ブンと振り下ろされた剣が空を切る。
まだ太陽も顔を出してすらいない明け方、まだ白みがかった空の下で、俺は兵卒の扱うような剣を使って素振りをしていた。一回一回きちんと確かめるように中段に構え、ふっと息を吐きながら全力で振り下ろす。竹刀よりも遥かに重い得物は、同じ素振りでも掛かる負担がずっと大きい。まだそこまで続けていないにも関わらず、両腕の筋肉は既に悲鳴を上げ始めていた。
「ふぅ……せいっ!」
しかし、だからといって止まる訳にはいかない。地道な繰り返しが結果に結びつくことは、三十年近く生きてきた中で身に染みて理解している。これを問題なく振り続けられるようになって、初めて前に進むことが出来るのだ。
「(とはいえ……あんまり無理したら今日の仕事に差し支えるかもな)」
自主訓練をやりすぎて本来の仕事が出来ませんでした、などと華琳に言おうものなら、一瞬で首と胴が泣き別れすることだろう。その辺りの見極めもしておいた方が賢明かもしれない。
「朝から精が出るな、一刀」
「あれ、秋蘭?」
不意に後ろから掛けられた声に振り向けば、いつもの青い装束を纏った秋蘭が立っていた。珍しくその隣に華琳や春蘭の姿はない。どうやら彼女一人だけのようだ。
「おはよう。どうしたんだ、こんな時間帯に? まだ随分と早いぞ?」
「今日の朝議で報告すべきことをまとめていた。それも先程終わったから、気晴らしに少し散歩していたのだよ。それにしても、一刀が朝からこんなことをしていたとはな」
そう言って持ち前であるクールな微笑を浮かべる秋蘭。別に誰かに見られたくない秘密の特訓という訳ではないが、しかしこうして見られては少し恥ずかしくもある。
「……続けないのか?」
「え? あ、あぁ、そうだな。……すぅ……ふぅ……」
胸に手をやって深呼吸をし、気分を元の状態に戻す。そうしてから、俺はもう一度素振りを再開した。
「ふっ……はっ! ふっ……はっ!」
「……」
荒い呼吸音と風切り音だけが静かに中庭に響いては消えていく。俺が剣を振り続けている間も、秋蘭はただ無言でその様子を見ているだけだ。口を挟むことなく、腕を組んでこちらの動き一つ一つを観察している。
「あの、見てて楽しいか?」
「あぁ、楽しいぞ。お前が真剣な顔をして取り組んでいるのだ、こうして見ているだけで……胸の奥が暖かくなってくるような気がするよ」
「そ、そっか……」
つい気になって尋ねてみたところ、予想以上に鋭いパンチが返ってきた。今の俺はきっと耳の先まで赤くなっていることだろう。これではいけない、もっと集中しなくては。
それからどのくらいの時間が経っただろうか。腕に蓄積した疲労がそろそろ限界というところで、俺はゆっくりと剣を下ろした。それと同時に、全身を適度な疲れと怠さが襲ってくる。
「秋蘭、そこにある桶を──」
「これか?」
「そう、それそれ。ありがとな」
言い切る前に差し出された水桶をありがたく受け取り、底に沈めていた布で汗を拭う。上気した肌が冷たい水によって冷やされ、とても気持ちいい。出来ることなら上着も脱いでしまいたいが……秋蘭の手前だ、あまり見苦しい姿は見せられない。
「ふむ……一刀、私で良ければ背中を拭こうか?」
「……え? いいのか?」
「あぁ。ほら、早く上着を脱ぐといい」
そう言って秋蘭は俺の手から布を取り上げると桶の水に付け直し、たっぷりと水を吸ったそれをぎゅっと絞る。一方の俺は秋蘭の言ったことがまだ飲み込めず、その場に立ち尽くしたまま、そんな彼女の様子をぼんやりと眺めていた。
「どうした? 今更肌を見せることを恥ずかしがるような関係でもあるまい。それとも……余計なお世話だったか?」
「えっと、なんていうか……まさか秋蘭がそんなことを言うなんて思わなかったからさ。別に嫌とか、そういうのじゃないんだ」
嫌な訳がない、むしろ大歓迎だ。大切な人が厚意で言ってきた提案をどうして断れようか。
俺は上着を脱いで畳むと、その背中を秋蘭に向けてどっと座る。それから一拍ほど空いて、先程肌を撫でていた時のひんやりとした感覚が背中に走った。ベタベタとして気持ちの悪かった汗が、秋蘭によって丁寧に拭き取られていく。これはちょっとした極楽気分だ。
「ふぅ~……気持ちいいよ……。ありがとな、秋蘭……」
「ふふっ、そうか。一刀がそう言ってくれるなら、私もお節介を申し出た甲斐があるというものだ」
ちょっとした会話をしながら束の間の休息を楽しむ。が、十数秒もしないうちに秋蘭の動きはだんだんと小さくなっていき、やがてピタリと完全に止まってしまった。
「……秋蘭?」
「……かつて華琳さまが仰ったのだ。お前が天に還ってしまった理由は、本来の歴史から大きく乖離してしまったからだと」
小さくこぼれた秋蘭の声は、まるで懺悔をしているかのように聞こえた。震えていて、今にも泣き出してしまいそうな雰囲気。こんな秋蘭は初めてで、俺は何も言えずに沈黙を貫いた。
「……私のせい、なのか?」
その言葉で、気付く。
気付いてしまう。
俺がいなくなってから秋蘭が背負い続けていた、とてつもなく大きなそれの正体に。
「あの時、定軍山で私と流琉が死んでいれば、一刀が消えることはなかったのではないか? お前の知る歴史の通りに私が死んでいれば、華琳さまに辛い思いをさせることもなく、姉者が悲しむこともなかった──」
「秋蘭っ!」
駄目だ、絶対に駄目だ。
それは、それだけは言っちゃいけないことだ。
「仮に二人が定軍山で討たれることで俺がこの国に残れたとしても、秋蘭と流琉がいなくなった世界で心の底から幸せになれる訳がないだろう! 俺だけじゃない、華琳も、春蘭も、季衣も、皆だってそうなんだ! 秋蘭と流琉が死ねば残された皆が悲しむって、そんなの考えなくても分かるさ!」
振り返り、秋蘭の肩を掴んだ。大きく揺らぐ橙色の瞳を、俺は真っ正面から覗き込む。
秋蘭と流琉は俺にとって──否、曹魏にとって欠けてはならない大切な人だ。それは一人の将としてという意味だけではない。秋蘭は公私において華琳を支えてくれていたし、流琉の料理は誰もを笑顔にしてくれた。
そんな二人だからこそ、華琳に禁止されていた天の知識を使ってでも、助けたいと思ったのだ。
「俺はな、秋蘭と流琉に死んでほしくなかった。例え自分が消えることになっても、二人には生きてほしかったんだよ! 俺のことはいくらだって責めてくれていい。だから、頼むから……『自分が死ねば良かった』なんて言わないでくれ……!」
「……すまない」
──いや、違うな。
秋蘭はそう言い直した。はらりはらりと、その目から涙を流して。
「ありがとう、一刀。私と流琉を救ってくれたことに、今一度礼を言わせてほしい」
ペコリと頭を下げ、秋蘭はふっと微笑んだ。その時の彼女の表情からは、先程まであった憂いの感情は影一つなく消え去っていた。
次回は多分華琳さまのターン。