精霊で「しょうれい」と読むそうです。
由来を調べてみたら、面白い内容でした。
「思いつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを」
咲き誇る桃の木の下で、艶やかな声が歌を詠みあげている。
それを乗せるのは、穏やかな春風。歌だけでなく、ひらりと桃の花も舞い上げて、奏のなめらかな髪へと運んでいく。まるで、絵巻の一場面と語られるような景色。
けれど、それはただの絵ではない。奏というアイドルの表現力によって、この現実へと存在している。
「うたたねに恋しき人を見てしより 夢てふものはたのみそめてき」
再びの小町の歌。夢を詠う奏の様は、在るだけでしんと空気を透き通し、私たちがはるか平安の世にいるようにも感じさせる。そんな陶酔を阻むのは、
くすり
という気まぐれな奏の微笑みのみだった。
今日、私たちは奏の新写真集へ向けた撮影を行っていた。
奏の写真集はこれまでに幾度も発売され、その圧倒的ビジュアルから好評を博してきた。去年、初めての水着写真を公開し、多くのファンの屍を積み上げたことも記憶に新しい。
それら写真集には、奏が自分の希望に沿わせたテーマを設定している。
前回のは夏をテーマとし、水着や浴衣、スポーティな薄着姿と、刺激的に仕上げた。そして、今年初となる写真集は、前回とは一転して大和撫子をテーマとした。
単に色香だけで惑わすのは芸がない。奥ゆかしい仕草でファンを魅せてみせる、というのが彼女の考え。
春らしいワンピース姿で緑の茂る河原を歩いたり、有名な千本鳥居の中で撮影したり。見ていると自然とため息が出てくるような、そんな奏の美しさを強調した写真を撮影してきた。
今は、その〆となる和服での写真。
桃が有名な神社の境内にセットを作ってもらい、平安時代の十二単を纏って、平安貴族となった奏を、カメラがこの世に写し取っていく。奏の手には、筆と和紙が携えられて。読み上げるのは、かの小野小町の歌。
もちろん、写真に声は載せられない。だが、世界三大美女とも謳われる彼女の歌が、奏の口から語られるたび、不思議と幻想的な雰囲気が生まれるのだ。奏こそがその生まれ変わりなのではないかと、惑ってしてしまうほどに。
けれど、そんな私の当惑を、奏が柔らかな声で否定する。
「私は貴方の隣で偶像になっている、ただの速水奏。それ以上でもないし、それ以下でもないわよ?」
「あ、ああ。もちろん」
「ふふっ、遠い過去に心奪われるくらいなら、今の私の虜になってほしいわね。この口が語る歌が邪魔をするなら、私は封じてあげてもいいわよ? 貴方の唇を使ってね♪」
ふ、とそんな奏の言葉と共に、桃の香が私を包み込む。桃は元来、神の食べ物。甘くて、痺れる、この世の物とも思えない香りだ。
この風も、香りも、どこまで意図してやっているのか。こんな偶然も味方にしてしまったら、奏は向かうところ敵なしだろう。
そんな私の呆然を、奏は再び声を鳴らして笑った。
休憩時間となり、私は奏の傍に腰を下ろしていた。撮影をお願いしているカメラマンが、セットの近くに椅子を用意してくれて、そこに座らせてもらっている。彼女曰く、この着物はかなり重いので、動き回るのも大変だそうだ。
私は体を休めている奏へと尋ねる。
「撮影、もう少し長引きそうだけど大丈夫?」
奏は普段からシャープな服装を好んで着ている。このボリュームある着物を窮屈に感じているようで、奏は少しだけ肩をほぐすように揺らしていた。
「確かに、これを一日中着ていなければいけない、といわれたらお断りするわね。でも、こうしていることで読み手の気持ちも分かるの。
きっと昔はもっと多くのしがらみがあって、夢の中が唯一の自由になれる場所だったのだろう、とかね」
「それって、あの歌だっけ?」
奏が詠んでいた、百人一首にも載せられている、小野小町の歌。
好きな人の夢を見ていたのに、目が覚めたらその姿が消えてしまった。これが夢だと知っていたら、目覚めたくなんてなかったのに。
そんな意味だったと記憶している。
奏は頷くと、目を閉じ、遠い景色へ思いを馳せるようにして言う。
「せつないわよね。そこまで焦がれているのに、きっと、相手の顔も知れないの。平安時代は、お互いの顔を知らないまま恋心を交わしていたから、夢の中が唯一の逢瀬の場所。
……それでも夢は泡沫のごとく消えてしまう」
私も小町の歌を少しだけ調べてみたが、夢に関する歌は多い。どれもほろ苦い、恋の歌だ。
目が覚めなければいいのに、夢の中ならどんなにいいか、夢の中なら咎められないのに。
当時とは私たちの知識も風俗も違うが、彼女らにとっても夢の中は憧れの対象だったのかもしれない。
「いつの時代も人は夢と恋に焦がれる……。
知ってる? 昔の歌は呪だった。言葉が力を持つと考えられたから、こうして歌を作ることは、ただの道楽ではなくて、彼女たちの必死な願い事。今も、この言葉が私たちを惹きつけるのも、そこに籠められた思いが残されているから。
彼女達が想い人と結ばれたかは、私には分からないけれど……」
でも、と。
奏は立ち上がると、私へと手を伸ばしながら言う。暖かい、春に浮かれる少女のように。
「ねぇ、この後、少し付き合ってくれないかしら?」
「あったかいわね」
河原の傍を歩く。神社近くの、春風が気持ちよく通り過ぎる道。横を見れば、桜ではなく桃の並木が花開いて迎えてくれる。
私の隣で奏は手を大きく広げながら、穏やかな笑顔で軽快に歩いていた。
その服は十二単ではない。あの後、撮影は順調に進んで、日が傾く前に終了した。奏も普段着に着替え、身軽そうにしている。
「ふふっ、仮面じゃないけれど。ああして縛られたあとは、少しの開放感があるわね。島へ行った時と同じように♪」
それに、と。奏は私の手を優しくとった。
「演じるたびに、私は違う役に入り込んで。役を終えるたびに、新しい発見をする……。
今日演じたのは、もどかしいほどの恋心を抱えた平安の歌人。彼女の恋ごころが届いたかは、私たちが知ることもなく、知る必要もないかもしれない
それでもね……」
「……ああ」
奏が切なそうに私を横目で見る。
言葉は無くとも、その表情に奏の心が隠れているような気がしていた。
目の前には青空がある。囁く風と、流れる川がある。草木は芽吹いて命を振りまき、花は一時の夢を見るように香り立つ。
この春の目覚めを、私たちは共有している。
「私たちは、今この時を生きて、同じ景色を見ている。それは、どれだけの奇跡なのでしょうね。
この関係が、今はアイドルによって成り立つものでも。私が素顔をさらけ出さないとしても。同じ場所に立って並んでいるということは真実。かつては望んでも、手の届かなかった物を、私たちは当たり前に」
言葉を切ると、奏は手を離した。
私はまだ残る名残を握りながら、奏へと言う。
「実は昨日、奏が夢に出たんだ」
「私が?」
すると奏は、驚いたように目を開いて、首を傾げる。
私も少し突拍子がないかと思ったが、そのまま続けることにした。私たちが幸福だというのはその通りだが、それは、この場に共にいるだけという理由じゃない。
「夢の中の私はどうしていたのかしら? この現実に遠慮なく、貴方へと唇を重ねていたのか、それとも、子どもらしく無邪気に笑っていたのか」
「それがさ、魔術師みたいな格好してて、私を鼠に変えちゃった」
「……あはは! もう、貴方にとっての私の印象、そんな風なの?」
いやいや、これが割と愉快な夢なんだ。
鼠になった私は奏の肩に乗ると、箒に乗って街を飛行する。夜桜を見下ろし、ウサギと共に月の模様となって大冒険をしていた。私好みなロマンチックを、奏が実現してくれた。
「でも、夢が覚めた時は、残念だと思わなかった。
あの夢も現実に続きがあるから。奏達が私を、ファンを、夢のような景色へ連れて行ってくれるって」
確かに、私たちは幸せ者だ。
好きな人と同じ景色を観れて、夢も共有して、共に人生を歩いている。
私は奏の手を取る。今度は私から。
奏は、その仕草に驚いたようで、少女らしく目を見開いて私を見つめた。一秒、二秒。それで、穏やかに口を緩め、体も寄り添わせるように。
「珍しく気が利いているんじゃない?」
「さっき、奏が言ってただろ?」
夢と知りせば覚めざらましを。
言葉は呪。たとえ先人の歌でも、心を込めて読めるなら、気持ちは同じ。
聞いた私だってそうだ。
夢だろうと、現実だろうと。
「……ええ。今だけでも、貴方とこうして一緒にいたいわ」
これまで和歌の素養はなかったのですが、込められた意味も表現も、奥が深いですね。