森久保がもりくぼになった時   作:雫。

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今日から私は

 

「乃々、復帰おめでとう。……こないだは色々あったから気に病むことは無いよ。私以外にも、今後乃々と組む人はいるみたいだけど、私はいつでも後ろから支えるから」

 

倒れた後に療養休暇を貰った私が久しぶりに事務所に出向くと、凛さんはそういって、休んで迷惑をかけたはずの私に頼もしく微笑みかけてくれます。

 

「うぅ……り、凛さんがそう言ってくれるのは嬉しいんですけど……。私なんて、もりくぼなんて、壁をひとつたまたま転びながら超えたところで、ただのもりくぼに過ぎないんですけど……そんなにもりくぼに期待されても……」

 

「でも、乃々はここにいる。私は乃々に重荷がのしかかったら、それを一緒に背負うつもり。決して無責任に期待だけするつもりはないよ」

 

「あう……もりくぼ、また迷惑かけてしまうかもしれないですが……。それでも、もりくぼを見捨てないでくれるんですか……?」

 

「うん、当然。……ところで、乃々って前から、自分のことを苗字で呼ぶことあるなって思ってたけど、今日はなんか雰囲気が違うような……」

 

「……えっ⁉︎」

 

久々の出社の緊張も相まって、明確な回答を事前準備してこなかった問いを前にびくっとしてしまったもりくぼは、ノートを落としてしまいました。

 

「……乃々、何か落としたよ。……日記?」

 

「ぴぃっ⁉︎ み、見ないで下さいぃ……」

 

しかし既に時遅し。ポエムを交えた日記ノートは全開の状態で落ちていたため、見開きが丸々凛さんの網膜に焼き付いてしまいます。

 

ポエム入りの日記が公開なんて無理なんですけど! 確かにもりくぼはポエムとか趣味ですけど、別に人に見せるほど得意というわけでもないし、もりくぼなんかのポエム、見て心地良いと思えるはずもありません。笑うか不快になるかです。

 

「ご、ごめん……。あれ、この日記、少し前から一人称が変わってる……なんか修正した跡もあるけど」

 

……見られてしまいました。ポエム日記を人に見られるのは初めてですけど……でも、一人称に関心が行ってくれたお陰で、肝心のポエムを見られる前に回収できたのは不幸中の幸いでしょうか。とりあえず、安心して良いのやら……。ともあれ、ポエムに踏み込まれるよりは、一人称の話の方が良いです。だって、それは私が私になるためにきった舵なのだから。

 

そう、この日記の私の自分自身を呼ぶ表記は、それまでの「森久保」と「私」の表記から、ひらがなの「もりくぼ」に変わっていたのです。多分、無意識に「Morikubo」と喋る時の発音も、言われてみれば変化していたのかも……。

 

「……私、これまではただの『森久保』だったんです。家族の中でも何もできずに流された挙句、私とお母さんの間の区別まで取り払われて……。だから、私は自分のことを、森久保から独立した個人だと思えなかったんです」

 

ほんとうは、辛かった。当時はむしろそれが逃げにも機能していたけど、今ならわかります。「私」がいないことの、痛みとは違う空虚さが。

 

「でも、こないだのライブで初めて、私は私として存在して良いんだと言われた気がしたんです。だから、これまで自分を納得ささるために自称してきた『森久保』呼びを変えて、『乃々』って自分を主張できたらどうなるんだろうって思ったんですけど……」

 

「……恥ずかしくて、罪悪感も感じちゃったんだね。あまりに『森久保』だけだった時期が、それに甘んじた期間が長かったから」

 

「はい……情け無さすぎて森久保に戻りたいくらいです……。でも、少し柔らかく、形を粘土みたいに変えられそうな感じに『もりくぼ』って言うのなら、何とか……」

 

私はいつか、ただの「乃々」になりたい。でも、私なんかにいきなりのそれは無理でした。でも、だからってワンクッションを置くなんて……ほんとうに駄目な子です。

 

「なるほど、過渡期ってことか。……私は、それでもいいと思うよ。人は、自分を見つけるのには時間がかかるもの、そしてこの世の中が与えてくれる時間は、ひとが自分自身と満足に見つめ合うにはあまりに少なくから。……だから、乃々が過渡期に移行できたことは、それだけでも大きな一歩だと思う」

 

「凛さん……」

 

凛さんは、もりくぼに手を差し伸べます。

 

「乃々がほんとうに『乃々』になれるまで。それまで、私は付き合うよ。乃々が自分を忘れないように、『乃々』って呼びながら」

 

涙が溢れてきます。ただでさえ、森久保だった時には必要とされなかった私。私が、もりくぼが、乃々が必要とされ、認めて貰える場所が、ようやく見つかったんだ。痛みも恥も伴う怖い世界。ですけど、もりくぼは、乃々はここにいていいのです。

 

また逃げてしまうかもしれません。迷惑もかけるかもしれません。無理なことがいっぱいあるかもしれません。でも、私が私であることは許されるんです。

 

だったら、私はようやく安心して、この過渡期に甘んじられます。

 

だから今日から私は、もりくぼは、もりくぼです。


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