一夏くん、強くなろうか。 作:妙見
いきなり掛けられた嘲りを含んだ言葉。振り返ると柔和な表情の老人が杖を片手に座っていた。何処と無く福の神を思わせるにこやかな色を含んだ顔からあの様な嘲罵が出てくるとは到底思えなかった。
一夏は唐突な心なき言葉に反射的に振り向いたが、そこに待ち構えていた微笑を湛えた老人の顔のギャップに言葉を失った。果たしてこのおじいさんが本当に先程の言葉を言ったのだろうか。
「聞こえなかったのか?その鍛え方では強くはなれぬと言うておるのだ」
──やはりこのおじいさんだ!
一夏はムッとして老人を睨みつけた。虫の居所が悪かったというのもあるが、よくよく老人を見ると、全体的に小太りでスポーツの類から縁を切って久しい様な雰囲気を纏っており、よくある「自らの全盛期を忘れられずにあれこれ好き勝手物申す老害」と考えたからだ。
「ほう、最低限の反骨心は持ち合わせておるようだ喃」
からからと嗤った老人は杖をついて立ち上がった。
「お主、『この老害めが、お前に俺の何が解る』と思っておるだろう?」
「うぐ!?」
まさに図星を衝かれた。一夏は渋い表情を浮かべ、気まずそうに目をそらした。
「まあ半分は当たっとる。この老骨は十年前と比べれば大いに衰えた。だがな、それでもお前よりかはだいぶ強い」
フフン、と得意げな表情を見せる老人に対して、一夏も買い言葉を投げかけた。
「へぇ、じゃあ試してみましょうか?俺、まだまだやれますよ?若いんで」
空元気を見せつけるように竹刀を軽く振ってみせると、老人は笑みを深めた。
「良かろう、一手指南してやる」
線香の煙が立ち上るようにゆらりと立ち上がった老人は、手にしていた杖を剣のように構えた。一夏は剣道の所作に従って青眼の構え。老人は真上に構えた八双で迎える。
「ふむ、中途半端だが基礎を学んでおる喃。時に小僧、ぬしゃ何流を学んだ?」
「……篠ノ之流」
「篠ノ之ぉ?柳韻んとこでかじった小僧か!奴め、つまらん仕上げをしたもんじゃなぁ」
自らに加え、師にさえも向けられた隠す気もない嘲りを受け、今度こそ一夏は憤激した。
「さっきから言いたい放題言って、貴方は一体何なんですか!?」
「只の剣術やっとったジジイだ。ただし、お前より遥かに強いがな」
「自慢はもうたくさんだ!!怪我しても知らないからな!?」
一夏は裂帛の気合と共に老人に真っ向から唐竹割りを繰り出した。しかし、微塵になれとばかりに振り下ろされた竹刀は、一夏の手を離れて地面に張り付くように落下した。そして、数瞬して喉元に杖の先端が突きつけられていた。
「
何の感情もこもらぬ老人のしわがれ声が響いた。漸く一夏は手から竹刀を叩き落とされたことに気付いたのだ。慌てて竹刀を手に取ると、老人はそうでなくてはとばかりに挑発的な笑みを深め、杖を脇に構えた。一夏は油断せぬように頭を冷やし、正眼に構えて面打ちを狙った。
しかし、この一手もまた敢え無く逆袈裟で以て籠手を打たれた。竹刀が宙を舞って老人の手に収まる。得物を取られた一夏は呆然と立ち尽くした。
「如何」
またもや同じ言葉が返ってくる。最早一夏は泣く寸前であった。──理不尽。そう理不尽の塊に等しき存在が眼前で嗤っていたからだ。
「お前さん、がむしゃらにやっとるようだが何をそんなに焦っておるのだ」
老人がふと思い出したように言葉を投げかけた。一夏は自らに起きた不運と、その出来事から芽生えた決意を話した。老人は難しそうに表情を歪めると、口を開いた。
「お前さん、強くなってどうするんだ?」
「決まってる、誰も傷つかないように皆を守るんだ、守れるような男になるんだ!!」
「そこがおかしい」
一夏の言葉を遮るように、老人は杖を一夏の喉元に突きつけた。
「『皆を守る』とか言っておるが、具体的にどうしたいのだ?」
「それは……体を鍛えて」
「敵を叩きのめす?」
「そ、そうそう、そういう事を……」
「だったら警察官になるために勉強をすればいい。こんなところで剣なぞ振らんでも警察学校に入れば嫌でも振るうことになるんじゃないか?」
「それじゃあ遅い……」
「どの道相手を必要以上に傷つけたらお前さん前科者になるぞ?敬愛する姉のさらなる負担になるとは思わないのか」
「だったら手加減できるくらい……」
「そうやって手心を加えて逃した相手に殺されたやつは大勢いるぞ?」
老人は一夏の夢をやんわりと、しかし確実に否定していた。憎悪、嫌悪、敵意。それらが絡み合ってきたものはけして甘い世界ではない。
「元々武士道とか剣の道なるものは全てが邪道だ。敵を討ち斃す事に森羅万象を利用し、之を実行する軍略であった兵法に、時の権力者が天下泰平の世に合わせて都合の良いように禅宗や朝鮮から渡ってきた儒教などと練り合わせたものが今日の武士道と呼ばれるものなのだ」
「剣道も……?」
恐る恐る口を開いた一夏に対して、老人は憎悪と嘲弄をありありと含んだ様相で頷いた。
「うむ、あれなど汚れの粋を極めたものと言えよう。もとより兵法などそれでしか食えぬものが進む酔狂の道だ。それをやれ鍛錬だ、正々堂々だ、礼節だなどと。反吐が出る思いだ」
「取り消せ!!」
老人の声をかき消すように一夏は叫んだ。老人の顔に僅かな笑みが宿る。
「取り消せよ、千冬姉や箒が学んできた剣はあんたのような人が否定していいものじゃねえ!!」
「ならば兵法者らしく儂を否定してみせろ!!」
老人の手から竹刀が放られ、一夏の手に戻る。一夏は受け取ると、そのまま老人へと打ち込み始める。先ほどとは見違えるような剣の冴えに、老人は一瞬呆けるが、直ぐに杖でいなした。
「うおおおおおおぉぉぉ!!」
「大戯けが!」
老人はそのまま杖を振り抜いて一夏の左籠手、面を打った。防具など無い素面素篭手である分痛みや衝撃も凄まじく、左腕と左頬に赤紫色の痣を滲ませながらうずくまる一夏。
「どうだえ?ん?」
しゃがれた嘲笑の前に蹲るしか無い己の有様が情けなかった。老人はそんな一夏のリアクションに不満が残るのか、杖で頭を押さえつけた。
「ほれ、お前さんは強いのだろう?何処の誰かは知らんが『みんな』とやらを守るのであろう?ならばこんな枯れ木の様な年寄り相手にいつまでも戯れるでないワ。ん?」
──ふざけるな。と、一夏は思った。眼前の老人は自らのことを枯れ木と称していたが、その四肢から発揮される力は一夏の知るあらゆるものを凌駕していた。事実、その手に握られた杖による一撃は、未だ少年の腕に痺れを刻み込んだままだ。
──ひょっとして、千冬姉より強いかも知れない。
思いもよらぬ考えが脳裏を過った。そして、そんな考えに至ってしまった自らに一夏は暫し呆然としていると。
「さて、小僧。いつになったらこのジジイめに本気を見せてくれるのか喃?」
一夏は答えなかった。嗚咽を堪えるのに精一杯で、老人の売り言葉に何一つ応ずることが出来なかったのだ。
「泣くな阿呆」
突如、絶対零度を思わせる凍てついた声色に思わず顔を上げると、出逢ったときと変わらぬ笑みを浮かべた老人が悠々と杖を振り上げていた。
「ひぃ!!」
咄嗟に転がって避けた。先程一夏の頭があった場所には老人の杖が深々と突き刺さっていた。
「じょ、冗談じゃ……」
「その無様な面を見るに傲慢な鼻っ柱がさぞや折れたことだろう。だがな」
老人は杖を横薙ぎに振るって一夏の腕を狙った。慌てて一夏はつんのめるようにして逃れる。一夏が抱える焦燥に比例して、老人の笑みは増々深くなった。
「まだだ、二度とその様な態度がとれぬよう。戯けた竹刀剣術などにかぶれぬよう利き腕を折ってやる」
ここに来て老人の笑みの中に嗜虐的な色が見えた。失禁しかねないほどに圧倒してくる凄みに、一夏の心は完全に折れていた。老人が投げ捨てた竹刀に目も呉れず、背を向けて逃走を開始したのだ。
「うわぁぁぁぁ!!」
しかし、ここに来ても老人の膂力は一夏の想像を容易く凌駕した。二度ほど跳躍すると、若き一夏の全速力に容易く追いつき、遂には之を追い越した。
「いいいぃぃ!?」
「覚悟」
老人は初めて掛け声のようなものを発した。「えーい」だとか「とーう」だとかという文字に興せるものに非ず、猿が縄張りを侵した不埒者に掛ける猿叫に似た叫び声で以って強烈な抜き胴を一夏にお見舞いした。
「ぐ、うぅがああああ!!」
それでも、折れた心の残滓の芯に近い部分に意地の残り滓があったのだろうか。或いは死を拒む生存欲求の様なものが鎌首をもたげたのであろうか。どちらにしろ死中に活を求めた一夏は敢えて老人に飛びかかった。
「ぬうぅ!?」
完全に心をへし折ったと思われた木偶が窮鼠であった衝撃に、老人は驚愕した。喉元を狙い突きを放つも、若さに任せた馬鹿力で打ち払われた。
「ぐうぅぅぅぅ!!」
そのまま老人に掴みかかり、馬乗りになって首を絞めようと手を伸ばす一夏。最早眼前の老人は労るべき弱者ではなく恐るべき天敵としか見ていなかった。
「ぐぅお……小童めが……やり、おる!!」
老人もまた、眼前の鼠を斃すべき若獅子であることを今更ながらに認めた。杖にもう片方の手を添え、何かをしでかそうとした。
「それまで」
突如、重々しくもよく通る声が響いた。その声が保持つ力は、半狂乱で老人の首を絞めようとしていた一夏を正気に戻した。
「はあっはあっはあっ……お、俺はなんてことを……」
指の筋がいく本か攣った両腕を呆然と見つめながら呟く一夏を、突如現れた僧侶を思わせる新たなる老人が助け起こした。
「大事ないかな?」
「は、はい。何とか」
「しこたま打たれたようだな。どれ、治療してやろう」
僧侶は、公園の水道水を持っていた手ぬぐいに染み込ませると、一夏の打撲痕を冷やした。遅れてきた痛みに呻きそうになるが、一夏はぐっと堪えた。
「ほほう、存外強いな。良いことだ、麒麟児の目になっておる」
僧侶は慣れた手付きで一夏に湿布を貼り終えると、肩で息をしている老人を爪先で小突いて反応を伺った。
「千五郎、お前さんのことだ。くたばってはおるまい?」
「ふん、お前の助けなど無くともどうにかしておったワ」
「減らず口が叩けるなら重畳。医者のところに担ぎ込む必要はなさそうだな」
千五郎と呼ばれた老人が平然と起き上がった光景を目にした一夏は再び身構えたが、その表情には怯えの色が溢れていた。
「安心しろ、わしがおる限りお前に指一本触れさせん」
僧侶がやんわりと一夏を手で制した。千五郎より細く、華奢なこの老僧。不思議と言葉の節々に信頼できる力強さを発していた。
「ふん、横やりが入った今となってはもう飽いたワ」
千五郎は大きく伸びをして体をほぐすと、杖をついて帰路へと着いた。
「おじいさん、貴方は一体?」
取り残された一夏は、老僧に向き直った。
「ふむ、千五郎と同じく兵法に身を捧げた酔狂者といったところか」
──兵法者!
「お願いします!俺を鍛えてください!どうしても強くなりたいんです!!」
気がつけば、一夏は土下座していた。硬い地面に額を打ち付けたせいで軽い脳震盪を起こしたらしく、無様に姿勢を崩してしまったが、老僧がそれを支えた。
「実はな、お前さんと千五郎の問答を木陰から聞いておったのだ」
「じゃ、じゃあ……」
「うむ、あの様な甘っちょろい考えを持ち続けるのであれば、今すぐお前を見限るつもりだ」
「そんな!?」
「だが、お前は先程の立会で答えを掴んでおる。それに気付ければ良いなあ」
カカカと愉快そうに笑う老僧。ソレに反して、一夏の表情は暗かった。
「俺が掴んだ答え?」
「おうさ。気付け無いならわしは帰る」
「……」
先程のあがきとも言える立会をゆっくりと回想していく。思い出すのは首を絞めたときの指の痛み。恐怖、「死にたくない」という原動力だった。
「自分の命を見てなかったから……?」
「マァ及第点か喃。お前さんが守ろうとしている『みんな』の中に自分の命が入っていないと、そいつは自縄自縛の奴隷となる。誰のでもない自らが定めたルールの奴隷にな。そんな奴に護られても胸糞悪いだけだ」
「……そうかもしれない。自分の命さえ守れないやつが他人を守るなんて……」
「そういう考えも出来る喃。最後に、ソレにつながる結論としては、敵を排除する覚悟だ」
「排除ってまさか!?」
「そう、必要とあらば相手を殺す覚悟だ。そうして初めて一人前だ」
「それじゃあ只の人殺しじゃないですか!」
「馬鹿者!!」
長きにわたる問答の中で、僧侶は初めて語気を荒げた。
「必要とあらばと言ったではないか!つまるところ殺害という手段に至らぬように努め、戦わずして勝つのが真の兵法なのだ、塚原卜伝や村上吉之丞の逸話の様にな!」
「す、すみません」
一夏は早合点した己を恥じた。元来逸り気を千冬から指摘されている身としてはつくづく身に沁みる思いであった。
「お前さんにはそこも含めて鍛えてやらねばならんな。明日の夕方。この公園で鍛えてやる」
「何で夕方なんですか?」
「考えろ。お主には学業があるだろう。それにな、昼間の公園は子どもたちの物じゃ。大人がしゃしゃり出て荒らして良いものではない」
そういうと、老僧は踵を返した。
「ま、待ってください!せめてお名前を!!」
名前がわからなければ不便になると、一夏がその背に投げかけた。老僧はふと花びらの落ちた桜の梢を見上げると、思いついたように告げた。
「梢と呼べ。