はっ、はっ、はっ、はっ。
息を吸い、吐きながら、ただ走る。腕と足をリズムよく連動させ、地面を蹴り上げ、体を前へ前へと。単純な繰り返しの動作。十分、二十分、維持するだけなら、何の苦もない。
しかし、それが一時間、二時間となれば話は別だ。
人間は生物で、機械のように全く同じ動作をするということには向いていない。次第に息は乱れ、手足は鉛のように重くなり、明朗だった意識は暗く沈んでいこうとする。
ただ、長距離を走るというだけでそれなのだ。マラソンランナーという『競技者』に成ろうとすれば、その苦しみを乗り越えるだけにとどまらない、強い意志が必要になる。
そして、選手でない私には、そこまでの意志はない。ただ一人で走っていれば、最後には息もできなくなり、無様に地面へとへたり込んでしまうだろう。
それを支えてくれるのは、元気のよい声。
「ほらほら、Pさん。ペースが落ちてるよ!」
「ふぅ、ふぅ……。何のこれしき!!」
左横で加蓮もまた、私と同じように走っている。
表情はまだまだ涼やかで、私のように疲れた様子は見せていない。昔は運動も苦手だったのに、よく体力をつけたものだと思う。細身のランニングウェアもよく似合っていた。
「ガンバ!!」
声に加えて加蓮がバシリと背中を叩く。それで私の意識もにわかに元気となった。私よりも年若い加蓮が軽快に走っているのだから、まだまだ先達として私が倒れるわけにはいかない、と。
そうしてどのくらい走っただろう。
競争ではないとはいえ、加蓮は負けず嫌い。男である私の方が、さすがにスピードは出せるけど、加蓮も笑顔を見せながら追いすがってくる。
そんな競争はちょうど5キロの距離で一旦、終わり。走っていた湾岸の道の途中で二人とも顔を俯けて大きく息を吐く。
肺が苦しい。上手く息が吸えず、なにか喉を潤したいと思った時には、
「はい。ゆっくり飲むのよ」
なんて、母親みたいなことを言いながら、奏が私たちへとペットボトルを渡してくれるのだ。
加蓮と同じく、ランニングウェア姿の奏も自転車に乗り、私たちの後ろの方から追いかけてくれていた。自転車の籠には氷やら、飲み物をたっぷりと入れて。
「あー」
「生き返るー」
なんて、加蓮と二人、奏がくれた冷たいお茶を飲み、体を伸ばしながらリフレッシュ。それを優しく見守る奏は、本当に母親みたいだが、それを言うと怖いので私の胸の中にしまっておいて。
少しのんびりしてしまうけれども、いつまでも座ってる訳にはいかない。ここが終着点ではないのだから。今日の目標は20キロ。少しの休憩を挟んだら、再出発だ。
そして、
「今度は私の番ね」
私の隣へ並んだのは奏。
いつもは運動よりも、文化的な活動をしているのを見かける奏だが、腕を十字に組んで、体を曲げ伸ばしをする姿は、綺麗なショートヘアも相まって、スポーティな魅力にあふれている。
これは今度、こういう仕事を取ってきても良いかもしれない。
「ふふっ。お仕事の目をしてるけど、今は忘れた方が良いと思うわよ?」
「そうだよー。ペース間違えて、歩けなくなりましたじゃ、私たちだって困っちゃうし」
「そりゃそうだ」
今はオフだと頭を切り替える。
疲れた体で、奏を相手にどれだけ走り抜けるかが重要。なんだかんだと仕事で動いていても、二人と違ってダンスや本格的な運動とは無縁な生活を送っている。気持ちが散漫で怪我をしたら、目も当てられない。
(さてさて、そんな私がなんでマラソンの練習なんてしているんだろ?)
こんなオフの日の朝早くから。しかも、アイドル二人まで付き合ってくれている理由。
それは、
「「だって、太ったからでしょ?」」
なんて身もふたもないものだった。
「Pさん、貴方、またお腹出てない?」
と、奏が呆れるように言ったのは数週間前だ。外での仕事を終えた私たちが、事務所ビルに入って、エレベーターに乗っている途中。奏がふと隣にいた私のお腹を見て、無慈悲に言い放った。
その瞬間、加蓮の視線も私の下腹部へと突き刺さる。とっさに腹筋に力を入れるが、そのスーツの盛り上がりを隠すことはできなかった。
「……」
「……」
年頃の女の子から受ける無言のジト目。
しばらく腹筋でそれらを誤魔化そうとしていた私だが、
「いひっ!?」
加蓮と奏がいきなり私のお腹を掴むものだから、変な声をあげてしまった。細い指先はそこまでの力を加えていないのに、ぐにぃと二人の指が引かれるにしたがって、私の肉が伸びていく。
「……Pさん」
「……あなたねぇ」
「……うぅ」
なんだろう、この羞恥は。
二人は圧力をかけながら、私をエレベーターの壁へと追い詰めていく。
「はいはい、Pさん、ちゃーんと教えなさい」
「最近、間食が多いと思っていたけれど。家帰ってからも不摂生してたんじゃないの?」
「……そんなことは」
言葉では否定するも、私の脳裏にはいくつもの景色が過ぎていく。仕事終わりのジャンボパフェ。コンビニで買ったバニラアイス。加蓮と奏に連れていかれた喫茶店のケーキ類、ドーナツ、押し付けられたポテト。
あれ、一番後ろのがめちゃくちゃ多いぞ!? 不摂生の原因は、ポテトじゃないのか!?
しかし、そんな言い訳は、この摘ままれた腹という物的証拠の前に何の意味もなさない。
黙りこくった私を前に、加蓮と奏は大きくため息。腰に手を当てると、小さな眉間にしわを寄せながら言うのだ。
「去年の夏はいい感じだったのに」
「歳なんだから、代謝が悪いのね」
「やっぱり私たちが」
「責任もって」
「「管理してあげないと♪」」
深刻な声から、急転する明るく楽しそうな様子。そして、宣言されるのは、去年と同じ苦難の呼び声。
「それじゃあPさん」
「今年もフルマラソン、やってみましょ♪」
と言うことで、私は再びマラソンへと挑むことになったのだ。
『体脂肪を燃やすのは有酸素運動が一番だよ』
『持久力もつくし、日々のプロデューサー業にも役立つから』
というのが二人の語る理由だが、去年の私の苦闘を思うと、面白がられているのも半分くらいある。そして、残り半分は本気で私のことを心配してくれているのだから、無下にもできない。
二人曰く、目標は半年後、秋のマラソン大会。ちひろさんやらの協力を得て、既にエントリー済みと言うのだから、準備万端なことだ。
「でも、こういう風に走っていると、気持ちいいでしょ?」
「っ! ……ああ、ほんとに!」
並走する奏が声を張り上げる。いつもと違う声の出し方も新鮮。当初は、またやるのかと気が重かった私だが、いまはわりとノリ気だった。走ることで、頭もスッキリするし、気分が良くなる。
オフの日を中心にしたマラソンも今回で、既に十回くらい。コースは同じで、最終目標は海の見える公園だ。
今日も42キロほど長くはないが、体力の限界を攻め抜く距離を走って、私はゴールテープを切ることに成功した。
「はい、お疲れ様! Pさん、ドリンクはなにがいい?」
「お茶とスポーツドリンクくらいはあるけれど」
「お、おちゃで……」
「はい。ちょっと待っててね」
汗で水分が減っていたし、口の奥がベタベタになって仕方ない。体は動く気配がしないけど、妙に気持ちは晴れやか。
天を仰ぎながら、呟く。
「……久しぶりに、スポーツしてる気分だ」
「それは上出来♪ Pさんが私たちを置いておじさんになったら、寂しいもんね」
「そうね。貴方の顔、なんだかいつもより若々しく見えるわよ?」
「え!? そんなにいつもの私、おじさんになってる!?」
「楓さん達とお酒飲んだ次の日は、さすがにおじさんっぽいかなー」
加蓮も奏はくすくすと笑顔を転がしていく。
私もつられて笑い出して、それで、自分で自分に驚かされる。ちょっと前まで、あんなに疲れ果てていたのに、もう前向きな考えになっていたから。
私がそんなことを考えていたことを察したのか、奏は微笑みながら言う。
「練習の成果ね。去年も大変だったと思うけれど、一度は走りきることができたのだし。蓄積はあるのよ」
「Pさん、気づいているか分からないけど、お腹も首のところもすっとしてカッコよくなったよ?」
加蓮の言葉も、優しく、褒めてくれるようなもの。
体の疲れとは別に、頬に熱を感じる。そういえば、仕事のことだったり、プロデューサーとして二人から褒められることは多かったけれども、こうして体を動かすことで褒められるのは、多くない。
毎日、汗を流して頑張ってくれているのは、加蓮たちの方だから。私は、それを後ろで眺めているだけ。
けれど、加蓮たちが言うように、これまでのランニングが少しでも私の身についているのなら、それは次のやる気にも繋がるし、喜びにもなっていく。
「ああ、何となくだけど……」
加蓮と奏の、アイドルの気持ちが分かる。
自分の限界へと挑んで、汗をかき、苦しい思いをしても、それが自身の成長へと繋がる。その経験は、泥臭くても気持ちが良いし、
(……褒められるのって嬉しいよな)
自分で言うのは、少し気恥ずかしいが、日々のレッスンで何気なくかけている言葉が、同じように加蓮たちの力になってくれていたら嬉しいと思う。
「さて、嬉しそうにしてるPさん? そろそろ出発の時間だけど、大丈夫?」
加蓮が差し伸べてくれる手に、私は苦笑しながら手を重ねた。
それに支えられて立ち上がると、まだ足は重いが、走れないほどじゃない。
「もちろん、アイドルだけ先に走らせるわけにはいかないからね」
プロデューサーとしては、ちゃんと支えられるように追いかけないと。
「それじゃあ、目的地は事務所ね。着替えて、シャワーを浴びて、あとはみんなで食事にでも行きましょうか」
「じゃあ、私はポテトで♪」
「……パフェは」
「「ダメ」」
「……じょ、冗談だって」
私は苦笑いしながら走り出す。こうして走った先に、二人にふさわしいプロデューサーになれるよう、願いながら。
とうとう作中時間も一ヶ月きったー!!