とりあえず一刀さんが死なないと本編が始まらないので、早足ですが一気にいきます。
いつもと変わらないパトロールになる筈だった。あらかじめ定められていたルートを通り、不審者や事故が起きていないかを見て回る。通りすがりの人達に挨拶をしながら、相方である先輩巡査と「今日も平和だなぁ」なんて話をしたりして、それで終わる筈だったのだ。
けれど、見てしまった。
数メートル先にある横断歩道。そこで赤ん坊を抱いている女性へ、狙ったかのように突っ込もうとしている一台のトラックを。
「っ! 危ないっ!」
「ほ、北郷!?」
驚きで目を見開いた先輩を置き去りにして、俺は一目散に駆け出した。まるで時間の流れがずっと遅くなったかのような錯覚、周りの景色がスローモーションで後ろに流れていく。
だが、トラックは止まらない。それどころか減速すらしない。相当な速度を維持したまま、真っ直ぐ女性目掛けて突っ込んできている。あんなものに巻き込まれれば命の保証はどこにもない。女性も、その腕に抱かれた赤ん坊も。
そんなことは、絶対にさせない。
「(届けっ! 届いてくれっ!)」
全力疾走したままあらん限りの力を振り絞り、右腕を女性へと伸ばす。必死の祈りが通じたのか、その刹那に確かな感触が腕に伝わる。強く突き飛ばされた女性は大きくよろめき、先程の位置から少し離れたところで赤ん坊を守るように背中から倒れ込んだ。
「──良かった」
これで女性と赤ん坊はトラックの進路からギリギリ外れた。あの位置ならトラックに轢かれることはないだろう。
俺はほっと胸を撫で下ろし──次の瞬間にはトラックに撥ねられ、宙を舞っていた。
「……ぁ」
グシャリ、と体から生々しい音がした。俺はその音を知っている。同時に視界のほとんどが赤く染まり、全身からありとあらゆる感覚が消え失せていく。
あれは、肉が潰れる音だ。
十年前に経験した戦争であちこちから聞こえてきた、人が死ぬ時の音である。
「─────!?」
「──! ────!」
誰かが何かを言っている。けれと、今の俺にはそれすら分からない。ただ、自分はもうじき死ぬことだけは、この上なくはっきりと理解出来た。
そこに後悔はない。
目の前にあった二つの尊い命が失われる様を何も出来ないまま見届けるくらいなら、俺が代わりになる方がずっといいと思えた。その気持ちは、こうして瀕死になった今でも変わらない。
あの親子を救えた。
それだけで十分だった。
ただ一つだけ心残りがあるとすれば……華琳の許可なく逝ってしまうことだろうか。
「(華琳……皆……)」
十年前にあの世界で過ごした思い出が、脳裏に次々と浮かんでは消えていく。きっとこれが走馬灯というものなのだろう。それを見た俺は、死の間際だというのに酷く懐かしい気分になった。
「(もう一度、皆に会いたかったなぁ……)」
どこまでも広がる、眩しいくらいの蒼穹。
その景色を目に焼き付けたのを最後に、俺の意識はゆっくりと遠ざかっていった。
△▽△▽
「──に──ちゃ──」
……声が聞こえる。ぼんやりと靄がかかっているように聞こえにくいが、恐らくはまだ小さい女の子の声だ。それに引き上げられるように、沈んでいた俺の意識が徐々に覚醒していく。
だが、これはどういうことなのだろう。俺はあの親子を庇ってトラックに轢かれ、死んだ筈だ。あれだけの傷を負って助かる見込みがあると思えるほど、俺は楽観的ではない。つまりここは……天国か?
「おに──ちゃ──兄──ん」
ゆさゆさと体が揺さぶられる。それと同時にさっと柔らかな風が頬を撫でた。
自分が今どんな状況に置かれているのか、気になって仕方がない。俺は生きているのか、それともやはり死んでいて、天国のような場所に招かれているからこそ、こうして思考を張り巡らせることが出来るのか。体の自由が利くようになり、重い瞼を開けようとすると、真っ暗だった世界に一筋の光が差し込んだ。その眩しさに思わず「ううっ……」と声が漏れる。
「っ、お兄ちゃんっ!」
先程はよく聞こえなかった声が、今度ははっきりと聞こえた。その瞬間、俺は目をかっと見開き、倒れていた体を勢いよく起こした。その際に額を何かに強打し、生じた鈍い痛みに表情を歪める。
それでも、俺があの声を聞き間違える筈がない。
ずっとずっと会いたいと思っていた、あの時代に残してきてしまった大切な人達。その中でも俺を『お兄ちゃん』と呼ぶのは、たった一人しかいない。
「香風……なの、か……?」
痛む額を手で押さえながら目を開くと、同じく額を押さえながら涙目になっている少女の姿が映った。薄紫色の髪も、白い首巻きも、水着のような薄手の格好も、近くに転がる大斧も、記憶に残っている彼女と何も違わない。
「あ……あ……ああぁ……」
視界が涙で滲む。額の痛みなどすっかり忘れ、俺はよろめきながらも香風に手を伸ばした。何故彼女がいるのだとか、ここは一体どこなのだとか、そんなことはどうでもいい。ただ今は彼女に触れて、その存在が本物なのかを確かめたかった。
「お兄……ちゃん……」
「あぁ……夢じゃないんだ……」
伸ばされた指が香風の頬に辿り着き、その柔らかな肌をそっと撫でる。暖かい。指先から感じる彼女の熱が、彼女が間違いなくここにいることを、これ以上なく明瞭に伝えていた。その途端に、とうとう俺の目から涙が零れた。
「香風……香風なんだよな……?」
「ぐずっ、うん。シャンは、華琳さまに仕えて、お兄ちゃんと一緒に、空を飛んで……ひっぐ……それで……それで……!」
「あぁ……香風……! 香風っ!」
嗚咽を漏らし、香風の小さな体にすがりつく。涙だけでなく、色んな想いが堰を切ったように溢れてきて、俺は声を上げてわんわんと大泣きした。
嬉しかった。
嬉しくて嬉しくて、それ以外のことが出てこない。俺は──否、俺と香風は暫し抱き締め合ったまま、二人揃って嬉し涙を流し続けた。
季衣は『兄ちゃん』、流琉は『兄さま』、風は『お兄さん』、そして香風が『お兄ちゃん』。呼び方で誰が誰か分かるんですよねぇ。