盾の少女の手記   作:mn_ver2

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キリがいいとこだったので結局三分割になりました。
後編は短くなりそう……。


裁きを受けよ、魔女め 中編

 暗闇だ。

 完全なる暗闇だ。

 マスターは静かに呼吸を繰り返しながら、死にかける寸前までの時を待ち続けた。

 

「……」

 

 無限の牢獄。いつ果て終わるかなどわからず、永遠とも錯覚する時間を漂う。足は痺れを通り越し、感覚を失ってからどれほどの時間が経ったのかはわからない。

 足元では糞尿がダダ漏れとなり、とんでもない異臭が狭い地下牢に充満していた。頼れる感覚は嗅覚のみ。だが、それも異臭に犯され、頭がおかしくなってしまいそうだ。いや、すでにおかしくなっている。口に溜まった唾が飲み込みにくく、いたずらに溜まるのみ。気持ちの悪さに吐きそうになっても、口を覆う正体不明の物体が邪魔し、一度口の中まで上がり、吐き出すことを許されずに胃へと退却させられる。その繰り返しだ。

 おこぼれを許された一部が口の端から零れ落ち、地面で糞尿の一部となる。

 そしてそれにたかるハエたち。耳元で羽ばたく高い音が離れたり、近づいたりを繰り返してマスターの意識をかき乱し、休むことを拒絶する。

 まさにこれぞ地獄。醜悪な魔神柱に囚われた、極小の辺獄だ。

 ハエが一匹、マスターの左耳に止まった。髪の毛よりも細い足がカサカサと這い回る音。感覚。それらが非常に鮮明に感じられる。

 

 頭をひと振り。

 ……離れない。

 

 さらにひと振り。

 ……予想以上に傲慢で、なかなか降り落とせない。

 さらにあろうことか、ハエは奥へと進み始めた。

 

「! ーーッ!! ーー……!!」

 

 カサカサ、カサカサカサと音が大きくなる。

 頭を左に大きく傾け、激しく頭を振り回す。

 だが、それでも落ちることはなかった。

 

 カサカサ。

 カサカサ。カサカサ。

 カサカサ。カサカサ。カサカサ。

 

「〜〜〜〜〜〜!!!」

 

 それだけは許せない。何が何でも許さない。

 両手首の鎖が食い込もうと知ったことか。限界まで地面に頭を下げ、全力で耳を打ち付けた。

 激痛が走る。ここに閉じ込められてから感じた初めての感覚。だが、そんなものに感傷に浸っている暇はない。

 絶対に!! させない!! 絶対に!!!

 ガンッ! ガンッ! と血が流れようとお構いなしだ。

 狂ったように叫ぶことすらできず、極限まで引き伸ばされた時間の中、獣のように唸ることしかできない。

 あとどれくらい時間が残っているか、なんて考えられる余裕がある程度だ。実際のところ、まだ半日も経っていないことだって十分にありえる。いや、きっとそうだ。

 本当に余裕が無くなるというのは、何も……何も無くなるということだ。これ以上は言い表せない。

 いったい何度耳を打ち付けたのだろうか。もしかしたら耳が潰れているかもしれない。だが、それでも防ぎたかった。

 いつの間にかカサカサという、恐ろしい音は聞こえなくなった。

 体力をだいぶ消耗してしまった。だがこれは必要なものだ。後悔はしていない。

 鼻だけで呼吸を整える。豚のように無様に音を立てながらしていたせいで、勢い余って鼻水が流れてしまう。それを拭く術はない。

 疲れた。周囲を飛び交う無数のハエが安眠を邪魔するが、せめて。せめて脳だけでも休ませたかった。

 やがて呼吸が落ち着き、ハエの飛ぶ音を意識から排除しようとした、その時。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……カサッ。

 

 ◆

 

 夜の静けさを讃えるフクロウの合唱もなく。闇がかかった、暗いセイレムを照らすはずの月光は弱く。

 簡易法廷である教会に、ひとりの罪人が裁かれていた。

 教会には半数以上グールがいるというのに、まるでさも当然のように村人たちは共に傍聴席に座っている。もちろんロビンやマシュたちもこの裁判に立ち会っている。

 

「壮観だ」

 

 キルケーが鼻で笑う。

 

「被告。芝居職人の子役、キルケー」

 

「だいま……女優だ! この場では! お間違いなく願おう!」

 

 キルケーの訴えも虚しく、判事は眉ひとつ動かさずに裁判を進める。

 

「被告は公衆の面前で魔術を行なった。それを確かに認めるか?」

 

「……それは認めざるを得ないようだ」

 

 しぶしぶとキルケーが肯定する。

 傍聴席にいるグール含め大半の村人たちがそれを目撃しているのだ。否定しようもないし、魔女化したアビゲイルと堂々と魔術を行使したのは疑いようがない。

 そもそもキルケーは大魔女だ。結局どうであれ、魔女裁判で有罪判決のなるのは明らかだった。

 ……だった。

 

「ーー異議あり」

 

 だが、それを否定してみせたのはまさかのカーターだ。

 判事がここで初めて不快そうに顔を歪めた。

 

「あなたも見ていたはずだ。それなのになぜ」

 

「……」

 

「……異議を認める。発言を」

 

「ありがとう判事」

 

 カーターは席から立ち上がると、口を開いた。

 

「皆さんは物事を真面目に捉えすぎです。よく思い出してください。あの時、戦っていたのはアビゲイルとそこの子役……ただの子供ではありませんか。年頃の子供によくある妄想の産物だ。巧妙な芝居職人は見た者を惑わすだけの視覚トリックも持ち合わせていよう。当然、他者を貶めることにも使えるはずだ」

 

「そんな……伯父様……! わたしは魔女なのよ? どうして信じてもらえないの?」

 

 罪悪感に駆られ、アビゲイルはカーターの言葉を否定する。

 アビゲイルのせいでキルケーが裁判にかけられたのだ。これは紛れも無い事実であり、それによってマスター一座に迷惑をかけてしまっている。しかも、その座長であるマスターの姿がまだこの教会にはない。

 今回の魔女裁判は、キルケーとマスターを裁くために開かれたものだ。

 どこかがおかしい、とアビゲイルは思った。

 

「嘘はよくないよ、アビゲイル。……失礼しました。この通り彼女は心身が疲れている。とても魔女とは思えません」

 

「伯父様……」

 

 さらに、とカーターは言葉を続けた。

 

「一連の事件には、全て来訪者……一座の座長が関わっている。しかも女だ。もしかしたら裏で糸を引く黒幕、つまりは本当の魔女ではないでしょうか?」

 

「詭弁です!」

 

 マシュが横槍を入れる。

 

「口を慎みなさい。今はカーター氏が異議を申しています。さらにあなたのその発言、神に背く魔女の味方と判断されかねませんよ?」

 

 判事が木槌を叩く。

 

「まだ先輩が魔女と……!」

 

「やめておきなさいマシュ。これ以上は危険よ」

 

 ヒートアップするマシュをマタ・ハリが止める。

 ふと我に帰ったマシュは、グールと村人たちの視線に気づき、悔しそうに唇を噛み締めながら着席する。

 

「カーター氏。続きを」

 

「そうだな判事。……ということで、『子役』の被告キルケーの裁判の結果は無罪として、座長の裁判をするべきだと提案します」

 

「……ふむ。あなたの意見は一理あります。ですが、被告キルケーの裁判は一旦保留とし、先に座長の裁判を優先させます。召喚を」

 

 判事が木槌を再び叩く。

 すると教会のドアが開かれ、グールに肩を担がれてひとりの少女が教会に召喚された。

 鼻が曲がるほどの異臭を放ち、たった半日足らずで礼装はボロボロ。なにより表情が完全に抜け落ち、見るに耐えない様だった。いったい何があればあのようになるのか。

 どちらかというとグールに引きずられながらの召喚だった。

 その正体はまぎれもない、マスターだった。

 

「ぇ……先、輩」

 

 グールたちが喚き始める。

 マジョ。マジョ。ヒニアブラレテシネ。

 ハイハウミニマイテシマエ。

 カチカチと顎を開閉させ、唸りながらマスターに手を伸ばす。

 

「まだそれは許されない」

 

 カーターの目が赤く光り、グールたちはすごすごと引き下がった。

 

「魔神柱! この娘になにをした⁉︎」

 

 キルケーは怒りに震えた。

 キルケーはマスターと部屋を離されたため、何が起こったかはわからない。だが何か酷いことがあったのは、マスターの姿を見れば明らかだった。

 杖を構え、火球を作り出し発射体制をとる。

 

「勘違いしているようだが、私は何もしていない。それに、せっかく君を無罪にしようとしているのに、無駄になってしまうが?」

 

「そんなことはどうだっていい!」

 

「ーー裁判中です! 被告キルケー。それにカーター氏も静粛に。これから座長を裁かなければならないのです」

 

 小槌を三度四度叩き、判事はふたりを黙らせた。グールに顎で指示し、マスターを強引に椅子に座らせた。

 マスターはなすがままにされ、力なくだらんと座った。

 

「被告。あなたには魔女である疑いがかかっています。あなたは魔女であることを認めますか?」

 

 判事が問う。

 あれほど騒いでいたグールたちは静かにマスターの返事を待っている。

 

「…………ぁー」

 

 しかし、帰ってきたのはまるで意味をなさない言葉であり、マスターがもう、潰れかけているのは誰が見ても簡単に悟ることができた。

 

「判事、続けたまえ」

 

「ですが……」

 

「『続けたまえ』」

 

「はい」

 

 もはやこれは魔女裁判などではなく、カーターを中心に回る独裁と化していた。判事は狂ったように何度も木槌を叩きつけ、壊れようと今度は拳で叩きつけた。その姿はグールとなり、それはまたたく間に伝播し、傍聴席に座っていた村人たちもまたグールとなってしまった。

 

「あナタは団いンをてあシノように使い、神に……カミにかミニ神二カミに……! 許さレザる罪をッ! 犯しマしたネ?」

 

「あー。あー……」

 

「ヨロシイ! デハあナタはマジョであり、ヨッテ、シケイ、だ!! 」

 

 指が折れようとも、手を叩きつける。肉の砕ける音が聞こえるが、それでも判事は続けた。

 

「そいつぁおかしいぜ、判事さん。証拠もなく、動機もない。それなのに魔女であるって決めつけるのは強引すぎはしませんかね」

 

「イイエ、このオンなは、魔女! デス! 『セイレム』に……『神』に背キマしタ!! これイじョウ、必要なシツギはアリまセン」

 

「……そうかい」

 

 ショケイヲ! ショケイヲ! とグールたちが囃し立てる。

 罪が重なり、無造作に積み上げられ、それゆえの赦しを乞う。グールたちがマスターを想い、乞う。死を。苦しみを。痛みを。

 痛みこそ、何よりも代えがたい確かなものであり、それによる救いを求める。喜びも悲しみも憎しみもいつかは薄れ、消える。ならば、消えることのない痛みによる救済を。

 ロビンが弓を構える。

 

「もうこれは裁判なんかじゃない。マスターを魔女に貶めるただの茶番だ。そうとわかればあとは簡単だ。茶番を終わらせ、マスターを救う」

 

「でもこれだけの相手、できるかしら?」

 

 マタ・ハリがナイフを構える。

 今、戦いが始まったとしても、完全な劣勢からのスタートだ。こちらは少数。そして敵は多数。さらにこの狭い教会で、というのも大きなハンデだ。

 

「それでもやるんだよ!」

 

 ロビンが矢を放つ。標準はカーターの頭。

 

「ふむ。強行突破できたか。ならば私もそうしよう。ぐだぐだしていると、すぐに逆転されるからな」

 

 カーターが指をパチン、と鳴らす。

 たったそれだけで、ロビンたちを残し、教会には誰もいなくなってしまった。

 

 ◆

 

「魔女の処刑を執行する。なお、懺悔も自白もなかったため、目隠しをして執行するものとする。……いつ床が抜けるかわからない恐怖の中死ぬがいい」

 

 人間に戻った判事が冷たく言い放つ。

 意志を持ったグールたちがマスターの両脇を持ち上げ、処刑台まで運び上げた。

 一歩遅かった。

 大急ぎで『死の丘』へと向かったマシュたちだったが、すでにマスターが登壇した後だった。別行動をしていたシバの女王と合流し、グールの壁を前に立ち止まる。

 

「そんな……そんなの、ないです!! 先輩!! 先輩ーー……!!!」

 

 マシュが必死に手を伸ばす。だがそれは、行く手を遮る大量のグールたちが邪魔し、近づくことすらままならない。

 マスターの寂しそうな、今にもボロボロに崩れそうな笑顔が見えた。だがそれはすぐさま目隠しによって隠されてしまった。

 ロビンも、マタ・ハリも、シバの女王も、キルケーもマシュも、もう見てはいられない。弱体化していながらも、全力でグールの波を超えようと奮闘している。

 

「おいシバの女王! あんたの宝具でなんとかできないのか⁉︎」

 

 グールの脚を弓の柄で叩き折り、次のグールの両目をナイフで刺す。

 一体一体倒している余裕などない。一刻でも早くマスターの元へ辿り着かなければ、間に合わなくなってしまう。ロビンは最後の矢をマスターを運ぶグールの片方の心臓に命中させるも、動きは止まらなかった。

 

「できませんねえ。弱体化しているせいで、有効打を与えられはしないでしょう。しかも、私はすでに『セイレム』に囚われた身。私が戦うことは脚本には載っていません」

 

 これでも精一杯なんですよお? とシバの女王が、雲のようなよくわからないものでマシュに襲いかかるグールたちをなぎ払う。その表情は相変わらず涼しいが、流れる汗が何より焦りを感じさせる。

 

「キルケーさん、先輩のところへ飛んで行けませんか⁉︎」

 

「無理だ! 飛ぶ隙がないんだ!! ああもう! しつこいやつは豚にするぞ!」

 

 皆が皆、必死だが、手一杯だ。

 互いに援護に行くことができず、マタ・ハリにいたっては、まともに戦えないマシュの守りに専念している様だ。

 弱体化さえしていなければ、この程度の敵、吹き飛ばしてみせるのに。そしてマスターをすぐにでも助けられるのに。

 

「ああっ! 首に縄がかかりました!! お願いです!! 誰か先輩を……先輩を!!!」

 

 マシュのいっそ悲鳴と言うべき叫び声に、一斉に視線が処刑台のマスターに集まる。

 

「どうだ。君の仲間の健闘虚しく君は死ぬ。何か遺言はあるか?」

 

 カーターがマスターの耳元で尋ねる。

 だが、マスターは何も答えず、魂の死んだ亡霊のように「ぁー……」と意味のない言葉を垂れ流すだけだった。

 

「ああ、そうだったな。君は二週間も地下牢で『救い』を待ち続けたんだ。ならばその『救い』……『痛み』を以って私が成し遂げよう」

 

 カーターの顔がヒトとは思えぬ、とんでもなく醜悪に笑う。

 床を抜くレバーに手をかける。

 

「ロビンさん、私を投げてください!!!!」

 

「いやできるがどうすんだ⁉︎ さすがに向こうまで届かないし、グールたちの波に呑まれて終わりだ!」

 

「わかっています! それでもお願いしますッ!!」

 

「ああクソッ! どうなっても知らねーぞ⁉︎」

 

 マタ・ハリからの護衛から抜け、マシュがグールたちの手を退けながらロビンに走り寄った。

 

「いくぞ!」

 

「はいっ!!」

 

 ロビンがマシュの腕を掴み、1回転。

 

「らあっ!!」

 

 マシュが空を飛ぶ。

 その背中を、隙間を縫ったキルケーが魔術で風を与え、一時的に風をまとった状態にする。マシュはキルケーに心の中で感謝を口にし、グールの波に飛び込んだ。

 着地の負荷はなく、身体のバランスが安定した瞬間、全速力で処刑台へ迫る。その距離、残り15メートル。

 マシュの周りには風が荒れ狂い、超小規模の嵐が形成され、グールを寄せ付けない。だからあとは、マシュの脚が先か、カーターがレバーを下げるのが先かの勝負となった。

 残り10メートル。

 

「聞こえるかね? マシュ・キリエライトが君を呼んでいる声が。……言っても無駄か」

 

 心身を激しく消耗してしまったマスターの心は、すでにもぬけの殻だ。

 カーターはそんなマスターの両頬を片手で乱暴に挟み込み、頭を揺らす。抵抗なし。ただ「あー……あー……」とどこにいるかわからないマシュを探している。徹底的に凌辱されてもなお意志は完全に砕かれてはおらず、腰の高さまで上げられないほど弱っているくせに手だけはプルプルと震わせ、指をかすかに動かし、マシュに触れようとしている。

 

「ハハハ……ハハハハハハハハハハ!! そうか! それが最後の足掻きか、カルデアのマスター!! だがその指は誰にも届かない!!」

 

 カーターが面白おかしく嗤う。手をマスターから離し、今度こそレバーに手が伸びた。

 

「やめてください!! やめてーーー………!!!!!!」

 

 残り5メートル。

 マシュが吠える。今にも泣きそうな顔だ。グールたちを風でなぎ倒しながら処刑台に登ろうとする彼女を、カーターは冷たく見下ろす。

 

「客は黙って見ていてもらおうか」

 

 カーターがマシュに向けて手を横に振る。それだけで、マシュの纏っていた風が失せ、紙のように吹き飛ばされてしまった。

 マシュを守るものがなくなる。その途端、グールたちが一斉にマシュに襲い掛かり、あっという間に地面に押さえつけられた。

 

「う、あっ……!」

 

 デミ・サーヴァントとしての力はほぼ失われ、さらに弱体化というふたつもの荷物を背負わされたマシュに、のしかかるグールたちから逃れる術はなかった。

 シバの女王たちはまだ距離が離れすぎている。とても助けには行けない。

 悔しさに視界が霞む。

 ほんの、あと、たったほんの少しでマスターの元へ行って助けることができるのに……できない。

 できないのだ。

 

「せんっ、ぱい……ッ!」

 

 手を伸ばす。だがそんなものに意味はなく、地面に生える雑草をブチブチと掘り起こすのみ。

 マスターは魔女なんかではない。ただの人間である。裁かれるのならば、マシュたちが裁かれるべきだったのだ。そうすれば弱体化しているとはいえ、マスターよりも頑丈な身体は仮死薬ありならばきっと吊り首に耐えられるだろう。

 何もできないのか。本当に何もできないのか。わかっている。わかっているのに、どうしても諦めきれなかった。マスターだってどんな時だって、完全に諦めきったことなんてなかった。だからマシュだって……。

 

「ううっ、う……」

 

 涙が溢れる。

 どれだけ考えても、どうにかできるビジョンが思い浮かばなかった。

 万策尽きたとは、おそらくこのことを指すのだろう。

 マシュが命を失った時は、キャスパリーグがその獣性を燃やし尽くし、それと引き換えに魔法を超えた完全なる死者蘇生をしてみせた。

 しかし、キャスパリーグは討伐され、もういない。英霊ならば再召喚してゼロから思い出を作ればいい。

 だが、マスターは違うのだ。死んでしまえば、そこで終わりなのだ。

 

「せんぱい……せんぱいぃ……」

 

 マシュにはただ、自分のマスターの名前を呼び続けることしかできなかった。

 

 ◆

 

 マシュの声、聞こえた。久しぶりあの声。

 人の温もり、触れたかた。

 から、だ動かず、どこいるかわからな。

 どこ。

 どこ。

 どこ。

 どこ。

 どこ。

 

 足元に一瞬、浮遊感。

 

「ギッ……!」

 

 ぐ……じ……。

 

 ◆

 

 ハエが一匹、飛び去ったのをマシュは確かに見た。




裁きは下された。

そのハエは、いったいどこから現れたのか。

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