星ヲ撒ク者ドモ   作:眼珠天蚕

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Dead Eyes See No Future - Part 3

 ◆ ◆ ◆

 

 ロイが気にする、避難民の車列では。悲惨と云うには、あまりにもシュールな光景が広がっていた。

 車両を絡め取る木々の下に湖のように広がる、濁った白色の液体。それが人体に由来するものであると知らされれば、人は生理的嫌悪感を喚起させられ、嘔吐を催すかも知れない。しかし、何も知らされなければ、妙な光景が広がっているな、という感想の範疇を出ないことだろう。

 静まりかえったこの光景の中を、ピチャ、ピチャ、と粘った水音を立てる足音がある。その主は、星撒部の相川(あいかわ)(ゆかり)と、アルカインテール市軍警察の竹囃(たけばやし)珠姫(たまき)である。

 珠姫は紫の肩に掴まり、2人はゆっくりした足取りで粘水の中を歩いている。粘水が元は人であったことへの抵抗も含まれてはいるだろうが、それ以上に珠姫の片足が溶融しかかっていて歩行が困難になっていることが足取りの遅さの最大の要因だろう。

 『バベル』の咆哮によって、この異形の林の中で交戦していた市軍警察官たちも"パープルコート"の隊員達も、大部分が溶融してしまった。それだけでなく、車両内に取り残されていた避難民達も溶けてしまったらしい。その根拠に、車窓を始めとする隙間からドロドロと粘水が絶え間なく漏れている。

 珠姫が片足の溶融程度で助かったのは、丁度近くに紫が居たからに他ならない。彼女の巧みな防御術式がなければ、彼女もこの粘水の一部と成り果てていたことだろう。

 助かったとは言え、珠姫の顔色は今にも脱力してくずおれそうな程に真っ青だ。やはり、眼前で人々が次々に定義崩壊を起こして溶けてしまった光景は、精神に相当な負担をかけている。

 「…凄いわね、あなたって…」

 珠姫は力のない笑みをぎこちなく浮かべながら、紫に語りかける。

 珠姫とは違い、紫の顔色はさほど悪くはない。表情は多少険しいものの、一見すると何事もないかのようにケロッとしている。

 そして、珠姫からの問いへも、苦々しくはあるは割と自然な笑みを浮かべて、スラスラと答える。

 「学生の身の上で、あんまり褒められたものじゃないと思いますけど…私たち、結構キツい状況を経験してるので。耐性が付いちゃったみたいです」

 「職業軍人の私がこんな体たらくを曝してると…情けなくて仕方なくなるわ…」

 珠姫は気持ちを入れ替えるようにニヤリと笑みを浮かべてみせたが…すぐに表情を堅くして、口をギュッと閉ざす。どうやら、胃の内容物がせり上がって来たのを必死に押し込めたようだ。

 ――さて、この2人がどこへ向かい、何をしようとしているかといえば。まずは指揮車両に赴き、この車列の指揮官たる蘇芳が無事かどうかを確かめること。そして、最後尾へ赴き、ロイやレナ達の様子を伺うことである。

 まず、前者についてだが…2人は大樹の枝から転がり落ちている指揮車両を見つけて、ドキリとする。その車両の大半は定義崩壊によって溶融しており、その所為で枝からずり落ちたようだ。もしも中に定義崩壊から逃れた者が居ようとも、落下のショックで大怪我をしている可能性が考えられる。

 しかし、2人の不安は程なくして安堵に変わる。というのは、大樹の幹の影から、ヒョッコリと蘇芳の巨躯が現れたからだ。後ろで手を組み、俯いて歩く姿は、物思いに沈む賢者のようにも見える。

 「蘇芳隊長…!」

 珠姫が手を挙げてブンブン振り回し、声をかける。すると蘇芳はハッと顔を上げてこちら向くと、力のない笑みを浮かべながら、手を挙げ返す。

 蘇芳の元へ近寄った2人は、無事だった指揮官の姿を間近にして笑みが浮かびかかった…が。蘇芳の笑みの裏から露骨に見て取れる虚脱と悲壮の感情に、笑みも歓声も飲み込んでしまう。

 「お前達、無事だったんだな。

 ってか、ユーテリアの学生さんにゃ、当たり前ってところか」

 「いや、そういうワケでもないですよ。

 私も、この部活で実戦経験を積んでなかったら、みなさんのように…」

 紫は足下に広がる粘水に視線を投げると、言葉の続きを濁す。

 すると、蘇芳はギリリと歯ぎしりをし、鬼面のような険しい顔を作ると、爪が食い込み血が滲むほど握りしめた拳を顔の前まで上げて、灼熱の激情を込めた声を吐き出す。

 「…また、オレは何も出来なかった…!

 目の前で、助けるべき市民がとんでもねぇ状況に陥っていくのに、何もできずに居た…!

 それで、オレ一人が助かっちまった…!」

 蘇芳の拳は今にも何処かへ叩きつけられそうではあったが、やがてはプルプルと震えながらゆっくりと拳を下ろし、最後には脱力して五指を開く。爪の先が、食い込んだ手のひらの血液で赤く染まっている。

 きっと、拳は自らの頭上に落としたかったに違いない。

 「…それでも…」

 俯いたままの蘇芳に声をかけたのは、珠姫だ。彼女の浮かべた表情は、彼に寄せる同情ではなく、叱咤するような厳しいものだ。

 「それでも、要の指揮官が健在なのは、重畳と言えます。

 まだここには、定義崩壊を免れた人々が居るかも知れません。そんな彼らは、あなたが健在であることで、この状況の中でも(すが)れる()り所を持つことが出来る。

 それだけで、あなたは立派に役割を果たせます。決して、何も出来ないワケではありません」

 珠姫の言葉に、蘇芳は苦笑いを浮かべながら、自らのクセ毛をいじる。その手つきは、震えていた。

 「…正直、オレはこの状況にブルっちまってる。前回の『バベル』騒動の比じゃねぇ。こんな状況、乗り切れる自信なんて、とてもじゃないがオレにゃない。

 …そんなオレが、拠り所になれるモンかね…?」

 「なれる、なれない、じゃないわよ…!」

 ここで口を挟んだのは、紫だ。彼女の蠱惑的な赤茶の瞳は、怒りの色で赤みが増したように見える。

 「"なる"のよ!

 ブルったから、何なのよ! 何になるってのよ! 誰かが助けてくれるっての!?

 誰も何もしてくれないっての!

 ましてや、悲観に浸ってれば、誰かがアンタの罪悪感を慰めてくるってワケじゃないし! 勿論、褒めてくれるワケでもないわ!

 やることをやる、それしか打開の道はないでしょうが!」

 紫の叱責にも、蘇芳は心が奮い立つことはなく。それどころか、厳しい言葉に心がベシャンと叩き潰れてしまったようにも見える。彼の苦笑いは、ますます乾きの色を帯びる。

 「打開っつってもよ、お嬢さんさ…。もう、助けるべき奴らの大半を失っちまったんだ。本当に生き残ってる奴がいるかどうかも、怪しいもんさ。

 そんなところで、リーダーシップ発揮して、何になるんだよ。葬儀屋でも立ち上げろ、ってのかよ?」

 すると、紫は呆れたように、ハァー、と深い溜息を吐いたが。次いで口から出た言葉は叱責ではなく、激情を抑えて力強さのみを宿した、淡々とした告知である。

 「…あのさ、"葬儀屋"なんて言って勘違いしてるみたいだけどさ。

 生きてるよ、みんな」

 紫は足下の粘水を指差し、ジロリと半眼を作って蘇芳を睨む。

 その言葉と視線に驚きを隠せない蘇芳は、紫の顔と足下の粘水を交互に見比べること、何往復かした後に。紫の肩にすがる珠姫に問い(ただ)すような狼狽の視線を投げる。すると珠姫は、一切の冗談も含まぬ真剣な表情を作り、首を縦に振る。

 「私も、聞いた時には信じられませんでしたが…この()の言う通りに形而上相視認をして、確かめました。

 本当です。みんな、"生きて"います。人類としての物性や精神の定義は解けてしまってますが、本当に、生命活動が確認できました」

 「…うっそだろ、おい…」

 蘇芳は悪夢に浮かされたかのようにジットリと汗をかきながら、再び視線を広がる粘水に投じて呟く。

 「だってよ…こうなっちまった奴らはみんな、あの『バベル』の怪物に吸収されて、同化されちまうんだぜ…?

 それって、オレ達で言うところの、食物(メシ)食って肉体(からだ)を作るのと同じことじゃねぇのか…? オレ達の体からは、元の食物(メシ)を切り離すことは出来ねぇ…それと同じで、『バベル』からみんなを取り戻すことなんて…」

 「恐らく――いや、必ず、出来ます」

 紫はニヤリと勝ち気に笑ってみせる。その表情には、苦々しさは一片もなく、自信ばかり目立つ。

 「私は、星撒部の中じゃ魂魄とか存在定義については詳しい方じゃないですけど…そんな私でも、自信を持って言えます。

 絶対に、取り戻せます!」

 紫の自信の前にも、蘇芳の狼狽と不安は容易に払拭されない。

 「何の根拠があって…いや、お嬢ちゃん達はユーテリアの学生さんだ、オレ達よりよっぽど魔法科学の見識はあるだろうからな、そう質問したところで、理解出来ねぇ答えが返ってくるだけなんだろうな…。

 だけどよ、1つ、ちゃんと聞かせてくれ。

 あの化け物野郎の『バベル』のデカブツから、、どうやって市民(みんな)を取り戻せるってんだ? どうやって、肉体(からだ)から食物(メシ)を切り離すんだ?」

 「『バベル』と定義崩壊してしまったみなさんとの関係は、肉体と食物の関係じゃありません。

 蒼治先輩やノーラちゃんが聞いたらダメ出しするでしょうけど…簡単に言えば、パズルとそのピースの関係とお言えます。ただ、そのパズルが超難解な知恵の輪みたいに入り組んでいる感じです。

 でも、その知恵の輪をうまく(ひね)ってやれば、ピースは元の通りに分解出来るんです」

 「…超難解な知恵の輪、なんつってるけどよ、お嬢ちゃんさ…」

 蘇芳の不安は未だ解けず、怪訝な視線が鋭く紫に刺さる。

 「そんな物を解ける奴、此処に居るのかよ? その、蒼治先輩やらノーラちゃんやらなら、やれるってのか?」

 その質問に、紫はあっさりと首を縦に振る。

 「一番見込みがあるのは、ノーラちゃんですね。あの()がうまく定義変換(コンヴァージョン)を扱えば…!

 決して簡単な仕事じゃないです。むしろ地球圏治安監視集団(エグリゴリ)であろうとも、そうそう実行は出来ないでしょう。

 ですが…」

 紫は珠姫を抱えていない左腕で自らの胸をドンッと叩き、悪足掻きでななく純粋に不敵に笑ってみせる。

 「私たちは、ユーテリアの星撒部。どんな絶望的状況でも、希望の星を撒いてみせるのが、その役目ですから。

 それに…」

 言葉を次ぐ前に、紫は胸を叩いて左腕を伸ばし、蘇芳の背後を指差す。

 「早速、蘇芳指揮官殿の手腕が必要となりましたよ」

 その言葉と同時に、紫の顔の隣で珠姫の表情が花咲くようにパッと明るくなる。

 彼女の表情につられるように蘇芳は体を捻って背後を振り向くと――その眼が丸くなり、そして口が驚愕で丸く開いた後に、喜びに緩んで横に伸びる。

 蘇芳が見たもの。それは、粘水の広がる大地の向こうからこちらに歩いてくる、肩を寄せ合った幾つかの集団。彼らが身につけている服装の大半は、蘇芳がよく見知ったアルカインテール市軍警察のものだ。

 それだけに留まらない。集団の中には、ヨレた私服を着込んだ老若男女もちらほらと混じっている。一目で一般市民と分かる者達だ。

 そして、集団の先頭には、両脇に大の男を抱え、ニヤリと気丈な笑みを浮かべて大股で歩く、レナ・ウォルスキーの姿がある。

 自分を除く全員が溶融してしまった光景を目の当たりにしている蘇芳は、それなりにまとまった数の健常者が居る事実に驚きを隠せない。

 「…こんなに…あの、『バベル』の影響から逃れられたのか…?

 一体どうやって…信じられねぇ…」

 喜ぶよりも疑念が先に立つ蘇芳がブツブツと呟いていると、レナが間近まで歩み寄ってきた。そして、太陽のような若干のバツの悪さを交えた大きな笑みを浮かべつつ、安堵の溜息と共に言葉を吐く。

 「いやー、マジしんどかったわー!

 いきなりの魂魄干渉に、定義崩壊だろ? こればっかりは、あたしも足下の水溜まりの仲間入りになるかと思ったけどよぉ。

 『暴走君』と一緒に、それなりに落ち着いて対処出来てたのが良かったンかな? 魂魄干渉を受けても、比較的平静を保ててさ、あたしも一緒にいた隊員のみんなも、比較的素早く意識を取り戻せたんだよ。

 んで、無事そうな奴らを片っ端からひっ(ぱた)いて正気に戻して回ったのさ。

 それでも…まぁ、全員をなんとかするワケにゃ、いかなかったけどさ…」

 言葉尻に告げた事柄が、レナの笑いにバツの悪さを含めているようだ。しかし、蘇芳はここに来てようやく事実を純粋に受け入れ、顔をパッと綻ばせる。

 「いや…いやいや! お前、十分スゲーよ! あの『バベル』から、こんなに救い出せるなんてな!

 しかも、訓練受けてない一般市民まで助けられるなんてな! やっぱり、ユーテリアの"英雄の卵"はスゲェなぁ!」

 紫もまた、蘇芳の言葉に同調する。

 「やっぱり、先輩ってだけはあるんですね。私なんか余裕が全然なくて、自力で抵抗してた珠姫さん以外救えなかったですよ」

 2人の褒め言葉にレナは鼻を高くして笑っていたが、そこへ紫の普段の毒袋が炸裂する。

 「亀の甲より年の功ってホントなんだって、初めて実感しましたよ。

 やっぱり年長者は違いますねー」

 「…おい、何だよ、その含んだ言い方。あたしをオバンとでも言いたそうじゃねぇか…?

 お前ンとこの渚だって、あたしと同い年だろうが! あたしがオバンなら、あいつだってオバンだろ!」

 「な…っ!」

 毒袋を返された紫は、弱気な蘇芳に対しても見せなかった、燃え上がらんばかりの真っ赤な顔を見せると、激しく唾を飛ばして反論する。

 「副部長は別格よ、別格!

 アンタみたいな年取っただけが取り柄の、粗暴女と一緒にしないでくれる!?

 その男口調、どんなキャラ作りなワケよ!? まさか副部長に対抗して、個性を出してみせたつもりなワケ!? 残念だったわね、アンタみたいな奴がやると、傍目で見てて痛々しいだけなのよ!」

 「ンだと、あたしの個性があの暴走厨二病野郎のリスペクトだってのか!? ンなワケあるか! これはあたしの純然たる個性だっつーの!

 つーか、てめぇも『暴走君』と同じく、年長者に対する敬意ってモンがねぇなぁ!」

 世界の終末に見えてもおかしくない光景の中、暢気(のんき)に口喧嘩する2人に、蘇芳も珠姫も他の者達も、眼を点にするばかりだ。

 しかし、やがて蘇芳が大きく咳払いをして2人の口喧嘩に割り込むと。2人の少女はハッとして口を噤む…ただし、お互いに交わし合う視線だけは切れそうなほどに鋭いが。

 「えーと、とりあえず、確認だ。

 レナ、一緒に居た『暴走君』のヤツはどうしたんだ?

 まさか、あの威勢の良いにーちゃんが、デロデロに解けちまったってこたぁ、ないよな?」

 「あ、それ、私も聞きたかった。

 なんで今、一緒じゃないのよ?」

 ロイについて言及されると、レナは露骨に顔をしかめて気難しい表情を作る。そして、一度屈み込み、両脇に抱えていた男隊員2人をその場に座り込ませてから再び立ち上がると。親指で背後の方を指差す。

 「あそこだよ。見えるか? さっきから土煙だの爆発だの起きてるトコ。

 "パープルコート"のアゴ野郎に連れてかれた。

 今は、"インダストリー"の機動兵器も混じってるみたいだけどな。もしかすると、『冥骸』どもや癌様獣(キャンサー)も混じってるかも知れねぇ」

 その返答に、紫は苦笑いを浮かべて頬を掻く。

 「うっわ…相変わらず元気いっぱいねぇ、あいつは…。『暴走君』の面目躍如ねぇ…」

 「…なぁ…」

 レナはちょっと俯いてから、躊躇(ためら)いがちに声を上げる。

 「助けに行ってやりてぇんだけどさ…。かなり、苦戦してたしよ…。その…死なれたりすると、困るしさ…」

 レナの躊躇(ためら)いは、羞恥によるもののようだ。いつも勝ち気な振る舞いをしている分、しおらしく誰かを心配する有様を見られるのが恥ずかしいのだろう。

 しかし、ロイとは部活の同僚の仲である紫は、即刻手をブンブンと振って否定する。

 「いやいや、ホントにお構いなく。

 あいつを心配するンなら、空が落ちてくるかどうか心配した方が断然マシってモンよ。

 なんだって、あいつってばさ…」

 紫は珠姫を抱えていない方の腕で力こぶを作って見せるような格好を取り、ニヒッと笑ってウインクする。その表情には、肉親の偉業を自慢するような誇らしさがありありと見て取れる。

 「相手が『士師』の群れだろうが『現女神』だろうが平気で突っ込んで、ケロッとした顔で帰ってくるようなヤツなんだから。

 相手が地球圏治安監視集団(エグリゴリ)だろうが、癌様獣(キャンサー)だろうが、怨霊(レイス)だろうが、機動兵器だろうが、ゴリ押しでなんとかして、ニカニカ笑いながら帰ってくるわよ」

 「…いや、でも、あいつ、結構やられてたぜ…"パープルコート"のアゴ野郎にさ…。

 そんなんで、大丈夫だって言われてもよ…」

 レナは尚も食い下がって心配するが、相変わらず紫は笑い飛ばす。

 「あいつ、プロレスラーみたいなモンだから。

 相手の技を受け切った上で逆転する、みたいなところあるからね。

 …まぁ、実際は自覚的にやってるワケじゃなくて、ただ単にスロースターターなだけなんだろうけどさ」

 「その、スローな時にやられちまってたら…!」

 レナがどうしても食い下がる中、「まぁ待てよ、落ち着けよ」と冷静な声を掛けながら割り込む者がいる。その人物は、蘇芳だ。

 レナを制する彼の表情は、先刻見せていた気弱さが一片も見いだせない。余裕めいた微笑を浮かべながらも、眼には怜悧な光を宿しているその姿は、まさに苦境に当たっても冷静さを見失わぬ指揮官そのものである。

 先の紫とレナの自然体にして、時折バカバカしさを交えたやり取りによって、過剰な気の張りが解けたのか。はたまた、ロイ一人の奮闘の話に触発され、彼もまた奮起せねばならないと感じたのか。どちらにせよ、彼の精神は良き方向に転じ、絶望の奈落から理性がしっかりと這い上がって来れたようだ。

 そんな蘇芳は手振りを使いながらレナを宥めると、彼女はまだ何か言いたげながらも、震える唇を一文字に結ぶ。その有様を見届けてから、蘇芳は紫に向き直って問う。

 「あんたの言うこと、本当に信じて良いんだよな? あの賢竜(ワイズ・ドラゴン)のにーちゃんのことは心配いらずだって?」

 紫は即座に、そしてしっかりと首を縦に振る。

 「もう1年近く、一緒に活動してる間柄だからね。お墨付きできるわ」

 蘇芳はその言葉に頷き返すと、太い両腕を胸元で組む。

 「それじゃ、今オレ達が考えるべきは、オレ達自信の身の安全の確保、そして状況打開に向けて出来る限りのことをすること。その2つに絞れるワケだな」

 蘇芳は瞼を伏せ、静かに物思いに耽ること、数秒間。再び眼を開くと、まずはレナに向き直る。

 「なぁ、さっきの魂魄崩壊を見に受けた上で対抗できたってことは、術式構造をある程度は体感してるんだよな?」

 「ま、まぁ…ある程度、だけどよ…」

 レナは自信なさげに視線を泳がせ、頬を掻きながら応える。

 「ああ、完璧じゃなくて良い。そおりゃ、完璧ならベストだけどさ」

 そう語りながら頷いた蘇芳は、言葉を次いでレナにこう頼み込む。

 「ねーちゃんは、魔術を用いた工作、得意だよな? 方術陣とか作れんじゃないか?

 別に眼鏡のにーちゃんみたいに、純粋に術式で構築されたものを作らなくてもいい。地面に図形を書いて作れる程度で十分なんだ。出来ないか?」

 魔術篆刻(カーヴィング)に代表されるように、魔法科学においては形状が有する"意味"が形而上・形而下問わず事象に関与する場合が多々見いだされる。この一連の現象を研究する"意味学"と呼ばれる分野が確立されているほど、魔法科学においては重要な概念である。

 地面に書いた、所謂"魔法陣"も意味学においては十分な魔法現象の触媒足り得る。

 「まぁ…出来ることは出来るけどさ、ホントに蒼治のヤツに比べりゃ子供騙しみたいなモンだぜ?」

 「それでも、無いよりは断然マシなはずだ。

 ねーちゃんに頼みたいのは、定義崩壊に対抗する結界作りだ。

 『バベル』はまだまだ健在だ、あの『天国』が未だに成長してるのを見りゃ分かる通りに、な。だから、あいつがまた叫ぶなり何なりして、定義崩壊を誘ってくる可能性は十分に考えられる。

 その被害を出来るだけ食い止めておきたい。」

 蘇芳の至って真剣な表情を前にしては、あまり自信のないレナとて断れない。溜息を吐いて、うなだれるように頷く。

 「オッケー。やるだけの事はやってみるわ。

 それでダメだったら、まぁ、ゴメンナサイとしか言いようないけど…あ、溶けちまったら、ゴメンナサイを言う口も無ぇか」

 ちょっとしたおどけを交えて返事すると、早速クルリと踵を返して作業に取りかかる。こんなに素直に働き出すのには、心の中で未だにロイに対して抱いている感情を、別の物に向けたいからかも知れない。

 さて、次に蘇芳は紫に向き直っては歩み寄ると、「珠姫を、オレの方に」と言って両腕を差し出す。

 これに対して珠姫は、「え…」と困惑の声を上げながら頬を赤く染め、ニヤけているようにも困っているようにも見える表情を作って固まる。が、彼女の感情など余所に、紫は担いでいた珠姫をヒョイと蘇芳に引き渡す。

 「え…、え…」

 蘇芳のガッシリと逞しい胸板と腕に包まれた珠姫は、未だに困惑の声を上げ続けながら、頭の上から湯気が出そうなほどに顔を真紅に染めている。しかし、蘇芳もまたそんな彼女の感情など余所に、父親然とした優しい声で尋ねる。

 「脚、片方溶けちまってるみたいだが、大丈夫か? 痛みとか、ないか?」

 「え、あ、あ…は、はい。

 動かなくてもどかしい以外は、特に何も感じません…」

 「そりゃ良かった。

 …つーか、どうした、顔が真っ赤だぜ? 『バベル』にやられた影響で、熱でも出てるのか?」

 「い、いや! そうじゃありません!

 これは、これは…あの、えと…と、とにかく、問題ありませんので、お構いなく!」

 「体調悪いなら、遠慮なく言えよ? お前も軍人だから心得てはいると思うがよ、手遅れになった頃に助けを求められても困るからな」

 そんなやり取りを間近で見ていた紫は、毒というか嫌味をタップリ含んだ笑みを浮かべてニヤニヤする。

 (どこの筋肉野郎も、脳ミソまで筋肉になってるのか、ニブいのねー)

 さて、蘇芳は紫に代わって珠姫を肩に担ぐと、紫に真摯な眼差しを投じて頼む。

 「で、こっちのお嬢ちゃんにも頼みたいことがある。

 仲間のノーラちゃんって()なら、『バベル』から市民(みんな)を取り戻せるんだよな? それを信じての頼みだ。

 その()に、『バベル』との交戦をお願いしてくれないか? あんな怪物相手に、無茶苦茶なお願いだってのは分かるが…最善の選択肢がそれだって言うなら、是非とも頼みたい」

 紫はうっすらと微笑みながら、快諾の頷きをしたものの。すぐに視線を宙に泳がせ、顎に手を置いて頭を捻る。

 「ただ、問題なのは、ノーラちゃんって、入部してからまだまだ日が浅いってことなんだよねー。

 ほんのちょっと前に、『現女神』絡みの国家レベル災厄を経験してるけど、今回みたいに大量に人がどうにかなっちゃうような状況って、初めてだからさー。

 芯は強い()なんだけど、それが却って災いして、心がポッキリ折れちゃってるかも…」

 そんな事を言いながら制服の上着の内ポケットを漁る紫に、蘇芳は折角キリリと締まっていた表情に一抹の不安を漂わせる。

 「…おいおい。さっきはノーラちゃんに任せりゃ絶対大丈夫だって啖呵(たんか)切っておいて、そりゃねぇだろ…」

 「いやいや、ホント大丈夫ですって。初っぱなに地獄のような経験をした上で、入部を決めたような()ですから。

 万が一ポッキリ折れちゃってても、立ち直れば百人力になってくれますよ」

 そう語り終えた同時に、紫はナビットを取り出して操作し、ノーラとの通信を試みる。…が、コール音ばかりが虚しく響くばかりだ。

 「…ポッキリ折れるどころか、テンパりまくって手が離せないのかなぁ…?」

 紫は眉を曇らせて呟き、なおも粘ってみる。その様子を(はた)で不安げに見つめる蘇芳と珠姫であったが、紫はそんな彼らの様子に気づくと、"しっしっ"と追い払うように手を振る。

 「こっちはなんとか連絡付けるんで。

 指揮官殿は、自分の為すべきことに専念しててください。

 そうやって見つめられても、ノーラちゃんが出てくれるワケじゃありませんし」

 身も蓋もない正論をケロリと突きつけられた蘇芳は、至極尤もと首を縦に振ると。

 「そんじゃ、任せたぜ!」

 そう言い残し、珠姫を連れて定義崩壊を逃れた隊員や市民達の集まっている所のど真ん中へと歩く。

 その威厳を感じさせる堂々たる足取りに、隊員はおろか、不安げに(うつむ)いていた市民も顔を上げ、蘇芳の顔に注目する。

 期待に満ちた彼ら視線を一身に受ける蘇芳は、少し緊張したのか、スゥーと音を立てて深く息を吸い込むと。背筋をビッと直し、着込んだ軍服の上着の裾を(ひるがえ)しながら、珠姫を抱えていない左腕を大きく振るう。

 「さて! ユーテリアの学生さん達にゃそれぞれ頑張ってもらうとして!

 オレ達は、ほかに形が残ってる者がいないか、手分けして探すぞ!

 相手が"パープルコート"だって構わねぇ! 奴らもこの状況においては、オレ達と同じく被害者だ。この後に及んで、まだ戦いを仕掛けてくることはねぇだろうからな。

 一頻(ひとしき)り探し終えたら、レナ嬢ちゃんの所に集合だ。魔法陣、出来てるだろうからな!」

 いきなり言及されたレナは、粘水に満ちた大地に銃身で魔法陣を描く作業をギクリと止めると、腰を上げて蘇芳に喚く。

 「おいおい、急かすような事言うなよ! あたしは得意じゃねーって、言っただろーが!」

 蘇芳は笑うだけで、レナに何も答えない。言葉の形にはならなくとも押し寄せてくる信頼の重みに、レナはチッと舌打ちすると、再び魔法陣を作成する作業に戻る。

 「そんじゃまぁ、班分けだが…」

 蘇芳が指示を出そうとすると、隊員の一人がさかさず挙手して質問する。

 「あの…蘇芳少佐。

 先ほど、足下に広がってるこの液体は、元に戻せる人間なのだとお聞きしたんですが…。

 我々も今更こう言うのは何ですが…その、踏みつけてしまっても、問題ないのでしょうか…?」

 その質問に、蘇芳は「あ」と声を上げて、慌てて視線を落として脚を上げる。液体は靴底にへばりつくことなく、一滴も残さずにサラリと流れて落ちてゆくので、元が人間だとしてその体の一部を引きずり回すということにはならないようだが…確かに、踏みつけていることには変わりないので、(にわか)に気が退けてくる。

 隊員の質問に答えあぐねる蘇芳の代わりに、未だ通信の繋がらない紫が声を上げる。

 「あ、気にしなくていいですよ。この状態だと、神経も感覚も何もないですから。踏まれてるなんて、全然感じてないですよ。後で文句言われることはありません。

 どーしても気になるなら、浮くか飛ぶかの魔術を使えば良いでしょうけど…そこまで労力掛けます?」

 浮いたり飛んだりといった魔術は、ありきたりな発想ではあるものの、実際には中々骨が折れる代物である。重力制御や浮力制御、慣性制御といった様々な物理法則への干渉が必要となるからだ。マンガのように楽々空を飛ぶには、相当の技術力が必要である。

 今、ここに集合している市軍警察官達は、蘇芳や珠姫含め、そこまでの技術力を持つ者はいないようだ。躊躇(ためら)いがちに呻き声を上げ、足下の粘水をジッと見つめていたが、やがて諦めの溜息を吐く音がそこかしこから聞こえた。

 「…まぁとにかく、今は形の残ってる者を救うことに集中しておこうぜ。

 んで、班分けだが…」

 蘇芳がとりあえずその場をまとめ、探索活動に関する指示をテキパキと与える始めた頃。紫はいまだ繋がらない連絡に再び首を傾げると、一度通信を切断する。

 「うーん…やっぱり、テンパってるのかなぁ…。定義崩壊しちゃった、ってことはないだろうし…。

 仕方ない、蒼治先輩に連絡取ってみようか。ノーラちゃんの比較的近場にいるはずだし」

 そう独りごちると、早速蒼治へと通信を向ける。

 

 「あ、どーも、蒼治先輩。やっぱり無事だったんですね」

 「やあ、紫。…"やっぱり"って言い方、なんか失礼な響きに聞こえるけど…まぁ、良いや。

 紫も無事だったんだな、何よりだ」

 2人は見事に映像通信で繋がると、挨拶を交わして無事を確認し合う。

 「それで、蒼治先輩。早速用件なんですけど」

 「ちょっと待って。イェルグと大和からも連絡入ってるからさ、皆を交えて情報共有し合おう」

 蒼治の提案の後、映像通信の参加者にイェルグと大和が加わる。

 イェルグは紫を認めると、ニコリと微笑む。

 「よっ、紫。流石は魔装(イクウィップメント)の使い手だな。全然被害なさそうじゃないか」

 「まぁー、私は大丈夫なんですけどね。一緒に居た市軍警察の皆さんとか、避難民の皆さんとかは、ほぼ全滅しちゃいましたから…正直、結構凹んでますよ」

 「仕方ないさ。あそこまでのバケモノだとは、オレも蒼治も予想外だったしな。

 こっちも酷かったぜ。戦艦は次々に溶けて落下してな、世界の終わりみたいな光景だったな。大和に折角作ってもらったオレの機体も壊れちまって、今はドロドロに溶けちまった皆さんが広がる地べたを這い回ってるワケさ。

 幸い、定義崩壊を免れた奴らも戦意を喪失しててな。続けて白兵戦に突入、なんて事態に至らずに済んでる」

 結構余裕があるのか、ペラペラと語るイェルグ。それに対して、会話の雰囲気に全く溶け込まず――というか、"溶け込めない"と表現した方が正しそうだ――一心不乱に集中しているのが、大和だ。

 蒼治やイェルグも定義崩壊に付随する破壊やら、それ以前の交戦の影響で身なりが崩れてはいる。が、大和の有様は一番酷い。紙はグチャグチャだし、顔面は遠目で見てもハッキリ分かるほど冷や汗にまみれている。

 「大和は…取り込み中?」

 「そうッ!」

 紫の問いに大和は、至極短く、鋭く答える。

 「そんなら、わざわざ通信に参加しなくても…」

 「いやッ! 状況把握したいんでッ!

 …クッソ、こいつッ、暴れんなってのッ!」

 大和の口振りからすると、彼は未だに交戦の真っ只中にあるらしい。この惨状の中でも、戦意を喪失しない剛胆な相手も少数ながら存在するようだ。

 「あれ、そういえば、ナミちゃんは? あの()も、手が離せない感じなんですかね?」

 紫が尋ねると、蒼治が頷く。

 「戦闘は停止したみたいなんだけどね。『冥骸』その他の連中の救助で手一杯なんだそうだ」

 そう聞いて紫は苦笑いを浮かべる。

 「流石はナミちゃん、ポジティブの権化だなぁ。さっきまで殴り合ってた相手だっていうのに、すぐに手を取り合おうと出来るんだからさー」

 「この場に居ないと言えば、ロイもそうじゃないか。あいつも救助活動に必死になってるところかい?」

 「いやいや。救助じゃなくて、あいつはバリバリの戦闘中ですよ。

 "パープルコート"の実力者に連れてかれたみたいで。今は"インダストリー"の機動兵器も混じってるみたいですけど、とにかくいつものようにドンパチやってますよ」

 「ま、予定調和ってところだな」

 蒼治は肩を竦めながら語る。

 「それで、先輩。最後にもう一人、この場に出てない人のことで、聞きたかったんですけど」

 「ああ、ノーラさんだね」

 ノーラの名を口にした蒼治は、目つきを鋭くして眼鏡をクイッと直す。

 「紫も、僕と同じことを考えたみたいだね。

 今回の状況の打開、単に『バベル』を機能停止に追い込むだけじゃなく、その中に取り込まれたヒトやモノを取り戻す方法」

 紫も真摯な表情を作り、首を盾に振る。

 「定義が崩壊したなら、定義を再構築させれば良い。それを一番うまく出来るとするなら、定義変換(コンヴァージョン)の使い手のノーラちゃんだろうと思ったんですけどね。

 連絡してみても、繋がらなくて。

 蒼治先輩なら、比較的ノーラちゃんの近場に居ると思ったので、何か知ってるんじゃないと訊いてみたんです」

 蒼治は腕を組み、うーん、と唸りながら視線を宙に泳がせる。

 「確かに、ノーラさんと最後まで一緒に居たのは僕なんだけどね…。

 イェルグ達が参戦したタイミングで別行動を取ってからは、特に連絡を取り合ってなくてね。詳しいことは分からないんだ。

 『バベル』起動後に連絡を入れてみたんだけど、僕も繋がらなかったよ。正常なコール音だけは流れてたから、ナビットの故障だとか術式による通信障害だとかは、なさそうだね。」

 「もしかして、定義崩壊して溶けちゃった…とか、ないですよね?」

 紫が乾いた苦笑いを浮かべて問うが、蒼治も苦笑いを浮かべて頬を掻く。

 「うーん…"反応"をみる限り、大丈夫だとは思うんだけど…確実な事は言えないかな…」

 蒼治と紫のやり取りに、イェルグが言葉を挟む。

 「なぁ、蒼治。さっきから"詳しいことは分からない"とか"反応"だとか言ってるがさ。お前、ノーラについてある程度のことなら把握してるってっことか?」

 蒼治は首を縦に振る。

 「ノーラさんはアオイデュアの一件でよくやってくれたとは言え、入部して日も浅いし、実戦経験が少ないからね。何かあった時の為に、マーキングをしておいたんだ。

 …勿論、彼女自身の許可は取ってあるよ。コッソリ仕掛けるような犯罪的な真似はしてないから、勘違いしないように」

 紫が陰を含む嫌味たらしい笑みを浮かべたのを目敏(めざと)く見つけた蒼治は、毒を吐かれる前に釘を刺す。紫は不発に終わった毒をやり場無く吐くように、チロリと舌を出す。

 蒼治は言葉を続ける。

 「ただ、『バベル』起動時の術式干渉によって、マーキングの術式構成がかなり損壊してしまったようでね。反王がすごくぼやけてしまってるんだよ。

 方向や位置だって…なんて例えようかな…そうだ、水槽の中に垂らした1、2滴の墨汁の位置を特定するみたいな感じだよ。あまりにも反応が薄く広がっちゃってね、大まかというにしても過ぎるような状態さ」

 「つまり、ノーラの無事を確かめるにせよ、連絡をつけるにせよ、脚を使って直接会いに行かにゃならんってことか」

 イェルグは"厄介だ"と言わんばかりに、前髪が垂れる額をポリポリと掻く。

 その直後――。

 「オレは、無理ッスからねッ!」

 それまで会話を聞いているばかりだった大和が、鋭く短い声を上げる。半ば存在を忘れかけていた一同が大和が映る3Dディスプレイに視線を向けると。そこには、相変わらず余裕なさげに歯を食いしばって操縦する彼の姿が見える。

 そんな彼に、イェルグがのほほんとした様子で尋ねる。

 「さっきから何がそんなに忙しいんだ、お前? ずっと余裕なさそうだけどよ?」

 すると大和は、火を吹くような視線をナビットのカメラにチラリと走らせると。直後、再び彼が操る起動兵器のモニターに自然を戻し、歯噛みしながら怒声に近い言葉を放つ。

 「このヤロウ…っつーのは、デカい癌様獣(キャンサー)なンスけどね! そいつ、『バベル』からの干渉を乗り切ったと思ったら、ほっとする素振りも見せないで、ソッコーで『バベル』に向かおうとしたンスよ!

 こりゃ、ヤバいなと思って! オレも機体をだいぶ定義崩壊でやられたンスけど、ロクに修理もできないまま、必死に引き留めてるンスよ!」

 大和が言及している癌様獣(キャンサー)とは、『胎動』のことだ。

 癌様獣(キャンサー)の即決的な行動は、何も『胎動』に限ったことではない。光ファイバー神経による高速思考に加え、クラウド化された共有思考ネットワークを持つ彼らは、非常に客観的且つ合理的に物事を判断できる。アルカインテールという限られた地域における戦々恐々とした状況よりも、種族全体の利益を優先した結果の行動だろう。

 ちなみに、大和と交戦していた"インダストリー"の機動兵器達は、大和の機体よりも激しい損傷を受けたり、そもそも定義崩壊によって完全に溶融してしまい、戦意を喪失している。この状況を大和は幸運と喜ぶべきか、それとも(いた)(あわ)れむべきか、星撒部の部員として何とも言えないことだろう。

 とにかく、大和の状況を知ったイェルグは(うなづ)いて納得する。

 「なるほど。ロイの相手もそうみたいだが、こんな状況に陥っても、まだまだ初志貫徹しようと奮闘している奴らも居るってことか。

 オッケー、大和はそのまま必死に相手しててくれ。負担になるなら、通信切断しても構わないぜ」

 「いや…! 戦場じゃ情報は命綱ッスからね…! ラジオでも聞いてるつもりで、敢えてこのまま参加させてもらうッス!

 オレのことは気にしないで良いんで! キーパーソンのノーラちゃんについて、語り合っててくださいッス!

 …クッソ、ホント言うこと聞かないヤツだな、このデカブツ!!」

 大和に言われた通り、3人は話題をノーラに関することへ戻す。まず初めに発言したのは、蒼治だ。

 「ノーラさんに関しては、イェルグが言った通り、直接無事を確認しないといけなそうだな。

 紫にはそのまま、避難民の皆さんへの支援に従事してもらうとして。

 マーキングも使えて、比較的近場に居るはずの僕がノーラさんを探しに行くべきだね。

 それじゃ、早速――」

 言い掛けた、その途端。蒼治のナビットのマイクが、殺気を帯びた銃声を拾う。次の瞬間、蒼治の表情がゾワリと鬼気迫るものに代わり、彼を移す3Dディスプレイの視界が大きくブレる。直後、至近距離での連続する銃声がナビットのマイクを聾し、紫とイェルグはその爆音に眉根をしかめる。

 「あの、蒼治先輩――」

 思わず耳を塞いだ指を少し離し、紫が状況を問おうとするが。その答えを口にするより早く、今度は強烈な爆音がナビットのスピーカーから轟く。

 3Dディスプレイに映る蒼治は、もはやナビットのカメラを見つめてはいない。刃のように鋭く細めた眼で別の一点を見据えると、小さな舌打ちをしてから独りごちる。

 「今の魔力の波長…! そうか、ずっと僕にちょっかいを掛けてた、狙撃手かッ!

 まさか、女性だったなんて…!」

 イェルグと紫は状況について行けずに眉根の(しわ)を更に深く刻むばかりだ。しかし、ここにもしもノーラが居たのなら、彼女ならばピンと来たことだろう。

 蒼治が、暫定精霊(スペクター)による攻撃をしかけて来た"パープルコート"の狙撃手…すなわち、チルキス・アルヴァンシェ中尉と遭遇。交戦が開始されたのだ。

 「私の獲物ォッ! 大佐(じじい)の気分如何(いかん)程度で、生殺しのまま取り上げられて溜まるかぁッ!」

 鬼女の(ごと)き怨恨をたっぷりと含んだ叫びを、ナビットのマイクが捕らえる。それを耳にしたイェルグは、状況が飲み込めない故に、意地の悪い笑みを浮かべておどけて見せる。

 「なんだ、蒼治。そんなに想われるくらい女の子の気を引いてたなんてな。お前も隅に置けないねぇ」

 しかし蒼治はおどけに対して力一杯反論する余裕もなく、視線をチラリともナビットに向けず、大和と同様に余裕なさげに短く語る。

 「すまないが、通信を続けられる状況じゃない!

 ノーラさんのことは、他の皆に任せる!

 僕はここで、失礼する!」

 言うが早いか、蒼治はナビットの通信を切断する。

 砲手や狙撃手としても優秀なチルキスであるが、その原点は狩人だ。彼女が余事象干渉を極限まで排除した愛銃を存分に振るい、卓越した野性的感覚で戦闘をしかけてくるとなれば、状況を悲観視する傾向にある蒼治でなくとも他に気を取られながら相手をするのは無理であろう。

 残る3人のうち、大和は時折独り言を吐き出すくらいなので、会話は実質的に紫とイェルグの2人きりでの進行となる。

 いきなりの状況変化に戸惑ったようにイェルグが再び頬をポリポリと掻いたが。すぐに提案を口にする。

 「蒼治が動けなくなった以上、ノーラ探しはオレがやるよ。

 紫よりは近場に居るだろうし、幸いオレの周りにゃ戦意旺盛なヤツは居ないから、手空(てす)きなんだ。空飛んで回りながら、ノーラの魔力の波長を感知して回れば、そのうち見つかるだろ」

 「"そのうち"って言うのが、手遅れになるほど遅くならなければ良いですけど…。

 とにかく、イェルグ先輩、お願いします」

 「ん、分かった。

 で、通信はどうする? このまま続けといた方が良いか?

 オレはともかく、紫は忙しくなるだろうし。大和も発言しないだろうし。続けてても意味はない気がするんだがな」

 「いや、続けててほしいッス!

 紫ちゃんが無理なら、イェルグ先輩だけでも良いッス!」

 大和がカメラにチラリとも視線を向けぬものの、即座に答える。イェルグは困ったような苦笑いを浮かべて、垂れた前髪をクシャクシャといじる。

 「いや、お前、独り言くらいしか喋らないだろうが」

 「でも、この硬直状態がいつまで続くか分かんないんで…! 一度切ったら、なかなか通信を再開できないと思うンスよ!

 情報は欲しいし、それに…!」

 大和が表情をグニャリと泣き顔へと歪める。

 「こんなバケモノのデカブツを孤独に相手するの、正直、精神的にキツいンスよーッ!

 女の子と話せなくても! せめて気心知れた先輩とだけでも! 繋がっているって安心感が欲しいンスよー!

 先輩、昔話とか語りながら飛んでくれると、スゲー助かるッス!」

 「…いや、それ、絵的にオレが間抜けっつーか、頭おかしそうじゃんかよ…」

 イェルグと大和の間の会話が雑談めいてきた所で、紫は通信ではこれ以上重要な情報は望めないと判断。大和の間抜けな言葉に小さく嘆息してから、退席の挨拶を口にする。

 「それじゃ、私はこっちの作業に戻るので。

 先輩、ノーラちゃん見つけたら、一報くれると嬉しいです」

 「あいよ」

 イェルグが手を挙げて答えたところで、紫は通信を切断した。

 あとに残った男2人は――と言うより、大和が、だが――再び雑談を再開する。

 「桃太郎で良いッスからー! 喋ってくださいよー!」

 「お前、手が離せないんだから、静かに目の前の事に集中してろよ…」

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「ホーラ、出ておいでぇ、眼鏡クンッ!」

 言葉尻と共に響くのは、発砲音が1つ。しかし、宙を駆ける魔力励起光の輝線は3つ。

 一度の発射で3発分射出された術式弾丸は、カクカクと鋭角に曲がりながら飛び回り、出来損ないのプリンのように溶けかけた大きな瓦礫の裏側へと急降下する。

 「…チッ!」

 舌打ちしたのは、瓦礫の裏側で屈んでいた蒼治だ。手にした双銃のうち右手のものを振るい、打撃用に強化された銃の背で弾丸をキンキンキンッ、と弾く。

 (もう位置を知られた! 早く移動しないと…!)

 スッと腰を上げて走り出そうとした、その時。蒼治の頭上を影が覆う。眼鏡のレンズ越しに影の主を捕らえると、そこには軍服の上着を翻しながら宙に身を踊らせ、長銃を構える褐色肌の長耳族(エルフ)の女性の姿。チルキス・アルヴァンシェだ。

 チルキスの獲物は、蒼治の双銃に比べると、非常にみすぼらしい姿形をしている。『混沌の曙(カオティック・ドーン)』以前というより、史跡から見出されるような木製部位の混じった長銃だ。

 しかしながら、その単純な構造こそが余事象干渉を極限まで殺し、変幻自在な術式弾丸を成形する絶好の凶器となっている。

 チルキスは桜色に彩られた唇に禍々しい笑みを浮かべ、赤い舌でペロリと舐め回すと。蒼治の顔面めがけて、引き金を引く。

 ズドンッ、という銃声はまたもや一度きり。しかし、銃口から飛び出したのは、今度は5発もの術式弾丸。それら1つ1つをよく見れば、獣のような顔が浮かんでいるのが見える。弾丸の正体は、小型の暫定精霊(スペクター)だ。

 (クッ…! なんて女性(ひと)だッ!

 あの砲撃、装置で補整していたものと思っていたけど…! 地力だったのか!)

 蒼治は間近で体感するチルキスの力に驚嘆を覚える。が、その感情に流されるままでは、卓越した狩人であるチルキスに隙を見出され、やられてしまうだけだ。

 蒼治は右手で持つ銃で宙に幾何学模様を描き、防御用方術陣を形成。肉薄する小型暫定精霊(スペクター)弾丸達を蜘蛛の巣のごとく絡め取る。しかし、暫定精霊(スペクター)達は活きの良い羽虫のごとく、方術陣を破かんばかりに暴れ回る。

 それでも、蒼治には反撃に転じる絶好の機会だ。

 双銃の銃口をチルキスに向けると、引き金を引いてフルオートで連写。方術陣に絡め取られた暫定精霊(スペクター)を打ち砕きつつ、チルキスの脇腹めがけて術式弾丸を射出する。

 対するチルキスは宙に躍る足下に方術陣を形成する。足場を形成する方術陣、『宙地』だ。即座にこれを蹴りつけて跳び退(すさ)り弾丸をやり過ごしながら、自らの腰元を漁る。数瞬の後、チルキスの手から放たれる2つの銀閃。それは、2振りの投擲用ナイフだ。柄にはワイヤーが取り付けてあり、これを通して淡い蛍光色の魔力励起光がナイフの刀身に注いでいる。

 ナイフは蒼治の防御方術陣に接触すると、蜘蛛の巣を切り裂くように易々と貫通し、蒼治の顔面へと向かう。蒼治はすかさず横っ飛びにかわすと、ナイフは虚しくトストスッと音を立て、瓦礫の合間に見える土に突き刺さる。

 回避行動の最中、ブレることなく双銃をチルキスの脇腹に向けていた蒼治は、着地と同時に引き金を引こうとする――が、その途端。

 「うぐっ!」

 蒼治は呻き声を上げてガクンと身を崩し、眉根をしかめて歯噛みする。突如、着地した足に鈍い激痛が走ったのだ。

 視線を走らせれば、蒼治の両足を靴ごと貫く、錐状の土の塊がある。そこには嫌らしい笑みを浮かべた顔がついており、してやったりとばかりにシシシ、と笑い声を上げている。構造は単純だが、暫定精霊(スペクター)だ!

 チルキスが大地に刺さったナイフを通して暫定精霊(スペクター)を作りだし、蒼治に奇襲をかけたのである。

 (なんてことだッ!)

 蒼治は慌てて錐から足を引き抜こうとすると、錐は先端を枝を広げた樹木のように展開すると、足の甲からも刺し貫く。これで蒼治は更なる激痛を受けただけでなく、足の動きを封じられてしまった。

 こうして万全の罠をかけたチルキスは、残酷な嗤いを浮かべて着地すると、蒼治の額に向けて銃口を向け、躊躇(ためら)うことなく射撃する。

 バウンッ! 乾いた銃声と共に飛び出したのは、今度はただ1発の弾丸だ。しかし、これまでよりも体積が大きい。射出された銃口より2回りも3回りも大きいのだ。そして、ワニような大きな口を広げ、魚のように空中を高速で泳ぎ肉薄してくる。

 蒼治は一瞬、対応に逡巡する。方術陣を展開するべきか、それとも銃撃で相殺を狙うべきか。

 (――いや、どちらでもないっ!)

 蒼治は決断すると、双銃の銃口をどちらも自らの足下に向け、発砲。足を掴まえていた暫定精霊(スペクター)を破壊するが、その衝撃で自らの両足に更なる負荷がかかってしまう。蒼治が顔の歪みが、ますます深まる。

 その間に蒼治の眼前に迫る、チルキスの弾丸。その鋭い牙が蒼治の額に突き立てられようと言う、その時。彼はなんと、自ら額を差し出した。――いや、額に小型の方術陣を張り付け、頭突きしたのだ。

 暫定精霊(スペクター)の弾丸はガキンッと金属的な音を立てて弾け飛んだものの、構造を破壊するには至らない。クルクルと宙を2、3回転した後に体勢を立て直すと、再び蒼治めがけて突進してくる。

 一方、この間にチルキスも動いている。蒼治の視界の外に出ようと大きく横に跳び、今度は蒼治の心臓目掛けて発砲。直後、再び横に跳んで別方向からの射撃を狙う。

 もしも蒼治が先のワニ型暫定精霊(スペクター)への防御にのみこだわっていたら、死角からのチルキスの攻撃にやられていたことだろう。

 だが、肉を切らせて自由になった足に痛覚遮断の魔化(エンチャント)をかけて動き出した蒼治は、迫り来る2発の暫定精霊(スペクター)弾丸を後目(しりめ)に、一気にチルキスへと肉薄する。

 「…チッ!」

 今度舌打ちしたのは、チルキスだ。射撃への体勢が整っていない中で接近されることを嫌った彼女は、先に飛ばしたナイフをワイヤーを引っ張って引き戻しつつ、蒼治の体を狙うが。その攻撃を想定していた蒼治は、銃身でナイフを弾き落としながらも、速度を殺さずチルキスの長銃の内側に潜り込む。

 「その程度で…ッ!」

 チルキスは足掻くような叫びを上げると、腰元から3つめのナイフを抜いて、蒼治の腹部へ放つ。が、これも蒼治は銃身で弾いて防いだ。戦いに対して慎重な彼は、相手の隠し武器も想定済みだ。

 ついに鼻息がかかるような距離まで接近した蒼治は、打撃用に強化された銃の背でチルキスの腹部を深く叩く。

 「あう…っ!」

 勇猛なる狩人である彼女も、痛みを耐える時まで勇ましくはいられない。悲痛ながら、女性らしい細い呻きを上げる。

 (女性相手に可哀想だけど…! そんな事を言ってられる状況じゃないッ!)

 蒼治は後ろめたさを振り切り、もう一つの銃身でチルキスの顎を下から思い切り殴りつける。ガキンッ、と痛々しい音が響き、チルキスが仰け反って宙に体を躍らす。

 そこへ蒼治は体当たりを食らわし、自らも倒れ込んでチルキスの上になると。痛みで涙が滲みつつも、火を吹くような視線でこちらを睨むチルキスの額に銃口を突きつける。

 この時、蒼治はチルキスが放った先の2発の暫定精霊(スペクター)の弾丸を警戒し、背中に方術陣を張り付ける準備を整えていたが。チルキスは顎を強打した時に、どうやら一時的に意識が寸断されたらしく、魔力の制御をうしなった弾丸は分解されて宙空に蒸発したようだ。

 視線を交わし合い、荒い呼吸を繰り返す、男女2人。その呼吸は偶然にもほぼ同じサイクルで胸を上下させている。

 「…なんで、この状況下で僕を狙うんですか」

 蒼治がチルキスに問う。彼は星撒部としてこの都市国家(アルカインテール)の混乱に収拾をつけたいのであって、敵対者といえども命を奪うつもりはない。だから彼は、勝利を収める絶好の機会だからと言って、無情に引き金を引くことはしない。

 蒼治の問いに、チルキスはしばらく無言で睨みつけるばかりであったが。やがて、眼を弧月のように歪めると、艶やかに桜色に彩られた唇をペロリと舐めて、語る。

 「私は、狩人。そしてあなたは、私の子鹿ちゃんだから」

 答えにしては、要領を得ない言葉。それに眉をひそめた蒼治は、「それは、どういう…」と聞き返そうとした、その時。

 チルキスは接吻を誘うように口をすぼめたかと思うと、ヒュッ、と口の中から矢のごとく"何か"を吐き出す。

 「!!」

 蒼治は驚愕と共に、反射神経に任せて首を動かし、弾丸を右耳スレスレでやり過ごす。過ぎ行く最中、蒼治がチラリと視線を走らせて捕らえた"何か"の正体は、溶けかけたチョコレートだ。しかし、鈍く輝くその表面は唾液に由来するだけでなく、蛍光色の魔力励起光が見える。まんまと顔面に当たっていれば、頭蓋に潜り込んだかも知れない。

 しかし、チルキスの本命は、この攻撃ではない。

 彼女はグイッと手を引き、飛ばしたワイヤー付きナイフを手元に手繰(たぐ)り寄せると。蒼治の視線が戻らぬ隙に、逆手で力強く握り込むと、その刃を脇腹に深々と差し込む。

 「っ!!」

 ナイフの刀身には切れ味を増すための魔化(エンチャント)が施されていたらしい。刃は易々と蒼治の脇腹に筋肉にズブリと潜り込むと、内蔵にまでその切っ先が達する。声にならない激痛を蒼治の全身を駆けめぐり、全身か冷たい汗がブワリと吹き出す。

 チルキスは更に、ナイフをグリリッと抉り、蒼治の脇腹の傷を広げると。ドクドクッと盛大な湧水のように鮮血が流れ出し、濁った白の粘水の大地に真紅を添える。しかしながら粘水と血液は水と油のように全く混ざり合わず、粘水は血液を弄びながら一定の方向へとゆっくり流れるのであった。

 「…ぐっ…はぁっ!」

 蒼治は激痛に脱力し、体のくの字に折ってうずくまる。これを幸いとチルキスは、脚を己と蒼治の間に滑り込ませると、巴投げのような動作で蒼治を投げ飛ばし、自由を得る。

 「げふっ!」

 後頭部を地面に強打した蒼治は、ガンガンと脳髄に響く衝撃の中、こみ上げて来た血反吐を呼気と共に吐き出す。

 しかし、そんな惨状の中でも、蒼治は必死に思考を平静に保つと、傷口からズキズキと広がる灼熱の激痛と微熱に抗い、素早く四つん這いになってから立ち上がる。予想されるチルキスからの致命的な追撃に、なんとか対抗せんがためだ。

 だが、蒼治の予想に反して、チルキスはトドメを差しては来ない。蒼治がフラつく足取りで何とか立ち上がると、彼女はすでに万全の体勢で立ち尽くしている。右手には槍のように愛用の長銃を携え、左手には3振りのワイヤー付きナイフを指の間に挟んで構えている。いつでも蒼治を仕留められるはずなのに、何故に彼女は蒼治の行動を見守っているのか。

 「ホラ、傷口を止血してさ、痛覚遮断しないよ、甘々な子鹿ちゃん。

 回復魔術使えるなら、心ゆくまで治療しても良いわ」

 先の容赦ない攻撃とは余りに似つかわしくない、温情の言葉。蒼治は感謝の言葉を述べず、即座に方術陣を傷口を経由して体内に展開しつつ、尋ねる。

 「…あなたの目的は、なんだ。

 理由は、正直、よく分からないけど、僕の、命が欲しい、んじゃないのか?」

 痛みに喘ぐ途切れ途切れの言葉に、チルキスは赤い舌をチロリと覗かせてクックッと(わら)う。

 「確かに、あなたを殺すことは、結果的に最終目標よ。でもそれは、副次的な目的に過ぎない。

 私の目的は、狩人として、獲物であるあなたと楽しむこと。

 でも、あなたったらさ…」

 チルキスは呆れた微笑を浮かべて小さく鼻息を吹き出す。

 「興醒(きょうざ)めなおふざけするんだもの。

 あそこまで狩人(わたし)を出し抜き、組み敷いたなら、鹿だって角を突き立てるのに。あなたったら、ホント角のない子鹿みたいにしてるんだもの。

 あのまま私があなたを刺し殺しちゃうって選択肢もあったんだけどね。それじゃあ、楽しくないでしょう?」

 チルキスは、頬を桃色に上気させ、興奮に息を弾ませながら言葉を続ける。

 「狩人なら、獲物を仕留めるならやっぱり、脳天か心臓をズドン!

 暴れて抗う相手なら、なおのこと、楽しめるもの!

 …だからさ、これでイーブンでしょ? 振り出しに戻るでしょう?」

 チルキスの言葉に、蒼治は固唾を飲みながら、覚る。

 ――この相手は、マトモな職業軍人じゃない。組織や体制のために命を賭けるような人物ではない。

 戦いを楽しむ為に戦士になった、戦闘狂。

 「さぁ、早く早く、ちゃっちゃと治療しちゃって。

 そして、もう一度遊びましょう! 今度はあなたも、子鹿では居られないでしょう? 虎にならなきゃ、私を退けられないわよ?」

 チルキスの長い言葉の最中、蒼治の傷への対処は随分と進んだ。今は完全に止血しているし、痛みもない。広げられた傷口は代替組織の役割をする方術陣で塞ぎ、多少突っ張るものの、行動するのには支障がない。

 ほぼ万全の状態に戻っている。だが、蒼治の顔に噴き出た汗は、全く引かない。

 眼前の、戦闘に取り付かれた女性の姿をした猛獣――そう、狩人というより、猛獣の方が似つかわしいと蒼治は思っている――に、吐き気を催すような悪寒を感じて止まない。

 (…とんでもない相手に、目をつけられてしまったな…)

 怯懦を含んだ苦々しい視線と、興奮と喚起に沸き立つ艶やかな視線。その双方の交錯は、2人の交戦の第二幕の開始を告げる。

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