Steins;Gate アフターストーリー   作:第22SAS連隊隊員

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牧瀬紅莉栖編

Steins;Gate アフターストーリー

 

牧瀬紅莉栖編

 

季節は本格的な暑さが近付きつつある7月下旬の昼前、ここは東京の秋葉原。その秋葉原のとある場所を一人の男が歩いていた。

これから気温は更に上昇すると言うのに、男は太陽光を照り返す純白の白衣を翻しながら颯爽と歩いている。男が目指す先は小さな2階建てのテナントビルだ。

男――岡部倫太郎はテナントビル2階への階段を昇り、その先にある部屋の扉を勢いよく開けた。そこには彼が見慣れたラボ、未来ガジェット研究所の内装と、

 

「あら、今日は随分と早いのね」

 

赤毛の少女がドクターペッパーを片手にPCの前に座っている光景が広がっていた。

突然、声を掛けられ。岡部は扉を開ける際の勢いが余って転びそうになるが、辛うじて持ち堪える。体勢を立て直した所で岡部は赤毛の少女、牧瀬紅莉栖に「そう言うお前こそ、随分と早いではないか」と皮肉気に言うと。

 

「別に良いじゃないの、勧誘したのは岡部でしょ?」

 

「まぁ、そうだが……ところでダルは? 試験が俺よりも早く終わったから先にラボに来ている筈だが……」

 

「橋田ならついさっき、メイド喫茶に行ったわよ。なんでも今日はイベントがあるとか」

 

その言葉を聞くと岡部は右手で顔を覆い、呆れたように天を仰ぐ。紅莉栖は手元のドクターペッパーを一口飲みながら、その姿を冷やかに眺めていた。

空いている左手で拳を作り、その拳を震わせつつ「ダルめ、逃げおったな……!」と、岡部は愚痴を零す。

一通りぼやくと気が済んだのか。靴を脱いでスリッパに履き替え室内のソファーへと向かい、そこに腰掛ける。安物の為か座り心地は余り良い物では無く、岡部は何度か座り直した。

紅莉栖は岡部がスリッパに履き替えた所でPCに顔を向け、軽やかな指捌きでキーを打つ。踊るように、リズミカルに白魚の様な指が次々とキーの上を舞い踊る。

それに合わせて紅莉栖も鼻歌を歌い始めた。鼻歌のリズムに合わせて首も小さく上下し、なんとも楽しそうにタイピング。岡部はそんな彼女の背中をどこか呆れたような、なんとも形容しがたい表情で見つめていた。

傍から見れば赤毛の美少女が楽しげにタイピングしているように見えるであろう。少なくとも外見だけは。

が、肝心のPCのディスプレイ。そこに映し出されているのは多くの書き込みと『名無しさん』の文字、多種多様な英語と数字の羅列――IDの数々。

その中に一つだけ『栗悟飯とカメハメ波』という、他では名無しさんと表示されている部分に明確な名前を持つ書き込みがあった。

書き込みの内容は先程喰ってかかってきた名無しの発言を、これ以上ないほど完璧に論破する言葉の数々である。

 

「ふふん、私に勝負を挑もうなんて100億年早いのよ。サイエンス誌を穴が開くほど読んでから出直して来なさい」

 

紅莉栖はそう言ってエンターキーを人差し指で押し込む。すると、ディスプレイには再び栗悟飯とカメハメ波の発言が書き込まれた。

そう、紅莉栖はネットで最大の規模を誇る掲示板。固定ハンドルネームで@ちゃんねるに書き込みを、しかも立てられているスレッドに片っ端から割り込み、そこで行われている議論の間違いや矛盾点を次々と指摘しているのだ。

当然ながら議論を行っていた者たちは突然の乱入者に腹を立て、次々と質問を浴びせるが、これこそが紅莉栖の真の目的でもあるのだ。

矢継ぎ早に浴びせられる質問に栗悟飯とカメハメ波――紅莉栖は素早く、それでいて正確且つ分かりやすい返答を書き込み。次々と自分に喰ってかかる者を黙らせていた。

自身の書き込みにそのスレッドを見ている者たちが沈黙すると、紅莉栖は何とも嬉しそうな表情を浮かべる。その美貌にはとても似つかわしくない底意地の悪そうな笑みを。

鏡で自分の今の表情を見たら紅莉栖は十中八九、羞恥の余りにしばらくは塞ぎこむこと間違いなし、それほど似合わない笑みであった。

岡部はその背中を黙って見つめ、溜め息を一つ吐く。ふと、紅莉栖と知り合ってからどれ程になるのか考えてみた。

彼女との出会いはα世界線とβ世界線。そして2つの世界線の間に位置する、このシュタインズゲート世界線を含めた3つの世界線で、岡部と紅莉栖は2010年の7月28日、秋葉原のラジオ会館で出会った。

そして幾つもの想いを犠牲にし、紅莉栖を救い、文字通り世界の命運を左右するタイムトラベル理論が書かれた論文。中鉢論文を葬って、遂にシュタインズゲート世界線に辿り着き、今に至る。

とすると、今日は7月24日。二人が出会ってからほぼ1年になる。その1年の中で2010年の10月9日のラジオ会館前。岡部はもう出会うことが無いと思っていた紅莉栖と再会を果たした。

そして岡部はその場でラボメンの証、特製のピンバッジを渡して紅莉栖を未来ガジェット研究所に招いたのである。

出会いから再会、そして今に至るまでの1年間を岡部は回想してみると、笑みが込み上げてきた。紅莉栖がラボにやってきた当初は馴染めるかどうか心配した物の、彼女は驚くほどの早さでラボに馴染んでいった。

それこそ『以前から交流があった』ように。

それからは紅莉栖のねらーがバレたり、ラボメンで冬のコミマの参加、クリスマスに大晦日、正月。今年の春には花見に行くなど様々な思い出が蘇ってくる。

思い出を一通り回想し終え、岡部は改めてPCの前に座る紅莉栖の背中を眺める。相も変わらず楽しげにタイピングする彼女。タイピングの内容さえ知らなければ微笑ましく見守ることが出来るのだが。

岡部はそれからテレビをつけて適当な番組を視聴したり、テーブルの上に置いてある雑誌を読んでいるとあっという間に正午になった。

そろそろ昼食の準備――といっても買い置きのカップ麺を取り出すだけだが――をしようとソファから立ち上がった所で

 

「……っ!」

 

何とも可愛らしい腹の音が鳴る。紅莉栖がタイピングをしていない室内にはPCのファンの音だけが静かに響いており、音階の違う腹の音は良く響いた。

この音の発信源は二つ。岡部と紅莉栖のどちらだが、岡部は自身の腹に特に何も感じていない。ということは、

 

「ふむ、まさか0時丁度に鳴るとはな」

 

「わ、悪いか! 人間だからお腹が空くのは当たり前でしょ!!」

 

ディスプレイから岡部へと、顔を真っ赤に染めた紅莉栖が叫んだ。岡部は適当に返事をしつつキッチンの上の戸棚の片方を開け、中に仕舞われているカップ麺を取り出そうとして、動きが止まった。

戸棚の中を右から左へと見回し、次にもう片方の戸棚を開ける。同じように端から端まで見回した後、両方の戸棚を閉めて腕組みをする。

 

「参ったな……」

 

「ど、どうしたのよ?」

 

何時になく真剣な声で呟く岡部。その岡部の異変を感じたのか、紅莉栖は薄く冷や汗を掻きながら声を掛ける。

やや間を置いて岡部はゆっくりと、一言一言を絞り出すように口を開く。

 

「……買い置きのカップ麺が無い」

 

紅莉栖が座っている椅子から転げ落ちた。

 

 

 

 

「これと……ついでにこれも買っておくか」

 

それから数十分後、岡部は近くのスーパーの中にいた。赤い買い物カゴを片手に、安売りされているカップ麺を次々とカゴに放り込んでゆく。

時々ポケットから財布を取り出して、中身とカゴに入っているカップ麺の値段を確認する。数日分の買い置きをカゴに入れた所でふと、岡部は立ち止まった。

身体の向きはそのままに、顔だけは右の方を向いている。岡部の視線の先には綺麗に陳列され、強烈な冷却により表面に幾つもの水滴が浮かんだペットボトル飲料の数々。

その中のとある飲料、他は隙間なくギッシリと陳列されている中で、ポツンと1本だけ置かれている飲料に岡部の視線は注がれていた。

赤いラベルが貼られている500mlのペットボトル飲料――岡部が毎日欠かさず飲んでいるドクターペッパーが1本だけあった。

ゴクリと、岡部の喉仏が動く。岡部は今日、ドクターペッパーを1滴も飲んでいなかった。脳がそのボトルの存在を認識した途端に、彼の喉はまるで砂漠のようにカラカラに渇いてゆく。

ふらついた1歩目、次にしっかりとした2歩目を踏み出す。3歩目で足に余分な力が入り、4歩目から先はまるで競歩選手の様に踏み出していた。

数メートルの――岡部にとっては何十メートルにも感じられる――距離を歩き、1本だけ置かれているドクターペッパーの前に到達。渇きに震える左手を伸ばし、ボトルを掴んだ所で横から白く細い指が岡部の手の上に重ねられる。

 

「へ?」

 

「え?」

 

岡部はドクターペッパーから視線を外し、右を見た。そこには赤い髪の見知った顔、牧瀬紅莉栖の顔が。

紅莉栖はドクターペッパーから視線を外し、左を見た。そこには髭面の見知った顔、岡部倫太郎の顔が。

二人は至近距離でまじまじと互いの顔を見つめ合い、数秒後。

 

「うわ!!」

 

「きゃ!!」

 

二人はドクターペッパーから手を離し、それぞれ反対の方向に後ずさる。互いに荒く呼吸し、息が落ち着いた所で睨み合った。

 

「いきなり何をするんだ! そんなにドクペが飲みたいか!」

 

「違うわよ! ラボで私が飲んでいたのが冷蔵庫にあった最後の1本で、岡部は今日はまだ飲んでないだろうと思って手を伸ばしたのよ!!」

 

店内中に響き渡る二人の叫び。周りで買い物をしていた他の客の視線が、一斉に岡部と紅莉栖に突き刺さる。睨み合っている二人は自分達に向けられている眼差しに気が付かない。

と、怒りを露わにする岡部の額に寄せられていた皺が消え。今度は怪訝な顔つきに変わった。

 

「って、助手。俺が今日ドクペを飲んでいない事が何故わかったんだ?」

 

「何となくよ。岡部の性格からしてラボに来る途中でドクペを飲んでいるとは思えないし。伊達にあんたと過ごして……」

 

そこまで言ったところで突然、紅莉栖の顔が一瞬にして朱に染まった。顎の先から耳の先まで血色の良い赤になり、艶のある唇がわなわなと震える。

岡部の眼をまっすぐ見ていた視線は逸らされ、所在なさげに店の床を這う。いきなり口を噤んだ紅莉栖の様子に岡部は首を傾げた。

 

「お、おい。紅莉栖?」

 

「ああ、もう! と、とにかく買う物は全部カゴに入れたんでしょ!? ほら!」

 

言うな否や、紅莉栖は陳列棚からドクターペッパーを引っ掴み、岡部の持つ買い物カゴに叩き込んだ。勢い良くシェイクされたボトルの中身が泡立つ。

紅莉栖は駆け足で店の出入り口に向かい、岡部と擦れ違う時に「私は先にラボに戻ってるから!」と言い残して店を後にしていった。

その後ろ姿を岡部と他の客達は呆然と見送り。暫くの間、店の中の視線は灼熱の世界と冷房の利いた店内を仕切る2枚の自動ドアに注がれる。

数秒間、自動ドアに視線が注がれた後、今度は後に残され呆然と突っ立っている岡部に視線が向けられた。岡部は相も変わらず自動ドアに注意が向いていたが、自身に向けられている眼差しの数々に気が付くと早足でレジに向かう。

大急ぎで会計を済ませ、受け取ったビニール袋に手早く商品を詰め込み、カゴを素早く戻して足早に店を後にした。

 

 

「まったく、岡部のせいで大恥を掻いたわよ」

 

「元はお前が最後のドクペを飲んだのが悪いだろうが」

 

「あれは残りの数を確認していない岡部の責任でしょ!!」

 

「言わせておけば!」

 

岡部がラボに到着してから数分後。二人はソファーに隣り合って座り、目の前のテーブルの上に置かれたカップ麺が出来上がるのを待ちながら、口論を繰り広げていた。

互いに重箱の隅を突き合い、揚げ足を取り、屁理屈をこね、終わりの見えない喧嘩が続いている。二人の喧嘩が最高潮に達しようとした寸前。

 

「「あ」」

 

室内にピピピという電子音が鳴り響く。設定していたキッチンタイマーが3分経過した事を知らせていた。

二人は即座に口論を止め、目の前に置いてある自分のカップ麺とフォークを手に取り、麺の蓋を開けた。湯気と共に食欲をそそる匂いが二人の鼻孔をくすぐる。

フォークを持ったまま手を合わせて食事の前の挨拶をし、フォークの先端にお湯で戻った麺を絡めて勢い良く啜る。良く咀嚼し、喉を鳴らしながら飲み込むと二人同時に一息吐いた。

それからは二人は余程の空腹だったのか、黙々と昼食を続ける。麺を平らげ、具も全て胃に納め、残るはスープを飲み干すだけ。

紅莉栖はカップを傾け、醤油味のスープを口に運ぼうとした時。ふと、岡部は紅莉栖の右手に握られているフォークを注視した。彼女が握っている銀色のフォークはラボの備え付けの物であり、柄も飾りも無く素っ気ないデザインである。

そして岡部の脳裏にα世界線の、タイムリープして紅莉栖に実験の成功を伝える際のキーワードが思い起こされる。

――私が今、欲しいのはマイフォーク。これを知っているのは私と岡部だけよ。

この言葉をリープ前の紅莉栖に伝え、彼女の理論と実験は正しい事を本人に伝える、筈だった。

実際に成功を伝えた所、紅莉栖は何時もの厨二病と切り捨て全く取り合わず。挙句の果てには自分の秘密であるフォークの事を知られて、数時間後の自分を恨む始末であった。

岡部が過去の出来事を回想している内に紅莉栖はスープを飲み干し、再び両手を合わせて感謝の言葉を口にする。岡部もカップに残ったスープを一息に飲み干し、紅莉栖と同じように食後の感謝を述べた。

二人は空の容器をゴミ箱に捨て、フォークを手早く洗うとソファーに戻った。食べる前と同じように並んで座って、岡部がソファーの手摺に置いてあるリモコンを手に取り、ラボに置かれたテレビに向けながら電源ボタンを押した。

このご時世で数が少なくなってきているブラウン管テレビの画面に一瞬光が走り、数秒後には黒一色だった画面にバラエティ番組が映し出されていた。岡部と紅莉栖はその番組に冷めた視線を送り、次の瞬間には画面にニュース番組が映っていた。

それから何度か岡部がチャンネルを切り替えるも、二人の午後を楽しませてくれる番組は一向に見当たらず。最後に岡部がリモコンの電源ボタンを押してテレビは沈黙。

岡部はリモコンをテーブルの上に置くとソファーの背もたれに寄りかかり、上を向いて天井の染みを数え始めた。その隣で紅莉栖は床に置いてあった雑誌の山から一番上に置かれている物を手に取り、読み始める。

二人は一言も喋らず、紅莉栖が雑誌のページを捲る音と遠くの喧騒だけがラボの室内に静かに響く。

それから数十分後。染みを数え、新作のガジェットを考え、夏休みはどう過ごそうか考えていた岡部の瞼が徐々に降りてきた。それに合わせて岡部の意識も徐々に遠くなり体が船を漕ぎ始める。

何度か意識が覚醒して頭を振るが、空腹を満たし、特にこれと言ってやる事も無く、程良い室温も相まって強烈な睡魔はしつこく迫ってくる。

それでも岡部は懸命に睡魔を振り払うが、そこは人間。三大欲求の一つに勝てる筈も無く何時の間にか意識は睡魔に呑まれていた。

 

 

岡部が眠りについてからどれだけの時間が経過したであろうか。彼はゆっくりと意識を取り戻し、まどろみから目覚める。

霞がかかったような視界は時間と共に徐々に明瞭になり、意識もやや遅れてクリアになって行く。一先ず視界が戻った岡部は自分の左肩に感じる重みに疑問を感じ、意識がぼやけたまま顔をそちらに向ける。

女性特有の甘い香りとシャンプーの香りが岡部の鼻孔をくすぐり、鼻先を赤い毛髪が掠めた。岡部の視界に真っ先に入ったのは赤い色。それが何なのか分からず動きが停止するが、次に聞こえてきた寝息で岡部はその正体を悟った。

隣に座っていた紅莉栖が岡部の左肩を枕に眠っていたのだ。長い睫毛を伴う瞼が閉じられ、規則正しい寝息が朱色の唇から漏れる。

左肩の重みの正体を知った岡部は全身が硬直し、意識が一瞬にして覚醒するが代わりに思考と呼吸が停止。視線が忙しなく動き回り部屋中を彷徨う。

何か注視出来るものを探して彷徨い続ける岡部の双眸は自分の背後の壁、その上部にかけられた時計に落ち着いた。時計の長針は頂点の12を、短針はその隣の1を指している。

――1時か。岡部はとりあえず現在の時刻を把握し、次に紅莉栖をどうしようかと冷静に考える為に深呼吸。頭を十分に冷やした所で室内が暗い事に気が付いた。

視線を時計からラボにある唯一の窓に動かすと、そこには四角く切り取られた。月明かりが薄く照らす夜の世界が。岡部は現在の時刻を、深夜1時であることを悟る。

 

「お、おい。助手! 起きろ、起きるんだ!」

 

「んー……」

 

「起きろ! 電車が行ってしまうぞ!」

 

電車の単語に反応したのか紅莉栖がゆっくりと身を起こす。眠たげに目を擦り、大騒ぎする岡部にぼやくと窓の外を、次に背後の時計を見る。紅莉栖の表情が固まった。

 

「は……? え、もうこんな時間!?」

 

「急げ! 終電に間に合わなくなるぞ!」

 

「ちょ、ちょっと待って!」

 

紅莉栖は慌てて懐から携帯を取り出し、ネットに接続する。次から次へと素早くボタンを押して目的のサイトにアクセス。少しの間、食い入るように携帯を見つめると、やがてがっくりと肩を落とした。

 

「遅かった……最後の電車、1時間前に出てる……」

 

岡部の表情が凍り付く。同時に全身から冷や汗や余り掻きたくない嫌な汗が吹き出し、シャツとズボンを湿らせてゆく。

紅莉栖が滞在しているホテルは御茶ノ水にあり、歩いても辿り着ける距離だが時間が時間である。こんな時間に女性を一人で歩かせるのは余りに危険。

タクシーという手段もあるが、生憎、今日はスーパーでの買い物で岡部の懐は全く余裕が無い。岡部は自分もホテルまで付き添いをするべきかと思った所で、

 

「はぁ、しょうがない。今日はラボに泊まるわ」

 

紅莉栖の発言を耳にした岡部は、更に大量の汗を掻く事になった。首がまるで油の切れた機械の様にぎこちなく回転し、紅莉栖の方を向く。

そんな岡部の事は気にも留めず、紅莉栖は「毛布はどこだっけ?」とラボの箪笥を開けていた。

その後、岡部は何とか紅莉栖をホテルに帰らせようとあの手この手で説得を試みるが。元から紅莉栖に口で勝てる訳が無く、結果的に岡部が折れる事になり紅莉栖のラボ宿泊が決定する。

それから1時間後。紅莉栖はソファーの上で、岡部はソファーに背を向け床の上にそれぞれ毛布を被って横になっていた。室内には時計の秒針が規則正しく時を刻む音だけが響いており、部屋の中が殆ど無音である事も相まってかなり大きく聞こえる。

そして岡部は、目を見開き。窓の外に見える月を眺めていた。長期休暇になるとラボでの寝泊まりは当たり前である岡部、何時もなら直ぐにでも眠りに就くのだが、今日は全く寝付けなかった。その理由は二つ。

一つは昼間にたっぷりと睡眠を取っていたことだが、もう一つの理由に比べれば実に微々たるもの。もう一つの理由、それは言うまでも無く背後のソファーに横になる人物である。

――羊でも数えようか。岡部が昔から伝わる睡眠導入法を試そうと目を閉じ、1匹目の羊を数えようとした所で即座にそれは中断される。

 

「岡部、起きてる?」

 

「……ああ」

 

背後から、か細い声が岡部の耳に届く。姿勢と顔の向きはそのまま、返事だけを返した。

やや間を置いてから、再び声がかけられる。

 

「私ね、昼間。夢を見たの」

 

「夢か」

 

「うん」

 

一つ一つの言葉を噛み締めるように、ゆっくりと紅莉栖は言葉を紡ぐ。

 

「そこは真っ白な場所で、黒い線で描かれた沢山の時計や扉がある世界で、そこで岡部が必死に走っているの」

 

「……」

 

「岡部は物凄く悲しそうな、思い詰めた顔をしていて。見ている私も切ない気持だった」

 

紅莉栖が岡部に話す夢の内容、それはまさに岡部が体験した世界線の旅そのものであった。

岡部の脳裏に彼が体験した時間漂流の記憶が次から次へと流れて行く。電話レンジ、Dメール、IBN5100、タイムリープマシン、ラウンダー、アトラクタフィールドの収束、ディストピア、リーディングシュタイナー。

そして、決して忘れる事の無い。忘れてはならない犠牲にした想いの数々。岡部は自然と唇を噛んだ。

 

「私は岡部に追いつこうとして走るんだけども、どれだけ頑張っても足がゆっくりとしか動かない。そうしている間に岡部はどんどん先に行って……」

 

紅莉栖の声が震え始める。

 

「声を出しても届かない、追いつこうとしても追いつけない……。怖かった……、私だけが時間の中に取り残されるような気がして、凄く怖かった……」

 

紅莉栖が語り終えると、秒針の音に混じって部屋に啜り泣く様な声が微かながら聞こえる。

岡部は何も言わず、何も言えずにじっとしていた。本当は何か声を掛けてやりたい。でも、何と言葉を掛けたら良い?

慰めの言葉か? ラボの長としての言葉か? 岡部倫太郎としての言葉か? 鳳凰院凶真としての言葉か?

次から次へと、言葉が胸中に浮かんでは消えて行く。何も口に出せない自分に岡部は苛立ち、歯噛みする。

と、啜り泣く声が止み。スプリングの軋む音と布が擦れる音が聞こえた。次いで聞こえるのは足音、徐々に岡部に近づいてくる。岡部が次の瞬間に背中に感じたのは人肌の温もり。

 

「お願い、今晩だけ……。今晩だけでいいからこうさせて……」

 

岡部は思わず声を上げそうになるが、上げる前に耳元で囁かれた声。怯えを含んだ紅莉栖の声に寸での所で飲み込む。次いで岡部は背中に小さな感覚、紅莉栖の指先を感じた。

白衣越しに伝わる紅莉栖の指は、震えていた。小刻みに震え白衣を摘む指先が紅莉栖の感情を岡部に伝える。

 

「……今晩だけだぞ」

 

わざらしく、ややぶっきら棒に岡部は言った。紅莉栖は小さな声で「ありがとう」と感謝を口にすると、岡部の白衣を摘んだまま眠りに付く。

数十分後、岡部の背後からは規則正しい寝息が聞こえる。岡部は紅莉栖が眠りに就いた事を確認すると小さな溜め息を一つ吐いて、自身も眠りに就いた。

 

 

夜が明けた。月が隠れ、入れ替わりに太陽が顔を出す。強烈な日差しと紫外線を地上に振り撒き、今日も1日が始まる。ラボに泊まった岡部は、太陽がかなり昇り昼の少し前に目を覚ました。

窓から差し込む太陽の光に身を焦がされ、額に薄く汗を掻きながら身を起こす。ふと、後ろを振り返るとそこには誰も居なかった。室内を見渡すとテーブルの上に1枚のメモ用紙が置いてある。

汗を拭いつつ岡部は立ち上がってテーブルに近付き、メモを手に取ってそこに走り書きで書かれている文字に目を通す。

――お先に失礼するわ、体に気をつけてね。 P.S 昨夜はありがと。 M・C

読み終えると、岡部は苦笑した。何とも言えない気恥ずかしさが混じった複雑な笑みを浮かべ、誤魔化すように後頭部を乱暴に掻く。

とりあえずは腹を満たそうとキッチンに向かい、上の戸棚に手を掛けた瞬間。岡部のズボンのポケットから軽快な着信音が鳴り響いた。

携帯を取り出し画面に表示される着信相手を見ると、名前は表示されておらず、相手の電話番号だけが表示されている。訝しがりながらも岡部はボタンを押して、携帯を耳に当てた。

 

「もしもし」

 

『もしもし、岡部倫太郎様でしょうか?』

 

「はい、そうですが」

 

『岡部様が注文されていた品が本日到着いたしました。注文された店舗にてお受け取りをお願いいたします』

 

岡部は自分が何か注文したのかと携帯を持ったまま首を傾げたが、数秒して自分が頼んだ物を思い出し、慌てた口調で直ぐに取りに行く旨を告げ。通話を切った。

携帯の画面で今日の日付――7月25日――を確認してからポケットに仕舞い、スリッパ脱ぎ捨て靴に履き替え、外に出てラボの鍵を閉め、何時も隠してある場所に鍵を隠し、財布の中身を確認して舌打ちすると、岡部は大急ぎで何処かへと走り去って行った。

場所は変わって、ここは御茶ノ水にある紅莉栖が滞在しているホテル。紅莉栖は下着とワイシャツだけの姿でベッドに横になっていた。床には脱ぎ散らかした服が散乱している。

紅莉栖はどこか遠い目で天井を見つめ、時折寝返りを打っては枕に顔を埋める。それも飽きると荷物から適当に雑誌を取り出してベッドに寝転がりながら流し読み。

他にもシャワーを浴びたり、髪を梳かしたり、爪を切ったりと、実に退屈そうに紅莉栖は1日を過ごしていた。やがて夕方になり脱ぎ散らかした服を片付けようとベッドから起き上がった途端、枕元に置いてある携帯からメールの受信音が。

膝立ち状態で携帯を取り、受信したメールを開くと。

 

From:岡部 題名:無題

すぐにきてくれ

 

たった1行。それも平仮名のみで書かれたメールが届いていた。紅莉栖は首を傾げ、不思議そうな表情を浮かべる。が、徐々にその表情は焦りに変わり。心臓が早鐘を打ち始める。

普段の岡部だったら何時もの厨二病混じりのメールか、真面目な話をする際はキチンとした文面のメールを送ってくる。しかし、今回のメールはどちらにも当て嵌まらない。

オマケに題名も無く、全く漢字が使われていない。こんなメールを紅莉栖は初めて受け取った。そして紅莉栖は岡部の身に何かあったのではと直感的に感じた。

大急ぎで片付ける筈だった服を着込み、財布と携帯を懐に仕舞うと部屋を出て、最寄りの駅に向かう。目的地は秋葉原。

御茶ノ水から電車に乗り秋葉原に到着すると、紅莉栖は人混みを掻き分けて全速力でラボに向かう。心臓と肺が悲鳴を上げ、足が今にも縺れそうだが今の紅莉栖はそれしきの事で止まる訳には行かない。

必死の思いで未来ガジェット研究所のあるテナントビルに到着し、重い足を引き摺りながら階段を昇る。途中、何度も階段から落ちそうになるが、やっとの思いでラボの入口に立つと勢い良く扉を開けた。

 

「岡部!!」

 

「うおぉぉ!?」

 

扉を開けると同時に岡部の名を叫ぶ紅莉栖。開けた先の夕焼けに染まる室内では岡部が入口に背を向けながら、紅莉栖の声に驚いて飛び上がる。

紅莉栖は靴を乱暴に脱ぎ捨てると岡部の元に走り寄り、こちらを向いた岡部の胸に飛び込んだ。

 

「岡部!? 何かあったの!?」

 

「あ、いや。その」

 

「体は大丈夫!? もしかして何処か痛いの!?」

 

「いや、だから」

 

紅莉栖は涙を溢れさせながら岡部に縋り付く。当の岡部は何とも困ったような顔をして、気まずい雰囲気を醸し出していた。

尚も畳み掛けるように言葉を浴びせる紅莉栖。困惑する岡部。ふと、紅莉栖が視線を外すと、テーブルの上にはやや小ぶりなケーキが丸々一つ置かれたいた。

純白の生クリームで彩られた円形のスポンジの上には、幾つもの真っ赤な苺と楕円のチョコレートプレートが添えられており、茶色いキャンパスの上にはクリームで「makise chris」と書かれている。

 

「え……」

 

テーブルの上に置かれた、自分の名前が書かれたケーキを見た紅莉栖は涙を浮かべたまま口を半開きにし、呆けた声を漏らす。

ケーキを見られた岡部は額に汗を浮かべ、視線を彷徨わせていた。

 

「これ……、私の?」

 

「あー……。誕生日おめでとう紅莉栖」

 

岡部は誤魔化すように紅莉栖の――彼女の19歳の誕生日を祝福する。次いで白衣の内側に手を入れ何かを掴むと、手を出した。そこには長さ15センチ程の細長い箱が握られている。

箱は赤い包装紙でラッピングされており、中央に結ばれた煌びやかな緑色のリボンが夕陽に染まって輝く。

 

「え……、これ……?」

 

「その……、すまない。あのメールだが、この為に送信したんだ」

 

「この為って……、私の誕生日?」

 

岡部は申し訳なさそうにゆっくりと頷く。自分の言葉が肯定された紅莉栖は数秒間、立ちつくし。やがて、

 

「~っ!! バカ!! 心配したのよ!!」

 

「いや、その。本当にすまない! お前をビックリさせてやろうと思ったんだが、やり過ぎた! 申し訳ない!!」

 

紅莉栖の怒声に岡部は素早く箱を仕舞い、地に平伏し三つ指を付いて見事な土下座を披露する。が、その程度で彼女の怒りが収まるはずもなく、数分間はラボに紅莉栖の罵詈雑言が溢れかえった。

言いたい事を全部吐き出し、喉もカラカラに乾いたのでやっと紅莉栖の罵倒が収まった。罵倒されている間、岡部は一言も反論せずに土下座の姿勢を維持し。紅莉栖の言葉に耐え続けていた。

荒く呼吸し、肩を上下させる紅莉栖。岡部は一先ず罵詈雑言の嵐が止んだ事を確認すると、改めてプレゼントの箱を取り出す。

 

「取り合えず……。これは俺からのプレゼントだ」

 

言うや否や紅莉栖はキッと岡部を睨みつけ、箱を引っ手繰るように乱暴に受け取る。

 

「全く、こんな物で私が簡単に機嫌を直すとでも思ってるの?」

 

口ではそう言いながらも、紅莉栖は丁寧かつ素早くプレゼントの包装を解いて行く。緑のリボンを解き、赤い包装紙を順序良く綺麗に剥がす。

包装が解かれ、中から白い箱が姿を現した。

 

「大体、私はそんな軽い女じゃ……」

 

白い箱の蓋を開けると、中には包装紙のクッションの上に置かれた一本の銀色のフォークが。

それも、ただのフォークでは無く。縁には細かい装飾が施され、何よりも柄の部分に筆記体で「Kurisu Makise」と紅莉栖の名前が掘られている。

自分に送られたプレゼントの中身を知った紅莉栖は、目を見開き瞬きせずにフォークを凝視する。岡部は頬を赤らめ、どこか照れくさそうに赤くなった頬を掻いていた。

 

「これ……何で……。何で私が欲しい物を知ってるの?」

 

「……ふ、フゥーハハハ!! この狂気のマッドサイエンティスト鳳凰院凶真。ラボメンの欲しい物を見抜くなど造作もないわ!!」

 

遂に耐えられなくなった岡部が、何時もの癖である厨二病を発揮させる。何とも傲慢且つ尊大に振る舞い、身体を反らせて高笑い。

が、何時もならばこの後、延々と岡部の厨二トークが続くのであろうが。今日は事情が違った。更に言葉を続けようと体勢を戻し、再び紅莉栖を視界に納めた所で岡部は言葉が出なくなった。

無理もない、そこには目から再び涙を溢れさせる牧瀬紅莉栖が居たからだ。

 

「お、おい! 何も泣く事は無いだろ!?」

 

「ちが……、違うの。分からないけど……フォークを見たら……涙が止まらなくて……」

 

紅莉栖は袖で涙を拭い。嗚咽を漏らしながらも言葉を紡ぐ。岡部は彼女がまさか泣き出すとは思わず、あっというまに鳳凰院凶真から何時もの岡部倫太郎に戻った。

 

「でも、どうして……。どうして私がマイフォークが欲しいって……」

 

そこまで言って、紅莉栖は言葉を区切った。いや、区切ったのではなく言葉を止めた。同じように涙を拭う袖の動きも止まり、まるで紅莉栖の時間だけが止まってしまったかのように停止する。

目を見開き、どこか呆けた顔になる。見開かれた目は戸惑う岡部を映し、その岡部はどうしたらいいかと慌てていた。

その時の紅莉栖の脳裏には幾つもの光景が、数え切れないほどの光景が濁流の如く次から次へと去来する。

ラジ館での出会い、ラボでの実験、Dメール、タイムリープマシン。文字通り津波のように圧倒的な数の光景が彼女の脳内を埋め尽くしては過ぎ去り、埋め尽くしては過ぎ去って行く。

そして、最後にやってきた光景。ラボのタイムリープマシンの前に座り、数時間前の自分に実験の成功を伝えるべく、岡部に彼女だけが知っている「秘密」を話した。

私が今、欲しいのは――

動く気配を見せない紅莉栖に、岡部はいよいよ救急車を呼ぶべきかと携帯を握り締めた。意を決して11とボタンを押し最後の9を押そうとした所で、か細い声が聞こえた。

 

「違う……。私、岡部に言ったんだ……。この世界の私じゃない私が、岡部に言ったんだっけ……」

 

両手で自身の名が刻まれたフォークを愛おしげに抱き締める紅莉栖。途切れ途切れに言葉を紡ぎ、岡部が何故、自分が欲しい物を知っていたのか。その理由を悟る。

今はもう、決して越える事の出来ない世界線の壁。世界線の数字が変わる度に世界は再構築され、岡部を除いた全ての人々の記憶も世界に合わせて再構築される。

本来ならばある訳が無い、それこそ奇跡でも起きなけれあり得ない事象が、たった今。ここに起きた。

 

「覚えててくれたんだ、私が欲しい物……」

 

岡部は紅莉栖に別の世界線での記憶を呼び起こされる。岡部にとっては能力であり、他者にとっては現象である「リーディングシュタイナー」が発動した事に驚いていた。

本来ならば岡部以外の人間には、別の世界線での記憶は夢やデジャヴ等、非常に曖昧な形で現れ。殆どの人間は気にも留めない。

しかし、今。目の前に居る紅莉栖はハッキリとα世界線での記憶を呼び起こした。

 

「……当たり前だ、俺が忘れる訳ないだろ」

 

紅莉栖のリーディングシュタイナーは確かに驚くべき事だが、少なくとも今の岡部にとっては大したことでは無かった。

今はそんな事よりも大切な事がある。

 

「改めて、誕生日おめでとう。紅莉栖」

 

 

それから10分後。

 

「ん、中々美味しいわね」

 

「結構高かったんだからな、そのケーキ。味わって食べろよ」

 

「わかってるわよ」

 

岡部と紅莉栖はソファーに並んで座り。綺麗に三角形に切られたケーキを小皿に取って頬張っていた。

一口食べるごとにきめ細かなスポンジの柔らかさ、生クリームの舌触りに苺の甘さが口の中に広がる。

岡部はケーキをフォークで食べやすい大きさに切ると、それをフォークで刺し口に運ぶ。

紅莉栖も同じように食べやすい大きさに切り、フォークで口に運んだ。

その右手には彼女がずっと欲しかった物。世界線の壁を越えて、岡部によって紅莉栖に届けられた世界でたった一つの、彼女の名が刻まれたマイフォークが握られていた。

 

 

 


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