モノクロームリリィとの日常   作:カサノリ

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5月8日「声の日」

『この作品が描かれたのは、二十世紀の初め。愛を知り、喪失し、その痛みがカンバスへと向き合わせた。彼女の作家としての評価を決定づけた初期の傑作と呼ばれています』

 

 朗々とした、艶がかかった声。

 

 それに導かれるままに目の前の絵を見る。

 

 絵画に詳しいわけではないが、語られる通りに、叩きつけられるような激情がひりひりと伝わってくる気がした。中央に置かれた抽象的な人の顔。そこの絵の具が殊更に厚く塗られているため、立体的な迫力がそうさせるのか。

 

 まして、耳のイヤホンから声が流れるたびに、この絵画の世界へと魂が惹かれていくような錯覚も。

 

『愛に狂った作家と、その人間性の具現。眺めていると、引き込まれてしまいそう。ふふっ、この絵みたいに、貴方へと心をぶつけて、沈めてしまうのも面白そうね』

 

「奏、ちょっと怖いからストップ」

 

 最後は口調を変えて、ちょっとしたホラー映画みたいな調子だった。私は思わず背筋をぞわりと震わせて、マイクで奏に懇願する。

 

 くすくすと、イヤホンの向こう側で奏が笑顔を零してるのが伝わってくる。

 

『ふふ、そうね。ちょっと趣が違うかも。でも、Pさんがあんまりぼんやりと見ているから、つい、ね』

 

「最初の作品からこの調子なら、あとが怖いなー」

 

『安心して? ここからはちゃんと台本に従うから』

 

 そうだといいな、と私は願うしかない。ある意味、この空間に奏と二人きりで、逃げ場はない。天上から声を送る奏にただただ従うしかない。そんな状況も、この美術館というステージにマッチして、楽しくもあるのだが。

 

 今日の奏は声の仕事。

 

 声の仕事といっても、吹き替えに朗読劇に、アニメやゲームのアフレコなど色々なバリエーションがあるが、今回は美術館での解説音声の仕事だった。

 

 最近の美術館では特別展示のたびに豪華ゲストによる解説を企画される。例えば、その作家や作品に携わった芸能人だったりが。素敵な声を聴きながら、美術の世界に没頭するというのも、面白く興味深い体験と人気を博している。

 

 そして、奏が抜擢されたのは、近代ヨーロッパで活躍した女性画家の特別展だった。以前から、朗読の仕事など、演技上手な仕事ぶりは評価されていた。そして、若くして愛に散った画家というコンセプトも、退廃的な演技ですら魅せる奏とマッチしていると判断されたのだろう。

 

「ああ、やっぱり似合うな……」

 

 一人ごちる。

 

 以前、奏と博物館を訪れて、二人きりで回った時のことを思い出す。あの時も、奏の声を聞いていると落ち着けて、しんみりと温かな空気の中で宇宙を楽しむことができた。

 

 静かな空間に、一滴。奏の存在感のある声が、この部屋の雰囲気を強調させていくのだろう。

 

『もうっ、褒めても何も出ないわよ。それよりも、台本あわせ、進めましょう?』

 

「奏だって、ちょっと悪戯したじゃないか」

 

『さあ、どうだったかしら?』

 

 私は大きく飾られた絵画を背にして、順路に従って次の絵へと。

 

 解説の台本は美術館側が用意している。ただ、それを読み上げる奏としては、声のテンポや時間を調整しなければいけない。第一に客の目的は鑑賞だから、長すぎず、短すぎずのちょうどいい時間で収まるように。

 

 今、私達が行っているのは、その合わせ作業。私の頭には小型カメラを付けて、観客役。別の部屋で奏が、その映像を見ながら、手元で台本を読み上げる。そうして、実際に観客がどう感じるかを伝え、完成度を高めていくのだ。

 

 少し歩き、足を止める。『2』と描かれたパネルが添えられた、絵画の前。

 

『この風景画は、彼女がつかの間の平穏を得た一年の間に描かれました。明るい配色に、のびのびとした筆遣い。それまで纏っていた重苦しさから解放されて、見る者を和ませる一枚となっています。

 ……けれども、彼女の平穏は長くは続きませんでした』

 

「いい感じ。けど、最後の台詞は、もう少し軽く仕上げても良いかもしれないな。迫力がありすぎる」

 

『そう? じゃあ、もう一度……』

 

 そんなやり取りを繰り返しながら、じっくりと時間をかけて、奏の声と美術をシンクロさせていく。

 

『でも、面白いわね。こういうのも。

 距離は離れているけれど、見ている景色は同じ。声をやり取りしながら、想いを重ねていく。もどかしくて、切なくて、でも心は満たされていく』

 

「そうだね。あとさ、今日はいつもより嬉しいこともあるんだ」

 

『顔が見えないから、からかわれなくて済むこと?』

 

 冗談めかした言い方に、苦笑い。

 

「顔が見れないのは、前にも言ったけど、やっぱり物足りないよ。

 嬉しいのは、奏の演技に私も関われること。いつもは、そういう指導、トレーナーさんや監督さんたちに任せているから」

 

 今回に限っては、美術館を訪れた一般人の視点が必要。だから、私が奏の声を聴いて、どう感じたのか、何を思ったのかを伝えて、奏が演技を磨き上げていく。

 

 いつもの仕事でだって、奏と加蓮がますます綺麗に輝いていくのを感じ取れる。けれど、更に近い場所で、力になれるのは楽しく、誇らしいことに思えるのだ。

 

『私としては、メイク前を見られるみたいで、気恥ずかしいところもあるのよ?』

 

 奏も加蓮も、一番綺麗なところを見て欲しいとはよく言っている。その気持ちもわかるのだが、たまにはその過程も感じてみたいと思うのは、仕方ないことだと思って欲しい。

 

『仕方ない人』

 

 奏が楽しそうな、わざとらしいため息。そこに、私はただ肩をすくめて応えた。

 

 

 

 そこから小一時間ほど、私は奏の声と共に、悲劇の女性画家の生涯を追っていく。

 

 孤独な幼少時代。

 

 愛を知った思春期。

 

 つかの間の安堵と、喪失。

 

 画家としての大成と孤独。

 

 奏の適切な解説は、そのトーンから、息遣いから、全てを使って彼女の人生を私に伝えてくれた。もちろん、仕事は忘れず、やり直しを繰り返しながら、真実味を加えていく。

 

 時には、色っぽい絵が出てきて、悪戯な笑顔を浮かべていただろう奏が揶揄うことを言って来たりも。奏の解説を聞きながら過ごした時間は、私の一生を押しなべてみても、静かで贅沢な時だと感じられた。

 

 そんな時間の終わりに。

 

「……はぁ」

 

 私は感嘆する。短い生涯の最期に、画家が遺した最大の作品。サイズは大きくはない。モチーフも判然として分からない。人の顔なのか、大輪の花なのか、それとも、この星の姿なのか。

 

 分からないけれど、この絵は私の目を離そうとはしなかった。最初に奏が語った通り、画が手招きをして、深い場所まで引き込もうとしているような。

 

 ただ、声や動きを忘れたように、呆として立っていた私に、

 

「……画家は何も言い残しませんでした。彼女の死後、アトリエの片隅から見つかった絵。それには、『私の最高の作品』とわずかな書き残しがあるのみです」

 

 すっと割り込むように、奏の声が重なった。それは、イヤホン越しの遠い声ではなくて、横に立つ彼女自身がくれる音。いつの間にやら、だ。

 

「来ちゃった」

 

「うん。ありがとう」

 

「最後の絵は、一緒に観たかったのよ。声を届けるのも良いけれど、貴方と同じ、どこか物足りないから」

 

 そうして、二人並び、前だけを見ながら、静思いを馳せていく。

 

「モチーフも、題材も、テーマも、何もわからない絵。きっと、彼女はそんな絵を残して、共有して欲しかったのではないでしょうか。こうして大切な人と並び、一つの物語を読み進めるように。

 ……誰かの鎹になりたかったのではないでしょうか」

 

「それは……」

 

「さあ、どこまでが台本でしょうか? でも、今は野暮なことは考えないで。ただ、こうして二人。

 声だけじゃない。体も心さえも、近くに寄せて、時間を共に過ごしましょう?」

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