ザァーと水の流れる音がする。冷たい微風が頬を撫で、冷え切った体が身震いした。頬に当たる硬い感触と下半身の刺すような冷たい感触に「うっ」と呻き声を上げて由良は目を覚ました。
ボーとする頭、ズキズキと痛む全身に眉根を寄せながら両腕に力を入れて上体を起こす。
「痛っ〜、ここは…オレは確か……」
ふらつく頭を片手で押さえながら、記憶を辿りつつ辺りを見回す。
周りは薄暗いが緑光石の発光のおかげで何も見えないほどではない。横にを見るとハジメの姿も見え、一安心する。視線の先には幅五メートル程の川があり、二人の下半身が浸かっていた。上半身が、突き出た川辺の岩に引っかかって乗り上げたようだ。
「そうだ……確か、橋が壊れて落ちたんだ。……それで……。って、こんなことしてる場合じゃない!おい、起きろハジメ!」
霧がかかったようだった頭が回転を始める。
ハジメの体を揺すると呻き声を出しながらも体を起こす。
「う〜ん…。ここは……」
頭を片手で抑えながらもなんとか起き上がる。
「そうだ……確か、橋が壊れて由良くんと一緒に落っこちて……」
「そのくだりはもうオレがやった。早く目を覚ませ、ハジメ」
ペちぺちとハジメの頬を叩く由良。次第にハジメの思考もクリアになっていく。
「ハッ…。ゆ、由良くん?よ、よかったぁ、僕達生きてるんだね」
「あぁ、オレたちは生きてるんだよ。偶然にしろホント、運持ってるよ」
二人が奈落に落ちていながら助かったのは全くの幸運だった。
落下途中の崖の壁に穴があいており、そこから鉄砲水の如く水が噴き出していたのだ。ちょっとした滝である。そのような滝が無数にあり、二人は何度もその滝に吹き飛ばされながら次第に壁際に押しやられ、最終的に壁からせり出ていた横穴からウォータースライダーの如く流されたのである。とてつもない奇跡だ。
もっとも、横穴に吹き飛ばされた時、体を強打し意識を飛ばしていたので二人とも、その身に起きた奇跡を理解していないが。
「よく思い出せないけど、とにかく、助かったんだね。……はっくしゅん! ざ、寒い」
「そ、そういや、水に浸かりっぱなしだったな……くしゅん!ズズッ…」
地下水という低温の水にずっと浸かっていた為に、すっかり体が冷えてしまっている。このままでは低体温症の恐れもあると早々に川から上がるハジメと由良。ガクガクと震えながら服を脱ぎ、絞っていく。
そして、パンツ一枚になると火の適性を持っている由良が“火種”の魔法を使った。
「さ、寒くて集中しづらいな……。求めるは火、其れは力にして光、顕現せよ、“火種”」
二人で発動した拳大の炎で暖をとりつつ、傍に服も並べて乾かす。
「ここどこなんだろう。……だいぶ落ちたんだと思うけど……帰れるかな……」
「案の定、大迷宮の中だろうな…。帰れるかは……オレにもわからん。すまねぇ……」
暖かな火に当たりながら気持ちが落ち着いてくると、次第に不安が2人の胸中を満たしていく。
由良は無性に泣きたくなって目の端に涙が溜まり始めるが、今泣いては心が折れてしまいそうでグッと堪える。ゴシゴシと目元を拭って溜まった涙を拭うと、両手でパンッと頬を叩いた。
「やるしかない、何とか地上に戻ろう。大丈夫、きっと大丈夫だ」
「そう、だよね。うんっ。きっと大丈夫だよ。」
ハジメと自分に言い聞かせるように呟き、俯いていた顔を起こし決然とした表情でジッと炎を見つめた。
二十分ほど暖をとり服もあらかた乾いたので出発することにする。どの階層にいるのかはわからないが迷宮の中であるのは間違いない以上、どこに魔物が潜んでいてもおかしくない。二人は1列になり慎重に慎重を重ねて奥へと続く巨大な通路に歩みを進めた。
二人が進む通路は正しく洞窟といった感じだった。
低層の四角い通路ではなく岩や壁があちこちからせり出し通路自体も複雑にうねっている。二十層の最後の部屋のようだ。
但し、大きさは比較にならない。複雑で障害物だらけでも通路の直径は優に二十メートルはある。狭い所でも十メートルはあるのだから相当な大きさだ。歩き難くはあるが、隠れる場所も豊富にあり、二人は物陰から物陰に隠れながら進んでいった。
そうやってどれくらい歩いただろうか。
二人がそろそろ疲れを感じ始めた頃、遂に初めての分かれ道にたどり着いた。巨大な四辻である。二人は岩の陰に隠れながら、どの道に進むべきか逡巡した。
暫く考え込んでいると、視界の端で何かが動いた気がして慌てて岩陰に身を潜める。
そっと顔だけ出して様子を窺うと、二人のいる通路から直進方向の道に白い毛玉がピョンピョンと跳ねているのがわかった。長い耳もある。見た目はまんまウサギだった。但し、大きさが中型犬くらいあり、後ろ足がやたらと大きく発達している。そして何より赤黒い線がまるで血管のように幾本も体を走り、ドクンドクンと心臓のように脈打っていた。物凄く不気味である。
明らかにヤバそうな魔物なので、直進は避けて右か左の道に進もうと決める。ウサギの位置からして右の通路に入るほうが見つかりにくそうだ。
二人は息を潜めてタイミングを見計らう。そして、ウサギが後ろを向き地面に鼻を付けてフンフンと嗅ぎ出したところで、今だ! と飛び出そうとした。
その瞬間、ウサギがピクッと反応したかと思うとスっと背筋を伸ばし立ち上がった。警戒するように耳が忙しなくあちこちに向いている。
(やばい! み、見つかった!?)
(いや、大丈夫だ!見つかったならこっちを見ているはずだしな)
岩陰に張り付くように身を潜めながらバクバクと脈打つ心臓を必死に抑える。あの鋭敏そうな耳に自分の鼓動が聞かれそうな気がして、二人は冷や汗を流す。
だが、由良の言う通り、ウサギが警戒したのは別の理由だったようだ。
「グルゥア!!」
獣の唸り声と共に、これまた白い毛並みの狼のような魔物がウサギ目掛けて岩陰から飛び出したのだ。
その白い狼は大型犬くらいの大きさで尻尾が二本あり、ウサギと同じように赤黒い線が体に走って脈打っている。一体何処から現れたのか一体目が飛びかかった瞬間、別の岩陰から更に二体の二尾狼が飛び出す。
再び岩陰から顔を覗かせその様子を観察するハジメと由良。どう見ても、狼がウサギちゃん(ちゃん付けできるほど可愛くないが)を捕食する瞬間だ。二人は、このドサクサに紛れて移動しようかと腰を浮かせた。
だがしかし……
「キュウ!」
可愛らしい鳴き声を洩らしたかと思った直後、ウサギがその場で飛び上がり、空中でくるりと一回転して、その太く長いウサギ足で一体目の二尾狼に回し蹴りを炸裂させた。
ドパンッ!
およそ蹴りが出せるとは思えない音を発生させてウサギの足が二尾狼の頭部にクリーンヒットする。
すると、
ゴギャ!
という鳴ってはいけない音を響かせながら狼の首があらぬ方向に捻じ曲がってしまった。
由良はサッと腰を下げ体制を整えるが、ハジメは腰を浮かせたまま硬直してしまう。
そうこうしている間にも、ウサギは回し蹴りの遠心力を利用して更にくるりと空中で回転すると、逆さまの状態で空中を踏みしめて地上へ隕石の如く落下し、着地寸前で縦に回転。強烈なかかと落としを着地点にいた二尾狼に炸裂させた。
ベギャ!
断末魔すら上げられずに頭部を粉砕される狼二匹目。
その頃には更に二体の二尾狼が現れて、着地した瞬間のウサギに飛びかかった。
今度こそウサギの負けかと思われた瞬間、何とウサギはウサミミで逆立ちしブレイクダンスのように足を広げたまま高速で回転をした。飛びかかっていた二尾狼二匹が竜巻のような回転蹴りに弾き飛ばされ壁に叩きつけられる。グシャという音と共に血が壁に飛び散り、ズルズルと滑り落ち動かなくなった。
最後の一匹が、グルルと唸りながらその尻尾を逆立てる。すると、その尻尾がバチバチと放電を始めた。どうやら二尾狼の固有魔法のようだ。
「グルゥア!!」
咆哮と共に電撃がウサギ目掛けて乱れ飛ぶ。
しかし、高速で迫る雷撃をウサギは華麗なステップで右に左にとかわしていく。そして電撃が途切れた瞬間、一気に踏み込み二尾狼の顎にサマーソルトキックを叩き込んだ。二尾狼は、仰け反りながら吹き飛び、グシャと音を立てて地面に叩きつけられた。二尾狼の首は、やはり折れてしまっているようだ。
蹴りウサギは、
「キュ!」
と、勝利の雄叫び? を上げ、耳をファサと前足で払った。
(う、嘘だろ…あの数を1匹で……)
(……嘘だと言ってよママン……)
乾いた笑みを浮かべながら未だ硬直が解けないハジメと由良。ヤバイなんてものじゃない。ハジメ達が散々苦労したトラウムソルジャーがまるでオモチャに見える。もしかしたら単純で単調な攻撃しかしてこなかったベヒモスよりも、余程強いかもしれない。
ハジメは、「気がつかれたら絶対に死ぬ」と、表情に焦燥を浮かべながら無意識に後退る。
それが間違いだった。
カラン
その音は洞窟内にやたらと大きく響いた。
下がった拍子に足元の小石を蹴ってしまったのだ。あまりにベタで痛恨のミスである。二人の額から冷や汗が噴き出る。小石に向けていた顔をギギギと油を差し忘れた機械のように回して蹴りウサギを確認する。
蹴りウサギは、ばっちり二人を見ていた。
赤黒いルビーのような瞳が二人を捉え細められている。ハジメは蛇に睨まれたカエルの如く硬直した。魂が全力で逃げろと警鐘をガンガン鳴らしているが体は神経が切れたように動かない。
やがて、首だけで振り返っていた蹴りウサギは体ごと二人の方を向き、足をたわめグッと力を溜める。
((来る!))
二人が本能と共に悟った瞬間、蹴りウサギの足元が爆発した。後ろに残像を引き連れながら、途轍もない速度で突撃してくる。
気がつけば二人ともお互いに反対の方向へ、全力で横っ飛びをしていた。
直後、一瞬前まで二人のいた場所に砲弾のような蹴りが突き刺ささり、地面が爆発したように抉られた。硬い地面をゴロゴロと転がりながら、尻餅をつく形で停止するハジメ。陥没した地面に青褪めながら後退る。一方、由良もゴロゴロと転がったが、いつでも来てもいいように膝をつき、蹴りウサギを見据えていた。
蹴りウサギは余裕の態度でゆらりと立ち上がり、再度、地面を爆発させながら由良には目もくれずハジメに突撃する。ハジメは咄嗟に地面を錬成して石壁を構築するも、その石壁を軽々と貫いて蹴りウサギの蹴りがハジメに炸裂した。その光景をを見ていた由良は咄嗟に走り出す。
「ハジメぇ!!」
由良の声が聞こえる。咄嗟に左腕を掲げられたのは本能のなせる業か。顔面を粉砕されることだけはなかったが、衝撃で吹き飛び、再び地面を転がった。停止する頃には激烈な痛みが左腕を襲う。そこに由良も合流するがあまりの出来事に言葉を失っていた。
「ぐぅっ――」
「ハジメ大丈夫──なっ…!?」
見ればハジメの左腕がおかしな方へ曲がりプラプラとしている。完全に粉砕されたようだ。痛みで蹲りながら必死で蹴りウサギの方を見ると、今度はあの猛烈な踏み込みはなく余裕の態度でゆったりと歩いてくる。
ハジメの気のせいでなければ、蹴りウサギの目には見下すような、あるいは嘲笑うかのような色が見える。完全に遊ばれているようだ。
由良は負傷したハジメの前で膝立ちをし、いつでも"錬成"をできるように準備をする。ハジメには、尻餅をつき由良に守られるという無様しか出来ない。
やがて、蹴りウサギが二人の目の前で止まった。地べたを這いずる虫けらを見るように見下ろす蹴りウサギ。そして、見せつけるかのように片足を大きく振りかぶった。
(ここまでか……!)
(……ここで、終わりなのかな……)
絶望が二人を襲う。意味無いと分かっていても、由良は土壁を"錬成"する。ハジメは諦めを宿した瞳で呆然と掲げられた蹴りウサギの足を見やる。その視線の先で、遂に豪風と共に致死級の蹴りが振り下ろされた。
ハジメは恐怖でギュッと目をつぶり、由良も死を覚悟する。
「「……」」
しかし、何時まで経っても予想していた衝撃は来なかった。
二人が、恐る恐る目を開けると眼前に蹴りウサギの足があった。振り下ろされたまま寸止めされているのだ。まさか、まだ遊ぶつもりなのかと更に絶望的な気分に襲われていると、奇妙なことに気がついた。よく見れば蹴りウサギがふるふると震えているのだ。
(な、何? 何を震えて……これじゃまるで怯えているみたいな……)
(こいつ、何をそんなに震えて……)
“まるで”ではなく、事実、蹴りウサギは怯えていた。二人が逃げようとしていた右の通路から現れた新たな魔物の存在に。
その魔物は巨体だった。二メートルはあるだろう巨躯に白い毛皮。例に漏れず赤黒い線が幾本も体を走っている。その姿は例えるなら熊だった。但し、足元まで伸びた太く長い腕に、三十センチはありそうな鋭い爪が三本生えているが。
その爪熊が、いつの間にか接近しており、蹴りウサギとハジメと由良を睥睨していた。辺りを静寂が包む。二人は元より蹴りウサギも硬直したまま動かない。いや、動けないのだろう。まるで、先程のハジメだ。爪熊を凝視したまま凍りついている。
「……グルルル」
と、この状況に飽きたとでも言うように、突然、爪熊が低く唸り出した。
「ッ!?」
蹴りウサギが夢から覚めたように、ビクッと一瞬震えると踵を返し脱兎の如く逃走を開始した。今まで敵を殲滅するために使用していたあの踏み込みを逃走のために全力使用する。
しかし、その試みは成功しなかった。
爪熊が、その巨体に似合わない素早さで蹴りウサギに迫り、その長い腕を使って鋭い爪を振るったからだ。蹴りウサギは流石の俊敏さでその豪風を伴う強烈な一撃を、体を捻ってかわす。
二人の目にも確かに爪熊の爪は掠りもせず、蹴りウサギはかわしきったように見えた。
しかし……
着地した蹴りウサギの体はズルと斜めにずれると、そのまま噴水のように血を吹き出しながら別々の方向へドサリと倒れた。
愕然とするハジメと由良。あんなに圧倒的な強さを誇っていた蹴りウサギが、まるで為す術もなくあっさり殺されたのだ。蹴りウサギが怯えて逃げ出した理由がよくわかった。あの爪熊は別格なのだ。蹴りウサギの、まるでカポエイラの達人のような武技を持ってしても歯が立たない化け物なのだ。
爪熊は、のしのしと悠然と蹴りウサギの死骸に歩み寄ると、その鋭い爪で死骸を突き刺しバリッボリッグチャと音を立てながら喰らってゆく。
ハジメは動けなかった。あまりの連続した恐怖に、そして蹴りウサギだったものを咀嚼しながらも鋭い瞳で二人を見ている爪熊の視線に射すくめられて。
爪熊は三口ほどで蹴りウサギを全て腹に収めると、グルッと唸りながら二人の方へ体を向けた。それも、ハジメの事を凝視し。その視線が雄弁に語る。次の食料はお前だと。
ハジメは、捕食者の目を向けられ恐慌に陥った。
「逃げろ!ハジメぇ!!!」
「うわぁああーー!!」
その視線にいち早く気づいた由良が怒号と同時に、視線を遮るように土壁を"錬成"する。
ハジメは意味もなく叫び声を上げながら折れた左腕のことも忘れて必死に立ち上がり爪熊とは反対方向に逃げ出す。
しかし、あの蹴りウサギですら逃げること叶わなかった相手からハジメが逃げられる道理などない。ゴウッと風がうなる音が聞こえると、土壁をスポンジの如く壊すのと同時に強烈な衝撃がハジメの左側面とを襲い、巨大な風圧が由良の顔の右半分を襲った。そして、そのまま壁に叩きつけられる。
「がはっ!」
「ぐあっ!?」
肺の空気が衝撃により抜け、咳き込みながら壁をズルズルと滑り崩れ落ちるハジメと由良。衝撃に揺れる視界で二人は何とか爪熊の方を見ると、爪熊は何かを咀嚼していた。
だが、一体何を咀嚼しているのだろう。蹴りウサギはさっき食べきったはずである。それにどうして、食はんでいるその腕は見覚えがあるのだろう。ハジメは理解できない事態に混乱しながら、何故かスっと軽くなった左腕を見た。正確には左腕のあった場所を……
「あ、あれ?」
ハジメは顔を引き攣らせながら、何で腕がないの? どうして血が吹き出してるの? と首を傾げる。脳が、心が、理解することを拒んでいるのだろう。しかし、そんな現実逃避いつまでも続くわけがない。ハジメの脳が夢から覚めろというように痛みをもって現実を教える。
「あ、あ、あがぁぁぁあああーーー!!!」
ハジメの絶叫が迷宮内に木霊する。ハジメの左腕は肘から先がスッパリと切断されていた。
爪熊の固有魔法が原因である。あの三本の爪は風の刃を纏っており最大三十センチ先まで伸長して対象を切断できるのだ。それを考えれば、むしろ腕一本で済んだのは僥倖だった。爪熊が遊んだのか、単にハジメの運が良かったのかはわからないが、本来なら蹴りウサギのように胴体ごと真っ二つにされていてもおかしくはなかったのだ。
ハジメの腕を咀嚼し終わった爪熊が悠然とハジメに歩み寄る。その目には蹴りウサギのような見下しの色はなく、唯ひたすら食料という認識しかないように見えた。
眼前に迫り爪熊がゆっくりハジメに前足を伸ばす。その爪で切り裂かないということは生きたまま食うつもりなのかもしれない。
「あ、あ、ぐぅうう、れ、“錬成ぇ”!」
あまりの痛みに涙と鼻水、涎で顔をベトベトに汚しながら、ハジメは右手を背後の壁に押し当て錬成を行った。ほとんど無意識の行動だった。
無能と罵られ魔法の適性も身体スペックも低いハジメの唯一の力。通常は、剣や槍、防具を加工するためだけの魔法。その天職を持つ者は例外なく鍛治職に就く。故に戦いには役立たずと言われながら、異世界人ならではの発想で騎士団員達すら驚かせる使い方を考え、クラスメイトを助けることもできた力。だからこそ、死の淵でハジメは無意識に頼り、そして、それ故に活路が開けた。
背後の壁に縦五十センチ横百二十センチ奥行二メートルの穴が空く。ハジメは爪熊の前足が届くという間一髪のところでゴロゴロ転がりながら穴の中へ体を潜り込ませた。
目の前で獲物を逃したことに怒りをあらわにする爪熊の咆哮と、未だ穴の前に立っている由良の怒鳴り声が響くのは同時だった。
「そんな所で休んでじゃねぇ!早く逃げろ馬鹿!死ぬぞ!"錬成"!」
「グゥルアアア!!」
咆哮を上げながら固有魔法を発動し、ハジメが潜り込んだ穴目掛けて爪を振るう。だが突然、爪熊の足元が陥没した為、穴に当たることは無かった。が、凄まじい破壊音を響かせながら壁がガリガリと削られていく。
「うぁあああーー! “錬成”! “錬成”! “錬成ぇ”!」
爪熊の咆哮と壁が削られる破壊音に半ばパニックになりながら少しでもあの化け物から離れようと連続して練成を行い、ハジメはどんどん奥へ進んでいく。
その姿を見届けた由良は未だ爪熊を拘束していた。ハジメが安全な所に逃げ切れるまで時間を稼ぐために。
「ハッ、お前にはオレに付き合ってもらうぜ熊野郎。ここからは、お前がオレを殺すか、オレが逃げきるかの勝負と行こうじゃねぇか」
肩で息をし、熊相手に啖呵を切る由良の顔をよく見ると、右目から血が溢れ出ている。先程、ハジメを守るために前に出た時やられた傷なのだろう。右目も潰され、既に満身創痍であった。
そんな事は関係ないと言わんばかりに、爪熊は獲物を逃がした敵を睨みつけ咆哮し固有魔法を発動させる。
「グルアァアァァア!!!」
"錬成"による拘束もお構い無しに辺り一帯になりふり構わず攻撃し出す。
頭上から落ちてくる瓦礫を気をつけながら、ハジメとは反対方向に爪熊から離れようとするが……
逃げ切る前に爪熊が拘束から抜け出してしまった。そのまま勢いよく由良の方へ突撃していく。
ベヒモス戦でのデジャブを感じながらも自分の敏捷を信じ逃げると壁までたどり着く。すぐそこまで迫っている爪熊など気にもせず、ハジメと同じ様に壁に奥行の長い空洞を開けるように"錬成"し体を転がす。
ドォォォン!
と、爪熊が壁に思いっきりあたり自身のように揺れる。だが、間一髪事なきを得たようだ。
「グゥルアアア!!」
良かった…と安心しているのも束の間、またしても獲物を逃した爪熊が咆哮し、固有魔法を再度発動して壁を抉りとっていっているのが音でもわかる。
「クソがぁ…!"錬成"!"錬成"!"錬成ぃ"!」
後ろは振り返らない。がむしゃらに錬成を繰り返す。地面をほふく前進の要領で進んでいく。既に右目の痛みのことは頭から飛んでいた。生存本能の命ずるままに助かる唯一の力を振い続ける。
どれくらいそうやって進んだのか。
由良にはわからなかったが、恐ろしい音はもう聞こえなかった。しかし、実際はそれほど進んではいないだろう。一度の錬成の効果範囲は五メートル位であるし、何より右目の出血が酷い。そう長く動けるものではないだろう。
実際、由良の意識は出血多量により既に落ちかけていた。それでも、もがくように前へ進もうとする。
しかし……
「“錬成” ……“錬成” ……“錬成” ……“れんせぇ” ……」
何度錬成しても眼前の壁に変化はない。意識よりも先に魔力が尽きたようだ。ズルリと壁に当てていた手が力尽きたように落ちる。
由良は、朦朧として今にも落ちそうな意識を何とか繋ぎ留めながらゴロリと仰向けに転がった。ボーとしながら真っ暗な天井を見つめる。この辺は緑光石が無いようで明かりもない。
何時しか由良は昔の事を思い出していた。走馬灯というやつかもしれない。保育園時代から小学生、中学生、そして高校時代。様々な思い出が駆け巡るが、最後の思い出は……夜の月明かりが照らす中、雫と2人で喋った時の楽しい時間。帰り際の彼女の美しい微笑み。
その美しい光景を最後に由良の意識は闇に呑まれていった。意識が完全に落ちる寸前、くすくすと意識に声を感じた。
それはまるで、誰かが自分を見ているような。そんな錯覚を覚えて。