なんかハッピーエンドしか許されない主人公に転生したようです。 作:あぽくりふ
2023. 5. 16──
こどもの日も過ぎて、俗に言うGWもとうに終わっている。GWイベントは良かったな、と欠伸交じりに思い返す。経験値や金稼ぎに最適な金色スライム系列のモンスターがわんさか湧くイベントだったからか、一時街はプレイヤー、NPCを問わずごった返す羽目になっていたのを覚えている。お陰様でサチが迷子になっててんてこ舞いになったのは笑える話だ。
そうして静かに思い出し笑いをしていると、階段の上から張本人が下りてくる。くしくしと目を擦っている様は顔を洗う猫のようだった。
「……んぁ。今日は結構早いんだね、キリト」
「そうでもないだろ。もう九時回ってるぞ」
「やっぱ早いじゃん」
「早くねーよ」
「早いって。絶対いつもより十五分は早いもん」
口論と言ってもいいのかわからない応酬の後に、店主から受け取った牛乳とサンドイッチを片手にサチが正面に座った。邪魔になることを避けるため新聞を畳むが、それがむしろ彼女の興味を引いてしまったらしい。ぐい、と紙面を引かれた。
「なんか面白いことあった?」
「ねーよ。攻略は順調、世は事もなしだとさ」
「そっか。いつも通りだね」
そんな言葉に口の端を歪める。安定はしてきているだろうが、果たして何処まで真実なのかわかったものではない。アルゴは士気を落とすような情報は意図的に控えてこの新聞を発行している。ひょっとすると死人が出ている可能性だってある。
「大本営発表かっての」
「だいほんえ……?」
サチが小首を傾げる。俺は溜息を吐いた。
「いや、知ってるだろ。というかあんた本当に俺より年上なんだろうな?」
「……うーん、キリトは時々よくわかんないこと言うよね」
「よくわかんねぇのはあんただよ」
ぽけらーっとした顔でサンドイッチを咀嚼する様に嘆息する。サチは確か俺より一つか二つ上だったはずだが、こうもすっとぼけた事を言われると疑わしく思えてくる。
「そう言えば、リーダー達はどこ行ったの?」
「買い物だよ。この前手に入れた素材で武器の強化をするつもりだろうさ」
「えー、わたしも行けばよかったなぁ」
頬を膨らませる姿に鼻を鳴らした。だがまあ、確かに一理ある。リーダー……つまるところケイタが不在の現状、迷宮区に潜ることは出来ない。かといって回復結晶なども補充したばかりだし、必要なアイテムがあればそれこそ彼らがついでに買ってくるだろう。つまり、思ったより暇だった。
「テツオ達も行っちゃったの?」
「テツオ、ササマル、ダッカーも右に同じくだ」
「そっか……じゃあ、今残ってるのはわたしとキリトだけなのかぁ」
なんの気もない一言なのだろう。しかし僅かに自分の肩が跳ねたのを自覚する。同時に深く溜息を吐いて気持ちを落ち着けた。
別に……特別でもなんでもない一言だ。意識してるわけでもなし、この脳天気な少女がそこまで考えて発言しているわけがない。そんなどうでもいい言葉の端々を捉えて動揺している自分が嫌になる。ええい落ち着け思春期かお前は。……いや、思春期なのか。少し死にたくなってきた。
……ああ、いや。大丈夫。俺は──冷静だ。
「じゃあ丁度いいね。デートでもしよっか、キリト」
俺は噎せた。
さて。
このSAO、デスゲームという割には娯楽が多い。釣りもあれば本も売ってあり、それにエルフの間に伝わるボードゲームなどもあったりする。暇潰しには事欠かないのが事実だ。茅場という男がこのゲームを通じて何を目指していたのかが垣間見える点でもある。
「にしても、釣りね。あんたはやったことがあるのか」
「ないよ? 初心者だよ?」
「なのに釣りがしたいとか言い出したのかよ……」
呆れて俺より少し背の低い少女を見下ろした……が、革鎧の隙間から胸元が見えて思わず目を逸らした。くそ、微妙なところで防御が薄いのはやめて欲しい。SAO内において情動表現は些かオーバーになりがちな所がある。所詮
「人間誰しも初心者からスタートするでしょ。いい機会かなって」
「まあ……そりゃそうだが」
渋々ながらも頷く。経験がないからといって敬遠していてはいつまで経っても触れられないのは確かだ。それに、俺も釣りをしたことは無い。現代っ子にそんな機会は実はあまりなかったりする。
「キリトもやったことないでしょ? なら丁度いいじゃん」
「そう、だな。そりゃそうだ」
素直に頷く。そんな俺を見上げてにんまりと彼女は笑った。脇を肘で小突かれる。
「じゃ、勝った方が負けた方に夕飯奢りね。キリト、大体こういうの苦手だし」
「言ったな? 悪いが飯を賭けてるなら負けてやれないぞ」
「そんなこと言って前は大富豪も三連敗してたけど」
「あれは運だろ!」
「運も実力のうちですぅー」
機嫌良さげに煽る様に若干いらつきながらも肩の荷物を引ったくって進む。つんつんと脇を無限につっついてくるのが非常に鬱陶しい。
「麻雀でも負けてたし、ほんとキリトって運がないもんねー。ツキに見放されてるっていうかさ」
……このアマ、絶対泣かしてやる。心中で固く誓いつつ歩を進めるのだった。
──そして、数時間。既に趨勢は決していた。
「えぇぇぇぇえ!? なんでぇ!?」
「いや、あんたの落ち着きが無さすぎるからだろ」
バケツの中で泳ぐ魚の数の差を見て驚愕しているサチの姿に鼻を鳴らす。十以上の差をひっくり返すことは流石に出来まい。案外川魚も釣れるものだ。
「おかしい! 絶対おかしい! 運ゲー!」
「運も実力のうちとか何処かの誰かさんがほざいてただろ。というか、運とかいう問題じゃないと思うぞこれは」
そう。運ではない。勝手にサチが自滅しているだけである。そりゃ二分もせずにそわそわと席を離れては釣り糸を忙しなく動かしていては釣れるものも釣れるまい。はン、と笑ってやればぐぬぬと唸られた。ちなみに実際にぐぬぬと言っている。初めて見たぞ、実際に言うやつ。
「──っ、こうなったらもう奥の手を切るしかない!」
「奥の手? ……っておいあんた何してんだ!? 痴女か!?」
「ち、痴女じゃないもん!」
顔を真っ赤にして反論してくるが、そりゃ人目がある所で唐突に脱ぎ出せばそりゃ痴女呼ばわりもしたくなるものだ。しかし防具を外した下にはしっかりと水着が存在していた。へへん、と得意気に胸を反らすがそれは色々と危険だからやめてくれ。というか、今の着脱を見る限り水着はやはり下着としてカウントされているようだ。
……やめておこう。深く掘り下げると夜に眠れなくなる気がする。
「……っていうか待て。あんたまさか」
「まさかもたまさかもありませーん!とやっ!」
このアマ。競泳水着にも似た簡素な水着を纏い、見惚れるほど美しいフォームで槍を片手にサチが川へ飛び込んでいく。しかしそこまで流れがないとは言え、このゲームにおける水泳は独特の慣性が働くことから難度は高いとされている。溺れたらどうするつもりだ、あのバカ。そう考えて慌てて川岸に寄れば──ばしゃり、と水をかけられた。
「…………おい、サチ」
「隙を生じぬ二段構え!」
更に顔面に水をぶっかけられる。ぴきり、と自分のこめかみに筋が走ったのを自覚した。何が二段構えだこの野郎。釣り竿をゆっくりと地面に下ろした。
覚悟は出来てるんだろうな、クソアマ……!
「ぶっ飛ばす」
「え、ちょっと待ってその台詞は殺意が高いというかいや大きな波を作るのはダメ反則ぅー!」
反則もくそもあるものか。水の掛け合いから水中での足の引っ張り合いへと移行しつつ、俺とサチはしばらくの間川での格闘を繰り広げていた。
「……ほんとにもー。キリトは子供なんだから」
「あんたが始めたんだろ……」
現実での水泳と異なり、全身にずっしりと来るような、全身運動独特の疲労感はない。それでもしっとりとした精神的疲労が存在することは否めなかったを既に太陽は中天を下り夕方手前だ。ざっと二時間以上も川ではしゃいでいたことになる。
……ガキか俺は。溜息を吐いた。
「へへ。でも楽しかったね、キリト」
「あん? まあ……そりゃあな」
否定はしない。何も考えず、ただのびのびと体を動かすだけの時間など久々だった。月夜の黒猫団の連中とつるむようになってからも、である。攻略組で一線を張っていた頃なら尚更だ。とてもじゃないがそんな余裕はなかった。日々を生き抜くこと、死者を減らすこと、技量とレベルを上げること、それだけにひたすら専念していた。
……ふと。かつて自分の相方をしており、そんな風にレベルを上げることに死力を尽くしていた少女を思い出した。結局喧嘩別れになったが、まだ生きているのだろうか。いや、話に聞く限りだと大丈夫だったはずだ。そこまで考えて苦笑する。自分から離脱したというのに、俺はまだ未練があるのか。
「……キリト?」
「あ──いや、悪い。聞いてなかった」
「ううん。何も言ってないよ」
するり、と手が伸ばされる。柔らかな指が眉間に触れた。
「ここ、皺が寄ってる。キリトが悩んでる時ってここがしわくちゃになるんだよね」
「……そうなのか? それは……気を付けないと」
そう返せば、彼女は苦笑した。いつもの屈託のない笑顔ではない。まるでしょうがない、とでも言いたげな苦笑だった。
「気をつける必要なんてないんだけどなぁ……どうせまた、攻略組のことを考えてたんでしょ」
「いや、違、俺は」
「いいよ。キミが優しいのはよく知ってるから」
優しい? その言葉に自嘲した。優しいことなどあるものか。微かに口元が歪み──頬に触れた指の感触に、驚いて目を見開いた。
「……ごめんね。嫌だった? わたし、バカだからさ。ひょっとしたらキミが嫌なこと言っちゃってるかもしれない」
「いや……それは……」
「ねぇキリト。わたしたちといるのも、実は嫌だったりする?」
どくん、と心臓が跳ねた。不安そうに、心配そうにこちらを見つめる瞳がそこにある。慌てて否定の言葉を口にした。
「そんなわけ、ないだろ。俺が頼んで居させて貰ってるんだぞ」
「そっか……なら、よかった。でもキリト、最近悩んでるみたいだったから」
悩んでる──俺が? その言葉に眉を顰めた。悩むことなんてない。あるはずがない。そう返そうとして、唇を指で塞がれた。
「キリト。ここにはね、わたししかいないんだ。だから……今なら誰も聞いてないから」
本当にこちらを案じている瞳に俺の顔が映り込んでいる。顔を歪めた、みっともないガキの面だ。笑えるくらいに情けない。ああちくしょう、と歯を食い縛る。こういう時だけ歳上ぶるのは、卑怯だと思った。
「教えて。何を悩んでるの?」
「俺、は──」
からからに乾いた喉から嗄れた声が漏れる。そこからは濁流のようだった。攻略組から逃げてきたこと。その攻略組が気にかかっていること。だが尻尾を巻いて逃げてきた俺には、思案する資格すらないであろうということを。
一ヶ月間苛んできた感情を吐き出す。気付けば、俺とサチは並んで椅子に座っていた。握り拳一つ分の距離をおいて座った彼女が、ぽつりと呟く。
「凄いね、キリトは」
「凄いことなんてあるか。俺は、半端者だ」
俺は、矛盾している。その事実には気付いていた。
結局“黒の剣士”になることを諦めて。全て放り出して、アスナとも決別して、投げ出して。だというのにこうして月夜の黒猫団の戦闘指南役として、彼らを準攻略組レベルにまで叩き上げた。逃げるのならば全てに目を瞑って、第一階層で燻っていればいい。プレイヤーを強化したいのなら最前線をひた走るべきだ。なんとも中途半端な真似に嫌気がさす。
逃げ続けることもできず、戦い続けることもできない半端者。“元”攻略組という称号がそれを如実に物語っている。
「ううん。凄いよ。このゲームが始まってから、半年以上も一番前で戦ってきたんでしょ? わたしには出来なかったもん」
違う。違うのだ。それが出来たのも義務感からのものだ。本来の桐ヶ谷和人とはまるで動機が違う。切っ掛けが違う。想いが違う。俺は酷く不純で、みっともなくて、それでいてすぐ折れてしまうほどに脆い。英雄になんて到底なれやしない、劣悪な紛い物だ。
「俺は……サチが思うほど凄くはない。結局諦めて挫折して、責任を投げ出して逃げた半端者だ。とても尊敬できる人間じゃないんだ」
吐き捨てる。こんなくだらない自己嫌悪を他人に吐き出してしまっている、というこの事実すらも自己嫌悪の対象だ。酷く無様な有り様だった。
「……そっか。やっと、キリトのことが少しわかった気がする」
君は、自分が嫌いなんだね。
そう呟いて、サチは苦笑した。
「わたしもね、キリトと同じだよ。わたしはわたしが大嫌いなんだ」
「そ、れは」
「ふふ。なんでって言いたげな顔だね。簡単だよ。ケイタ達はね、わたしのせいでSAOに囚われたんだ」
そう言う彼女の横顔は、言葉尻の軽さと違って酷く苦しそうなものだった。
「わたしがナーヴギアなんかを買ったから。みんなにSAOを薦めたから。だからこんなことになったんだ。わたしのせいでみんなが死ぬかもしれない」
「それは……違うだろ」
「違わないよ。変に友達を誘う真似なんてせず、一人で勝手にやっとくべきだった」
違う。それは違う。かっと頭に血が上った。何が俺をそこまで突き動かすのかもわからないまま、俺は口走っていた。
「違う! あんたは何も悪くはない……!」
それは怒りに似ていた。なぜそんなことで自責の念を抱く。違うだろう。あんたのそれは不可抗力だ。友人と遊びたくて、あいつらと遊びたくて、誘ったんだろう。そこに間違いなんてある訳が無い。あってはならない。
「……ふふ。やっぱりキリトは優しいね」
「それは……違う。俺は優しくなんてない」
「違わないよ。わたしはキリトよりキリトのことを知ってるもん」
なんじゃそりゃ。本人より知っている、などというあべこべな事を言う少女の方を向いた。夕陽が彼女の頬を優しく照らし出している。その瞳は俺を映していた。俺だけを映し出していた。
「キミはさ、キミ自身のことが嫌い?」
「……ああ。俺は俺が大嫌いだ」
肯定する。俺は俺が嫌いだ。醜悪で矮小で卑劣で無力で無能な自分が狂おしいほどに嫌いだ。それは、否定のしようがない事実で。
「そっか。でもね、わたしはキミが好きだよ」
「───ぇ」
鼓動が、一拍飛んだ。
「キミが嫌いなぶんまで、わたしがキリトのことを、好きでいてあげる。だからさ、キリト。約束して」
ぐい、と手を引かれた。互いの小指が絡められる。二度と離れないように。決して破られないように。
「死なないで。生きて。たとえどんなに自分が嫌いになっても、生きることを諦めないで」
……畜生。本当に、こういう所が卑怯だ。目を逸らせないまま悪態を吐く。
「……じゃあ、あんたもだ」
「えっ」
「えっ、じゃねぇよ。決まってんだろ。あんたも生きるんだ。死んだら承知しないからな」
「……うん。そうだね。じゃあ、これで約束」
ぎゅ、と小指に力が込められる。夕焼けに照らし出された、鮮やかな誓いだった。風に彼女の黒髪が舞う。視線が交錯し、小さくサチははにかんだ。目に、脳に、記憶に焼き付いて離れないほど鮮やかだった。きっとこれを忘れることなんてありえない。そう思えるほどに。
きっと──俺はこの誓約を生涯忘れない。
そして──忘れられぬ日々を、人は呪いと呼ぶ。