扉を開けたお兄ちゃんだけど、突然転んだ。まるで見えない何かに押し出されたような不自然な格好で扉の先に吸い込まれていった。それだけにとどまらず、お兄ちゃんの姿が『消えた』。
「……っ!」
イレリアさんはすぐお兄ちゃんを追いかけて入って行っちゃうし、リヴェンさんとソラカさんも扉の中に押し出されてあっという間にわたし一人になった。
「きゃっ!」
そのとき背後から押されて躓いた。もう誰もいないはずの場所から。
転んで立ち上がると、そこにはおかしい風景が広がっていた。
***
真っ白で不自然なほどなにもない場所。目の前にただひとつ存在するものに必然と目が行く。そこにいたのはボロボロの服を着た少女。その姿は、わたしによく似ていた。
「あなたは誰」
「わたしは、あなただよ」
「ありえない」
反射的に否定したわたしに、彼女は疑問を投げかけた。
「どうして……わたしがみすぼらしいから?」
女は目に涙を浮かべた。心が動かされなかったのはその振る舞いが偽物だとわかっているからか。
「そうかもね」
女の身体をかろうじて覆うぼろきれが落ちそうになり、彼女は慌てて胸元を押さえる。露出することはなかったが、こうして見ると膨らみが薄いことがよくわかる。それはわたしもそうなのだけれど。おっきい人が羨ましい……ってそれはひとまず置いておいて。
「ねえ、わたしがあなただって認めないって、あなたは言ったよね。わたしの言葉は『嘘』なのかな?」
……認めたくないのに。それが嘘じゃないとわかってしまう。
わたしの姿をした女が指を立てるとそこから真っ白だった背景が鮮やかに色づく。
気が付けば「もう一人のわたし」はその場から消えていた。
***
ピンク色の花びらが木から舞い落ちる。
「桜。綺麗だ」
聞こえた声に違和感を覚える。
イレリアさん? わたしの知る姿よりずっと幼くて優しげなその人はしなやかな腕を伸ばし花びらを手に取ろうとしていた。
「綺麗ですね」
反応はない。無視された?
「……聞こえてますか」
わたしに目もくれず独り言を呟いている。嫌いだからって無視しないでほしいな。
目の前に回り込むけど彼女は相変わらずわたしに反応しない。それどころか気づいていない様子で手を伸ばし花を取ろうとする。
避けようとしたら間に合わなくて思わず目をつぶる。ぶつからなかった、そう感じて目を開けるとイレリアさんの手はわたしをすり抜けていた。
不思議なほど痛みはない。数歩後ろに下がると、空中に手を伸ばし続けるイレリアさんの手があった。まるでわたしに肉体がないみたい。
しばらくイレリアさんを見ていると、遠くから何人かが来た。
イレリアさんは笑ってその人たちと話している。どうやらそれは彼女の家族で、少し話を聞くだけでイレリアさんが家族を愛していることは嫌でも伝わってきた。 出かけるのが楽しみだと無邪気な笑顔を向けている。今の彼女からは想像できない純粋さで。
家族愛なんてもの、わたしには最初からなかった。お兄ちゃん? あれは幻を家族だといって繋ぎとめてるだけ。わたしの本当の家族は、わたしのことなんか愛していなかった。
そしてわたしは、彼らの会話からある事に気づいてしまう。
「……ねえ、その人。誰?」
これはただの幻覚? それとも実際に起こった過去? 後者だったら彼女は何を見ている?
問いかけても答えはない。だってここは幻覚。誰もわたしなんて見えない。
だけど、あまりに驚いてしまったの。
イレリアさんの記憶の中でゼロスと呼ばれたその人が、明らかにお兄ちゃんじゃなかったから。
***
家族を殺された怒りと悲しみは理解できる。
彼女が舞う度に敵の首が切り落とされていくのは芸術的ですらあった。わたしは世界から干渉できない、干渉されないものとしてそれを観察していた。誰もわたしに気づかないし、剣を受けてもわたしには傷一つない。
斧を振りかぶってイレリアさんに突撃を試みた大男はあっけなく死んだ。どうやらあれがリーダーだったようで場には混乱が走る。
ノクサス軍の悲鳴とか、アイオニアの民の歓声とか、およそ声と呼ばれるものすべてがわたしの耳を荒らす。嘘をつく余裕なんてなかった。
また視界が切り替わる。
時々妙に敵側を擁護してしまうのはわたしがノクサス人だからなのだろうか。
命乞いをする人と、それを冷酷な目で見ているイレリアさん。
「何でもするから命だけは見逃してくれ」
その切実さはまるで昔のわたしのようだった。
「信じられるか」
イレリアさんはそうやって男の首を切り捨てた。
「あっ」
わたしの声は届かない。
何でもするって言ってたのにね。
***
景色が空虚な白に戻ってくる。
「知ってた? 人間ってあなたが思ってるよりずっと騙されやすいんだよ」
もう一人のわたしがそこにいた。
「そうだね」
「あなたは人を疑うことも信じることもできない。そうでしょう?」
「ねえ、ソフィア・ミュラトール。彼を救って嫌われたその後はどうするの」
「……」
「ふーん、考えないようにしてるんだ」
「別に」
「図星じゃないの。わたしを騙せると思わない方がいいよ」
彼女は続ける。
「あなたは『優しくておしとやかな理想の女性』なんかじゃないわ。洗脳されているのをいいように利用する、そんなもの愛であるはずがない」
その言葉は、嘘じゃなかった。偽りに縋ることすらわたしには許されていない。
彼女は笑って髪をかきあげる。それから、冷たい目でわたしを見つめた。
「イレリアさんの方がよほど彼を愛してる。あなたも気づいているでしょう?」
「……それは」
やめて。現実をつきつけないでよ。
「お兄ちゃんは愛せないみたいだけど、それも、もうすぐ終わるでしょうね」
もう一人のわたしは見下した顔で問いかける。
「ねえソフィア。彼に嫌われたあなたに生きる意味なんてあるのかしら?」
断言はできなかった。ひょっとしたら嘘かもしれないという言葉を、彼女に向かって差し出すことはできない。
それは嘘だと言われることが怖いから。でもそれ以上に嘘が見破られない事の方が怖かった。
彼女(わたし)にひとつでも通用したら、わたしの根幹を揺るがしてしまう。
「怖いよ」
生きる意味なんて考えたことなかった。私に何か価値なんてあるのかな。
「そう」
「本当は、すごく怖い。お兄ちゃんに嫌われるくらいならこのまま攫ってどこかに行ってしまいたい」
「だったら今からでも彼を攫って逃げてしまう?」
「……わたし、お兄ちゃんに嫌われたくない。それは事実」
その時、偽物の背後に黒髪の影が見えた。彼女が舞い踊ると同時にその周りを浮かぶ刃は統率された動きでわたしたちを斬りつけようとした。
試みただけ。影は届く前に消えてしまった。
偽物は気づかないままこちらを見ている。
わたしはひとつ深呼吸をしてから、はっきりと答えた。
「でも、お兄ちゃんが死んじゃうのはもっと嫌」
彼女の目を見ながら、わたしは言葉を続ける。
「嫌われたらその時はまたひとりで生きていくわ。今までだってそうしてきたもの。武器は振るえなくても騙されないことはできる」
この力だけが、わたしに与えられたすべて。
彼女が少しだけ笑ったように見えた。
「だったら勝手にしなさい」
『わたし』はあっさりそう言うと、跡形もなくその場から消えてしまった。