盾の少女の手記   作:mn_ver2

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食事の時間ですよー。


KiGA 2

 くすくすと。くすくすと笑い声が聞こえる。それ以外は、無。

 上下左右、何もわからないマスターは宇宙を漂うことしかできない。背後で笑っているのかと思えば、耳元で囁かれ、次は複数のカーマの笑い声が聞こえた。

 何かを求めた。

 決して愛ではない。

 何か、だ。究極の抽象的出来事。

 手足をバタバタと動かしても無意味。カーマによって供給されている酸素は必要最小限。息苦しさに悶え、ついにマスターは自分から何かをすることをやめた。

 逆にマスターは物思いにふけることにした。ここにはマスターを阻害するものはいないのだ。獣と亡者、カーマを除いてだが。

 だからこれは一時の休息と思えばいい。そう考えるだけで、焦っていたマスターの心は驚くほど落ち着いた。

 

「……寝よう」

 

 疲れた。

 思考を切り替えただけで、どっと疲れが溢れる。特に脚。大奥をずっと歩き続けて痛い。これは明日は筋肉痛だな、と呑気なことを考えながらどうせ見えもしない目を瞑った。

 通信機は……どこかになくした。おそらくカーマに引っ張られた時に落としてしまったのだろう。

 今マスターができることは、仲間たちが自分を見つけてくれること信じて待つ、ただそれのみ。

 動かなければ、いい。呼吸もだいぶ楽になって、リズムも掴んだ。

 久々に人間らしく休息らしい休息がとれる。獣も遊び疲れ、マスターに食いついたまま眠っている。

 何も考えず、頭の中を空っぽにすればカーマなんて意識の外へと押し出せる。

 お腹が空いてきたが……まあ、大丈夫だろう。

 温かな母の胎内の羊水はない。呆れ返るほど広く冷たい宇宙だが、マスターにとってはあまりにも贅沢すぎる寝床だった。

 眠気に襲われ、しだいに瞼が重くなる。

 愛……愛、か。

 マスターはみんなを愛している。その質は数値化するなどといった、ロマンに反することでは表せない。

 たとえ苦手なサーヴァントたちでも、大事にしたいと思っている。それがマスターとしての努めだから。みんな違ってみんないい。バカみたいに幼稚な言葉だが、意外なことに理にかなっている。

 愛は一方的に与えられるものではない。それは愛ではなく、支配。カーマのやっていることは支配でしかない。

 Rは自己を、Lは他者を。揃いも揃ってまあ、我儘な人たちだ。

 つまり、愛とは無償であり、また有償でなければならない。それらだけだと、いずれ堕落と義務となってしまう。だからほどほどの関係に。

 その障害を超えることができた時、それこそが真実の愛と言えるのではないだろうか。

 マスターはマシュを愛している。その度合いは他の誰よりも強い。恋愛的な意味の愛ではないことを付け加えておく。長年一緒に戦ってきた唯一無二の友として、これ以上にない信頼を寄せている。

 しかし、だからといって愛に欲望的になろうとはしない。

 マスターは、愛に殉じたどうしようもないバカを知っているからだ。

 その結末を、目の前で見届けた。

 

「…………」

 

 少し、あの光景が脳裏に浮かんで苛立ちが募った。

 愛に生き、愛に死ぬ。

 実に格好のいい言葉だが、マスターはそれを愚の骨頂と考え、自身の肝に強く銘じている。

 なぜならそんなことのために生きる余裕などないからだ。そして死ぬわけにはいかないからだ。

 ではマスターにとって、愛とは何か。

 ――不要。

 気づいてしまう。自分には愛が不要であることに気づいてしまう。

 みんなへの愛は、確かにある。しかし、しかし、しかし、これは表面上のもの? そんなはずはない。みんなのためにマスターは頑張れる自信がある。それこそ死ぬ覚悟で。これが愛に死ぬ?

 必死に今の結論への否定材料を集めようと、マスターは躍起になって頭を働かせた。

 みんなに対して恋愛的感情はさすがに抱いていない。抱いているのは、かけがえのない仲間としての愛だ。

 マシュに対しては?

 思考が鈍くなってくる。愛とは何か。それを明確に説明、もしくは理解できない。もやもやに拍車がかかり、どれだけ考えても、とマスターは満足できるほどの材料を集めることできないでいた。

 霞み、薄れ、散る。

 頭が、痛い。脳が直接バーナーで炙られるような熱さに耐えかねて絶叫する。

 喉が張り裂けても気にしないほどの、およそ人とはとても思えない絶叫。

 ぐちゃぐちゃに混ぜられ、歪んで戻った後には、すでに何ピースかなくなっていたパズルから、さらにひとつピースがなくなっていた感じがした。

 ……そもそも先程からずっと、何を考えていたのだろうか。愛は、そう……愛、は……えっと……あ、い、は――……。

 何がなんだかわからなくなってきた。焦げた脳は黒ずみ、ガリガリと削られる感覚に痺れる。

 眠っているはずだった。しかし眠れていなかった。ひとときの休息にはなったものの、しっかり休めたかというと、違う。

 ふと、なにか温かい何かに身体が包まれていることに気づいた。意識が次第に戻ってくると、獣は食事中だったらしく、げっぷをひとつし、頭をすりすりとマスターにこすりつける。

 カーマの静かな笑いが蘇り、次に誰かの声が聞こえた。

 

「主殿、無事か。ここはしぇへらざぁど殿の絨毯の上だ」

 

 この声は……宗矩か。

 突然腕を力強く引かれ、マスターはされるがままに彼の鍛えられた胸板に吸い込まれる。

 

「ひぇっ? あ、う、うん」

 

 マスターに今必要なのは、絶対的な情報量だ。

 空いている両腕を伸ばし、宗矩の身体をしっかりと抱きしめる。

 

「……みんなは?」

 

「お局殿が大奥を再展開するための準備をしている。我々はここで大人しく座禅を組んで待っている」

 

 宗矩の背後でシェヘラザードが物語を語っている声が聞こえる。

 

『聞こえますか? ならばよし。なんとか探し出せてよかったです。今、春日局さんが『春日局の物語』を聞いて、マタ・ハリさんの宝具で精神的自己改造を施しています。『春日局』が、大奥の支配権を奪還するために』

 

 シオンの声が聞こえる。

 なるほど、カーマという大奥を新たに塗り替えて、土台を作り変える作戦ということか。

 魂だけの存在となった彼女はその影響をダイレクトに受け、強い力を発揮できるようになるだろう。しかし大丈夫なのか。パールヴァティーに憑依することによって命を繋いでいる存在であるはずだ。

 一度パールヴァティーから離れると、消滅する恐れが……。

 

『先輩の懸念もわかります。ですが春日局さんもこのことを了承しています。聴覚情報しか共有できなくてすみません。春日局さんが大奥を奪還し次第、すぐに視覚を確保します』

 

 キン、と鋭い音が鳴り、真っ暗な視界に白が殴り込む。

 

「――ごめんなさい、そしてありがとうございます。カーマの大奥は、私に任せてください」

 

 途端、ぼんやりと色が塗られていき、遠くに無限の宇宙が広がっているのが見えてきた。しかし、そのどれもがカーマ。

 いち早く駆けつけてきたオリジナルらしきカーマが初めて余裕ぶった表情を豹変させて苛立ちを隠せないまま口を開いた。

 

「なんですか。せっかく貴女を愛するために虐めリストを作っている最中でしたのに……。ゴミみたいな人間が私の大奥に手を出すなんて不愉快です」

 

『不愉快ですって……? 私の大奥(・・・・)に手を出したあなたの方こそ不愉快です。私が作り、私が見守り、私が育てたこの大奥を弄ぶなど言語道断っ! ここは宇宙などではなく、地球という星の上にあります! 足のつかぬ場所など誰が安心して歩けましょう!』

 

 宇宙一面に、床が張られる。

 長い間宇宙を漂っていたせいでバランス感覚を失ったマスターは久方ぶりの地面にしっかりと立つ、ことができずにその場に座り込んでしまった。

 

「お手を」

 

「ありがとう」

 

 宗矩に差し出された手を掴み、マスターは立ち上がった。

 今ふらついたのは、見なかったことにしてほしい。これから戦うというのに、これではカーマに失礼だ。

 宗矩の補助を振りほどき、マスターは今度こそ自分の力で立ち上がった。

 しっかりと地に足を踏みしめ、カーマに向き直る。

 激しく狼狽していたカーマだったが、すぐさま余裕を取り戻して微笑む。無限のカーマが降り、人外の容貌を存分に晒しながら言った。

 

「地面を付け加えたところで、貴女たちは振り出しに戻っただけです。徳川化の呪縛は解かれていない。そんな貧相な状態で私と戦えるとでも? 見えませんか? そこら中にわたしはいます。本当に相手にできますか? できませんよね? 最高に愚かです……大人しく私の#に溺れてしまえばいいのに」

 

「く、ぐ……!」

 

 身体の節々が音を立てて軋むほどのプレッシャー。しかしマスターはそれに耐え、獣、獣。獣。獣、獣、獣、餌、獣。獣をガッチリと見据える。

 たとえ徳川化がマスターの身体を蝕んでも、それでも戦える。みんなのために。

 それが、マスターの……マスターの……マス、ターの……?

 靄がかかり、その後の言葉が思い浮かばなかった。だがこれはさしたる支障ではない。必要なのは思いではなく、行動なのだから。

 シオンから礼装の頭部生命維持機能を発動させたと連絡が入る。どれだけ高性能なのかはマスターの知るところではないが、確かに呼吸はずいぶんと楽になった。これなら激しい運動をしても息苦しさを感じることはない。

 

「……ケホッ。では、もうひとつ刃を与えよう。最も信頼に足る武士に」

 

 魔力をサーヴァントたちに送り、いざ立ち向かわんとした時。ごぼうのようにやせ細った信綱が服を乱暴に掴みながら、すかすかの声で待ったをかけた。

 大きく深呼吸をし、だがすぐに苦しそうに浅い呼吸に戻り、また深呼吸……と無残な状態であることは明らかだ。

 

『信綱! 出てきましたね! こら、なに勝手に私の大奥に乗っているのですかー!』

 

「許されよ。拙者はひとつ、乳母殿に貸しがある。それを返す時が来た」

 

『貸しなんてありません! むしろそっちには徳川を裏切ったどでかい負債が……!』

 

「――徳川のためにやらねばならぬことは、たとえ後に自分が罰せられるのだとしてもやらねばならなぬ。そう、すべては徳川を護るために」

 

 カーマは黙って信綱の決死の演説を楽しそうに聞いている。それはまるで、そんなことをしても、どうにもならないのです、と言っているようで……。

 

「後ろ指をさされようと、恥にまみれようと、拙者は次代の将軍にお仕えし、徳川を支える。それが拙者のすべきことと信じるが故。こうして生き続け、いつか、誰かが訪れることを信じて……ゲホッ! ッッ、ゲ、ホッ!!」

 

 信綱が口元を抑える。その端からは決して無視できない量の血が溢れ、片膝をつく。

 マスターは何も考えずに飛び出した。カーマの間合いの外にいたのに、自ら足を踏み入れてしまう。しかしカーマはその様子を眺めているだけだった。

 恐らくマスターよりも軽い身体を抱き起こし、血が付着することなんて考えもせずにできるだけ楽な姿勢を取らせた。

 

「面目、ない……かるであのますたぁとやら。花札を作るのに少々無理をしすぎたようだ……。クク、拙者の腑はどうなっていることか。腹でも開けば見せられよう」

 

『え、嘘……花札のブラックボックスが一斉に起動して、裏プログラムを実行し始めた?』

 

 シオンの驚きを隠せない声とともに、マスターの懐にしまっていた花札が仄かに光を帯び始める。

 驚き、「なにこれ⁉」と言いそうになったが、それよりも先に確かな反応を見せた者がいた。

 

「――――――は? ちょっとちょっと。何ですかそれは。そんなの想定していません」

 

 焦りの色が表情に濃く滲んでいるのがよくわかるほどの明らかな反応を、カーマが示した。

 

「機と場は整った。自ら認めよう。拙者は……心底より……徳川の価値を失わせる者であると」

 

『この花札は大奥を構成するエネルギーであり、貴方自身の肉体でもある。効能は……自らの性質の暴露……外へと向けられる慶喜公の印籠の力とは逆の、内側に向けられる力……。つまり、汚染された徳川化を打ち消す、中和剤のようなものになる!』

 

 マスターは蚊に血を吸われるだけで死にそうな信綱を見下ろし、袖でそっと口元の血を拭った。

 味方を護るために味方を裏切り、敵の足元で顔色を窺う日々はさぞつらかっただろう。将軍に仕える者として、裏切りは重罪であることは間違いないだろう。その重圧を背負いながら『いつか』を待っていた。

 

「ですが花札はあの方の肉体、なのでしょう? 使って消費してしまってよろしいのでしょうか」

 

 シェヘラザードが問う。彼女の言う通り、この薄っぺらい紙に込められた、文字通り信綱の血肉を費やしたモノ。

 どうしても思うところがあるのは仕方がない。

 マスターは、信綱が首肯するのを見た。

 己の身を犠牲にしてでも、徳川を護ろうとするその心。それは#以外の何モノでもない。

 

「迷うな。それに、そちらにも選択肢はないはずだ」

 

「……ありがとうございます。大事に使わせてもらいます。あとは、私に任せてください」

 

「……ああ」

 

 大奥で集められた花札をマスターに集めて、裏プログラムに従って消費する。

 負けられない。人の#の結晶をこの身に受けたマスターは決意を固める。目の前にいるは、ビースト。

 生まれ変わったような爽快感に身震いし、気持ちを切り≪オイシソウ≫替える。

 

「……?」

 

 何か、変な違和感を覚えた。

 しかしそれ以外何もなく、今のは勘違いだと一蹴する。

 

「丁度良い、宗矩殿。もう一つ策があるのだ。今一度言おう。これまでの拙者の所業を見よ。貴殿の目の前にいるのは、徳川に仇為す者(・・・・・・・)

 

「!」

 

 宗矩の眉が吊り上がる。

 マスターにはその意味するところが分からなかった。しかし宗矩には理解できたらしく、依然として顔に刻まれた皺をより一層深くしながらマスターと信綱の前に立った。

 

「――老中、松平伊豆守信綱。貴殿はまことの忠臣よ」

 

「否、拙者は逆臣だ。そうでなければならぬ。故に――」

 

「――斬らねばならぬ(・・・・・・・)

 

そうだ(・・・)

 

 刀を鞘から抜く宗矩に、マスターは形相を変えて飛びついた。

 

「それは違うでしょ⁉」

 

 見てほしい。信綱はもう虫の息。あと数分で息絶える。なのにこれ以上苦しめる必要がどこにもないはずだ。

 

「……主殿。これは徳川を護ろうとした男の、最後の足掻だ。どうか、見届けてやってほしい」

 

「でも……っ!」

 

「いいのだ、小娘よ。その気持ちだけでも拙者は充分すぎるほど救われた」

 

 自力で立ち上がった信綱がマスターの肩を持ち、ぐい、と後ろに押し退けた。

 刀を構える宗矩の前に両手を広げた信綱は頭だけこちらに向けて、いっそ清々しいほどの微笑みを向けながら言った。

 

「感謝。そして、さらばだ」

 

 刀は容赦なく逆臣の肩から腹にかけて斬り裂いた。

 

「これで信綱殿は魂のみの存在となった。故にこそ、お福殿と同じく、ここでは姿を変える」

 

 それは、ひとつの刀だった。

 信綱の亡骸から溢れんばかりの青白い光が宇宙を照らし、形を為す。

 その柄を握り、触り心地を確かめる宗矩は一言、「伊豆守の村正擬きか」と呟いた。

 

「よかろう。貴殿の忠義、しかと預かった。徳川家兵法指南役、柳生但馬守宗矩。――唯一度、偽りの徳川を滅ぼすために、偽りの村正を振るおう」

 

 袖にべっとりと張り付いた血を見る。

 これは彼が生きた証だ。そして、宗矩が握る刀は彼の忠義の証。

 ここで決着をつけなければ、人理を救った者として名が廃る。

 

「いじらしく手を尽くした挙げ句、結局どうにもできずに私に蹂躙される姿を見るのはとても面白そうだなって目を瞑ってあげたのに――」

 

「見誤ったね、カーマ。あの人の忠義の深さを見抜けなかったのは」

 

 マスターの心に抱いたのは怒りではない。憐れみだ。さんざん#を熱く語っていたくせに、#に裏を取られるとはいったい何事か。

 だから、憐れ。

 あの神々しく輝いている手足はどんな味がするのだろう。

 あの豊満で柔らかそうな肉体はどれほど舌を肥えさせてくれるのだろう。

 あの赤い目を歯でぷちゅっと潰す食感、味わってみたい。

 こらこら、そんなに飢餓に苦しんでいるからって私に訴えなくてもいいでしょう? そう言おうと足元を見下ろしたが、獣は大人しくマスターのゴーサインを待っているだけだった。涎を垂らしているからてっきり獣の欲望が思ったが、どうやら違うらしい。

 ――では、今の悍ましい欲望は、いったい誰のもの?

 

「意味がわかりません。なんですかこれ。変です。この気持ち悪さを表す言葉を私は知りません。ああもう、どこまで痛いのが好きなんですか、人間って!」

 

「痛いのが好きってわけじゃないの。自分の目的が、痛みを伴うものとしても果たすべきものなら、迷わず人間はそっちの道に進むの」

 

『わかりませんか? 不器用ではありましたが、これこそが徳川に対するまことの忠義です。これでもわかりませんか? なら言い換えましょう。それこそが、信綱殿がそうであると信じた、#なのです』

 

 春日局の説教に、カーマは頭を抱えて否定を繰り返す。

 

「いいえ、いいえ違います。#を与え、宇宙を満たすのは私です。おまえたちが愛を持つ必要なんて無い! 私の知らない#なんて特に!」

 

 《ビースト失格》。

 #欲の獣が、知らない愛があると自白する。これは一体どういう了見だ。獣は牙を剥き出しにしてその是非をマスターに問いかける。

 間違いなく、それは罪。そう判断すると獣は面白おかしく笑った。ぺろぺろとマスターの袖を舐め、信綱の血を啜る。

 もはやマスターはカーマをビーストと認識しない。ただの我儘なな#の化身。ならば、あとは排除するまでだ。

 

「さあいらっしゃい、可愛らしいマスターさん。貴女たちの思い上がりを正面から叩き潰してあげましょう。ビーストⅢラプス。腐敗堕落の天魔王が、無限の#を与えましょう!」

 

 ◆

 

 薙ぎ払い、斬り払い、肉迫する。

 

「ッ!」

 

 宗矩の剣尖がカーマの頬を浅く裂き、髪を斬る。

 迎え撃とうとすればパールヴァティーの槍が背後から伸び、距離を取ろうとすればランプの魔人が行く手を阻む。

 同位体のカーマをいくら向かわせても、その悉くを撃破される。もはやジリ貧であることはカーマにも理解できているはずだ。

 いくら宗矩が走ろうとも、そこに床は存在し、焦燥を隠せないカーマへの道しるべとなる。

 

「こんな、はずは……っ! なんですか、その切れ味は!」

 

「宗矩、宝具解放!」

 

「承知」

 

 令呪を一画使用。

 それによって瞬間移動をした宗矩はカーマの背後に現れる。

 完全に意識の外を突いた瞬間。

 

「――我が剣に、お前は何れを見るものか。『剣術無双・剣禅一如』」

 

 偽村正は振るわれ、カーマの首を落とす、不可視の刃が襲った。

 しかし、すんでのところで別のカーマが身代わりになり、血飛沫を上げて斃れる。

 

「おかしいです……! 他の宇宙から来る私が間に合わないだけじゃない……少なすぎます(・・・・・・)……! ああ、でも、私があれを直に喰らうのだけは……ッ」

 

 回避に専念し、その後を考えていなかったカーマをパールヴァティーの光弾が頭を殴る。あれほど輝きを放っていた頭の光輪が半壊し、カーマは奥歯を噛みしめる。

 

「背に腹は替えられません……私から、徳川の属性を、大奥であることを、切り捨てるしかない!」

 

 するとカーマが身体から青い焔を滲ませ、どろりと黒に変色して消えた。

 

『――カーマの性質が変化しました! 春日局さん、今です!』

 

 シオンの鋭い声がどこにいるかよくわからない春日局に届く。

 キン――、と空気を震わせながら春日局がカーマに言う。

 

『徳川との繫がりを、偽りの大奥との繋がりを切り捨てましたね? それはつまり、私の大奥に逆らう力を失ったということ! ここは#欲の宇宙にあらず。尚の事、私の大奥たらん!』

 

 床が畳へと補強される。

 壁が現れ。

 襖が現れ。

 あっという間に色を獲得する。

 カーマの大奥を、一瞬にして春日局の大奥が上塗りした。

 

「#欲を押し込める、それのどこが幸福なんですか! 堕落を切り捨てる、それのどこが幸福なんですか! どうなんですか、貴女!」

 

 カーマが怒り狂い、長髪が命を得たように大きく広がりながらマスターに問うた。

 その間にも、サーヴァントたちの集中攻撃を喰らい、ついに宗矩の一太刀を受けてしまう。

 

『大奥を取り締まる老女としての言葉を。大奥法度――怪しき女性、疾く追い返すべし! 大奥老女、春日局の名において命じる。汝、この場に居る事能わず! 即刻、大奥より出て行かれよ!』

 

 絶対支配権の行使。いわば強力な概念魔術がカーマに下された。

 襖が開き、外へ誘う圧がカーマを襲う。

 

「く……ッ! こんな、ところでやられて……たまりますか!」

 

 床に深く足を食い込ませることで命令に抗おうと必死に耐えている。

 だが、カーマの大奥で好き勝手していたように、春日局もまた、好き勝手にできるのだ。

 支えが失われた瞬間、カーマは文字通り大奥を蹴り出される。その時を、マスターたちは待っていた。

 

「私だって……そう、簡単にやられる、つもりは……ないですよ!!」

 

 最後の足掻き。

 髪が意思を持ったような動きで伸びた。あまりの想定外のことに誰も反応することができなかった。しかしその髪は攻撃するためではなかった。

 

「――――――ぇ?」

 

 パールヴァティーではなく、シェヘラザードでもなく、また宗矩やマタ・ハリでもなく。

 マスターの両足首にしっかりと巻き付かれた時、その真の目的を悟った。

「や」ばい。と言おうとしたときはすでに遅く、カーマは床から足を浮かせていた。

 途端、鈍器で殴られたような衝撃がマスターの足を引っ張り、根本から千切れそうな痛みに呻いた。

 

「せめて、道連れに……なって、もらいますよ……!」

 

 襖が開き、奥へ。襖が開き、奥へ。襖が開き、奥へ。

 一瞬で仲間たちとの距離が離れてしまった。

 このままではカーマと一緒に外に放り出されてしまう。道連れだなんてご免だ。

 何でもいい! 何でもいいから!

 両手を伸ばし、何かに手が触れるときを待った。

 その時はすぐに訪れ、手を掠めた物を、マスターは必死になって掴んだ。

 それは部屋の柱だった。

 しかし。

 

「ぎ、アアアアァァァ!!!」

 

 ずっと飛ばされていた分の力が両肩と両足を遅い、ぶつりと致命的な断絶音が中で聞こえた。

 カーマが自分の髪を伝いながらゆっくりとマスターに近づいて来ている。

 それをどうにかするための力は、今のマスターにはない。両腕は柱にしがみつくので精一杯で、片手を離すだなんてことはとてもできない。両足はきつく縛られていて、どうにもならない。

 

「私はみんなに#を与えるというのに、そんな私を倒すなんて、頭おかしいんじゃないですか⁉ 私の#は、そんなに気に入らないのですか⁉」

 

「もちろん、気に入らない。そんな歪んだもの、いらない。それに私のこと、餌って言ってたよね? 怒りを通り越して、むしろ笑えるよ。餌は、そっちだよ。もう結構齧ったけどね」

 

「……まさか貴女、あの時、私があんなに少なかったのは!」

 

 獣がカーマの髪をサーカスの火渡りのように逆立ちしながら歩き、カーマの胸にズルリと沈み込む。

 獣性確保。捕食開始。

 

「まだまだ幼い可愛いビーストもどき。その育ち盛りの実、熟していないからこそ美味しかったりはするのかな」

 

「この……!」

 

 残りの距離を一気に詰め、手を振りかざした。心臓を一突き。指一つ動かせないマスターには避けようのない絶体絶命の一撃。

 しかし。

 

「――っ⁉」

 

 カーマの腕は、マスターの心臓を貫くことができなかった。それどころか大きく狙いが逸れて、思わぬ方向に手が伸びている。

 おかしい。一メートルにも満たない距離をどうして外すことができるのか。

 ニ撃。三撃。四撃。

 そのどれもがなぜかマスターに当たらない。

 

「どうして、ですか……⁉ 私は、貴女も愛してあげようとしていたのに……!」

 

 獣は満腹そうに腹を膨らませ、カーマから抜け出し、マスターの中に還った。

 ――オイシカッタ。

 舌を通るその味。後味残る、実に美味な獣性だった。唯一不満があるとすると、熟していないがゆえに、少し渋かったことくらいだ。

 飢餓は満たされ、マスターは久しぶりの食事の悦びに震えた。

 もうこの抜け殻に用はない。

 頭を動かし、カーマを見下ろす。その右目からは血の涙が流れていて、カーマは思わず動きを止めた。

 

「私は、攻撃が当たる未来を視ない(・・・)。愛……愛、か。あ、れ……? 愛って……何? ごめんね? よくわからないから、いらないや。……ああ、そもそも私には不要だったんだ」

 

 カーマが攻撃を外す可能性なんて。ほぼゼロ。だから外す可能性を探すのに、魔力を使いすぎた。それに、一撃ごとに狭まる可能性を捉えるには、もはや人間の業を超えていた。その代償は、眼球が溶けてしまいそうになるほどの激痛。

 もしもう一度攻撃された時、ピン留めができるか怪しい。

 その前に。

 両ひざを縮めて、一気に突き出す。それは呆気にとられるカーマの顔に命中し、髪の拘束は解かれ、カーマは一瞬にしてコメ粒ほどの大きさになり、ついに大奥の外に弾き出される。

 あとは、みんながやってくれるだろう。

 どこかの一室に倒れるマスターはそこから動かず、ずっともぐもぐと咀嚼する素振りを見せていた。

 まだ口の中に残っていた味をしっかりと感じるために、何もない口内を時間をかけながら舐めまわし、味わっていた。

 味わっていた。

 味わっていた。

 ……味わって、いたのだった。

 とても嬉しかった。ただそれだけの、ごく普通の感情がマスターの胸中を支配していた。

 




飢餓は満たされた。しかし何かが灼けた。
それはいったい、何でしょう?

しばらくハーメルンから離れている間にアンケ機能が実装されていたのか!Wow!

次、どんな話にするのか悩んでいます。以下の3つのうち、どれがいいでしょうか? もっと他の、こんな話が読みたいんだよねってのがあればメッセージに送ってください。あと、感想欄に書くのは規約違反らしいので、お控えください。過去に怒られたので笑笑

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