Q.真っ当に頑張った奴に救いは?
A.ないと駄目だろ
視界には何も映らない。
木も草も水も、何一つ映らない。
獣は自らその目を潰した。
獣の居る地の近辺は地獄と言うに相応しい。
肉の破片が転がっている。赤い水が点在する。
白い少年が、トライヘキサは其処にいた。
少年の肉体は惨いとしか形容できない。
頬肉は削がれ赤い繊維の束がちらつき、腕は引きちぎれ赤い肉の糸を引き、白く割れた枝が姿を露わにし。足は手折られた花の茎の様に転がるばかりで。眼は横一文字に抉り削られていて、右からはコロリとした透明な塊が地に落ちた。
心というものは脆い。一度深く傷つけば癒えるまでに相当の時間を要する。もちろん、個人差はあるが。
「…結局、僕も同じだった」
人に仇を成す人外。自らが憎み滅ぼした者共。それと己はなんら変わらない存在。ああ、獣はいくらの命を殺したのだろう?数え切れないほどの数なのかもしれない。もしかしたら、ほんの二、三人なのかも知れない。
だが獣にとってはそれ以前の問題だった。
彼の中では、『人の命を奪った』。この事実だけでもう彼の精神を折り砕くには十分なのだ。彼の中では人の命の価値は重すぎた。大き過ぎた。
彼の出生は、彼自身理解していない。ただ生まれ時、彼は永劫の孤独の中にいた。とある星に命が生まれるまで。
「この通りの様だったんだ…!」
彼は最初こそ、その命を見て理解に苦しんだ。
なぜ短命と知りながら争うのか?
なぜ有限と知りながらも無為に過ごすのか?
なぜ無駄と知りながら足掻き生きるのか?
故に最初に下した判断こそ『無価値』だった。
「…たくさん殺した」
だがその評価は改まるものとなる。
あまりにも惰弱な命だ。それには変わりない。
だがある時は己より強大なものを打倒する。
だがある時は己より他者の命を優先して救う。
だがある時は己より下にいる者を引き上げる。
勿論、其処に下心が無いと言えば嘘だろう。
だが真心が完全に無いと言う事ではない。
勿論、其処に悪意が無いと言えば嘘だろう。
だが善意が完全に無いと言う事ではない。
勿論、其処に傲慢が無いと言えば嘘だろう。
だが慈愛が完全に無いと言う事ではない。
「…ああ、殺したんだ」
善と悪の両方を孕む存在。
悪を知りながらも善を成し、
善を知りながらも悪を成す。
なんて、自由な在り方だろうか。
獣は畏敬の念を抱いた、そして焦がれた。
苦楽を共にして形成される『情』
産声を上げる命を柔らかに抱く『愛』
過ちや裏切りをを認め許し受け入れる『和』
人類のみが持つであろう、黒暗と白光の灯。
「…結局自分から壊したじゃ無いか…!」
だが、そうだ。獣は自ら憧れを壊した。
其処に悪意がなくとも、他意が無くとも、
自ら、自分が手を下してしまった。
その事実は杭となって彼の胸を穿つばかりだ。
拳が地を叩く。虚しく打つ音のみが木霊した。
そのまま重力に身を任せ倒れ伏す。
ああ、もうこのまま朽ち果ててしまおう。
そうすれば、もう、余計に人が死ぬ事も無い。
「で、なんじゃ? そこで果てるつもりか?」
女性特有のたおやかな声色がした。
独特な紫煙の匂い。知っている。
獣はこの匂いを、知っている。
「して、どうした?童に追われたか?」
この声を聞いたことがある。
記憶の中でも本当に本当に新しい。
居場所をくれた、命を繋いでくれた。
「まるで、主が去った後の九重の様じゃな」
コロコロとした、笑い声。
でもそれは、どこか物悲しくて、
それでもやっぱり、暖かだった。
「八坂、…さん……?」
■
メフィスト・フェレス。
彼に纏わる資料は非常に少ないものの、ゲーテによる戯曲のキャラクターとして登場したことから人気を博し、後世の研究などで様々な設定を発見・考察されることとなる。
ある伝説では魔王ルシファーの従者の一人とされ、冷獄で封印される彼の代行として職務をおこなう高位の悪魔とも言われている。
『…今日は波乱の日和だった。一刻も速く自体を収めようと躍起になった神話が殆どだろう。或いは、根本を断とうと冥府や地獄に眠る太古の英雄を呼び起こしたものだっているだろう。僕はそんなあなた方に対して、問いかけたい』
『それ』は、そんな彼により各神話勢力へと唐突に送られた一枚の便り。
こうなることを見計らっていたかの様なタイミングで送りつけられてきた数枚の文書。その内容もまた然り。
だがその一枚一枚には、印刷の様な無機質さは無い。その全てが懇切丁寧に、それでいて切に力強く綴られた文体。
『意図的では無い。或いは、唆され多くの人命を奪った「トライヘキサ」は、本当に暴威と暴力の塊なのか? まぁ、この質問に迷う人なんていないよね。彼は確かに暴走した。ただ一つの災害と化した。ああ、確かに彼は理性なき「獣」だ』
それを、北欧の大神達は静かに眺めていた。
それを、ギリシャの神は目に焼き付けていた。
それを、民間伝承の神は厳かに読み上げていた。
『…では、質問を変えてみよう。彼がただの「獣」であるならば、彼がただの暴力そのものだとしたら、彼は本当にどうしようも無い存在のか? 彼は生きている事そのものが罪なのか? 彼は生まれてきた事すらも罪なのか?』
メソポタミア神軍は確かに目を細めた。
ダーナ神族は何も言わずに天を仰ぎ、
果ては天部や修羅、仏もただ眺めた。
『彼の残した爪痕を見たものは、或いはその実害に見舞われたものは、彼を殺せと。彼を罰しろと強く懇願するだろう。その感情的な警戒は、決して間違いなんかでは無い。だけど───』
その異事態は裏京都にて。
東洋の妖の元締めと、獣の邂逅。
数多の神話がその眼でそれを見ていた。
誰もがそれに固唾を無意識に飲んだ。
『己が犯した罪を心の奥深く、さらにその奥から末端にまで悔いて、自らの体を傷つけ、苦しみ、自害さえ決めて。それでもなお『償い』と「責任」を求める「咎人」の首を”お前のせいだ,,と責め立てながら断つことが本当に正しいのか?』
文字を何度も反芻しては飲み込む者。
全てを読み、理解し、そして頭を抱えた者。
静かに手紙を置き、その場を離れる者。
『それで救われる魂は多い。だから、それもきっと正しい。間違いだなんてことは言わない。だが、君達は知っている筈だ。知らなければならない筈だ「罰を与えることが出来る強さ」を』
この瞬間、多くの者が息を飲む。
『なるほど、確かに彼は間違えた。だが、それを、「許したくない」だとか「憎い」だとかでその命を散らす事が真に正しいのか。君達の持つ正義に反していないか、それを先入観を捨てた上で見極めて判断してほしい』
ある所では唐突に主神同士の会談が始まっていて、また、ある所で神話同士の交流会が始まっていた。そしてそれよりも離れたところでは、説法を交え、どうするべきかを話し合う者達もいた。
『己の罪を悔い、死を求める小さな少年を嘲笑いながら殺す事は善なる行いか?少なくとも、僕はそう思わない。では、あなた方はどうか?』
知れた事。すでに結論は出ている。
『トライヘキサという存在を、
この世に許容するか、しないか』
欠伸が出た。やる事は決まったのだから。
さっさと行動に起こしてしまおう。
ああ、早く役割を決めなくっちゃ。
『その判断は、聖書を除く全神々に委ねるものとします』
手紙はそう締めくくられた。
そろそろ手紙が読み終えられた頃だろうか、とメフィストはそんな風に独り言を零せばゆっくりと椅子に深く腰掛け、消耗した体力を癒そうとする。
ソロモン王の要望によって己の書いた手紙を見る。クスリ、と小さく笑えば最後の一文を指で小さく弾き、
「ただし三大勢力、僕達は駄目だね、やりすぎた」
そう、独り言をまた一つ吐いた。
■
「お主はそれでいいのか?」
森林の中にて静かに出されたシンプルな問いかけ。血溜まりに浸る凄惨な有様である獣は朦朧とした意識の中、ゆっくりと一条の光が暗夜の隙間を射し照らすかのように、明確な意思を持つ。
「………」
『それでいいのか?』
その問いには数多の意味がつきまとう。
踏み躙られたままでいいのか?
利用されたままでいいのか?
途中で投げ出していいのか?
お前には果たすべき事があっただろ?
なら蹲っている暇はあるのか?
「そもそも、一つの命の価値はあくまで一つ分でしかないのだ。お主一つの命が散ったところで何も変わらん。何も救われん。償いにもならん」
余りにも多くの命を見た。それは狐も獣も変わらない。だがその真を捉えていたのは狐であった。それもそうだ。
獣は長い時の果てに人と関わり、ようやく掴んだ精神の成熟の機会を奪われ、封じられたのだから。
よって、彼の持つ肉体も心も、まだいくらでも詰め込む余地のある伽藍堂。
「………じゃあ、どうすれ───」
「それは自分自身で見つけねばならぬ事だ」
甘えを許さない。ここで何がを与えて仕舞えば、この獣は成長しない。前に進む事ができない。それこそ本当にただの力の塊となってしまう。ただの喋る傀儡と成り果ててしまう。
「…………」
黙りこくる肉体。それは物言わぬ骸のように。
だが、パキリ、と。獣の翼を縛る鎖に罅が入る。
それは内側からゆっくりと壊す様に。
「…背負えるかなぁ…?」
微かな笑い声。それはとても弱々しくて男として情けないもの。まるで童に追われて逃げ惑うた鬼の様相と瓜二つ。
彼には自信がない。まともに向き合えそうにない。今すぐにでも命を投げ出したくなってしまう。
「逃げなければの」
そっと、髪を撫でる暖かな手のひらが有った。血に濡れることを厭わずに差し伸べられた手のひらが確かに有った。
「……そっか」
暫しの沈黙。ぴしり、ぱしりと薄いプラスチックの板が割れていく様な音が辺りに響き渡り、果てにはガラスが砕け散るけたたましい音響が狐の鼓膜をつんざいた。思わず顔をしかめるがそれも仕方ないだろう。
『少年』の持つ六枚の翼が、鎖を砕き広がる。
それと同時に、莫大な傷も癒えて行く。
願ったこと全てが叶う世界ではない。少年はそれをとうの昔に知っている。だが、だからこそ少年は大きく羽ばたける。
絶望もしよう、希望もしよう。その両方を抱き締めて、逃げずに立ち向かうことで、それでこそ少年は羽ばたけるだろう。
「…逃げたかったんだ。耐えれなかったんだ。あんなに大見得切っといて、僕は結局ただの臆病者でしかなかった。逃げずに立ち向かわなかないと行けなかったのに」
もう、どんなに強い風が吹こうとも、
二度とその翼を折る事は出来ない。
「…分からない事は、まだいっぱいある。だから、考え続けるよ。どんなに時間をかけても、どんなに行き詰っても、苦しくなっても辛くなっても、僕はできる事をやり続けてみるよ」
答えなんてまだ分からない。そもそも彼自身理解しているものは少ない。その知恵は未だ幼く、研磨のしがいがある原石だ。
だが少年は逃げる事をやめた。選択をした。やらなければいけない事を明確に決めた。だから、もう迷わない。
「向き合い続けてみる。僕はまだこの時代の人間の『全部』を見たわけじゃない。僕はそれが知りたい。知らなくちゃいけない。色々奪って、僕は今ここにいる。だから、知った上で、人類史が途絶えるまで、向き合いたんだ」
『観測者』。過去から未来に向けて永遠に眺める孤独な者。だが少年はそれで構わない。だって、半生は孤独だったから。もう慣れていると少年は屈託もなく笑うだろう。それに───
「僕には時間なんていくらでもあるから」
そこが彼の抱いた決意の強さであり弱さだ。
何はともあれ、此処にて意思は固まった。
目標も決まった。やるべき事も分かってる。
だから、もう一度だけ、羽ばたこう。
いってきます。その一言が小さく漏れた。
暴風が巻き起こる。いつの間にか少年は消えていた。
「…いってらっしゃい」
彼だって、まだヒーローになれる。
さ、もう一人で彼は歩けます。
暖かな目で見守ってあげてください。
全部終わった後に待つのが孤独でもね。
これ今回諭しに来たのが八坂さんというか『母親』だったのが一番の幸運だったりします。他の奴が来てたら人形か、獣のままだったんじゃないかなぁと。
さて、あと三、四話したら今章は終わりですかね。そしたら、一回キャラシート挟んで、最終章に入ります。
今後の展開的に「宝条永夢ゥ!」ならぬ「兵藤一誠ィ!」
とかになりそう。(多分ならない)
次回『ケジメ』