楽しんでいただけたら幸いです。
「死ねっ!死ね!・・・死ね!」
痛い。痛い痛い。助けて。誰か助けて!
声に出そうとしても声は出ない。あまりの恐怖で声を出そうとしても、ただ自分の荒い呼吸音しか聞こえない。
俺の腹の上に座り俺を殴る父だったものを見る。
死ねと叫びながら俺を殴る人はかつての面影が一切なくなっていた。
始まりは小学校二年の時。
家に帰れば珍しく父がいた。自分が学校から帰る時間は漁に出ていて家にはいない。いつも優しく遊んでくれていた父があの時は大好きだった俺は父に何故いるのか尋ねた、いや尋ねてしまった。
返事は頬の痛みと軽い浮遊感に、父からは聞いたことのない怒声だった。
常にやさしく怒っているのをこれまで見たことのなかった俺は驚きと痛みに泣いた。それが父をさらにイライラさせるとは思わずに泣いた。泣けば泣くほど父は怒鳴り、頬を打つ。延々と続く痛みから驚きは恐怖へ変わり、母と妹が帰ってくるまで父からの暴行は続いた。
そして父から初めて暴力を受けた日から四年、小学校も六年生になった時にそれは起きた。
学級委員の俺は委員会の仕事でその日はいつもより下校が遅く、いつも一緒に帰る妹の面倒は幼馴染に頼んであった。いつもならそのまま妹を迎えに行く俺はその日に限って何故か家に向かった。
理由は分からない。ランドセルを置きに行ったのかトイレに行きたかったのか。それとも何かしらの直感が働いたのかもしれない。
家に着いた俺はランドセルを置きに自分の部屋に向かう。夕方の5時でも父と母はいない。あの日から両親の間でなんの話があったのかは分からない、ただ父はまだこの家に住んでいる。
ランドセルを置き妹を迎えに行くために部屋のドアノブを掴む時に声が聞こえた。何かを叫び苦しんでいるような声だった。
「…て……けて……」
勢いよくドアを開けるとその声は大きくなっていく。やめて、助けてと女の人の叫び声が聞こえる。
その声を聞いた俺は身動きが全くとれないでいた。この声は母さんだ。確実に母さんの声だ。そこまで分かっていて足がすくみ体は震える。
声がするのは父の部屋からだった。
あの日以来父の事がトラウマになっていた俺はその場から全く動けずにいた。
「やめて!お願いやめてぇぇ!」
今まで聞いたことのない母の声は、震え動けない足が動くほどに悲痛なものに聞こえる。夢中で父の部屋のドアを開けると俺は再度動けなくなった。
蒸し風呂のようにこもった熱気に嗅いだことのない甘い匂いに獣のような匂い。
裸の両親が抱き合い、あたりに散らばる注射器や様々な物。
「や、やめて!もう許して!」
悲痛に聞こえていた声は喜びの声だった。だらしなく緩んだ口元から流れる涎がさらに強く感じさせた。
「か、母さ…ん」
膝から力が抜け床に膝がついた。
何も考えられず呆然としている俺が見えないかのように母さんと父は抱き合っていた。
「おいクソガキ、どうだお前も混ざるか?」
その後のことはよく覚えていない。
分かった事は目がさめると俺を待ってくれていた妹がいた事。
俺は一週間の間寝たきりだった事。
父はこれから外で生活ができない事。
そして母が死んだ事。
「秀一」
母さんの葬儀が終わった。
常に明るく優しい母の人望のおかげか村総出のとてもいい葬式だったと思う。
「おい、秀一」
式も終わった俺は一人うろこ様の社にいた。縁側に座りただぼうっとしている。
妹は従兄弟のあかりさんにお願いをした。
こういう時こそ兄の俺が妹についていなければいけないとは思うけど、今は一人になりたいからと言えばあかりさんは頷いてくれた。
目がさめたあの日から最後に母さんを見たあの光景が頭から消えてくれない。あんなに嬉しそうに俺を虐待していた人と抱き合っていた姿が。
母さんは俺の事愛していなかったんじゃないか、そう考えてしまう。
考えれば考えるほどに辻褄が合ってしまう。妹を溺愛し父からの虐待を見過ごしていた母の行動と辻褄が合ってしまう。
(やっぱり母さんは俺の事…)
バシッと肩に衝撃がくる。ふと見上げるとそこには見慣れた叔父の顔があった。
「おじさん」
「秀一、落ち着け」
深呼吸しろと言われ深呼吸をしてみる。
もう一度、もう一度もう一度、もう一度もう一度もう一度。
「秀一ぃぃ!」
あまりの大声におじさんをの顔を見る。泣いてはいないけど泣いてるような顔だった。
「秀一、いいか、落ち着け」
優しく力強いその声は不思議と落ち着く。
肩から力が抜けて体がふらつく俺をおじさんはそっと支えてくれた。
「おじさん、ありがとう」
「いい。もう大丈夫か?」
うん、大丈夫だよと返せばおじさんは笑った。普段笑わないおじさんが笑うのはきっとおじさんもどうすればいいか分からないからだ。
おじさんとの血縁はない。母の姉がおじさんの旦那さんだった。
すごく小さい時に叔母さんは亡くなり、光は泣き喚いてあかりさんが抱きしめていたのを今でも覚えている。
おじさんが俺の両肩を優しく力強く掴んだ。
「秀一お前に話がある。これからは」
「そこからはワシが話そう」
「うろこ様」
後ろから声をかけてきたのはうろこ様だ。
海に生きる俺たちの守り神であり、海神様の鱗。
「さぁて秀一よお主はこれからどうするんじゃ?」
「いや、それは」
正直何も考えていない。まだ俺は12歳で妹は7歳だ。俺一人でも無理な現状、俺よりも幼い妹を連れてどうにかするのは無理だ。
「まだまだお前は子供、難しい話はワシら大人に任せよ」
「いや、でも…」
「もう一度言うぞ、秀一よワシらに任せよ」
俺は下を向く、拳が震える。
拳に涙の雫が落ち割れた。涙が止まらずただありがとうございますと何度も言った。
俺の背中を優しくさするおじさんの手は大きくて、見守ってくれるうろこ様は感じた事のないほど慈愛に満ちていた。
何より俺は愛されているんだと思えた。