと息をつきながら背凭れにゆっくりと寄り掛かる。
あまりよろしくない、というのが正直な感想だった。
目下の問題として街の広さに対する警備隊の詰所の数が少なすぎる。これでは犯罪や喧嘩などの問題が起きても、場所によっては警備隊が間に合わないこともあるだろうし、騒ぎが連続で起きた際にはカバー出来ない部分も出てきてしまう。せっかくの警備隊もそうなってしまえば意味がない。
では詰所の数を増やし、働く人材も増やせばいいのではないかと言われると、そういう訳にもいかないのが現状だ。詰所を建てるのにも、人を雇うのにも、装備を整えるにも、何をするにしてもまとまった額の金が必要になる。残念ながら今の陳留の懐は暖かくない。金庫番の栄華に頭を下げたところで芳しい成果が得られる可能性は低いだろう。
「とりあえず警邏の頻度を増やして、あと犯罪者はしっかり捕まえて処罰するってところかな。これが後々の犯罪への抑止力になってくれるといいんだけど……」
小さくぼやきながら筆を手に取り、すらすらと報告書を書いていく。とはいえ、華琳からの書類だけでは分からない問題点もある筈だ、俺も警備隊の一員として実際に働いてみた方がいいかもしれない。現場の様子を一番知っているのは同じく現場の人間なのだから。
それにしても、やはり現代とここでは勝手が全然違う。携帯電話もパトカーもないこの世界では、知らせを届けてくれるのも現場に向かうのも全て人力に頼らざるを得ない。加えてまだ治安が良くないせいか、警備隊の駆り出される回数もここ最近は多くなってきている。なんらかの手を打たなくては流石にまずいだろう。この陳留は華琳のお膝元、街の人々が安心して暮らせる場所でなくてはならないのだから。
「とりあえず今は出来ることから、か……」
それから俺は夕食などで途中休憩を挟みながら作業を進める。警備隊や陳留の治安に関すること以外にも、現在華琳の有する兵力や糧食、部隊の状況など、将軍という大役を任される上で知っておくべきことを頭に叩き込む。付け焼き刃かもしれないが、全く何も知らないでいるよりはいい筈だ。
「兵法は……桂花が来たら聞いてみようかな。いやでも、基礎くらいは自分でやっとかないと話にならないか……」
──頭の中では女を犯すことしか考えていない救いようのない変態のアンタなんかに、一から兵法のなんたるかを教えていられるほど、この天才荀彧さまは暇じゃないのよ! せめて基礎くらいは自分でやって、何が聞きたいのかをしっかり決めてから出直しなさい!
今のままの俺が教えを乞うたところで、こんな具合に追い返されるのが関の山だろう。これからは書庫に通う日々になりそうだ。
……それにしても、桂花を思い出すと恋しくなってくるのがあの毒舌だ。別に彼女に罵られたいとかそういう特殊性癖を持ち合わせている訳ではないが、あれがないと締まらないというか、少し寂しく思えてしまうのも事実である。
──桂花が来たら少し厄介がられるくらいにちょっかいを掛けよう。
俺はそう誓った。他の誰かが聞けばきっと呆れることだろう。
「一刀、いるかしら」
コンコンと控えめなノックと共に響く凛とした声。どうぞと許可をすると姿を現したのは案の定、華琳だ。
「やはりまだ起きていたのね。早く寝なさい、もう遅いわよ?」
「そっか。もうそんな時間なのか……」
どうやら仕事に没頭するあまり、時間の経過を忘れてしまっていたようらしい。当たり前だがこの世界に時計なんてものはないので、意識していないと時間が経つのは本当にすぐだ。机に向かっていた体をぐっと伸ばせばポキポキと背骨が鳴る音がした。
「うん、じゃあそろそろ寝るよ。気を遣わせてごめん」
「別にあなたを心配した訳じゃないわ。それより早くしなさい」
そう言って華琳は俺の隣を横切ると寝台の方へ行き、そこにすとんと腰を掛けた。
「……もしかしてここで寝るつもりなの?」
「ええ。何か問題でもあるかしら?」
「事前に言っておいてくれると良かったかな……」
「それではつまらないじゃない」
ですよね、と俺は苦笑し、机の上に広げていた道具一式の片付けに入る。我らが覇王さまの無茶振りに応えるのも臣下の務めだ。この程度のものならお安いご用である。
「入るよ、華琳」
「さっさとなさい」
そそくさと寝具に着替え、一人用の寝台に華琳と一緒に横たわる。落ちてしまわないよう身を寄せた華琳の体は驚くほどに細く、しなやかで柔らかい。この世界にはシャンプーもリンスもトリートメントも存在しない筈なのに、作り物のように美しい金髪からは仄かに甘い香りがした。
「ふふっ」
「どうしたんだ?」
「いいえ。ただ、今宵はよく眠れそうと思っただけよ」
「あぁ……俺もだよ」
触れ合った素肌から伝わってくる華琳の優しい体温に、俺の意識は既に微睡んでいる。もう一つあるとすれば……それはきっと安心感だろう。愛しい人がすぐ傍にいるという、そんな安心感だ。
華琳もこの気持ちを抱いてくれていたなら、これほど嬉しいことはない
「今みたいな時間が……ずっと続けばいいのに……」
「寝言は寝てから言いなさいな。あなたも分かっているでしょう、もう時間がないということくらい」
「厳しいなぁ華琳は……。まぁ、確かにそうなんだけどさ」
以前、この陳留以外の土地について調べてみる機会があったのだが、それはもう酷いものだった。多くの太守や県令といった役人は高い税率を定めて民から多くの税金を搾取しており、それを自らの贅沢や中央への賄賂としてしか使っていないのだ。民の暮らしは過酷さを増すばかりで逃げ出す者すらいる始末。役人や国に対する不満は今この瞬間にでもどんどん蓄積していっている。最早、その膨れ上がった怒りはいつ破裂してもおかしくない。
「争いが起きる、か……」
「……不安なのかしら?」
俺を見上げる華琳の碧眼がすっと細められる。思うところがあるならここで言っておけ、そんな風に言っているような気がした。
「……いつか俺も誰かの命を奪うことになるのかなって……そんなことを考えてたんだ。前に華琳が俺に将になってもらうって言ってたからさ、やっぱり覚悟くらいは決めておかないとなって」
「一刀……」
誰も傷つけずにこれから始まる乱世を歩んでいけるだなんて思ってない。どれだけ望まなくとも戦は起きてしまうし、そうなれば戦死する者だって出てしまう。今はまだ綺麗なこの手も、いつの日かきっと血で汚すことになるだろう。
だからこその覚悟だ。
例え誰かの命を奪うことになったとしても振り返らず、心の中にそっとしまって前へ進む。罪の意識に苛まれ、迷い苦しみ、時には傷つき地を這いずることになろうとも、俺は自分の信じた道を行くのだという覚悟を決めなければならない。
それがきっと戦場に立つ者が背負うべき責任なのだろうから。
「本当は怖いよ。どんな理由があるにしたってやることは……その、人殺しだから。出来ることなら誰も傷つけたくないし殺したくないっていうのが本音なんだ」
でも、と俺は言葉を区切る。そして、華琳をそっと抱き寄せた。
「俺は華琳を支えるって決めたから。この大陸を平和にしたいっていう華琳の隣に立ちたいって思ったから。戦わなくちゃいけない時が来たなら……戦うよ、俺も」
「……それが、あなたの答えという訳ね」
その返事に俺は頷く。自分の意志で、確固たる信念のもとに。
「ならばそれが口先だけではないということを明日から見せてもらおうかしら? この曹孟徳の前で口にしたのだから、もう覆させはしないわよ」
「おう。期待に応えられるよう頑張るよ」
「……一刀、もしあなたが誰かを殺めることになったとしても、あなたが私達の愛する北郷一刀であることに変わりはないわ。それを忘れないで」
そう言って華琳は俺の唇にキスを落とすとそのままふっと優しく微笑んだ。込み上げてくる温かい気持ちに、華琳を抱き止める腕に少しだけ力が入る。
──俺が俺であることに変わりはない、か。
この先に何があろうとも、どんなに辛い思いをしようとも、その一言があれば自分を見失うことはなさそうだ。
「ありがとう……華琳」
落ちていく意識の中で、俺は最後に愛しい人へ感謝を紡いだ。
どんな崇高な目的があろうとも、どんな綺麗事を並べようとも、それが人殺しであることに変わりはない。現代人故の葛藤というか、そういうお話。
このままだといつまで経っても終わらないからそろそろ本筋の方も進めないと。