「ここにいたのか。北郷、華侖、柳琳」
「遅いぞ。一体何をしている?」
後ろから掛けられた声に振り返ると、そこには秋蘭と春蘭の二人が立っていた。恐らく華琳と共にお風呂に入っていたのだろう、二人の白い肌は上気して微かに赤くなっており、身に付けている服も汚れ一つない綺麗なものに変わっている。よく見れば髪も完全に乾いている訳ではないようだ。
「あっ、春姉ぇと秋姉ぇっす! おかえりなさいっすー!」
「あぁ」
「うむ。さて北郷、華侖も見つかったようだし、そろそろ華琳さまのもとに向かうぞ。あまり我らが主を待たせるな」
「分かった」
春蘭と秋蘭がここにいるということは、華琳の方も既に支度は終わっている筈だ。秋蘭の言う通り、あまり待たせてはせっかくお風呂で良くなった機嫌を損ねかねない。華侖を見つけるという目的が達成された今、速やかに参上するのが望ましいだろう。
「? 柳琳、華琳姉ぇがどうかしたんすか?」
「それは歩きながら説明するわ。一刀さん、行きましょう」
「だな」
柳琳の言葉に頷き、俺達は春蘭と秋蘭の後を追った。
△▽△▽
「来たわね。それでは早速始めようかしら」
先行する春蘭と秋蘭に続いて謁見の間にやって来た俺達を確認してから、華琳はそう切り出した。その身から放たれる覇気がこの場を満たし、あまりの緊張感に俺はごくりと唾を飲んだ。
「一刀と香風がこうして揃ったことだし、今後の我々の方針を説明しておくわ。まず第一に、私の目指すところは、この混乱した大陸に再び平穏をもたらすことよ。中央の腐敗に伴い拡大する民の不満、それは最早到底抑えることの出来るものではないわ。この様子では近いうちに必ず破裂する。それが例え、天和達がいなくともね」
天和達がいなくとも争いが起こる、華琳はそう断言した。その理由が分からず首を傾げていると、隣の秋蘭がそっと耳打ちしてきた。
「太平要術の書があっただろう? あれが華琳さまの元から盗まれていないのだよ」
「太平……あぁ、なるほど。それでか」
天和達が図らずも黄巾の乱を起こしてしまった原因、それが太平要術の書だ。あれによって集められた彼女達のファンが暴走、そこに不満を抱えていたり、生活に困っていた民や賊が一斉に便乗し、結果としてこの漢の地を巻き込む大規模な反乱となってしまったのである。具体的な数は覚えていないが、恐らくは何十万という人々がいた筈だ。この時期の諸侯の持つ兵力が数千から数万程度だったことを考えると、その数が如何に膨大であるかがよく分かる。
「ん……あれ? じゃあなんで秋蘭達はあそこに来たんだ? 確か三人があそこに来たのって、太平要術の書を盗んだ賊を追い掛けてたからだよな?」
如何せん十年も前のことだ。初めて華琳と出逢った時のことは覚えていても、彼女が俺のいた荒野に来ていた理由については記憶が曖昧になっている。だが、確か俺の言った通りの理由だった筈だ。
「華琳さまの素早いご判断のおかげで書が盗まれることはなかった。だが、それ以外にいくつか盗まれたものがあるのだよ。あの時の我々はお前のことを思い出したばかりで、かなり慌ただしく動いていたからな。情けない話だが、賊の侵入を許してしまった」
肩を竦めながら秋蘭は小さく息をついた。太平要術の書のような特別な代物でないにせよ、華琳の所有物を賊に掠め取られたという事実は、彼女にとって許されざることのようだ。
「……でもさ、その太平要術の書が天和達に渡ってなくても、本当に争いが起きるっていうのか?」
「うむ。彼女達がいようがいまいが、民の不満が高まっていることに変わりはない。華琳さまの仰られる通り、そう遠くないうちに国は乱れるだろう。かつてとはきっかけが違うだけでな……」
国が乱れる。争いが起こる。そうなれば、人が死ぬ。
当然の帰結である筈なのに、酷く胸が傷んだ。
「これから私達は大規模な乱に備えて動かなくてはならない。愛しき我が民を守るため、今の自分達が出来ることをする必要があるわ。全員、己が役目に全力を尽くすように!」
『はっ!!』
春蘭、秋蘭、華侖、柳琳、栄華、香風、そして俺。この場に集った者達の声が木霊した。その気迫にビリビリと空気が震えるのを感じる。
「──それと、一刀」
「ん? どうした?」
不意に名前を呼ばれて顔を上げた俺の視界に、にやりと笑う華琳が映った。なんとも嫌な予感がする……。
「あなたにはこれから少しの間、皆の補佐に回ってもらうわ。十年も天の国にいたのなら、少しくらいこちらに慣れるための時間は必要でしょう? それに私自身、今のあなたがどこまでやれるかも知りたいのよ」
なるほど、それは俺にとって願ってもないことだ。華琳の下で働く以上、自分に何が出来るのか、しっかり把握しておかなくてはならない。
「それが終わればあなたにも一人の将としてきっちり働いてもらうつもりでいるから、覚えておきなさい」
「将としてって……本気か?」
直後に来た予想外の一言に軽く目を見開き、思わず聞き返してしまう。だが、華琳は間違いないと言わんばかりに頷いた。
「ええ。有能な人材を適当な仕事で腐らせはしないわ。ただでさえ今は人手不足が深刻なのだから、使えそうな者は遠慮なく使うわよ」
それとも、と華琳は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「かつて出来ていたことが今は出来ないなんて、まさかそんな腑抜けたことを言うつもりはないでしょうね?」
「む……」
その一言は、この上なく的確に俺のプライドを刺激した。むすっと頬を膨らませて不機嫌さを露にした俺を、華琳は何も言わずにただ見つめる。
今の自分は過去の未熟な己にも劣るのか?
十年もの時を無為に過ごしたのか?
お前は、口先だけの男なのか?
空のように澄んだ碧眼が俺にそう尋ねてくる。
そんなもの、答えは一つしかない。
「分かった、やるよ」
「ええ、それでこそ一刀よ。期待しているわ」
こうして俺はこれから少しの間、皆の補佐という形で様々な仕事を経験することになった。