一定間隔で鳴る何かの電子音の中で、彼女は薄緑色の天井を見た。
「────」
意識は虚ろとしていた。
ぼやける視界、凍ったように動かない体。
血の巡り始めた感覚、脈打つ鼓動。
鼻をつく医薬品のかおり。
おどろげにここが“病院”であると彼女が気づいたのは、眠りから覚醒してから数秒のことだった。
「──────────?」
凍った体にようやく血が巡り、熱を感じるようになった少女は体を起こし始めた。
右側に電子音を鳴らす心電図と、右腕に点滴針で繋がれた薬剤バッグを見上げて、少女は自分が現在どういった状況にあるのか理解した。
どうやら“自分”は病院に搬送されたらしい。一枚の窓から入り込む明かりだけが照らす薄暗い個室で少女は置かれた状況を理解した。
「……」
わけもなくぼうっとしていると、部屋脇にあるスライドドアが開く音が聞こえた。
目を向けた少女の視線と、入ってきた女性看護師の視線が
見回りにきた看護師が少女の様子に気づいてすぐに、静止した表情を驚きに変えてどこかへすっとんでいってしまった。
医者を呼びにいったらしいことは少女にもすぐにわかった。ひとり部屋に取り残された少女がふたたび背中からベッドへと身を預ける。
ひと眠りするわけでもなく、ただじっと薄緑色の天井を眺めていると、だんだんと複数人の足音がこちらへやってくるのが聞こえてきた。
少女の病室に入ってきた女性の医者が慌てた様子で少女の姿を探す。
すぐに少女を見つけた医者は安堵の表情を浮かべて呆然と天井を眺める少女の方へと駆け寄った。
少女と医者の視線が交わる。
その場に
「おはようございます。……目覚めたばかり早速で申し訳ありませんが、ご自分の”お名前”と”年齢”を言えますか?」
医者にそう促されるまま、少女は“名前”と“年齢”をつぶやいた。
「“
──2年前の記憶が
大勢の見物客が囲む会場の、静寂に包まれたその現実の最中で、雛宮は突然胸に飛び込んできたその“銀鼠色髪の少女”に向かって咄嗟に言葉で切り捨ててしまった。
初対面だ、と。
「……えっ……?」
少女は我が耳を疑う様子で、恐る恐る雛宮の顔を見上げた。
喜びから一転して震えた眼差しを浮かべ始めた銀鼠色髪の少女がもう一度聞く。
「今、なんて言ったの……?」
静寂に
拡声器を通さずとも広く、そしてその情緒がよく伝わるその空間の中で、雛宮は無情に、そして残酷にも震えた声で彼女にこう返すしかなかった。
「あなた、誰……? 今、
呆然とした様子で後ろに退く銀鼠色髪の少女の姿があった。
赤の瞳を強く揺らしながら動揺に肩をわな
親密な人間を想うように見つめる少女の眼差しが状況を理解できない雛宮を突く。
しかし当の雛宮は“初対面”の人間に困惑の瞳を寄せるばかりだった。
「──ちょ、ちょっと待った!」
隣で場を静観していた少年、星宮綾人がふたりの間に合いの手を入れる。状況を見兼ねた星宮が、両者の間に割って入った。
「雛宮さん、この子と会ったことないんすか?」
聞かれたままに雛宮はうなづく。
「……うん」
「でも、“そっち”は雛宮さんに会ったことあるん……だよな? ……オレのこと、覚えてるかな」
そう聞かれて、銀鼠色髪を館内照明に艶めかせる金戸未来も星宮にうなづいた。
「はい……星宮さん。……でも……」
失意に落胆する未来が、取り囲む群衆の中で肩を震わせ始める。
「でも……逢ったことないって……」
残酷な現実に叩きのめされ、そのまま空気に押し潰されるように膝をつき床に座り込む未来がそこにいた。
ちいさな体をいっぱいに震わせて、現実を直視できんばかりに少女が下を向く。
片手で抑えられた口元から段々と音の強くなる嗚咽が漏れる。
必死に涙を抑える彼女は、この時ばかりは“プロの画家”ではなく、ただの素朴な“14歳の少女”として会場の人間の目には映っていた。
──来場客と記者団の視線が少女に集中する中、裏手で待機していた美術館スタッフたちがぞろぞろと絵画フロアへと現れ始めた。
突然の事態に非礼を詫びる男性スタッフ。
泣き崩れる未来を優しく控室へ連れて行く女性スタッフ。
会場は非難の嵐にまみれた。
「なになに、どうゆうこと?」
「突然引退発表したと思ったら急展開なんですけど」
不満垂れる化粧厚塗りガールたちを筆頭に来場者たちがフロアを去っていく、閑散とする絵画展に雛宮と星宮は取り残されるばかりとなった。
怒涛の流れで会見閉幕。あまりの急展開についていけない星宮と、そして未だ困惑の瞳を隠せない雛宮のもとにひとりの美術館スタッフの男性がたずねてきた。
漆黒のスーツを着た男の胸には“那口”と彫られた名札が光っていた。
「すみません、良ければあちらでお話聞かせてもらってもいいですかね?」
絵画フロア裏のスタッフルームに案内されたふたりは那口に示されたテーブルに並んで着席をした。
着席したふたりの手元に紙コップが2つ、那口の手で配膳される。
麦茶の入ったそれに映った雛宮の表情は虚ろとしたものだった。
──思わず雛宮自身、あんまりな表情をしていた自分に驚く。
このままでは失礼だと考えた雛宮は、無理くり麦茶に映る表情を引き締めて那口の方を向いた。
毛先を軽く立てた程度の茶髪の男性係員、那口と視線が交わる。
「あれ……?」
那口が何か引っかかった面持ちで雛宮に反応した。
じっと雛宮の顔を見つめる。
なにか思い出したように声を高く挙げ始めた那口が、雛宮に向かってこうたずねた。
「ああ、2年前ここに来られましたよね! どうもお久しぶりです!」
身に覚えのない雛宮は那口に聞く。
「2年、前……?」
「ぼくのこと覚えてませんか? ほら、未来さんに連れられてアトリエに上がっていくとき、未来さんに“はたらけ”って叱られてたヤツ。それがぼくだったんですけど」
「……?」
──平衡世界の話でもされている気分だった。
まったく記憶にない出来事をつらつらと述べる那口に、雛宮は足の浮いた感覚を感じてしまう。
思わず身の毛よだち、雛宮は咄嗟に自分の片腕を恐怖から抑えてしまった。
「……おぼえてないんですか……?」
どうやら雛宮側に本当に自覚がないことを察し始めて、那口は彼女の記憶を刺激することを諦めた。
「あれ……おかしいな。あの時と同じ方かと思ったんですが……すみません」
那口はひとつ咳払いした。
「──コホン、すみません、話を戻しましょうか。皆さんにここに来てもらったわけなんですけど、ちょっと金戸未来とのご関係をお聞きしたくて。こういう事態になった手前、良ければどういった関係かお聞かせ願いないでしょうか」
雛宮と星宮が軽く顔を見合わせる。
まずは星宮が答えた。
「同じアカデミアに通う学生なんですけど……」
しかし一方の雛宮は自信なさげに答えた。
「初対面、だと思うんですけど……」
受け入れがたい発言だった。
那口は面識がある。星宮も先日切迫した様子で雛宮に会いたいと述べる金戸未来の様子を見ている。
発言すればするほど場を微妙な空気にしていく自分の存在に、雛宮自身気づき始めていた。
「初対面、ですか……」
どうにも腑に落ちないといった様子で那口は片手で自身の顎を掴み、考える。
那口としても雛宮の言葉を信用したいという気持ちはあるのだが、やはりどうにも“2年前”に雛宮と瓜二つの人間を見ているだけに納得しようにも納得できない気持ち悪さが彼を邪魔する。
なにより、那口としても長年尽くしてきた美術館オーナーである金戸未来には出来るだけ配慮したいという心情があった。
「……那口、もういいよ、ありがとう。あとはわたしに任せて」
那口の背後から暗い調子の少女の声が聞こえてきた。卓を3人で囲む中に割って入る金戸未来の声だった。
私室のアトリエから降りてきた未来の姿を那口が目に捉える。無言のままに立ち上がり、若年14歳の美術館オーナーに深々と頭を下げた那口は、彼女の言葉のままにその身をソファーの前から一歩退かせた。
改めて、未来と雛宮の視線が交わる。
「えっと……」
「星宮さん、雛宮おねえちゃん」
弱々しく発された雛宮の声は未来の言葉によってかき消え、未来は席を立つふたりに向かって階段の先にある部屋をその赤の瞳で差し示した。
「わたしのアトリエで話そう。事態の張本人として、すべてそこで説明するから」
未来に案内されてやってきた場所はネオ童実野美術館の最上階にある場所だった。
換気良い、いくつもの等間隔に配置された窓から入り込む涼やかな空気は、日頃少女が使用している作業部屋ながら清涼な空気をもたらしていた。
天井も見上げるほどに高く、部屋幅も大ホールと呼べるほどに広いこの場所は、ワンルームに住む星宮からすれば財力の差を感じるほどに圧倒的なものだった。
窓辺の向こうで緑の若葉をつけた木々が揺れている。いくつもの緑葉が柔らかな風に吹かれてざわざわと音を鳴らす。
木々の揺れる音はヒーリングノイズとなって少女の作業部屋にささやかな癒しをもたらしていた。
(すごい大きな部屋だな……)
アトリエ内には幾つもの画架とキャンバス、作業用の道具が並べられている。
部屋の半分ほどを作業のためのスペースと設けているようで、部屋入り口から遠く向こうの半分側のスペースは主に画材置き場として利用されていた。
一方で入り口そばは住居スペースとなっており、毛布の畳まれたソファー、よく磨かれたガラスのテーブル、立体映像照射型の3Dテレビ、その他諸々物入れなど、生活臭のある空間が設けられている。
ガラステーブルの上には数枚の描きかけのデザイン原案の紙と数本のペンシルが無造作に散らばっており、ハンガーラックには以前保健室通学に着用してきたアカデミア制服も吊り下げられていた。
換気が行き届き、湿気も感じない、絵描きであるならば居心地の良さそうな部屋。
星宮はたずねる。
「え、まさかここで生活してるのか?」
「うん。ここ、一応わたしの家だから。美術館ごと買って、いちいちアトリエと行き来するの面倒だからここに住んでるの」
顔には出さないが、星宮にとって仰天の連続だった。
職場を身近に置く職人気質というか、さぞ仕事熱心なことだなと感心した星宮は、わずか14歳の未来に対してちょっと特異なものを感じてしまった。
一方で、部屋に足を踏み入れた雛宮に目配せする未来の姿があった。
なにか気づいてほしい様子で雛宮の方に視線を向ける未来だったが、肝心の雛宮にその意図は伝わらなかった。
「……?」
察しの悪い雛宮の様子に、未来は悔しさに口を嚙む。
次に未来は日陰の方に置かれていた本棚の方へ向かい、何十枚ものキャンバスが並べられているその中から1枚の油彩画を取り出した。
本棚に並べられたそれぞれのキャンバスの間には仕切り用の白紙が挟まれている。
白紙で仕切られたそのキャンバスファイルの内より取り出された油彩画には”とある人物”の絵が描き込まれていた。
「これ、覚えてない?」
白のワンピースの裾先がひるがえる。未来の細っこい両腕に抱えられた油彩画。
白地塗りされたキャンバス上に浮かぶその人物の姿が、窓から差し込む光に輝く。
「これって──」
──熱に溶けてしまいそうに儚げな雪肌だった。胸元まで伸びた濡羽色の艶やかな髪が、彼女の白い肌を彩る。
目頭からくっきりと二重瞼の浮かぶその大きな瞳は彼女の持つちいさな顔とは不釣り合いといえるほどに大きく、そして輝いていた。
桃色の唇の上に、すっきりとした目鼻立ちが浮かぶ。首筋も含めて細く繊細で、触れればすぐに溶け崩れてしまいそうな儚さが伝わる。
雪原の中に咲く一輪の桃色花のような存在が、そこに描かれていた。
「まさか──」
未来の両手に抱えられたキャンバスの中に描かれたその精巧な絵を見て、真っ先に反応したのは星宮だった。
絵に描かれた見覚えのある女性を見て、彼はすぐさまその正体が”誰”であるのかをすぐに理解する。
なぜなら──隣にまったく同じ”見た目”の人物がそこに立っていたからだ。
「雛宮さんですよね、これ……間違いなく」
確かめるように星宮が雛宮の方を向く。
当の雛宮も、この状況が信じられないといったように真珠のような瞳を震わせていた。
「……嘘、まさかそんな……どうして……」
ありえない現実に直面したことに、心の底から湧き上がる動揺を抑えきれないといった様子だった。
スカートから伸びる脚をヒタヒタと歩かせ、震える足取りで抱えられた油彩画の方へと雛宮が近寄る。
まるで姿鏡と対面するかの如く自らの姿が描き込まれたそれに近寄り、未だ信じられないといった様子で雛宮聖華は動揺に瞳を打ち震わせていた。
「嘘じゃないよ……これはわたしと、そして“雛宮おねえちゃん”が
突きつけるように雛宮へと油彩画を向ける未来が、動揺する彼女に更なる追い打ちをかける。
「わたしとおねえちゃんが顔見知りであるという、確かな証拠なの」
──目の前に突きつけられた絵は確かな現実であった。
油彩画とはいえ、それが”雛宮聖華”の絵であるというのは部外者である星宮の目からしても一目瞭然だった。
れっきとした“プロ”が描いた精巧精緻な絵に技術の誤魔化しはない。
彼女の特徴をきちんと捉えて描かれたプロの腕が、雛宮の姿を正確にその油彩の中へと閉じ込めていた。
「わたしと雛宮おねえちゃんが出会ったのは2年前の夏、この美術館だった。わたしの描いた絵を眺めていたおねえちゃんの姿に惚れ込んで、わたしはおねえちゃんに話しかけて“モデル”の依頼をして、その後このアトリエに雛宮おねえちゃんを招いてあのソファーに座ってもらい、そしてわたしはおねえちゃんの姿をこの絵に描いた……」
キャンバスを抱えた金戸未来は、暗い陰影を顔に差しながらも口下手で不器用な言葉を続ける。
「──短い時間だったけど、わたしとおねえちゃんはあの時一緒に笑い合い、打ち解けあった。一見清楚だけど実はドジで、天然で、力持ちで、極度の“甘党”で……でもわたしの絵を色眼鏡無しで素直に褒めてくれて、そして心優しい雛宮おねえちゃんのことがわたしはだんだん好きになっていった……そして」
未来の真剣な眼差しが、上を向く。
「そして最後に、おねえちゃんはまた来てくれるって約束したの。2年前のあの日、帰り際におねえちゃんはまたここに来てくれるって、約束したの」
そして訴えかけるような少女の言葉が、湧き上がる動揺に震える雛宮の胸を貫いた。
「それなのに、おねえちゃんは……“初めて逢った”って……」
ふたたび未来の視線が下へと落ちる。
──雛宮聖華と金戸未来の認識には相容れないものがあった。
片方は面識があると訴えかける。しかし片方は初対面だと告げる。
互いに認められない現実というものが、ふたりの間に壁となって阻んでいるのがそばに立つ星宮からしても容易く理解できた。
「それは、本当のことなの……?」
未来の必死の訴えを受けた雛宮が否定するように述べる。
「確かにその絵に描かれているのはわたしだと思う。けどそれだけで“証拠”というには……」
そう述べる雛宮に、星宮が割って入った。
「いや……それはどうすかね」
「えっ……」
「さっきオレたちを案内してくれた那口さんの反応……」
思わぬ方向から飛んできた言葉に振り返る雛宮に、星宮は中立の立場から物申した。
これまで見てきた情報を整理して彼はつらつらと彼女に述べる。
「那口さんの反応……まるで雛宮さんと面識がある感じだったじゃないですか。事実さっき那口さんは詳細にその時の状況を語っていた」
「それは……」
「仮に那口さんと未来ちゃんが口裏を合わせてるとして、今度はさっきの喫茶店で会った店員さんの反応が不思議に思えないですか? 今考えれば、あの人もまるで雛宮さんと面識がある様子だった……たぶん、今のこの状況を察するに、もう一度あの店員さんにこのことを聞きに行ったら、間違いなくこう答えると思いますよ」
至極冷静に推論を展開する星宮が、私情を抜きにした言葉で冷徹に述べる。
「“以前、喫茶店に来たのを見たことがある”って」
加えて、金戸未来の手に握られていた絵が星宮の推論を決定的なものにしていた。
改めて握られている絵の方に目を向けた星宮が、呆然と立ち尽くす雛宮に周囲の状況が示す現実を突きつけた。
「雛宮さんを責めるわけじゃないですけど──そう考えると、雛宮さんと未来ちゃんが2年前に会ったことがあるってのは結構濃厚な線になってくるんじゃないかと思うんです。オレ」
──この場で一番冷静なのは雛宮と未来に板挟みの星宮だった。
いまにも空気が割れて
こんな時、持ち前の冷静さで場をクールダウンさせる彼の存在はふたりにとっても頼りになるものがあった。
“熱さ”と“冷たさ”をコントロールできるのが、彼の魅力の内であった。
「ちょっと一旦落ち着きましょうよ。未来ちゃんが一方的に話したままじゃ話は進まない。今度はオレ、雛宮さんの話が聞いてみたいんです。……未来ちゃん、いいかな」
星宮の説得に抱えていたキャンバスを片手におろした未来が
「はい……」
気持ち
自信なく顔を伏せる雛宮の姿が星宮の目に映る。最大限の配慮をもって彼は落ち込みをみせる雛宮へと言葉をかけた。
未来と同じく雛宮も不安な気持ちを抱え始めていることが、その表情から容易に伺い知れた。
「雛宮さん、その、ゆっくりでいいんで……心当たりがあったら言ってくれませんか?」
──震える肩先から伸びる拳に、わずかな力が入る。
「……」
沈黙に伏して考える素振りをみせ、自らの記憶を探る様子をみせる雛宮は、それでもどこか得心を得ない面持ちで星宮に、そして自分を見つめる未来へと弱々しく告げた。
「わからない……わからないの……」
「雛宮さん?」
「確かにわたしは2年前、“病院”で目覚めて色々なことに混乱したけど、それでもそれまでの記憶はあった……」
「えっ?」
「──ごめんなさい、どうしてもわたしには」
静かながらも
「あなたのことが記憶にないの。どこの記憶を、どう振り返っても、一片たりとも……」
──力抜ける未来の手が、キャンバスを床に落とした。
物理法則にしたがい緩やかに倒れる1枚の絵が、仰向けに倒れてその“姿”をもう一度日差しの中に晒した。
「──ごめんなさい」
空気に耐えかねて、雛宮が逃げるようにしてアトリエを出て行った。
背を見せて、現実から逃げるようにして去っていく雛宮の姿をすぐさま星宮が目で追いかけた。
「雛宮さん!」
部屋から走り去っていく雛宮の姿を追いかけて星宮も後を追う。
部屋入り口に足をかけた星宮がふと後ろ目に未来の様子が気になって、ゆっくりと同情の視線を投げかけた。
視線の先には、呆然と力抜けたように立ち尽くす、魂の抜け殻のような銀鼠色髪の少女の姿があった。
「ごめん……!」
雛宮のあとを追い部屋を走り去っていった星宮を見送って、金戸未来はひとり部屋に取り残された。
静かに両膝から崩れ落ちた少女が入り口の方を見つめる。
ひとりには広すぎるアトリエで、孤独になった少女は風穴の開いてしまった心でただただなにも存在しない空虚を見つめていた。
同時刻。煌々と白く燃える太陽が、市街区中心に
ガラス張りの外観が熱射を跳ね返す。数万人規模で人間を収容できる多目的ドームに観客たちが群がる。
今日、ネオ童実野シティに住む人間たちは、ある“デュエリストアイドル”のライブコンサート観覧のため童実野ドームに集まっていた。
チケットを入手し損ね、入場できなかったファンたちがドーム周辺に集う。
ドーム外観に設置されたモニターを通じて、中に入れなかった人間たちも今か今かと強く差す日照りの中でコンサートの始まりを待っていた。
ドーム周辺360度、そこは人間の海だった。
炎天下、汗を垂らしながらドーム周辺に並ぶ皆が例外なく会場の方を見つめる。
アイドルの顔写真がプリントされたうちわやグッズ、プリントシャツを着用した人間たちが熱射の中に群がり集う。
現在、ネオ童実野シティでは一年前より空前の“
──天蓋の閉め切られた童実野ドーム内は既に照明が落とされていた。
ドーム中央部に設置されたステージ台、そこから八方に伸びる白のランウェイだけが暗闇の中に光輝く。
最前列はステージ周辺での立見になる。ファンにとって憧れのアイドルを間近で見られるこの場所はなによりの特等席。
残りの観客は上階と階下に分けられた観客席で眺めることになる。上階に座る観客は吹き抜けから眼下のステージを眺め下ろす形だ。
既に準備の整った暗闇のドーム内では、観客たちの持つペンライトの光が輝く蛍のように蠢いていた。
一方その頃、会場に集まる観客たちが今か今かと目的のアイドルの登場を待ち侘びるその裏で、例のデュエリストアイドル“早河かれん”は現在ステージ裏の楽屋で鏡と向かい合い、銀鼠色の髪を束ねてツインテールを作っている最中だった。
背後から現れた黒色キャップ棒、黒革ジャケットの背の高い細見の男が化粧台に座る彼女に呼び掛ける。
「フフッ、すごいすごい。シティ中の人間があんたの歌を聞きにきてる。会場はすでに大盛況だ」
楽屋扉口から現れた“志賀雷銅”に目もくれず、早河かれんは鏡に映る自分に向かって淡々と化粧を進めてゆく。
白の小さな入れ物から薬液漬けにされた茶色のカラーコンタクトレンズを目にはめて、彼女は生来の“瞳の色”をそのレンズの中に隠した。
早河かれんは専属スタイリストをつけていなかった。化粧も、衣装も、自分で施すのが彼女のプロとしての流儀だった。
──化粧を施し終えた早河かれんがブランドバックから手のひらサイズの長方形の箱を取り出す。
ビニールに包まれたその封を慣れた手つきで切ると、彼女は中から一本のタバコを取り出した。
口に咥えてライターのギアを弾き、楕円型の炎を灯す。炎の先端で筒先を燻ると、タバコは品の良い香りを匂わせて緩やかな紫煙を楽屋に噴き上げ始めた。
「ファンのチケット代がアイドルのタバコ代になってるとは。他人事ながら泣けてくるな」
「通報されたいわけ?」
ここで初めて早河かれんが鏡越しに志賀雷銅へと毒づき始めた。
咥えたタバコを指に取り、肘の立てられた指先で遊ばせると紫煙が天に向かって舞い踊る。
「毎度毎度勝手に入ってきて、アルカディアムーブメントの人間っていうのはどいつもこいつも行儀がなってないのかしら」
志賀雷銅は捻たように笑う。
「そう気を悪くしないでくれ」
近くのパイプ椅子に腰かけた雷銅もタバコを取り出す。
「最近、“妹”さんとはどうしてるかなと気になって来てみただけだ。たしか画家なんだろう?」
疑問に面持ちを変えたかれんが横目程度に座る雷銅へと振り返る。
「……ずっと会ってないけど……? それがあんたになにか関係あるわけ……?」
同じくタバコをふかした雷銅が天井を仰ぐ。
「たまには顔合わせた方がいい。唯一の肉親、もう“2年”ばかし会ってないんだろ? 相手も寂しがってると思うがな」
「……」
再び鏡に顔を戻したかれんが、率直に静かな憤りを露わにする。
「……出ていってくれる? もうすぐ本番なの」
意図せず地雷を踏んでしまった志賀雷銅が、しばらく早河かれんの背中に視線を向けたのち、席を立った。
「……すまなかったな」
雷銅が楽屋を去っていった事を確認して、早河かれんは燃え尽きて溜まったタバコの灰をガラスの灰皿にひとつ落とした。
次の瞬間、不満に眉間を歪めたかれんは力任せにタバコの先端を灰皿に押しつけていた。
“ジュ”……と切れの悪い音を立てて、灯っていた熱が消える。
「あんたになんの関係があるってのよ……妹が寂しがってるですって……?」
味の不味くなったタバコを灰皿に処理して、かれんは積もり積もった重い感情を息に吐いた。
吐き出された息が目の前の鏡に吹きかけられて、磨かれた鏡が一瞬だけため息に曇る。
現在は疎遠になってしまった“妹”の後ろ姿が、曇った鏡の向こうに見えた気がした。
「寂しがってるわけないでしょ……あの子には“才能”があるもの……わたしの“歌”なんかと違って……」
誰もいない楽屋の中で彼女は孤独に目を伏せて、静かにつぶやく。
「観客はわたしの歌を聞きにきてるんじゃない」
伏せた眼差しを上げて、早河かれんはもう一度自分の顔を確認するように鏡へと向き合った。
「観客は、わたしの“顔”を見に来てるのよ」
──熱に溶けてしまいそうに儚げな雪肌だった。胸元まで伸びた銀鼠色の艶やかな髪と緩いウェーブのかかったツインテールが彼女の白い肌を彩る。
目頭からくっきりと二重瞼の浮かぶその大きな瞳は彼女の持つちいさな顔とは不釣り合いといえるほどに大きく、そして輝いていた。
紅色の唇の上に浮かぶすっきりとした目鼻立ち。首筋も含めて細く繊細で、触れればすぐに溶け崩れてしまいそうな儚さ。
雪原の中に咲く一輪の、紅色花のような存在。
早河かれんは思う。
鏡に映る自分の顔は、いつ見ても──。
「────」
──“雛宮聖華”のものと、瓜二つだった。
「────さ、行きましょうか、“早河かれん”」
芸能人“早河かれん”として鏡の前で気持ちを入れなおした彼女が、その表情を引き締める。
楽屋を出て外で待っていたスタッフと合流した早河かれんは一路、廊下を歩きライブの行われる特設ステージへと向かった。
一国の姫を護衛するかのように数人のスタッフたちが彼女のまわりをついてまわる。
今日もスタッフたちの機嫌取りと媚び売りを彼女はかわしてゆく。
「おはようございます、かれんさん!」
「今日もとてつもなくお綺麗ですね!」
「かれんさん、なんか今日一段とお肌スベスベですね? モイスチャー星人並じゃないですか? いやもうかれんさん自身がモイスチャー星人なんじゃないですか!? モンスター3体リリースしちゃいましょう!」
次々と繰り出されるスタッフの媚びをそれとなく彼女は受け流してゆく。
──ステージ裏に辿り着く。大勢の人の気配のする会場の裏で作業する何人ものスタッフたちが、ステージ裏側に入ってきた早河かれんの姿に一斉に注目する。
「おつかれさまです!」
「おはようございますかれんさん。いつものように僕が指で合図するんで、カウントが始まったら撮影に入っちゃってください」
「はい」
──まだ見ぬ観客たちを見据えて、早河かれんが待機位置につく。
迫る時刻の頃合いを見計らって、カウントの準備を始めたアシスタントスタッフが機材を持って早河かれんの斜めに腰を下ろし、指でステージ入りのカウントを刻み始めた。
刻まれるカウント。ステージ口を見据える早河かれんはふと、照明の光の向こうに“妹”の姿を思い出す。
(──“
引き締めていた口元が密かに緩む。
(あなたのおかげでわたしは“この顔”を手に入れ、そして“早河かれん”というアイドルになれた)
そして密かにちいさく、ステージ表側に集まる観客たちを嘲笑った。
(誰もわたしを“わたし”だと気づく人間はいない。“早河かれん”の本質に気づく人間はいないのよ)
──無言のカウントは3秒前を示した。
カウントに合わせてマイクを持った彼女が昇降装置に乗って観客の待つ舞台へと上がってゆく。
徐々に聞こえ始めた観客たちの声に、かれんは気持ちを昂らせ始めた。
(──“外側”が綺麗なら満足なのよ人は。内側なんてどうでもいい、“外側”さえ綺麗ならそれでいい……)
──爆音のごとく、ライブ会場に観客たちの声が反響した。
ランウェイの伸びるステージの周囲を隙間無く埋めるように群がる観客たちの湧き立つ声。
一斉に吹き上がった銀紙吹雪と焚かれたスモークと共にステージ中央から姿を現した早河かれんを見て、数万人の観客たちがステージ照明だけが光る暗闇で各色に光るペンライトを盛大に振り回して狂喜乱舞のごとく舞い踊って彼女の登場を喜んだ。
轟音に鳴り響く歓喜の声が、マイクを持ってランウェイを歩く早河かれんを包み込む。
黒のステージドレス揺らし、リズム良くステップを踏む彼女の右手が、手に持つマイクを指で弄び始めた。
ひとしきり手の中で転がしたマイクを口元に構えて、スポットライトに当てられた彼女が強く観客に呼びかける。
「──みんなー! 今日はわたしの“デュエルライブ”に来てくれてありがとうー!!」
「────おおぉぉ!!」
憧れのアイドルの呼びかけに更に湧き立った観客たちが飛び跳ねる。
ステージに立つ早河かれんに観客たちが惹かれる理由。それは、
透き通った“声”か、
抜群の“歌唱力”か、
事務所PR向けに売り出された“堕天使”という一癖ある“キャラクター”か、
それとも世間向けに演じている天真爛漫な性格か──煽情的に唇に指をあてたかれんが笑顔の裏でそれらすべてを否定する。
(どれも違うわ。よく現実に目を
観客の、ステージの、すべての中心でこの世界を支配するかのように片腕を掲げ、高らかに曲を歌い上げる早河かれんの茶色の瞳が、天を仰いで
(──“見た目”よ。シンプルにわかりやすい“美貌”、その美貌に観客は群がり寄りつくのよ)
天に向かって掲げられた早河かれんの手が力強く握られ、独自の思想理念を込めた拳の形に変わる。
(甘蜜に群がる、
“人は中身ではない。見た目がすべてである”。
それがデュエリストアイドル“早河かれん”の信仰してきた持論だった。
一方で“妹”は呆然と座り込んで、ただ悲しみに伏せ込んでいた。
失意に項垂れた少女が、先ほど落としたキャンバスを胸に抱える。
守るように、離れないように、両腕で強くキャンバスを抱きしめた少女が、その油彩画に向かって顔を
銀鼠色の長髪が、纏わりつくようにキャンバスに覆いかぶさる。
「“おねえちゃん”のためならなんでもしてあげたかった……」
──“あの日”から何年が経っただろう。
明確に、“姉”が変わってしまった日。
あの日から、妹である自分は姉の救いになるべく、献身的に尽くすべきなのだと──金戸未来は思っていた。
「“雛宮おねえちゃん”に近づいたのは、本当は“おねえちゃん”のためだった……でもわたしは、“雛宮おねえちゃん”のことも、かけがえなく、次第に好きになっていった……」
自らの描いてきた作品しか存在しないアトリエで、ひとりつぶやく。
「変わる前の“おねえちゃん”みたいだった……わたしの、たったひとりの家族……わたしは雛宮おねえちゃんの中に、疑似的な“家族”を求めていた……」
自嘲するようにキャンバスの中で笑う。
ひとりには広すぎるアトリエで、抱きしめたキャンバスから顔を上げ、天井を仰いだ未来が、乾いたように笑った。
「アハハッ……おねえちゃんが欲しかった。わたしもう一度、“お姉ちゃん”が欲しかった……」
──どこかから落ちてきた一滴のしずくが、キャンバスの油彩をにじませた。
画面に描かれた“雛宮聖華”の顔に、落ちてきたしずくがにじむ。
帆布がしずくを吸い込み、濡れた点をそこに作り出した。
次々に落ちてくるしずくを、キャンバスが受け止めてゆく。
それが自分の顎先を伝って落ちている涙だということに未来が気づいたのは、ずっと後のことだった。
「でも追いかけたらふたりとも消えちゃった、どこか遠くへいって、消えちゃった。……ごめん、ごめんね、“おねえちゃん”、“雛宮おねえちゃん”、迷惑をかけて、ごめんなさい────」
──愛が欲しい。
“才能”なんていくらでも差し出すから。
絵でも、富でも、カードでも、なんだって差し出すから。
自分の持てる限りのすべてを、心の“
「────うわあぁぁぁぁぁ…………!!」
──絶望の色に染められた少女の絶叫が、孤独のアトリエに木霊する。
“才能”で──人が繋ぎ止められるものか。どんな才能を、どんな富を、どんな肩書きを持っていたところで本当に欲しいものは、取り戻したいものは手に入らない。
孤独の美術館に取り残され、涙を流す14歳の少女はそう強く、実感する。
少しずつ芽吹き出した“心の闇”が、若き少女の胸を蝕み始めていた。
次に使用するデュエル構成の進捗が難航してるので次回の更新は遅れると思います。
それと、今更ですが更新再開しました。
1年以上更新の途絶えたまま音沙汰もなく間を空けていたんですが、紆余曲折を経て戻ってまいりました。
本当はもう続きを書く気持ちはなかったのですが、更新が途絶えてからも意外と裏で読者の方々からメッセージを貰うことが多くて、こんな拙い作者の書く小説でも続きを待ってくれている人がいるんだなと実感して、更新を再開することを決めました。
正直現在の遊戯王のカードプール、環境は把握できていません。リンク召喚実装以降のカードプールが“?”状態で手元にカードもなく、デュエルもwikiと裁定を逐一漁りながら構築している現状です。そのためOCGを辞めてもう日が長く、皆さんが納得できるような熱いデュエルを描けないかもしれません。
ストーリーにおいてもオリジナルキャラクターばかり頻出して、読み手の方々を物語から置いてけぼりにしてしまうかもしれません。
それでもこの小説を読んでくれるのなら、作者としてこれ以上嬉しいことはないです。
長らく期間を空けて申し訳ありませんでした。
これからもどうかよろしくお願いします。
ちなみに次回以降の対戦カードは以下のものを予定しています。
・イェーガーvs早河かれん。
・雛宮聖華vs早河かれん。
・牛尾哲vs金戸未来。