「えっと、どちら様かな……?」
一日に三度のダンジョン突入というハードワークを終え、ギルドで起きた騒ぎについてはまた今度とアドバイザーを言いくるめて這う這うの体でついた帰路。
かなり久しぶりに地上に戻ってきた気分になるのはそれだけ疲れているということだろう。神様の恩恵によって常識外れの身体能力を手に入れても疲労そのものがなくなったりはしない。
今日ばかりはソファを独占させてもらおうと疲れた身体を引きずってホームに辿り着いた俺を出迎えたのは困惑した顔の主神、ヘスティア様。
いつもの服は現在、オラリオの防具屋に預けてクリーニングしてもらっている。防具と同じ扱いで洗浄を行ってくれるとのこと。汚れが汚れなのでちょっと時間はかかるがしっかり綺麗になるそうだ。お値段はそれなり。
汚れこそすれど破れもほつれもしないあたり、あのドレスもこちらで言う特殊武装のようなものなのかもしれない。
預けに行くにも受け取りに行くにもその間の生活にも別の服が必要になるのに、それを用意していないことに気づいたのはシャワー室に入った後だった。調達する暇もなかったのでアシストカードで無難に間に合わせの服を出そうと思ったのだが、ドレスコードがあるんじゃないだろうかと不安になったため急遽品の良さそうな衣装を選ぶに至った。
【静かなる星のドレス】と【赤き女王のショール】でなんとなく正装っぽい感じに整え、服と一緒にブーツも洗浄に出すので代わりとして【白き影のダークブーツ】を装備。履物には他に【思い出のガラス靴】なんてものもあったがいざという時に走り回れるよう最低限の武装として選んでおいた。
いかついブーツのなんちゃって御令嬢ファッションだったがそもそも店側が普通の服にエプロンだったのでそんなに気合を入れる必要はなかった。あの時の俺は疲労で正常な思考が出来なくなっていたに違いない。
証文を用意すれば後払いにできるというシステムがなければ血塗れの衣服一式を持ち歩かなければならなかったので懐事情的にも精神的にもかなり助かった。
煌びやかなドレスを着て街を出たことへの疲労感と謎の達成感に包まれながら帰宅を果たした俺に投げかけられたのが冒頭の神様の発言だった。
「私だよ、アリス。アリスの影」
自分の名前ではなくアリスと即座に答えられるようになったあたり、この身体にもすっかり慣れたものだ。証文のサインにも迷うことなく無駄に丸っこい字でアリスと書き込めた。
なんなら杖を出してポーズも取るぞ。ただいま神様。
「おぉ……そのなんかあざといけど謎が残る自己紹介はボクの知ってるアリス君だ……いやさ、なんというかだ!とりあえず正座!」
「夜中にダンジョンに行ったベルを追いかけて、怪我したベルを連れて帰って、ついでにひと暴れ。ギルドで騒ぎに巻き込まれて今帰ったよ」
「要点を押さえた説明をどうも!正座ァ!」
神様が正座なんてものを知ってることに驚くべきか正座ってなぁにとしらばっくれるか。とりあえず神様を宥めて事の経緯を……俺が勝手に話してしまうのは気分のいいものではないか。
ベルが自分から話せるようになるまで神様には内緒だ。そんな日が来るかどうかわからないが。
「まずはその服!ウチにそんな高そうなドレスを買う余裕なんてあったのかい!?」
「神様もご存知の御伽図書館から引っ張ってきたよ。似合う?」
「どっかのお姫様かと思ったくらいにはね!」
ベルが入団する以前のこと、ソロでダンジョンに潜ることに難色を示していた神様を説得するためアシストカードの存在を教えている。その際にこの世界の人間ではないこともぶっちゃけたのだが、嘘でないことがわかるせいで理解が追い付かないという顔をしていた。
杖と同じように何もないところから呼び出せる豪華な装丁の分厚い本を開くことでゲームと同じ感覚でアシストカードを編集出来るのだが、その際に俺の意識はゲームにおけるライブラリの画面内に似た場所に飛ばされる。
空っぽのクローゼットに木製のテーブルと椅子が一つずつ、ドアノブに『W』と刻印された扉。扉を抜けた先に本棚が延々と並ぶ異空間が広がり、どれだけ奥に進んでも行き止まりはない。しかし振り返ればすぐに扉が現れる。
編集の様子を傍から見ていた神様曰く、でっかい本を開いたまま動かなくなり呼びかけても肩を揺すっても一切反応しなくなったとのこと。
「特殊な事情を抱えているのはわかってる!急ぎたい気持ちもわかる!その足を引っ張るようなことをする気はないし、したくないし、言うつもりもない!」
怒髪天を衝くという表現を物理的に体現するかのように気勢を上げる神様だったが、ふとその顔から強張りが抜けたかと思うとくしゃりと表情を歪めた。
今にも泣いてしまいそうに見えるそれはおそらく心配とか不安とか、そういう感情から来るもので。
「君は確かに強い子だ。Lv.1で魔法が二つ、よくわかんないアビリティもスキルもある。ちょっとやそっとのことでどうにかなったりはしないだろう。そのへんはボクだって信用してる。猫みたいに気分屋なところだって可愛いさ。でも、だけどだ。心配しないってわけじゃないんだよ」
神様は心底から俺やベルのことを心配してくれているのだ。俺達を案じているからこそ怒り、たぶん泣いたりもするんだろう。
変神揃いのオラリオにおいて他に類を見ないほどの神格者。ちょっとばかり世間知らずっぽいところも見受けられるが、それだってこのヒトの魅力であるとさえ思える。
それでもたぶん、俺はまた神様を怒らせてしまうだろう。
求めるものも住む世界も違っていて、持っている時間も違う。申し訳ないとは思いながらも行動を改めることは、きっとない。
……昨夜からの件に関しては言い訳のしようもないが。ベルに情状酌量の余地はあっても俺の行動はただの暴走でしかない。こればかりは反省。
「今日明日とダンジョンは禁止!しっかり身体を休めるように!いいね!?」
再び気勢を取り戻した神様の鬼気迫る表情と明らかに重力を無視してうねるツインテールに気圧され思わずうなずく。よしっ、と怒気を払った神様は途端に眠気に襲われたように眦を下げた。
満身創痍のベルを夜通し介抱してくれていたのだ。ただの人間程度にまで力を抑えている神様にとっては重労働だったろう。
「とにかくひと眠りすること。ボクもちょっと休ませてもらうよ」
ポーション使い切っちゃってごめんよーという消え入るような声と共にソファに倒れ込もうとしたのでじわっと軌道修正してベッドに沈めておいた。ちょっと狭いかもしれないがベルの隣なら文句はないだろう。
備蓄の棚を見ればポーションの他に包帯やガーゼなどの医薬品もそこそこ減っている。補充しておかないと、と脳内買い物リストにメモしてソファに身を投げた。
食料も減っているのでそれも買い出しに行かなければ。二日もあれば装備の洗浄は終わるらしいのでそれまでに現金の用意も必要だ。
忙しさを言い訳にするつもりはないが面倒ごとが向こうからやってくるのはどうしようもない。俺を目の敵にして襲ってくる連中の対策は何一つだって進んでいない。
身を守れるよう強くなって、金を稼いで、ベルを鍛えて。やるべきことはいっぱいだ。
不意に、帰らなければという焦燥が薄れていたことに気づく。気づいて、そのまま意識はソファに投げ出した身体と一緒に眠りに沈んでいく。
帰り方がわからないまま続くタイムリミットとの手緩い鬼ごっこ。思いのほか心は波立たなかった。
◇ ◇ ◇
例えば現代日本でどんな童話を知っているかという問いかけをしたとして。
真っ先に挙げられるのは「シンデレラ」や「白雪姫」といったハッピーエンドの物語だろうか。あるいは、「マッチ売りの少女」や「人魚姫」のような物悲しさを抱えた物語だろうか。
そもそも童話なんてよく知らない、なんて答えも少なくないかもしれない。俺も「不思議の国のアリス」に続編があるだなんて知りもしなかった。
閑話休題。深く寝入ったベルと神様を起こさないようにホームを抜け出した俺は、とある協力者との待ち合わせ場所へと向かった。
指定しておいたのはベル及び俺が暴走した件の発端となった店だ。昼と夜とで営業形態を変えているらしく夜は酒と食事を提供する冒険者向け、昼の間はカフェっぽいメニューで女性客を集めている。
冒険者がほとんどいないという状況は悪だくみするのに都合がいい。例の件のせいでお店への心証があまりよろしくない点にさえ目を瞑ればこれ以上ない場所だ。店側に責任は全くないのだが、こびりついたイメージはなかなか拭えない。
一人がけのテーブルに誘導する店員の案内をやんわりと断り、目的の人物が待っていたテーブルへ。何を言うでもなく注文していたらしいクッキーを勝手にかじっていると対面からしっとりとした苦笑が漏れ聞こえてきた。
「どうも、ご機嫌斜めのようだねぇ」
協力者の名前はハンス。『童話の渡り人 ハンス』という、ギディと同じソウルカードの一人だ。
仕立ての良さそうなスーツに、桃色がかった紅の髪と同色のシャツ。羽飾りのついた帽子はジャケットと一緒に椅子にかけられ、モノクルは外してベストの胸元に収まっている。
ミステリアスな雰囲気と端整な容姿で女性客の注目を集めていたこの青年は名前の示す通り、アンデルセン童話で有名な作者「ハンス・クリスチャン・アンデルセン」その人……ではない。
魔法で姿を変えハンスの名を借りた、全くの別人だ。
「一応聞いてみるけど、お金持ってるの?」
「ちょっとした臨時収入があったのさ。知ってるかい?この世界では火を熾せば財布が落ちてくるようだよ」
「……変な人に絡まれたのはよくわかった」
町を荒らすネズミを一匹残らず消し去り、しかし約束の報酬が与えられなかったがために報復として町に住む子供達を連れ去った。童話として語られながら歴史にも残る異端の存在。
マグス・クラウン。プレイアブルキャラクターでありながら名と姿を変えてアシストカードにも存在するという、ゲームにおいても変わり種だ。
笛吹き男の素性についてはいくつかの説が存在する。子供達を奪い去った悪魔、戦へと向かう先導者、開拓者達のリーダー。
どれが真実だったしても、男は称賛の対象になることはない。旅立った人間は二度とは帰らなかったがために。
……といった具合に不穏な出自を持つ男だが、そこはさして問題にはならない。史実の笛吹き男がどうであれ、目の前にいるハンスは俺の仲間だ。
「……それで、首尾はどう?」
「まずまず、といったところかな」
対策を立てようにも、襲い掛かってくる連中について俺は何も知らなさ過ぎた。情報収集をしようにも敵視、警戒されている俺ではうまくいかず、かと言ってベルに頼むには人の好さが仇となってこういう作業には向いていない。そもそも俺にまつわる諸々の事情を教えていないし教えるつもりもないのでこの件でベルを頼ることは端から考えていない。どうするかと頭を捻った俺が絞り出した答えはソウルカードを頼ることだった。
差し当たって頼んでいるのは俺を目の敵にしている連中の所属ファミリアやホームの場所、人数、戦力の調査。ゆくゆくは彼らの主神についての調査も頼むつもりだが、いつまでも頼り続けるわけにもいかない。
アシストカードとしてのハンスは強化値が高いとはお世辞にも言えず、条件を満たせば発動する特殊効果もこの世界では役に立つものではない。情報収集に一区切りついたら一旦お別れになるだろう。
「ホームの場所はあとで教えるけど周りには隠してるから、気づかれないようにね」
「殺伐としたものだねぇ。せっかく可愛らしい顔になってるんだ、少しくらい楽しんでみたらどうだい?」
クッキーを摘む姿にさえ漂う妙な色気を台無しにする色男の提案はともかくとして、発言内容そのものは聞き流せなかった。
無駄に着飾った今の恰好に言及するならともかく顔と限定したのは。
「マグスは私の本当の姿を知ってて言ってる?」
「今の僕はハンスだよ。……そうだな、マスターが男であるということは知っているよ。顔や声はわからないな。ついでに言うと名前もだ」
「そっか。じゃあ変態って呼んでいい?」
「……可愛い顔で何を言い出すんだ君は」
中身が男性と知っていて少女の姿を楽しむのはどうかと提案する男は変態と呼ばれても仕方ないだろうに。
「腕組んで歩いてあげようか?エスコートのお願いされたら嬉しい?」
「仮に僕が頷いたらどうするつもりだい?」
「舌を噛むと思う」
実際に舌は噛まないまでも大量の苦虫を噛み潰したような顔はすると思う。
突飛な発言にも苦笑するだけで流しつつ俺の分の飲み物を注文するマグス……今はハンスか、その姿はなんとも紳士的。男から見ても舌を巻く格好良さだ。さっきの発言さえなければ完璧なのに。
「一緒に動くことはたぶんないから、何かあっても守ってあげられない。無茶は禁物だよ」
「心配ご無用。マッチを擦って脅かすくらいのことはできるさ」
「……それはとても頼もしい」
心配したところでフォローに回れない以上、気を揉むだけ無駄か。とにかくマグスの……いやハンスか、えぇいややこしい。まずまず、という情報収集の結果について教えてもらおう。
まずは、先日のボウガン男について。
◇ ◇ ◇
「クソ、クソッ!あのガキが!」
オラリオの一角、歓楽街にほど近い酒場で酒を呷る男は空の酒瓶をカウンターに叩きつけた。
いけ好かない冒険者に一泡吹かせてやろうと集まった同志は先日の襲撃の折に自身を除いた実行役が行方不明になり、協力者も恐れをなしてか手を引いてしまった。足がつくのを避けているのか、連絡を取ることもできない。
「あぁクソ、腹が立つ!俺をコケにしやがって!」
「いつまでそこで愚痴ってんだやかましい。客が逃げるだろうが」
「俺が客だろうが!黙って酒を出せ!」
「出してやるから金払え酔っ払い」
「クソ、俺を見下しやがって……!」
襲撃は失敗に終わった上に、想定外のミノタウロスと遭遇してしまった。絶体絶命の状況を救ったのはあろうことか【
殺すつもりで襲った相手に助けられ、しかも相手はそれを毛ほども気にしていない。襲撃から幾日が経過しても男は平静ではいられなかった。
「そこまで【闇猫】とやらが憎いもんかねぇ。お前、なんにもされてねぇじゃねぇの」
「……俺を嗤いやがった!ギルドの前で、わざわざ俺に見えるように立ってやがった!」
何事かを呟き、人混みに紛れた次の瞬間には姿を消した。それ以降、何をしていても嘲笑するような【闇猫】の姿がちらついて仕方ない。
改めて襲撃の計画を立てるための金策も仲間集めも上手くいかず、挙句の果てに慣れていたはずの上層探索で負傷し療養を強いられている。所属ファミリアの人員からは白い目で見られ、享楽的でとても真面目とは言い難い主神にすらも苦言を呈される始末。
かさむばかりの出費にゼロに近い収入。酒で苛立ちをごまかす日々を送る男の懐はかつてないほど困窮していた。
「知らねえ仲じゃねぇからよ、あと一杯は出してやる。それ飲んだら今日は帰れ」
「奢る余裕なんかあるのかよ、こんなちっせぇ店に」
「誰が奢るっつった貧乏ったれ。後で払えってんだバカヤロウ」
安価で酒を提供する店主の店に集うのはやはり低位の冒険者。歓楽街の近くに店を構えたのはせめて雰囲気でもと訪れた冒険者たちの財布の紐が緩むのを狙ってのことだという。
情けの一杯を待つ間に店内を見やること数秒、男は酒の並べられた棚に貼りつく違和感に気づいた。
酒瓶を隙間を縫うかのように小さな存在感を主張する紙切れはちょうど男の目線の高さにあった。
「おいおい、アンタんとこもやられてんのか」
「あぁ?なにが……ってなんじゃこりゃ」
「流行ってんのか知らねぇがここんとこよく見るぜ」
方々で見かける筆跡だけは無駄に整ったいたずら書き。意味ありげに書かれた言葉はしかし、日々モンスターと戦う冒険者やその荒くれを相手取るオラリオの住人が気に留めることはなかった。
男がそれを覚えていたのは何度も目にしていたからだった。
「ガキでも雇ったか?」
「バカ野郎。こんなとこで子供が働いてみろ。マトモな人間にならん」
「そもそもこんな街にマトモな奴なんかいるのか……おい、こんだけかよ?半分も入ってねぇぞ」
「酒代を稼いでもらわんとな。深酒されちゃ困る」
「怪我人に働けってんのかよ」
「そんだけ文句吐けりゃ問題ねぇだろうよ。さっさと飲んで帰って寝ろ。そんで稼いで金持ってこい」
「ケチなおっさんだぜ。ったく……」
急き立てられるように酒を飲み干し、男は席を立った。帰り道すがら、なんとはなしに思い返すのは小さな紙切れについて。
一枚目を見つけたときは次の日には忘れてしまっていた。二度三度見つけてからようやく頭の片隅に残るようになった。
装備や食糧の調達に利用する店で見かけるようになり、気味の悪いいたずらが流行っているものだと記憶の端にこびりついた。取り立てて意識していたわけでもないのに、何度も目にしていると出かける度に気にかかるようになってしまった。
「俺を狙うみてぇにちょこちょこ出てきやがっ……て…………?」
ふとした拍子に浮かんだ疑念を養分に芽吹く不安の種。鼻で笑い飛ばしたい冗談が孕む、それが真実である可能性。
あの紙切れを見かけるようになったのはいつからだったろうか。今日だけでなく、どの店でも一番最初に気づくのは自分だった。それは果たして偶然だったのか。
手に取った矢束、携帯食料の詰まった箱、それなりに賑わう酒場のカウンターの端。
そうなるように仕組んでいたとでもいうのか。マジックアイテムでもなんでもない、ただの言葉が書かれただけの紙切れ程度のために。
「そんなことできるはずが……」
オラリオでは数少ない弓やボウガンなど遠距離武器の扱いに重きを置く武器屋。
遠征の度にファミリアごと世話になり、個人的な利用もあるためそこそこ以上に付き合いのある道具屋。
低位の冒険者であった店主が営む安値で良質の酒が飲める酒場。カウンター端の席は半ば指定席と化しているほど。
どれも常連客と言っていいほど男が利用している店だった。
一度だけなら偶然だったと片づけられる。それが何度も狙って繰り返されたものだったなら、悠長に構えていられらない。行動範囲が絞られてしまえばいずれホームにまで辿り着いてしまう。あの薄気味悪い紙切れは自分に向けたメッセージだったのだと、呻くような呟きと共に理解する。
同時にそれを疑う。はたしてそんなことが可能なのかと。
「……偶然だ。俺を見張ってでもいねぇ限りはそんなことは」
出来るはずがない。そう続けようとして、言葉が詰まった。
唐突に脳裏に蘇る、人混みに消えていく【闇猫】の姿。
見張っていない限りできるはずがない。つまり、見張ってさえいれば。
(そうだ、そうだった!あいつを見てからだ!あの紙切れを見るようになったのは!)
たまらず、男は走り出した。
噴出する感情がなんなのか努めて理解しないように、ぴったりとついてくる自分の影から逃げるように。
足を縺れさせながらもたどり着いたホームには呆れ顔の仲間が待っていたがそれに反応する余裕はなかった。小言も制止も振り切って自室に飛び込み、叩きつけるようにドアを閉める。自分の影すらも締め出すかのように。
四方の壁と、他派閥のホームに無断で踏み入ることはできないという常識は男に安堵のため息をつかせた。内側から胸を叩く心臓も少しずつ落ち着きを取り戻していく。
飲み損ねた分を補うように、自室の作業台に隠した酒瓶を引きずり出す。仲間や主神にバレないように隠しておいた少しばかり上等な酒だった。
鬱屈とした気分を振り払うために瓶に直接口をつけ一口、二口と流し込む。
「……あ?」
視界の端で紙切れが揺れるのが見え、思わず目で追う。瓶に貼りついていた紙切れが傾けた拍子に落ちたらしい。射手として鍛えた目は描かれていた絵を宙に舞う間に見ることができた。
それは幼子が描いたように不細工な、胴体が雑に塗り潰された牛の絵。否が応でも、魔法で無残に両断されたミノタウロスを思い起こさせる絵だった。
こんなものがどうして仲間にも知られていない酒の隠し場所から出てくるのかなど、もはや考えるまでもない。
ホームの場所を突き止められている。ファミリアの面々はおそらく侵入されたことに誰も気づいていない。自分の部屋もバレていて、あまつさえ仲間すら知らない酒の隠し場所も。
四方を囲む壁は自らを守る防壁などではなく、哀れな獲物を閉じ込める袋小路でしかなかった。
破り捨てようと手を伸ばす男を嘲笑うかのように紙切れはひらひらと手をすり抜け、残虐な絵を伏せるようにして床に落ちる。
黒いインクの腸をこぼす牛。その裏面に当然と言わんばかりに踊る、筆跡だけは無駄に整ったいたずら書き。
抑えきれなくなった恐怖に引き攣る咽喉は空気を漏らすばかりで悲鳴の一つもあげられない。
同じものだったと、遅まきながら男は気づいた。
繰り返し見せつけられた言葉と、人混みに消える直前に紡がれた薄笑みに乗せた唇の動き。
『 み い つ け た 』
【闇猫】は最初から、獲物を捉えて嗤っていた。
◇ ◇ ◇
「なんだいマスター、呑気にお絵かきかい?いよいよ子供らしくなってきたね」
「嫌がらせの下準備。猫でも描けば伝わりやすいかなって」
「猫?これが?牛じゃなくて?」
「猫だけど」
「……全部の紙に描いていくのは止した方がいいと僕は思うな」
「そう?でもせっかく描いたからこれは使うよ」
「……まぁ、嫌がらせには変わりないか」
ねこはもうきみをみつけています。よろしくおねがいします。
というお話。
・ワンダー知らない方向け作中補足および小ネタ
『マグス・クラウン』
「ハーメルンの笛吹き男」の伝承を出自に持つ長射程高速ファイター。
癖の強いバフ、デバフスキルで間接的に戦局を傾けていく厄介な道化師。
スキルに自身を強化する効果がなく、ショット性能も癖が強いので軽い気持ちで使うと泣きを見る。味方の優位を作り自身もそれに乗って勝ちを掴む、というのが大まかなキャラクターコンセプト。マグス本人の戦闘能力は高くはないため、主人公に心配されていました。
『マッチを擦ってうんぬん~』
ワンダーには「マッチ売りの少女」を出自に持つキャラクターが二人存在する。原作版の「ミクサ」とお金持ちに拾われて幸せになるアメリカ版の「リン」の二人。作中のハンスのセリフは二人を意識したものでした。
ダウナー少女なミクサと「燃えもえお嬢様(公式称号)」なリン、と対称的な二人だが「それマッチに出せる火力じゃなくない?」という勢いで戦場を焼き払うのは共通するところ。
・余談
マッチング待機中に見られるストーリーTIPSの一つ、「禁書指定ヴィラン 『フロスティ』」においてミクサは「輪郭もぼやけるほどの吹雪の中、木々を押し分けるように姿を現す怪物に火をたなびかせながらたった一人で立ち向かう後ろ姿」という最高にイケメンな姿が描かれている。
・ワンダー知らない方および知ってるけど細かい設定は気にしたことない方向け捕足
ソウルカード『童話の渡り人 ハンス』はプレイアブルキャラクター『マグス・クラウン』が魔法で変身した姿という設定です。設定があるだけでゲームに影響はありません。マグスがハンスを装備することも可能です。