「……お母さん……私ですけど……」
暗い部屋の中に、古い音楽だけが反響しています。積み上げられたビデオや本に挟まれた布団の上に座ったお母さんが、テレビをじっと見つめています。来る者を阻むこの空間はさながらお母さんの聖域(サンクチュアリ)。
「……昨日のお皿、下げておきますけど……」
ここまでは、まだ普段からしている会話です。お母さんがこんな状況なので、私と弟、週一で来てくれる叔母さんが分担してやってる家事に関してだけは最低限の言葉を交わしています。
ですけど、それ以外の会話は一切、この半年間絶っています。もう昔話を聞かされるのも怖くなって、少しでもそれに繋がる会話からは逃げていたのです。
「……今日見てるのは、何年前のライブですか……?」
……久しぶりの会話は、状況に関連づけて、しかし他愛もなく。第一声はできても、その後が難しそうです。
森久保はそんなことを言いつつ、恐る恐るお母さんの顔を覗き込もうと……して、先にテレビの画面に目が引き寄せられました。
「……凛さん……? いや、違う……?」
テレビの画面に映っていたのは、まさしく凛さんに似た雰囲気のアイドルでした。いえ、別に双子のようにそっくりなわけではなくて、冷静にちゃんと見れば別人だってはっきりわかります。でも、一瞥した時のふんわりとした印象が何となく良く似ているのです。
「乃々ちゃん、この子好き?」
画面に釘付けになっていると、お母さんが顔をこちらに向けないままそう言います。
「ほら、お祖父ちゃん厳しいけど、私って一回だけ目を盗んでオーディション行ったことあるじゃない?」
初耳なんですけど。
「この子ね、その時私と選考で競り合ったの。良い勝負だったわ。お祖父ちゃんに叩かれた痣さえ無ければ、私がこのステージにいたのよ」
お母さんは相変わらずこちらは見てくれません。
「でもね、3年後に覚醒剤で捕まっちゃったの。全て無駄になったの。私が、やっとの思いで受けたオーディションで勝ち取ったのに、私から奪った幸せなのに、もったいないわよね」
お母さんは、家での生活も、付き合う友達の選び方も、お祖父ちゃんに厳しく統制されていました。そんなお母さんが貴重な反抗を犯してやっと受けられた唯一のオーディション。その価値の高さは計り知れません。
このアイドルは、そんな価値のあるオーディションで勝利を掴んでおきながら自ら愚かな罪に手を染めて栄光を無に帰した。もしかしたらその場にいたのが自分かもしれないお母さんが、そのもったいなさに対して感じる感情はなんでしょうか。怒りか、悲しみか、呆れか……。
「……この人は、どんな人だったんですか?」
恐る恐る聞きます。しばらく話していないお母さん。「おかしくなった」と言われて久しいお母さん。果たして私の質問を理解して、答えてくれるのでしょうか。
「私ね、思わず泣いちゃったの。この子に負けた時。そしたらこの子、私を慰めようとするの。手を差し伸べようとするの、変に私の健闘を褒めようとするの。思わず、怒ってこの子を叩いちゃったわ。私と違って、機会にも自由にも恵まれてるくせに、アイドルになろうと思えばいつでもなれるくせに、私に何がわかるのって。……悪いことしたと思うわ。でも、あの時はほんとうに悔しかった、自分が惨めだった」
もともとしていた昔話の続きなのか、私の問いに答えているのかわからない文脈でした。でも、お母さんがこの子のことをどう思うのかは最低限わかります。そして、少なくとも記憶などははっきりしていて、過去はちゃんと過去と認識していることも……。
「……今でも、あの子に何か思うところはあるんでしょうか……?」
「……乃々ちゃん、凄いわね」
私の問いに、次はDVDを入れ替えることで応えるお母さん。これは、こんなにあっけなく再生をやめてしまうということは、もうあの子にそこまで固執していないととって良いのでしょうか。
「このステージの上から見える景色は綺麗でしょう? 私の景色なのよ……」
次のDVDは……森久保のライブ映像でした。今までは恥ずかしくて見ていなかったので、私が自分のライブ映像を見るのはこれが初めてです。
「星空のような観客席……森のざわめきみたいな声援……稲妻のようなサーチライト……全てが私の手の中に……」
お母さんはそこまで言ったところで、小さく笑いました。
「だったら良かったのに……乃々ちゃん」
それは自嘲。そして、語りかける相手はこの私であるとともに、画面の中で籠の中で足掻く小鳥のように惨めに舞う私。
そう、お母さんはちゃんと認識していました。自分自身と、画面の中の私と、そして今ここにいる私とを。