地塗りされたキャンバスの表面に沈み込ませていた絵筆の毛先を画面から解き放つ。
"赤燐色の瞳"の少女は描き上がった目の前の絵を見て嘆くように静かな息を吐いた。
次の瞬間には、虚空を切り裂くように斜めに振り上げられた絵筆が画面に乱暴に切り込むようにキャンバスの表面に叩きつけられていた。
紫の絵具が固く張られたキャンバスの表面を一閃する。
乱れた絵筆の毛先がまさに今の自分の心そのものの様相の表れなのだと少女が気付くのにそう時間はかからなかった。
歳月を経て"14歳"になった少女、"金戸未来"が出来上がったキャンバスの絵画を
ああ、今、自分はまさしく"
夏模様のアトリエ。煌めく熱射が日射しとなって窓を透き通る。
透明の中で反射し、屈折し、折れ曲がった朝日の光が憂慮な少女の透き通る肌を照らし出した。
腰まで伸びた、丁寧に施された銀鼠色の長髪が薄明の中で艶に照る。
成長した少女の顔立ちに未だ色濃く付き纏うその感情の色合いは、まさに"陰"であった。
ふと揺れ動いた彼女の眼差しが窓の向こうに見える若葉をその赤の瞳に捉える。
あれから"三度目"の夏が到来したことを実感したのは、今日が"彼女"が美術館にやってきた日の二周期だったからだ。
"雛宮おねえちゃん"。
あれ以降彼女が、幼い少女のもとをたずねたことはなかった。
「──ふむ」
──そんな少女の様子を、後ろで眺めていたハイトマンは片手で掴んだ顎で相槌を打つようにして切り裂かれた絵画の感想を述べた。
「どうやらスランプというのは本当のようでありますね、未来さん」
当然だがハイトマンが美術館の二階に据える金戸未来の自宅にやってきたのは教師としての家庭訪問のためである。
決して遊びにきたのではない。
「ゴクゴク、あーこのオレンジジュース美味しいでありますねー。あっ、おかわりよろしいでありますか? ムグムグ、あーこのクッキー美味しいーやっぱりチョコチップ最高でありますね。バリバリ、あーポテト美味しいでありますー」
決して遊びにきたのではない。
……はずなのだが、その割にべらぼうに粗茶とお菓子を貪り尽くす狐顔の男の振る舞いは生徒宅に家庭訪問してきた教師としてはなにかがおかしい。少なくとも金戸未来の常識的感性はハイトマンのことをそう疑った。
膨れた腹を抱えたハイトマンがソファーに背中を預け、満足したように天井を仰ぐ。
「ふー」
そして次の瞬間、ひとしきり満腹感に浸ってゆらりと立ち上がったハイトマンは満足気な笑顔を差し向けて次の一言を腰下ろす未来に向かって放った。
「それじゃわたくしはこれで帰りますかな」
「なにしに来たんですか?」
至極当然の突っ込みであった。
これでは菓子泥棒ではないか。そのまま帰すかボケ。目の前のとんでもない大人を冷淡に見据えて未来はそう内心毒づいた。
冷ややかな眼差しを向けられたハイトマンがひとつ笑い上げて弁解する。
「はっはっは。いえ、冗談でありますよ冗談。こちらとて用事も無しに生徒宅を訪ねたりはしません」
割とそのまま帰りそうな勢いだったが本当だろうか。元居たソファーに座り直したハイトマンを見て未来はそう思う。
「本日、わたくしハイトマンが未来さんのお宅にお邪魔したのはでありますね……」
そしてソファーに座り直し、黄蛍光色のサングラスを中指で押し上げ整えて一言。
瞬間的に切り替えられた雄ギツネの如き鋭い眼差しが対面の少女の肝を掴み挙げた。
「"不登校"の件についてであります」
表情を固く切り替えたハイトマンが、校長として厳しい口取りで続ける。
「いま、未来さんはアカデミアの"中等部三年生"にあたるわけですが、その辺はどのようにお考えであるのですか?」
思わず逃げるように目を背けた少女がハイトマンの言葉を避ける。
「それは……その……」
しかしハイトマンはすかさず追従した。
デュエルアカデミアネオ童実野校の"進級制度"について彼は説明する。
「一応ウチのアカデミアは初等部から高等部まで"エスカレーター式"の方式をとって生徒達を上の学年へと進級させています。が、しかし出席日数や単位を考慮せず進級させているのは飽くまで中等部までなわけで、中等部から高等部への進級にはきちんとした出席日数、学力、生活態度を条件としています。それらの基準を満たした生徒でないと高等部に進級できないようになっているのでありますよ」
厳しく語るハイトマンに、不安な眼差しを向けた未来は話の中で浮かびあがったひとつの疑問を彼に聞く。
「もし高等部に進級できなかったら?」
ハイトマンは端的に確かな現実を突きつけた。
「申し訳ありませんが退学処分とさせていただきます。これは入学した際に生徒達に責任問題として口酸っぱく必ず説明させてもらっている、れっきとした学校側の
芸術性の高い人間は得てしてどこか世間から浮いているものである。
アカデミアに通う中等部3年生、金戸未来もその範疇に漏れない人間であった。
幼少期から両親を亡くし、他者との人間関係の構築を欠いていた彼女のコミュニケーション能力は散々たるものだった。
実親の愛情に育まれず里親を転々としていた彼女は"人と接する"という機会に恵まれず、"会話"と"対話"を学ぶ機会がなかった。
彼女が持っていたのは唯一ある人物に買って貰った"クレヨン"と"絵の才能"だけ。
彼女にはひとりだけ血の繋がった"姉"がいたが──。
「こんにちは、未来ちゃん。わたしが今日からアカデミアの先生の代わりにあなたを担当する保険医の、"
閑話休題──"保険室通学"を選んだ彼女を若い保険医が笑顔で迎える。
「よろしくね」
制服に着替えてアカデミア校門に登校を果たした未来が、保険医に会釈する。
「よろしくお願い、します……」
──そんな社交性に乏しい彼女に転機が訪れたのは、小学校も6年生に上がる"12歳"の時だった。
学校指定の課題として提出した絵がたまたまシティ主催のコンクールで受賞を果たし、デュエルモンスターズを販売、運営する"海馬コーポレーション"社の目に彼女の類いまれなる才能が止まったのだ。
彼女の絵はまさしく天才のそれそのもの、次なる有望なカードデザイナーの選抜に頭を悩ませていた海馬コーポレーション社、以下"kc"社にとって彼女の存在の登場は天より宝札でも降ってきたかのような到来であった。
次世代の才能の登場にさっそく鼻を聞かせたkc社の人間が、まだあどけない顔立ちの彼女を自らのデザイン部署へと引き抜きにかかる。
当初迷いは見せたが里親から離れて生活したかった金戸未来はkc社の要望を請け負うことになる。
こうして専属デザイナーとして彼女のデビューがkc社の請け負いの下に決まったのだが。
しかし──。
──保健室に通された未来が、促されるままに学生鞄を置く。
「それじゃあ今日からしばらく、アカデミアではここで一緒に過ごそうか未来ちゃん。お昼休み以外はあまり人も通らない場所だから、安心してね」
未来はちいさな声で質問した。
「お昼休み以外は何をすれば……?」
保険医の冷夏はにっこりと微笑んで答えた。
「なんでもいいのよ。困ったらわたしに言って」
──そう言い残して、保険医の彼女は出ていってしまった。
用事があるらしい。
優しい人物だ。少なくとも未来は第一印象でそう思った。
なんでもしてよいとのことだったので、言われた通りに未来は好きなことをすることにした。
作業机のそばに用意してあった長机の前に腰かけて、先程置いた鞄を開く。
中から自由帳代わりのノートブックを取り出し、薄い罫線の引かれた白の表面に何かを描こうと臨んでみるが──。
──数分後にはペンシルを放り投げて机に突っ伏す彼女が、そこにいた。
スランプに陥ってから数ヶ月。
だんだんと絵から興味をなくす彼女が、そこにいた。
(あれだけ、好きだったのに。)
kc社の専属デザイナーとなり、絵の仕事を始めて2年──。
幼い彼女を待っていたのは、あまりにも早すぎる、"スランプ"という名の生き地獄だった。
(書けない)
水が退いたようだった。
("描けない")
いざ干上がってみれはあまりにも浅すぎる、海の底のようだった。
あれだけ膨大に感じたはずの"アイデア"の感覚が今は感じない。
あれだけ無限大に感じたはずの才能の数々の感触が、今は手に感じない。
(わたしにはもう──)
ゆっくりと、まぶたを閉じる。
──一方その頃。授業中だというのに、アカデミアの屋上でくつろぐ1人の少年がいた。
「あーあ……」
少年、星宮綾人は晴れた青空を仰ぎながらひとつつぶやく。
「なんで"あんなこと"言っちゃったかなぁ……」
"あんなこと"、とは他でもない、"治安維持局特別対策室"への入隊の件であった。
冷静に考えれば面倒ごと以外のなんでもない。
あれから冷静に立ち返った星宮は見事に時期外れの五月病を発病させていた。
今は6月である。
「まあ"リク"の一件の手がかりにもなるかもしれないから良いんだけど……」
はぁ、とひとつため息をついて、勢いあまってあんなことを約束した自分を星宮は反省した。
あの時は急だったとはいえ、入隊への取り決め自体はあまりにも早すぎる決断であった。
実際"雛宮"と"牛尾"が信用できる人物かどうかはまだ判断がつかない。
あまりにもまだ交友が薄すぎるのだ。
まあ、"牛尾哲"は信頼できる人物だとは思うのだが──。
「……ま、人手が足りないならしょうがないか」
心機一転。気持ちを切り替えて星宮は屋上をあとにした。
──あの"一件"以降、星宮の評判は生徒の間で"ふたつの線"に分かれることとなった。
"もしかして良いやつなんじゃないか?"と、
"いや、やっぱ危険なやつでしょ"。
のふたつである。
というのも、現実サイコデュエリストへの理解はまだ浅いというものがあった。
(あれぐらいでわだかまりが完全に消えるわけない、か)
実のところ星宮の本音でいえば、志賀雷銅を追い払った一件で少しは自分の能力について確執が拭えないかな、と考えるところがあった。
やはり星宮といえど社会を共にするひとりの人間。他者との共存を望む本音がその秘めたる思いにあった。
が、しかしだからといって周囲もそう易々と今までの星宮への認識を一気に改めるというのは難しいものがあった。
行政側が先の一件の報道を圧力で潰したから尚更のことである。
相変わらず星宮の肩身は狭いままであった。
というわけで──。
(今日も保健室ですね、これは、はい)
今日も今日とて、授業中の教室を横目に星宮は保健室へと向かった。
星宮が授業に出席せず屋上にいた理由はこれである。
彼もまた、肩身の狭さから一応の形式でアカデミアに通う"保健室通学"組なのである。
「失礼しま──」
保健室の入口を開ける。
すると、
「──?」
──窓辺の近くで長机に頭から突っ伏して横になっている、銀鼠色の髪の小柄な少女の姿が星宮の目に映り込んだ。
いつもは居るとしても保険医ぐらいなのに、珍しい。
新しいここの通学者か? と何気無く彼女の前を通りすぎたとき──。
「──ん?」
柔らかな風になびかれて、めくり上がるノートのページに星宮が気付き声を挙げた。
どうやら窓から入り込んだ風で何枚か前のページが開かれたようだ。
偶然に開かれたページに星宮が悪気を感じながらも目を通す。
そこには星宮もよく見覚えのあるモンスターの姿が描かれていた。
「──あっ──!?」
眠りから覚めた少女が頭を起こす。
「んっ……?」
何かの声がして、夢から抱え起こされる感覚を金戸未来は感じた。
ぼやけた視界に映る見慣れぬ場所に一瞬の戸惑いをおぼえる。
そういえば自分がアカデミアに登校したことを思い出して、そこが保健室だということを思い出した。
ゆっくりと目をパチクリさせて瞳を慣らす。
ふと、近くにいた誰かの気配に意識を持っていかれた。
風と共に男性用の香水の香りがしたからだ。
すると──。
「……」
「……」
そこには学校指定のアカデミア夏服を着た、見知らぬ少年が未来の方を覗いてたたずんでいた。
「えっ!?」
思いもがけない衝撃が未来を襲う。
「えっ、えっ!?」
よもや保険医以外の人間がここに居るとは思わなかったため、未来は素噸狂な声を上げて驚きを表した。
動揺を隠せない少女が焦り、態勢を崩す。
態勢を崩した少女は思わず椅子から転げ落ちてその醜態を少年にあらわにした。
同じく未来の突然の同様に、未来ほどではないが驚きの表情を見せた少年が、気を取り直して表情を戻す。
表情を戻した少年がゆっくりと手を差し出し、少女に心遣いを差し伸べる。
「ご、ごめん、起こしたか!? ──あ、そうじゃなくて驚かせたか!?」
少年も必死に弁解の意を示し、反省の心を示した。
「すまない、ついノートの中身が見えたんだ。見覚えのある姿があって……そう!」
少年は述べる。
「"スターダスト・ドラゴン"! 俺もそのノートに描かれてる"スターダスト・ドラゴン"の絵を知ってたから、つい驚いたんだ」
冷涼な面差しのその少年の言葉を得て、呆然と見上げる未来は言葉を示す。
「へっ……?」
──勝手にノートを覗かれたと聞いた時はなかなか釈然としない気持ちが込み上げたものだが、偶然風が吹いてページが開いたとあってはノートを仕舞わず寝落ちしてしまった自分にも落ち度はある。
あれから互いに席に座り直した未来は自意識のない自分の行いを胸の内に恥じて、必死に弁解する上級生の話をただ静かに聞いていた。
聞けばどうやら向かいの席に座る彼はここアカデミアの高等部に所属する上級生らしい。
名前を"星宮綾人"というらしい。
なるほどだから少し大人びた容姿をしているのかとこれまた心の内で納得した彼女は、口下手ながらも彼に先程の内容を問いただし、というよりはふと聞いてみた。
「あの」
「ん?」
「"スターダスト・ドラゴン"、知ってるん……ですか?」
物静かで口下手な彼女が、勇気を持って彼に接してみる。
彼、星宮綾人はわずかながらも表情を明るくさせて話題に好色を示してみせた。
"もちろん!" と彼は明るく返す。
「"スターダスト・ドラゴン"は俺の憧れのモンスターの一体なんだ。"不動遊星"の誇ったデッキのエース、 好きなモンスターのひとつなんだ!」
容姿からもう少しクールな性格だと思ったのだが、どうやら見た目にそぐわずカードオタクっぽい気質があるらしい。
ということはデュエルモンスターズへの精通もそれなりか。
未来はもう少し踏み込んだ話題を出してみた。
「てことは、"ライトロード"とか"妖精伝記"ってカード、知ってます?」
「ああ、そりゃ……有名だからね」
未来は思いきって言ってみた。
「あれ……わたしがデザインしたカードだって言ったら信じます?」
星宮が思わず跳ね上がった。
「えっ!?」
意外とコミカルな反応をする星宮にむしろ未来の方が気圧された。
「ええっ!? あれがキミのデザイン!? オレ、"妖精伝姫"のカード持ってるよ」
いそいそと彼がデッキのカードを取り出す。
ほら、と喜ぶように"妖精伝姫シラユキ"のカードを見せてくる星宮の嬉しそうな態度に、未来も自然と照れ笑いが出てしまった。
(わあ……ホントにわたしのデザインしたカード使ってくれてる人いるんだ……)
デザイナー冥利に尽きるとはまさにこのことである。
一応kc社の開発部門から自分のデザインしたモンスターの評判をある程度聞いていた彼女だったものの、こうして
こそばゆいというか小恥ずかしいというものか……ともかく素直に嬉しい気持ちが未来の中に湧き上がった。
「あ、ありがとうございます」
「いや、こちらこそ。このカードにはとても御世話になってるんだ」
星宮がカードを仕舞い込む。
それはともかくとして、先程話題に上がった"別のモンスター"の方に未来は話題の矛先を向けた。
「あ、そういえば"スターダスト・ドラゴン"の話でしたね」
「ああ、そうだ。どうしてキミはスターダスト・ドラゴンを……?」
今度は星宮の質問番といったばかりに、少女の方へと疑問の矛先が飛ぶ。
改めてスターダスト・ドラゴンの描かれたページを開いた彼女は眼差しをひしひしと固めてページに視線を落とした。
精巧で精緻な色使いと曲線で描かれたその竜には、金戸未来という少女のルーツがあった。
「このモンスター……小さい頃から好きなんです。初めて映像で見たときから、この姿が忘れられなくて」
きっかけは、父が持っていた保存ディスクの記録映像を幼少期に観たことだった。
かつてネオドミノシティで行われた大規模なD・ホイールを使った大会の時の記録映像。
そこには未来の見たことない様々なモンスターたちの姿が映り込んでいた。
特に小さな子供であった、純粋な未来の感情を一気に引き寄せたのは"破れた翼を持つ白亜色の竜"。
"スターダスト・ドラゴン"の姿であった。
「思わずわたしはその姿をクレヨンでスケッチしちゃって。このノートに描かれてるのはそれから何枚もスケッチしてる内の1枚なんです」
「へぇ……」
「この"ドラゴン"が……わたしの"絵描き"としての始まり……」
ノートを閉じた未来が、過去の日々に想いを寄せる。
「わたしにとって、"スターダスト"は、絵描きとしての"ルーツ"なんです」
同じく"スターダスト"の使い手に感化された星宮は柔らかな微笑みと共に述べる。
「そっか……」
思わず苦笑しながら、星宮はある人物の言葉を思い出す。
「"誰かの道は、誰かの道標になる"、か……」
「えっ?」
「いや……」
ふと口にしたその言葉を静かに笑い飛ばして、星宮は誤魔化すように少女の眼差しから逃げるように視線を逸らした。
ちょうど逸らした先の窓辺の向こうに体育で盛り上がるクラスの一団が目に入る。
「あのさ」
星宮はふと聞いてみる。
「どうして保健室に?」
未来は狼狽えた。
「……」
明らかな意気消沈をみせた少女は、視線をわずかばかりに落として星宮の言葉から逃げた。
その様子を見て星宮は察した。
「そっか」
星宮はそれ以上聞かなかった。
「悪かった」
似た事情を同じくする者というか、そもそもどう見ても(多少血色は悪いが)不健康にみえない相手を見て彼女がただの病人であると判断する星宮ではなかった。
そしてそれは同じく特に不健康そうに見えない星宮を見る未来からしても同様であった。
両者は互いに"どこか世間から浮いているはみ出し者"であると相手を見抜いた。
開かれた窓からレースカーテンを押し退けて風が吹く。
「……」
「……」
両者沈黙に付す中で先に口を開いたのは、意外にも寡黙で口下手な金戸未来の方だった。
「……あの……」
秘めたる勇気を込めた未来の静かでちいさな声に、星宮綾人が振り向く。
星宮を振り向かせた未来は、他者に対して萎縮する思いをなんとか突っぱねるようにして、彼にお願いを頼んでみた。
「良ければ今後もわたしとお話してくれませんか……?」
一方その頃、某所。
控え室に現れた黒い影が、中の人物に対して声をかける。
「ほお、化粧は自分でやってるのか」
現れた黒い影の正体は噂の志賀雷銅であった。
先の追走劇からはや数週間。星宮に別れ言葉を残して去っていった黒い帽子の姿がそこに姿を現した。
現した先はとある"テレビ局"の、楽屋裏。
その楽屋口そばから声をかける志賀雷銅の姿が室内の化粧鏡に反射して映り込んだ。
室内でただひとり化粧をしていた"女性"が鏡越しに志賀雷銅へ小慣れたように返事をする。
ふたりは知り合い同士であった。
ミラーライトに照らされた女性が長い睫毛に化粧を施す。
「仕上げだけよ」
女性は続けて述べた。
「そのままだとあまりにも"似すぎ"ているのよ」
からかい気味に笑う志賀雷銅は言った。
「まあ、元は"他人"の顔だもんな」
明らかな憤りを目付きに浮かべた女性が振り返る。
「やめてくれる」
「すまなかった」
「まあ、良いわ」
化粧の仕上げを終えた"派手なステージドレス"衣装の彼女が道具を仕舞う。
席を立ち上がった彼女はその"黒いフリルスカート"をなびかせながら志賀雷銅の方へと振り返り、優雅に細い腕と脚を組んでみせた。
銀鼠色の髪の下に浮かぶ赤燐色の瞳が、志賀雷銅の姿を捉え込む。
「で? 今日は何の用なの"アルカディアムーヴメント"の使いっぱしりさん。どうせまたそれ絡みの用事なんでしょ?」
志賀雷銅は述べる。
「実はな」
その提案はごく単純なものだった。
「"市長"を始末してほしいんだ。"早河かれん"さんよ」
一方その頃。
ネオ童実野シティ市役所、執務室にて。
「敬愛なる"早河かれん"様へ……」
市長として執務に励む、ようにみせかけて"とあるアイドル"へのファンレターを執筆していたイェーガーのもとを牛尾が訪れた。
「またファンレターですかい?」
牛尾はそんなイェーガーの様子を覗いてほとほとあきれたように述べた。
「返ってきたことないでしょう、それ」
「うるさいですねぇ、こういうのは気持ちなんですよ。わからないんですかね」
「へぇへぇ……」
こうやって市長にあきれ混じりに悪態をつけるのも牛尾がイェーガーと旧知の仲だからというのもある。
こうみえて意外とふたりの絆は微妙に強い。
──そんな牛尾が執務室の奥に貼られた"早河かれん"のポスターを眺めながら言う。
「まあ"美人"っつーか"可愛い"とは思いますけどねぇ……」
なんだかんだ美人の女性に目がない牛尾からしてもイェーガーご執心のアイドル、"早河かれん"の美貌は一目置くものがあった。
"早河かれん"。20歳。
好物はパンケーキの、1年前にアイドル界に鳴り物入りで推参を果たした美少女系デュエルアイドルだ。
どのあたりが"鳴り物"なのかというと、その出で立ちに秘密がある。
銀鼠色の髪──。
真っ白な雪肌──。
大きな瞳──。
ゴシック調の暗色ドレス──。
綺麗な"歌声"──とここまでなら普通なのだが、彼女にはある特徴的な"キャラクター性"があった。
彼女は、"堕天使"なのである。
「いやぁ、やっぱり良いですよねぇ牛尾殿!」
振り返りポスターを見上げたイェーガーが、ウンウンと唸るように語った。
「"堕天の聖女系美少女デュエルアイドル"、早河かれんは!」
「……」
牛尾から渇いた笑みが出た。
「はは……」
この妙に綺羅びやかな肩書きが牛尾がいまいち"早河かれん"のブームに乗れない理由であった。
(こりゃいま話を振ってもはねのけられるな……)
本来牛尾がここに訊ねてきたのは別件があったからなのだがどうやら今はどこぞのアイドルにご執心中らしい。
仕方なく執務室をあとにした牛尾はひとつため息をつき交通課へ向かうため一階のロビーまで降りた。
すると──。
「おっ」
「あっ」
ばったり別部署の雛宮聖華と偶然すれちがった。
──"あの一件"の後、"赤掘陸"の捜査はひとまず牛尾と雛宮に別れて行われることとなった。
牛尾は"交通課"の仲間を頼りに。
雛宮は外回りを通じてシティ中の人々に聞き込みに回った。
聞き込みをすること数週間。
──が、しかし。
「まさかここまで手がかり"ゼロ"とはな」
ふたりで休憩室に移動した牛尾が雛宮にコーヒーを奢る。
手渡す際に牛尾が"しまった"といわんばかりに表情を取る。
雛宮は疑問符を浮かべた。
「?」
「あ、いや、すまん。勢いで買ったがおまえコーヒーは"甘口"で良かったか?」
雛宮は笑顔で応える。
「あっ……ほんとは"ブラック"派ですけど……牛尾さんの買ってくれるものならなんでも嬉しいです」
牛尾は軽く胸を撫で下ろす。
「そうか」
──奢られたコーヒーを口につけた雛宮がほう、っとひとつため息をついて腰掛ける牛尾に緩やかな眼差しを向けた。
謎の眼差しを向けられた牛尾が今度は疑問符を浮かべる。
フフッ、と恥ずかし混じりに苦笑を浮かべた雛宮がふと視線を逸らし、
「いや、ほんとにご一緒に仕事してるんだなと……」
「ああ」
なんだそういうことかと牛尾もちいさく笑い飛ばした。
「シティを守るためだからな」
「ええ。星宮くんの為にもはやく解決しないと」
と、そこでふと牛尾は思い付く。
(──あ、そういや)
そういえばちょうどいい機会ではないか。
イェーガーに投げ渡してやろうと考えていた"別件"のそれだがアイドルに夢中の市長より仕事に努力している雛宮に渡してやるのがちょうどいい。
牛尾はポケットをまさぐりとある"2枚の紙切れ"を取り出した。
部下から偶然もらった"とある人物の絵画展"への"チケット"である。
「そういえば雛宮よぉ」
「なんですか?」
その"絵画展"の、"とある人物"とは──。
「"金戸未来"って知ってるか?」
ゆっくり牛尾の言葉を紐解く雛宮が──ひとつ彼の言葉に答える──。
「────いや……? 知らない名前ですけど……?」
──2年前、夏の日に出会った"あの日"。
雛宮聖華の記憶には、彼女の存在は欠片たりとも残っていなかった。