がっつりネタバレしているので、クリアしていない人は読まないほうがいいです。
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マスターは、人の業を遥かに超えた大量殺人鬼である。
人類史上最悪の女。戦いにおいて、万人殺せば英雄だとかいう言葉があるらしいが、マスターはぴったり万人殺してみせた。
なら英雄か? 否。
違えた歴史、そこから3000年の間、スルトに見守られながら我が子を守ってきたスカサハ=スカディ。彼女の偉業を、奇跡を、跡形もなく『殺した』のだ。
特異点ではそこにいる全員が死ぬというわけではなかった。そこが異聞帯との決定的な違い。
這い寄る罪の重さがマスターにのしかかり、無間地獄行き確定のチケットをそっと心に刷り込ませる。
久々にマスターはシャワーを浴びることにした。
そこら中にある雪解け水を使い、十分に電力補給を済ませたシャドウ・ボーダー内での、久々のシャワー。
マシュに一言伝え、シャワールームに行く。
ロシアと続いて北欧。ロシアほどではないが、ここもとても寒かった。
服を脱ごうとして、できない。
「いたっ……」
どうやら服がマスターの皮膚に焼き付いているようだ。気づくのが遅すぎた。認識して、ようやく引き攣るような痛みが襲う。
これではシャワーを浴びることができない。しかし花も恥じらう乙女であるマスターにとって、シャワーは必須なのだ。数日間まともに身体を洗うことができなかったから、臭いが気になるところ。
息を吸って、止める。お腹に力を入れて一気に剥がす。
皮膚を持っていかれたが、なんとか脱ぐことができた。それでも剥がさなければならない箇所はあと4つほどある。
はやくシャワーを浴びたいのにこれでは生殺しだ。剥がれた皮膚にお湯が触れた瞬間、痛みが襲うだけ。全部スルトの炎のせいだ。道連れに死のルーンを刻めなかったのが非常に悔しそうだったが、ちゃんとマスターを苦しめることには成功している。しばらくの時間は必要だが、ちゃんと治りそうな傷だからひと安心。擦れるだけで痛む最悪な日々を余儀なくされるが、大丈夫だ。大丈夫。
悪戦苦闘し、やっと全て剥がしたマスターは自身の裸体をまじまじと鏡ごしに見つめた。
なんとあろうことか、ほぼ全身に焼き爛れた跡がある。軽度の火傷だ。なんとなく予感はしていたが、いざ事実であるとなると思わず溜息を吐いてしまう。これは……完治にしばらく時間がかかりそうだ。もしこんな状態で海にでも飛び込んだらどうなってしまうだろう。
礼装を調整したりするのはダ・ヴィンチだ。不安要素を与えるのはどうしても避けたい。張り付いた皮膚を剥がし、ゴミ箱に捨てる。
これでも最高の状態なのだろう。マシュが守ってくれていなければ、きっとマスターはすでに炭すら温い、彼の言う通り灰塵に帰していた。
だからこれは、マシなのだ。
普段より長い時間をかけてシャワーを浴び、丁寧にタオルで身体を拭いてシャワー室を出る。あとで包帯を見繕っておこう、そう考えながらブリッジに入った。
中ではダ・ヴィンチと新所長、そしてムニエルがコーヒーを啜っていた。
「やあ、ちょうどいいところに来たね。コーヒーはいるかい? ブラック? それとも砂糖ガッツリ?」
「じゃあ砂糖ガッツリガッツリで」
「お任せあれ〜」
コーヒーポットを小さな手で掴み、中身を注ぐ。そして砂糖の塊をひとつ、ふたつ、まだ足りぬと三つ四つ入れる。
「はいどうぞ」
「ありがとう」
ダ・ヴィンチから受け取り、マスターは静かにコーヒーを啜った。
シャワーを浴びた直後で眠気に誘われていたから、ちょうどいい目覚ましだ。
でも、さすがに甘すぎるコーヒーは胸にどろっと重くくるのだろうが、マスターにはそれがない。
「今はどの辺にいるのダ・ヴィンチちゃん?」
「送られた座標から……210kmほどだね。明日くらいに着くよ」
「幸い今はゆっくりできる。明日着いたところで何が起こるかわからん。ここからは私たちの仕事だ。どうせお前程度が手伝えないだろうから下がっていなさい」
「まあ要するに君にはきちんと休んでおけってことさ」
「な……! 私はただ適材適所と言いたいのだ! いざという時に動けなくては話にならないからな!」
ムニエルの指摘に、ゴルドルフが焦りながら必死に誤魔化しの弁論を繰り広げる。
今回の作戦において、彼の生存思考が成功に大きく結びついたと言っても過言ではない。初めは虚数空間からの強引浮上。正体不明の物体にシャドウ・ボーダーが囲まれていた時だ。彼の鶴の一声で結局は異聞帯に浮上することとなったが、あれが最善だっただろう。彼はこの世のテンプレというのをよくわかっているようだ。
それにシグルド……スルトにシャドウ・ボーダーが襲われた時も、生存を優先し、率先して彼にペーパー・ムーンを渡そうとした。結果、逆に彼に疑問を抱かせ、時間を稼ぐことに成功し、マシュたちによる抵抗ができた。ホームズが重傷を負ってしまったが、それ以外の人的な被害は全くなかった。
臆病で自分勝手な性格だが、だからこそ生存に非常に長けた判断をすることができる。初対面の時はあんまりだったが、こうしてロシア、北欧と経て彼の人柄がなんとなくわかってきた気がする。
「新所長の言う通りだ。今はゆっくり休むといい。ホームズもまだ本調子ではないらしいからね」
果たしてダ・ヴィンチが飲んでいるのはブラックか、それとも砂糖ガッツリか。そんなことを考えている間に彼女はコーヒーを飲み干してしまい、簡易的な機器のメンテナンスを始めた。
ゴルドルフはああ言ったはいいものの、何をすればいいのかわからない様子に見えてしまう。じっと彼を見つめると。
「な、何を見ているのかね⁉︎ 職員たちを見守ることも所長の役割でもあるのだぞ!」
つまり暇であると。
ムニエルは自動運転に不具合がないかを確かめるために運転席に座っている。現時点で何もしていないのは彼だけというわけだ。
確かにゴルドルフの言う通り、マスターにできることは今は何もない。
だが、どうしてもマスターはしたいことがあった。
この北欧異聞帯を担当したかつてのカルデアのマスター、そしてクリプター……。
「オフェリアさんのところへ……」
「ああ……彼女なら今日にでも冷凍保存するつもりだよ。まだあの部屋にいるから今のうちに顔を見に行くといいよ」
オフェリアの遺体はダ・ヴィンチが綺麗に血を拭き取り、今もあそこのベッドで物言わぬ状態で部屋を冷やして安置されている。
マスターは再び彼女と対面しなければならない。対話はできないが、それでも同じカルデアのマスターとして。
「ゴルドルフ所長もどうですか?」
「……やめておく。お前だけで行ってこい」
「ありがとうございます。ダ・ヴィンチちゃん、あそこの部屋のロックを解除してくれる?」
「了解さ。……うん、解除したよ。終わったらまた言ってね」
口から吐かれる言葉はどうも素直でない。しかし彼の密かな思いやりにマスターは好感度が少し上がる。きっと彼はマスターのことを気遣ってくれたのだ。
ブリッジを出て、狭く短い廊下を歩いて目的の部屋に着く。マシュは呼ばない。呼べば絶対についてくるだろうが、マスターは呼ばなかった。呼べなかった。
シャッ、と自動ドアが左に流れ、途端冷たい空気がマスターを出迎えた。急な温度差に、爛れた皮膚が悲鳴をあげる。
ベッドの上に、彼女はいた。
その足元で膝をつき、彼女の顔を伺った。
綺麗な死体とはまさにこれのことか。これまでそんなものを見る機会がなかったから、これが初めてだ。たぶん。
彼女の生前の口ぶりから察するに、マシュと友達になりたがっていた。七人のAチームで、数少ない女。同性の友達が欲しかった。そうでしょう?
マスターは彼女の髪を優しく撫で、前髪をはらう。力を失った魔眼は魔力痕すらない。瞼を強引に指で上げ、眼球の無事を確認する。
もしこの眼球を自分のものにすることができれば。
そう考えてしまった。
いや当然だ。オフェリアは戦えるマスターだ。可能性のピン留め。間違いなくこの力は素晴らしいもの。これを自分の眼球と入れ替えれば……。しかしだからといってそれで力が手に入るとは思っていない。そう簡単にことは進まないだろう。だからこれは、彼女は大事に保管し、いざという時は……。
カドックなら今のこんなマスターに何とコメントするだろう? 無言で嘲るような目で見下ろすだけかもしれない。
そこに込めた想いは哀れみか、
ゲルダの言う、大人になったら死ぬという定めにマスターも嫉妬してしまったのかもしれない。
結局あの子とは突然家を飛び出したきりだ。果たしてどんな思いで自らの生の最期を迎えたのか。それはもう、永遠にわからない。
なぜならばもう『いない』から。
マスターがあの子を殺したから!!
スカサハ=スカディの覚悟……神の覚悟は一切の揺らぎがなかった。しかしその果てにマスターに負け、
恨み言の一つでもぶつけてくれても良かったのに。いやむしろぶつけてほしいと願ってもいた。
だってそうしてくれないと、罪の意識が重くなるから。
己のために、己の子を愛するために戦う神を殺すという極悪非道なマスターになってしまうから。……もうなってしまった。
後戻りできないところまで来てしまっている。後ろを振り向くことはできず、前方にレールはない。通った後には何も残らない。異聞帯側からすればマスターこそが天災なのだ。
「私はあなた以上に酷い女だよ」
もちろんあなたも酷い。
あの死に様なんて、
なんと儚く。
なんと小さく。
なんと美しく。
なんと凛々しく。
なんと力強く。
なんと決意の満ちたものだったろう。
そして。
なんと無様なことか。
きっとオフェリアにこのような想いを抱いているのはマスターだけだ。
何がしたくてクリプターとなった。その答えはわからないが、カルデアの敵となったのならそれを最後まで貫いてみせろ。死に際にあんな幼稚な言葉など聞きたくなかった。
思い返せば怒りが募ってしまう。しかしそれを冷えた部屋が冷ましてくれる。怒り、あたったところでオフェリアからは何の反応も得られない。
勝手に蔑み、怒るだなんてそんなの……。
「……バカみたい、私」
ヤメだ。
これ以上もう関わるのはやめよう。顔を見るだけで不快感が燃えそうだ。もちろんオフェリアは悪くない。きっと根はいい女性なのだろう。ナポレオンが一目惚れしたと言うほどなのだから。ならばおかしいのはマスターだ。歪んだ感性を持っているマスターが悪いのだ。
瞼を下ろし、眼球の観察を止める。
もう用は済んだ。また会うときはきっと、マスターがその魔眼を真に求めた時のみ。そうであることを願う。
部屋を出て、偶然すれ違ったスタッフにダ・ヴィンチにロックをかけてと伝言を預け、そそくさとマイルームに戻る。
ベッドに身を投げ、泥沼の意識に沈む。
まだ少しだけカドックの匂いがする。
決して臭くはない、だが良くもない匂い。そうだった。彼はもういないのだ。だからもう、首を絞めてくれる人はいない。
残念だ。非常に残念だ。短い間だったが、とても良い暇つぶし相手だった。自分の首を撫で、絞められながら見上げた彼の顔が鮮明に蘇る。
「カヒ……ヒュ、ク」
……いつの間にか自分で自分の首を絞めていた。
頭に血が足りなくなり、曖昧になった感覚が苦しい。
でもこの程度では足りない。彼の力はこんなものではなかった。女の力というのはどうしても軟弱だ。誰かに頼み込む……のは明らかに狂っているし、縄などで吊るのも違う。
人によって絞められたいのだ。力の強弱を味わいたい。その人に自分の命を握られているという被征服感を味わいたい。その人の顔、息遣いなどを感じたい。
「おかしい……狂ってる。……狂ってる……? いや……違う……?」
これは一旦置いておこう。
最優先すべくは日記なのだ。
現在鋭意複製中。ボロボロになった記憶から崩れないように丁寧にすくい上げてインプット。そしてアウトプット。
それでもやはりどうしようもない記憶というものもいくつかあって、日記に空白となってしまっている部分がある。そこは潔く諦めるしかない。
例えば第二特異点の……第二、特異点………………?
……なにがあったんだったっけ?
急いで途中まで書いている日記を読み返し、なんとか零れ落ちることは防いだ。
そうだった、薔薇の皇帝たちとアルテラを倒したのだった。どういった経緯でそうなったかは忘れた。マシュに訊けば話してくれるだろう。
こんな調子では完成するのに長い時間がかかりそうだ。気の遠くなるほどの……ではないからまだ幸いか。
身体中が痛い。包帯でぐるぐる巻きに……ミイラみたいにでもされないとこの痛みはずっと続く。想像以上に生活に割り込んでくる。
この熱さを意識するたびに、あの巨人王の憎しみに彩られた真っ赤な目を思い出す。道半ばに倒れた彼の悔しさ。殺意の孕んだ目を惜しげも無くこちらに向けた彼の表情。
皮膚に受けたやけどと同じように激しく焼き付けられた。
新しい安眠を妨害するお仲間か。喜んで歓迎しよう。どうぞ好きに苦しめてもらっても構わない。マスターにはそれを受け入れる義務がある。大量殺人鬼としての罪を償わなければならないのだ。
人を殺し、神をも殺す。これ以上罪深い人間は過去と未来においてマスター以外いないと断言できる。
ゲルダの料理は本当に美味しかった。
しかし、その出来事も、彼女のことすらもいつかは記憶から灼け落ちてしまうのだ。
嗚呼、マスターはなんて罪深い女なのだろうか!!
ーーゲルダの涙よ、心を溶かせ。