星ヲ撒ク者ドモ   作:眼珠天蚕

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Dead Eyes See No Future - Part 4

 ◆ ◆ ◆

 

 「…あ、ナミト見っけ」

 下半身に雲をまとい、フワリと上空を飛ぶイェルグは、眼下に認めた光景に声を出す。

 「あいつ、ホントに『冥骸』の連中と助け合いしてんだな。旧時代の赤十字って組織も真っ青な慈善活動だ。

 渚が見たら、ベタ褒め間違いなしの光景だぜ」

 イェルグが言う通り、眼下に広がる光景の中では、九つの尻尾を出したナミトが『冥骸』の死後生命(アンデッド)の中を奔走し、ノイズが走って今にも崩れそうな者たちを練気でもって救助している様子が見える。また、彼女の側には、錆びた西洋風の鎧に身を包んだ地縛霊――『要塞』の姿もあり、ナミトの補助を行っている。

 この光景からは、先刻まで壮絶な死闘を繰り広げていたなどとはとてもでないが想像できない。

 「快晴の空にぴったりの、微笑ましい光景だな。

 他の勢力どももこれを見習って、こんな状況になっちまったんだから、当初の殺伐とした目的なんか捨てちまえば良いのにな」

 「激しく、同感ッス…!」

 イェルグに返事するのは、彼の上着のポケットにしまい込まれたナビット越しの大和である。現在、2人は音声通信を行っているので、3Dディスプレイは展開されていない。

 「その牧歌的な光景、オレの目の前のこのデカブツに見せつけてやりたいッスよ…!」

 大和は未だに大型癌様獣(キャンサー)、『胎動』を食い止めるのに必死である。声音には余裕のなさと苛立ち、そして疲弊が露わになっている。

 「いやいや、癌様獣(キャンサー)にゃそういう感情論は通じんぜ。あいつらは共有思考ネットワークを持ってるからな、個よりも種全体の利益を合理的に判断する傾向にある。他の百万人が右を向いても、種全体がそうしろと判断すれば、たった1個体であろうとも躊躇(ためら)いなく左を向くような奴らだぜ」

 「…ってことは、オレ、貧乏くじ引いちゃったってワケッスかぁ…!

 初めの話じゃ、"インダストリー"の機動兵器をメインに相手するはずだったのに…!

 誰ッスかぁ、癌様獣(キャンサー)の相手をするはずだったのはぁッ! 職務怠慢ッスよぉっ!」

 「件のノーラだよ、癌様獣(キャンサー)担当は」

 イェルグが答えると、ナビットのスピーカー越しからでも分かるほど、大和がギクリと強ばって息を飲む。

 良く言えばフェミニストを気取っている彼が、女子のノーラを悪く言う結果になったことにショックを感じたようだ。

 そんな彼をフォローするかのように、イェルグが小さく笑いながら語る。

 「そうは言ってもな、あんな乱戦じゃ誰がどれを担当だって言っても、専念なんて出来ないもんさ。

 オレなんざ、全勢力の空中戦力を相手にするハメになって、てんてこまいだったぜ」

 「それじゃ、先輩にとって『バベル』ってヤツは、救いのカミサマなんじゃないッスか?」

 そんな大和の言葉は、彼自身のきつい現状に比べて悠々としているイェルグに対して、純粋に羨望を抱いたがゆえのものであったが。

 イェルグはスッと笑みを消すと、「バカ」と短く、鋭く語る。

 「こんな胸糞悪い地獄を作り出したバケモノになんか、感謝するワケあるか。

 こんな気味悪い光景を見ながら空飛ぶなら、追いかけ回されて飛び回る方が気楽だってンだよ」

 全く冗談のない、刃のように鋭い真摯な言葉に、大和はグッと息を飲み込むと。ションボリと声をしならせて、「…スミマセン…」と答える。

 するとイェルグは再び笑いを取り戻すと、彼自身を運ぶ雲のように軽い調子で語る。

 「オレこそスマン、お前も悪気あったワケじゃないだろ。

 そんなことより、しょげた拍子に相手さんに力負けしたりすんなよ?」

 そう語り終えるとほぼ同時に、スピーカー越しに「うおおおお!?」と大和の叫びが聞こえる。イェルグの懸念は的中したようで、『胎動』に見事に出し抜かれてしまったらしい。

 そんな大和を苦笑しながら、「しっかりやってくれよ」と声を上げたイェルグは、しばらく口を噤んでノーラ探しに集中することにする。

 ナミトと『破塞』を中心に群がる『冥骸』の黒い群れを後目に、イェルグが前進する先に見えるのは、瓦礫と化した摩天楼の中から沿った背を見せる巨大な白色のデカブツ。街並みを破壊しながら這い歩く、『バベル』だ。

 イェルグはノーラを探すことになった際、すぐに『バベル』の事が頭を過ぎった。すなわち、ノーラは『バベル』の近くに居るのではないか、と(いぶか)しんだのである。

 その根拠は、蒼治のマーキングだ。マーキングという魔術は、こだわり次第で幾らでも緻密に組み上げることが出来るが、基本的には単純な構造をしている。故に、蒼治ほどの卓越した、そして悲観的な使い手ならば、不測の事態を考慮して相当な強度を実現したことだろう。それが易々と損傷を被ったと言うからには、正にとんでもない規模の術式効果がもたらされたのではないかと推測できる。

 アルカインテール全土に影響を及ぼした『バベル』の魂魄干渉は、ちょうどその条件に当てはまる一大魔法現象だ。

 (定義崩壊していないと仮定して、居場所として妥当なのは、『バベル』の後方だな)

 イェルグも紫と同様、ノーラが『バベル』のもたらした惨状に精神的に参ってしまったのだろう、と云う予想を立てている。だから彼は、『バベル』が通り道としたであろう後方へと進路を取る。

 ナミトと『冥骸』の集団を過ぎてからと云うもの、眼下の光景には特に目立つものはない。定義崩壊によって溶けかけた建築物の残骸と、その合間をゆっくりと『バベル』へと向けて流れる濁った白い液体が見えるばかりだ。ザッと見たところ、人影は見あたらない。『バベル』の近場なので、魂魄干渉によって皆溶けてしまったのか。はたまた、生き延びたとしてもすっかり戦意を失って惨状に臆し、傾いた建造物の中に身を潜めたのか。何にせよ、不気味ではあるが退屈な光景だ。

 かと言って、イェルグはのほほんと欠伸(あくび)するワケにも行かない。この退屈で変わり映えのしない膨大な面積で、ノーラと言う人物独りを魔力の波長だけを頼りに探し出すのだから。だだっ広い真闇を飛ぶコウモリのように、感覚を研ぎ澄ませながら飛ぶ。

 やがてイェルグは、『バベル』の長大な尾と巨大な臀部を一望出来る位置へと到達する。『バベル』の背後には、一段と融解の度合いの激しい、背の低い瓦礫がズラリと左右に並ぶ"路"が出来ていた。『バベル』の足踏みに押しつぶされたのか、はまたは間近の術式影響によって溶融したのか、起伏の見えぬツルリとした路面には、白い液体はほとんど見えない。『バベル』は通りすがりにそれらを片っ端から吸収し、己が肉体へと転化したことだろう。

 『バベル』はイェルグに背を向けたまま、脇目も振らずにひたすら直線の進路を取って、這い進む。その向かう先にあるのは、成長が止まり、今や水晶の林立と化した『天国』の中心部だ。そこには成長と前と同様に、天から地へと伸びる無機質な直方体が見えるが、その数は二十を越えるほどに増加している。

 『天国』の中心に至ることで、『バベル』は史上初めて『天国』と物理的に接触することが出来るのだろうか。それはイェルグには分からないし、そもそもそれを考えても詮無きことだ。

 (今はとにかく、ノーラだな。

 さぁてと、この路に沿って、飛んでみますかね)

 制服のポケットの中から漏れる大和の独り罵声を聞き流しながら、イェルグは高度を下げて『バベル』の作り出した路を(さかのぼ)る。

 不気味ながら退屈な光景をひたすら進むこと、10分程経過しただろうか。周囲に漂う濃厚な魂魄干渉の残滓の中、見逃しそうになる微かな見知った魔力の波長を感じ取る。

 (これは…)

 イェルグは飛行速度を落とし、キョロキョロと視界を巡らせると。どこまでも続く似たような破滅的光景の中に、埋もれるようにうずくまる人影を見出す。

 折った膝を抱え込み、顔を膝の間に埋めて微動だにしない、人影。唯一動きが見て取れるのは、微風に揺れる薄紫色の頭髪だけだ。

 ――探し人、見つけたり。

 イェルグは下半身を包む雲を霧消させて着地すると、ニッと笑みを浮かべて大股に歩み寄る。

 「こんなトコでお休みかい、ノーラ?」

 うずくまった人影――ノーラの間近に接近したイェルグが声をかけると。ノーラはゆっくりと膝の合間から顔を抜き、顔を上げる。

 こうしてイェルグの眼に映ったノーラの表情といえば――浮かべた笑いが思わず苦く歪みそうになるような、酷い有様だ。

 普段ならば新緑のような輝きを[(たた)えている碧眼は、木枯らしに当てられたように濁り切って陰に覆われている。陰は下瞼をも黒く塗り込め、(くま)でも出来たかのようだ。頬は()けたように見えるくらい脱力し、顔色は真っ青だ。

 まるで、世界の破滅を体験し、ただ独り生き残ったかのような有様だ。

 「…あ…イェルグ、先輩…」

 ノーラの色の薄くなった唇から漏れた声は、長年声帯を使ったことがないかのように(かす)れていた。

 そんなノーラを前にして、イェルグは対応に苦慮して頭を掻きたくなる衝動に駆られたが。すぐに思い直し、有り体に、普段通りの彼の態度で接することにする。

 「よっ、ノーラ。随分とお疲れの様子だな。

 蒼治と紫が全然連絡が繋がらねぇって、心配してたぜ?」

 「あ…連絡、ですか…?」

 ノーラはノロノロと制服の内側に手を入れて、ナビットを取り出す。そのタッチディスプレイを操作する動作も、画面を見やる眼球の動きも、非常にのっそりとしている。

 ようやく着信履歴を見たノーラは、自嘲にしてはあまりに乾いた笑みを浮かべて、ポツリと呟く。

 「あ…ホントですね…。

 連絡、来てたんだ…そっか…全然、気づかなかった…」

 「まぁ、疲れてりゃ気付かないことくらいあるさ。気にすんな。

 兎にも角にも、お前さんが無事で一安心だよ。

 万が一にも溶けちまってたらどうしようかって、みんな心配してたんだぜ」

 「溶けて…」

 イェルグの言葉の一部を繰り返したノーラは、途端に無表情の顔をワナワナと震わせ、瞳をギュッと収縮させると。ナビットを地面に放って、両手で顔を覆う。

 「いや…いや…あんなの…あんな光景…いや…いや…なんで、あんな酷いこと…いや…っ!」

 ブツブツと拒絶の言葉を繰り返す、ノーラ。その有様は、PTSDを患った戦傷兵の姿そのものだ。

 紫の悪い予想は、残念なことに的中したのだ。『バベル』の所業を間近に目にしたノーラは、自身はその影響から免れたものの、凄絶な光景に心がすっかり折れてしまったのだ。

 ブツブツと呟き続けるノーラを目の前にして、イェルグは今度こそ本当に頭を掻いて困り顔になる。彼はヴァネッサという恋人がいるものの、普段の関係では彼のマイペースにヴァネッサが合わせてくれているために、気遣いというものに慣れていない。心が折れてしまった女の子を相手に、一体何と声をかけて慰めるべきか。言葉が見つからない。

 (こういう時、大和のヤツが羨ましくなるな)

 イェルグはチラリとナビットの入ったポケットに視線を投げ、苦笑する。確かに、女の子に声をかけて回ることを苦にしない彼ならば、口説き文句にも繋がりそうな上手い言葉を紡ぐのだろう。しかし彼は今、色気もへったくれもない大型癌様獣(キャンサー)と必死に交戦中である。

 イェルグのナビットも多少の雑音ばかりで、大和の独り言も聞こえなくなっていたため、ノーラの呟きの他は無言の時間が(しばら)く続く。

 (…とにかく、フォローになりそうな事、何か言っておかないとな)

 イェルグは頭の中で言葉を色々と巡らした挙げ句、ポンと手を叩いて、こんな事を口にする。

 「あー、なんだ。ノーラ、さっきの定義崩壊の光景だけどさ、気にすることはないんだぜ。

 ドロドロに溶けちまってはいるが、あいつら、みんな死んじゃいない。ちゃんと生きてる、ただ存在定義がグチャグチャになっちまっただけだ。

 存在定義さえ復元できれば、傷一つなく元に戻るんだ。

 そして、それは定義変換(コンヴァージョン)を操れるノーラ、お前になら可能なんだぜ」

 この時、ノーラがビクッと体を震わせたのを、イェルグの無神経さは全く気付いてはくれなかった。

 イェルグは調子づいて来たように、更に言葉を続ける。

 「確かに、オレ達は出鼻をくじかれちまった。

 だけど、世の中には"終わり良ければ全て良し"って良い言葉があるもんさ。

 これからお前が『バベル』を個々の人々に切り離してくれりゃ、オレ達は充分に失態を取り戻――」

 「できませんッ!」

 イェルグが語っている最中のことだ。突如、顔を両手で覆ったままのノーラが、激しく首を左右に振って拒絶の叫びを上げる。

 その声は甲高い雷鳴のようで、イェルグの体をビクッと(すく)ませる。しかし、それ以上に彼の身体を縛ったのは、開いた指の隙間からこちらを睨みつける、ノーラの眼光だ。

 溢れる涙に滲む碧眼には、燃え上がる激情の炎が灯りながらも、射抜く者の背筋を凍らせる冷たさを併せ持っている。

 口を半開きにしたまま固まったイェルグに、ノーラは今度は声のトーンをずっかり落とし、掠れ声を絞り出す。

 「出来るワケ、ないじゃないですか…。

 あんな怪物…あれだけ大量の魂魄を結合しながら、岩みたいに安定している化け物…あれを、どうやって崩せって言うんですか…。

 実戦経験なんて、皆さんより断然少なくて…戦争も、生死に触れるのも、ほんの一昨日に初めて関わったばかりの私が…こんなに大量の人々の命を、引き受けるなんて、出来るワケないじゃないですか…」

 そしてノーラは再び顔を膝の合間に埋めて、口を閉ざす。

 対してイェルグは、歪みのない事実を述べているノーラの言葉を強く否定することも出来ず、垂れた前髪をクシャクシャと乱しながら額を掻くばかり。説得するにしても、言葉に(きゅう)して舌も唇も動けぬまま、虚しく時間ばかり費やすのであった。

 

 イェルグとノーラが虚無の時間を過ごしている一方…。

 半ば溶融した高層建築物の中に埋もれるようにして倒れている、一体の"インダストリー"の大型機動兵器が、ハッと目覚めたように重苦しい駆動音を立てながら上体を起こした。

 この機動兵器は、人型にしては異様に長い、ムカデかヤスデのようにツルリと輝く重厚な装甲に覆われていた両腕を持っている。脚にはホバー機関が装備されており、地上を浮遊して滑るように移動することが可能である。頭部は人よりもクモを思わせる形状をしており、3対の黒々とした眼球型のセンサーが円に近い正多角形の顔面に埋め込まれている。

 この機体を、蒼治を初めとした昨日のうちにアルカインテールに入都した部員達が見れば、ピンと琴線に触れたことであろう。昨日とは細部がだいぶ異なるものの、雰囲気はさほど変わらない。癌様獣(キャンサー)の群れに混じって、部員達を追い回した腕長の機動兵器だ。

 この機体の操縦適応者(クラダー)は、"インダストリー"のアルカインテール・プロジェクトチームの中でも特に好戦的な武闘派。エンゲッター・リックオンである。

 先に"ハッと目覚めたように"と述べたが、これは単なる形容ではない。実際、エンゲッターは『バベル』の魂魄干渉による意識障害に陥り、今の今まで漆黒の視界の中で、『バベル』の死した眼の凝視に曝されていたのである。それでも怯懦に陥ることなく、定義崩壊に至らなかったのは、意識障害の最中でも変わらぬ不屈の好戦的意志のお陰であろう。エンゲッターは視界が回復するまで、凝視に対してありたっけの罵声をぶつけまくり、決して白旗を上げなかったのである。

 エンゲッターはコクピットの中で、口元だけが露出したヘルメット状の顔を左右に振ると、チェックシステムを機動。重度に機械化した身体の各種機関や制御システムにエラーが生じていないか、確認を急ぐ。補助インターフェースの表示が重なる彼の視界には、次々に"OK"の文字を浮かべるグリーンの表示が浮かび上がってゆき、彼は安堵の吐息をフゥと吐く。

 チェックシステムの処理が終わり切るより早く、コクピット内の通信機がコール音を響かせる。

 「…はいはいよ。起きたばっかりだっつーのに、(せわ)しねぇ限りだぜ」

 エンゲッターは金属製のカクカクした指でコンソールパネルを操作すると、眼前に3Dディスプレイが展開する。その映像の中央にデンとアップで描画されているのは、プロジェクトのリーダーである若き才女、イルマータ・ラウザーブである。

 「あっ、やっと繋がりましたよー!

 もぉ、何してたンですかぁ、エンゲッターさぁん!

 こんな大事な時に、お昼寝ですかぁ!」

 イルマータは揺れる純白のロングヘアの下で、ぷくっと頬を膨らませる。一見するとふざけて見えるような仕草だが、その瞳はナイフのように鋭く、冷たい。本気怒っているのが見て取れる。

 しかしエンゲッターは気圧されることなく、持ち前の強気に押されるまま、唇を(とが)らせて反論する。

 「何してるも何も、てめぇら後方(バックヤード)なら把握してンだろ。

 メッチャクチャな規模の魂魄干渉が起きたんだよ。ラリッちまっても仕方ねぇだろうが。

 てめぇだって、アホ面見せて寝こけてたくせによッ!」

 「ざんね~ん! 私たちには魂魄干渉は効きませんでした~!」

 イルマータは指で右目の下瞼をペロッと延ばして舌を出してみせる。

 「被験者から抽出した『バベル』の記録から、魂魄干渉が発生するのは分かり切ってましたからねー。魂魄干渉対策はやり過ぎるほどに実装してましたもーん。それでもまぁ、頭がクラクラするくらいの影響は出ましたけどねー」

 あまりに気軽く、そして小馬鹿にしたような言い様に、前線を駆けずり回っていたエンゲッターはギリリと歯噛みする。頭部を機械化していなければ、間違いなく、血管が破裂するほどの青筋を立てていたことだろう。

 「てめぇ…そんな予測が出来てンなら、オレ達の機体にも、その対策とやらを施しやがれってンだッ!

 オレは時間のロス程度で済んだものの! ドロドロに溶けちったメンバーも居るんだぞ!」

 「ええ、把握してますよー」

 イルマータはサラリと答える。まるで、リンゴは木の上に成るものだと教えられ、当たり前だろうと一蹴する時のように。

 そしてイルマータは、完全に小馬鹿にした態度でハッと鼻で笑い、両手を肩の高さに上げて"ヤレヤレ"と言った感じで首を左右に振る。

 「元々、操縦適応者(あなたがた)の機体は、魂魄と密接にリンクし、状況に応じてその定義や構造に修正を加えるシステムが備わってますよー。だから皆さんは、大半の戦闘において、大したストレスを感じることなく任務に集中出来るんですー。

 皆さんの"資質"なんて言う不確定なものにばかり頼るような非合理的な思想は、我が社には存在し得ませんよー? エンゲッターさんの電子の脳髄には、その情報は焼き付いていませんでしたかー?」

 イルマータの煽りにエンゲッターはますます激情を募らせる。しかし、イルマータは反撃の隙を与えず、口早に言葉を次ぐ。

 「とにかく、魂魄の安定システムが備わっているのですからー、これを上手く利用することで今回の魂魄干渉は充分乗り切れたはずなんですー。

 実際、エンゲッターさんは乗り切ってますよねー? お昼寝はしてしまったようですけどー。

 定義崩壊すら乗り切れなかった方々というのは、単に我が社の要求するレベルには届かない無能ちゃんだった、っという程度ですよー。

 良かったですねー、エンゲッターさん。あなたは見事、我が社の眼鏡に適う優秀な人材であると、この場で認定されましたー!」

 ニッコリと笑い、両腕を高く上げてお祝いするように語る、イルマータ。その動作の一々がエンゲッターの琴線に触れ、コクピットの中を暴れ回りたくなる衝動に駆られる。しかし、現場は未だ事態が収拾していないことを(おもんぱか)れない程、エンゲッターは愚かではない。血が滲むほど歯噛みしていた口から炎のようなため息を深く、長く吐くと。激情を無理矢理押さえ込んだ固い、そして低い声を漏らす。

 「…そんで、オレに何の用があるってんだ? 合理的極まりないイルマータ様なら、さぞや高尚な用件があるんでしょうな?」

 問いに対し、イルマータは笑みを一瞬にしてスッと消し、氷のような無表情を作る。この機械のように無機質な姿こそ、イルマータの本性だ。鈍い光を(たた)える眼には、高速で演算を行う数字がミッチリと泳ぎ回っているようにも見える。

 「現在、『バベル』に最も近い位置に居るのは、あなたです。

 至急、確保に向かって下さい」

 「オレ一人に、あのバケモノを確保させるつもりかよ」

 エンゲッターが失笑して語るが、イルマータは氷の表情を緩めずに、抑揚のない機械音声的な言い方で語る。

 「いえ。

 プロテウスさんを覗く全てのメンバーには、連絡がつながり次第、そちらに向かわせます。

 ただし、あなたは位置的に最も近く、そして意識障害からも回復している。だからあなたには至急、標的に向かってもらいたいです。

 今すぐ、出発してください。今すぐ、です」

 「ちょ、ちょっと待てよ。オレは『バベル』の位置を把握してなんか…」

 いきなり急かされて戸惑うエンゲッターの元に、イルマータからデータが送信される。それは、アルカインテールのマップ情報だ。その上に表示されている青い点には"自機(ME)"の表記が、赤い点には"標的(BABEL)"の表記がある。

 「出発してください」

 イルマータはマップデータの詳しい説明もせず、繰り返し急かす。逆らっても益はないので、エンゲッターは自機を立ち上がらせると、ホバー機関をふかして瓦礫の大地を滑って走り出す。

 「ほいほい、エンゲッター機、発進。標的へと急行中…と。

 ところで、イルマータさんよ。なんでそんなに急いでんだ? こんな状況じゃ、オレら以外の勢力もロクに動けねーんじゃないのか?

 あと、ついでに、プロテウス以外にゃ召集かけるって言ってたが、プロテウスの奴がどうしたのかも聞いておくか」

 するとイルマータは、エンゲッターの機体の上体をチェックするためか、数瞬の間視線を落としたまま(もだ)す。やがて視線を上げたイルマータは、まずエンゲッターの後者の質問から答える。

 「プロテウスさんは現在、複数の勢力と交戦中です。手が離せません」

 「オホッ!」

 エンゲッターは甲高い声を上げる。

 「この状況下でも、まだまだ意気揚々な奴がいるたぁ、恐れ入ったぜ!

 この御時勢下、どこにでも戦闘狂って奴は居るんだなぁ! まぁ、魔法科学なんてオモチャが手に入っちまったからなぁ、戦闘が楽しくて仕方なくなっちまう気持ちは分からんでもねぇな!」

 「無駄口は結構ですから、急いで下さい」

 イルマータが無機質な言葉の中に、苛立ちを含ませて釘を刺す。

 「癌様獣(キャンサー)どもの群れがこちらに向かって次元転移してくるのを補足しています。

 迅速な確保を要します」

 イルマータの苛立ちに対し、エンゲッターは面白がるようにヘラヘラと語る。――移動中なので、他にすることがないという余裕意識も手伝っての行動かも知れない。

 「流石は全異相世界中でも最高クラスの合理性を持ち合わせる生物様だな! 同族の数千体くらい定義崩壊したところで、種族全体から見りゃ大した損害じゃないってワケか!」

 「奴らの合理性は、我が社の社員全員が徹底的に見習うべきですね」

 イルマータの同意に、エンゲッターは更なる苦笑を浮かべる。

 (それじゃオレ達は、会社の消耗品かよ。そんな社畜根性、お断りだっつーの!

 オレは戦闘を楽しみてぇから、この会社にブラ下がってるってンのによ。

 …本気で転職、考えた方が良いのかねぇ…)

 そんな事を内心で呟くエンゲッターは、自身の視覚に投影した機体の視界の中に、小さく映る『バベル』の姿を見出す。イルマータはエンゲッターが一番近いと言っていたが、距離としては決して"近い"と表現できない。『バベル』が白子(アルビノ)の乳幼児のように見える。

 「おっし、『バベル』を視認した! これから、捕獲に…」

 イルマータに報告している、その最中。エンゲッターの視界の中、ごく低高度の天空に、球形をした空間の歪曲が無数に現れる。機体のセンサーは次元転移を確認したとして、アラームや警告表示を行う。

 イルマータが通信越しに溜息を吐く。その有様にエンゲッターは舌打ちし、そして覚る。

 癌様獣(キャンサー)の群れが、次元転移して来たのだ。

 「ダイジョブ、ダイジョブだっつーの、リーダー様よぉっ!」

 刺し貫かんばかりの非難の視線を投じるイルマータに、エンゲッターは手振りを交えながら気を鎮めにかかる。…とは言え、エンゲッターは確かに初動が遅かったかも知れないが、彼だけに責があるワケではないのだが。

 「終わり良けりゃ全て良し、だろぉ!?

 誰彼が雨(あられ)と来ようが、オレ達が『バベル』をかっさらっちまえば良いンだろう!?

 宙域じゃカトンボほども癌様獣(ムシケラ)どもブッ殺しまくったオレだぜ! 負けるワケねーだろッ!」

 エンゲッターは長大な腕の装甲から2列に並んだ無数の機銃を展開し、また背部には次元歪曲弾頭を満載と積んだミサイルランチャーを転移換装しながら、一直線に『バベル』に向かう。

 「オレが勝ったら、今月の給与に特別ボーナスをたんまり上乗せしてもらうぜぇ!」

 「分かりましたから、くれぐれも有言実行を頼みますよ」

 イルマータは冷たく言い放つと、通信を切断する。

 独りのこったエンゲッターは、生身の口元を舌でベロリと舐め回すと、戦意に高鳴る胸に導かれるまま、空間歪曲の向こう側から出現する癌様獣(キャンサー)達の直下へと(おど)り出るのであった。

 

 イェルグは、急に大気に険の含んだ気配を感じ取り、ノーラに背を向けて『バベル』の方へと向き直る。

 彼がそこに見たのは、前より幾分か小さく見えるほど距離が放たれた『バベル』の後ろ姿。そして、『バベル』の前方に次々に現れる、蟲の大群のそのものである癌様獣(キャンサー)。そして、一際大きな高層建築物の残骸の陰から飛び出した、腕の長い人型機動兵器――エンゲッターの機体である。

 「おっと、こいつはぐずぐずしてらンないな」

 イェルグは困った風体で独りごちると、屈んだまま動かないノーラと視線を合わせるようにしゃがみ込む。

 「すまんね、ノーラ。時間切れだ。お前の失意に、これ以上つき合えなくなった。

 ちょっくら、行ってくるわ」

 そう言い残してスッと立ち上がり、再びノーラに背を向ける、イェルグ。その気配に剣呑なものを感じ取ったノーラは、思わず膝の合間から顔を上げ、イェルグの黒髪がなびく背中に視線を投じる。

 「行く、って…どこへ…?」

 「決まってるだろ」

 イェルグは振り返りもせず両肩を(すく)めると、"今からコンビニに行く"と言わんばかりの何でもない態度で言葉を次ぐ。

 「『バベル』のとこさ」

 「…無茶ですよ…っ!」

 ノーラが立ち上がって叫ぶが、イェルグはやはり声に振り返らない。『バベル』に(なら)された路をスタスタと歩き始めながら、再び語る。

 「無茶ね、まぁ、そうかも知れんね。叫び声だけで定義崩壊を起こすような怪物を相手にしに行くんだからな。すんなりと事が運ぶなんて、あり得ないだろうさ。

 だけどな、渚の奴曰く、オレ達は無茶と言われるような絶望も希望に変える存在でなきゃならんのだとよ」

 「そんな…それこそ、無茶苦茶な理由で…! 先輩は、命を賭けに行くって言うんですか…!?」

 「半分は、な」

 ここでイェルグはようやくノーラを振り向く。まるで、この時にノーラが浮かべた困惑の表情を待ち受けていたかのように。

 「半分…ですか?」

 「ああ。オレが星撒部の部員だから。それが理由の半分。

 んで、残りの半分はな…危機感さ」

 「危機感…?」

 ノーラはイェルグの胸中を察せずに、問い返してばかりいる。そんな彼女を面白がるようにイェルグは笑みを浮かべると、「そう」と首を縦に振る。

 「危機感っつーより、本能的な恐怖感、って言った方がより正確かも知れん。

 ともかく、オレは星撒部の部員である以前に、オレ個人という一生物として、『バベル』とその取り巻きの(やから)が心底嫌になった。あんな物、そして、あんな奴ら、放ってなんか置けない。全異相世界中でも、最も素晴らしい地球様の空を楽しめなくなっちまう。

 だから、誰も、ノーラもやれないってンなら、オレが『バベル』をブッ壊すことにした」

 「…出来るん、ですか…?」

 その質問に、イェルグは笑みを消すと、普段の飄々(ひょうひょう)とした態度からは想像もつかぬ、鋭く厳しい表情を浮かべて、叱りつけるように言い放つ。

 「やらなきゃならねぇだろうが」

 ノーラが思わずビクッと身体を震わす。しかし、イェルグは気に留めず、鋭いままの態度で、やや口早に言葉を次ぐ。

 「『バベル』って奴は、人様の迷惑どころか命までそっちのけで、ひたすら『天国』を握ることしか考えてねー代物だ。魔法科学の歴史においては快挙かも知れないがよ、あいつがホントに『天国』を手にしたら、どうなると思うよ?

 今更、全人類の幸福のために慈善活動をすると思うかよ?

 『天国』の持つ力が、噂通りに全異相世界に影響を及ぼすものだと仮定して、『バベル』を作った奴は真っ先に私利私欲を満たそうとするに違いねーだろ。

 かと言って、あそこに見える"インダストリー"だの癌様獣(キャンサー)だのの手に渡りゃうまく行くかって言えば、そうもならねーに決まってる。一つの都市国家を巻き込んで、1月以上も殺し合い続けてたような連中だ。世界平和だの、全人類幸福だのの為に使うなんて考えられねーよ。

 それどころか、誰も知らねー『天国』の性質に振り回されて、史上最悪規模の術失態禍(ファンブル)起こして、この惑星丸ごと定義崩壊させかねないぜ。

 そんな事になっちまったら、正に絶望の中の絶望さ。この青空だって、二度と味わえなくなるしな。

 オレは、そんな事態に陥るのは嫌だ。だから、出来る出来ないの話じゃない。

 やる。

 それしか最善の選択肢はない」

 「…先輩は、『バベル』に取り込まれた皆さんを、助け出せる算段があるんですか…?」

 ノーラがそう尋ねたのには、やり遂げる自信は持てないものの、目にした惨劇をどうにか――他力本願でも構わない――打開したい、という願いがあるからこそだ。それ故に、彼女は失意に苦しんでいたのだから。

 しかし――ノーラの願いを、イェルグは至極短く、そしてキッパリとした言葉で一蹴する。

 「いんや」

 「え…あ、あの、それじゃあ…」

 オロオロと問い返すノーラに、イェルグは冗談めいた微笑みを浮かべたかと思うと。『バベル』へと向き直ってノーラに背を見せ、両腕を肩の位置に持ち上げて(すく)めた。

 「オレは空を取り柄としてる男だぜ?

 まぁ、それでもユーテリアに通ってる身だからな。魂魄についての知識は、そこら辺の奴らよりは豊富だろうさ。

 だからと言って、魂魄の定義をどーのこーの出来るような技術なんか持ち合わせちゃいない。

 だから、オレが『バベル』にすることは、そのままの意味さ。

 "ブッ壊す"。

 救うじゃない。あのヤバいバケモノを構築している魂魄どもごと、文字通り、ブッ壊すのさ」

 「そ、そんな事をしたら…『バベル』に(とら)われてしまった、沢山の人々は…」

 「当然、本当の意味で、死ぬさ」

 イェルグの言葉は、物は手を離せば地面に落ちる、ということを淡々と語るほどに、軽々しい。

 そんな軽い口調で、大量の命を奪うと云う重過ぎる事実を語るイェルグに、ノーラは半ば悲鳴のように声を上げる。

 「そんな…! それじゃあ…そんなんじゃあ…希望の星を振り撒く、私たちの部のポリシーに、(そむ)くじゃないですか…!」

 イェルグは持ち上げた両腕を下ろしたものの、肩を竦めたまま、背越しに答える。

 「渚の奴はカンカンに怒るだろうな。ベストな形でこの都市国家(まち)に希望を与えられないワケだし。それ以前に、希望を与えるはずのオレ達が、希望を奪う真似をしちまうんだからな。

 それでも、この惑星がまるごとブッ壊れちまうよりは、もたらされる絶望は遙かに小さくて済む。消える希望は、たかだか千人のオーダーだものな」

 「そんな…そんな…そんな…!」

 ノーラは拒絶の意志を込めて、同じ言葉を繰り返す。そんな彼女に、イェルグはチラリと振り向いて視線を投げて、冗談でも語るような穏やかな口調で、こんな事を語る。

 「この機会に、覚えておくと良いぜ。

 オレは、この部活で一番のシビアな思考の持ち主さ。

 舐めたら死ぬ空を"飼ってる"んだからな、そうなっちまうのは当たり前のことなんだろうな。

 それでも、ヌルいまでの理想を語るこの部活に身を置いてるのは、シビアであるよりも、まったりと空を飛ぶ方が好きだからさ」

 空を"飼ってる"という表現の意味は分からなかったが、それを考えるような余裕などノーラにはなかった。

 イェルグが視線を前に戻すと、手を振って歩き出す。

 「おっと、もう"インダストリー"の奴らも癌様獣(キャンサー)どもも、随分と近づいて来ちまった。

 これ以上、無駄なお喋りは出来ないし、するつもりもない。

 それじゃあな」

 「あ…」

 ノーラはなんとか引き留めようとイェルグに手を伸ばしながらも、何と言葉をかけるべきか分からず、意味のない短い声を漏らす。

 そんなノーラの態度を、何も出来ずに傍観者になることを決め込んでしまった罪悪感であると思ったのか。イェルグはこんな事を言い残す。

 「気にするな。やるのはオレさ。お前さんじゃない。

 罪をおっ被るのは、オレだけさ」

 そしてイェルグは、トン、と足音を立てると、宙に大きく弧を描いて跳び出す――『バベル』へと向かって。

 

 ノーラは、苦悩する。

 己の頭蓋を抱え込み、そのまま押し潰してしまうのではないか、という程に、苦悩する。

 このままイェルグに全て任せて、自分は傍観者を決め込んでしまって、果たして本当に良いのだろうか?

 イェルグは気にすることはないと言っていた。確かに、直接手を下すのはイェルグであり、ノーラではない。…しかし、その理屈に甘んじて、大量の魂魄が失われても、のうのうと生きて行くのは、本当に正しいことなのだろうか?

 イェルグは…いや、彼だけでなく、恐らくは蒼治を初めとした全ての星撒部の部員達は…『バベル』から人々を救い出せるのはノーラしか居ないと言っている。確かに、自分の能力を至極客観的に鑑みれば、一番可能性が高いのは自分だろう。実際に先日、アオイデュアはその力を振るい、無情なる『現女神(あらめがみ)』の神霊圧から魂魄を救出することに成功した。

 今回のケースは、アオイデュアの時はスケールも難易度も違う。しかし、成功確率が1パーセントに満たなかろうが、可能性があることは確かだ。

 そんな自分が、傍観者を決め込むことは、人々を見殺しにすることに他ならないのではないか?

 …しかし。ノーラが『バベル』の相手をし、その結果として魂魄を救出できなかったとしたら。果たして"みんな"は(すべから)く、彼女の労をねぎらった上で、「仕方のないことだよ。あなたは充分にやってくれたのだから」と慰めてくれるだろうか?

 星撒部の部員達は、きっと慰めてくれるに違いない。この仕事の困難さを正確に理解してくれるだろうし、努力も認めてくれるだろう。アルカインテールの市軍警察官達も、認めてくれることだろう。…だが、一般の市民はどうだろうか。

 救えるかも知れなかった家族や知人を、失敗によってみすみす失ってしまった悲しみを振り切った上で、ノーラに微笑んでくれるだろうか?

 ――怖い。ノーラは自身の両腕で、自身を抱え込む。凍った刃のように冷たい視線、または、燃え盛る火山のような憤怒視線…それに囲まれる光景が目の前に浮かび、脚が(すく)んで戦慄(わなな)いてしまう。怖い。

 脳裏に浮かぶ重苦しい光景の中に、人々の先頭に立ってこちらを睨みつける、一人の少女の姿が浮かび上がる。ノーラがこの都市国家(アルカインテール)に来るきっかけを作った少女、倉縞栞だ。

 ノーラの脳裏の世界で、彼女は大粒の涙をボロボロと(こぼ)しながら、全身を悲哀と憤怒で震わせながら絶叫する。

 「やっぱりだ! 約束なんて、守ってくれなかった!

 あたいのヌイグルミも、パパも! みんな、お前のせいで壊れちゃったんだ、居なくなっちゃったんだ!」

 そんな言葉をぶつけられたら、ノーラの心はポッキリと折れたまま、二度と蘇れないかも知れない。

 ――しかし。『バベル』に手を下さず、傍観を決め込んだとして。ノーラは栞の責めを逃れることが出来るだろうか。栞の怒りを受けずに居られるだろうか。

 そんなワケがない。『バベル』への対応を放棄した時点で、ノーラは約束を反故(ほご)にした事になる。責められて、当然だ。

 やるもやらぬも、待つのは地獄。この状況下で、ノーラも栞も、誰も彼もが幸せになれる選択肢はないのか。

 ――たった一つだけある。ノーラが『バベル』にうまく対処し、全ての魂魄を救出することだ。

 しかし、それが出来る自信なんてない。

 だが、それ以外にみんなが救われる道なんて、ない。

 グルグルと堂々巡りする、思考。その間にもイェルグは、一度着地して再び大地を蹴ると、『バベル』へ向けて更に跳躍し前進する。

 最早こちらに一瞥もくれずに『バベル』へ向かう彼の背中を見て、思う。

 (イェルグ先輩なら…本当に…『バベル』を撃破出来るの?)

 先日、アオイデュアで行動を共にした時、間近で見せつけられた彼の戦闘能力。あの凄まじい力があれば、可能かも知れない。

 しかし…イェルグが相手にせねばならない相手は『バベル』だけではない。"インダストリー"のD装備機体もあれば、癌様獣(キャンサー)の大群もいる。これらをも相手にして、彼に勝機はあり得るのだろうか?

 その疑問は、ひょっとすれば、実戦経験が断然豊富なイェルグにとっては侮辱にあたるかも知れない。だが、このシビアな状況下においては、希望的観測は不適切だ。だからノーラは、ユーテリア所属の"英雄の卵"だとか、イェルグの未だ見たことのない力だとか、そういう可能性は全て排除した上で、極々常識的に判断を下す。

 答えは、即座に脳裏に浮かぶ。――無謀だ。

 では、『バベル』の撃破に失敗したイェルグは、どうなってしまうのか。それも極々常識的に考えれば――悲惨な、取り返しの付かない末路を迎えることになるだろう。

 そして、イェルグの残酷な末路をただただ傍観していただけのノーラは、皆にどう扱われるか。考えるまでもない。仲間を見殺しにした薄情者…いや、裏切り者とさえ見なされるかも知れない…として、(とが)を一つ多く背負うことになるのだ。

 得られるはずの部員達からの同情すらも失い、ノーラの周囲は鋭い(トゲ)のついた真闇に覆われる。

 大量の死と怨恨を背負い歩み続ける人生は、生き地獄と称して差し支えないことであろう。

 (――嫌だ)

 ノーラは身を震わす。若い彼女の人生は未だ80年以上の時を残しているだろう。その長い時間、決して消えない重い(とが)を背負い続けねばならないなんて、考えるだけでもゾッとする…!

 (そんなの…嫌だ!)

 彼女は、はじめはゆっくりと、段々と加速しながら、イェルグの背中を追って駆け出す。彼女の魂魄を揺るがす恐怖を、払拭せんがために。

 彼女を突き動かす恐怖は、浅ましい保身であるだけかも知れない。事実、彼女の恐れは、誰にも同情されぬことだ。この都市国家(まち)の人々を救いたいと願う以前に、その事態を避けたいが為に駆け出したその姿は、他者から冷たい視線を向けられるかも知れない。

 (それでも、構わない…! 私は怖い、それは真実だもの…! 浅ましいと罵られても、構わない…!)

 ようやくグルグルとした躊躇の円環から飛び出したノーラを勇気づけるように、鼓動を早めた心臓が彼女の脳裏にこんな言葉を送る。

 ――偽善も、立派な善。いくら善意を抱えようとも、それを振りまかねば、その者は善人とは見なされやしない。

 ――走り出したお前は、立派に善人だ。

 ノーラの碧眼に、輝きが戻る。灯った明るい炎は暗く冷たい恐怖を(あぶ)ると、恐怖が焦げすぎた肉のように(しぼ)んでゆく。

 ノーラは両脚に加速の身体魔化(フィジカル・エンチャント)を付加すると、相変わらず跳びながら前進するイェルグの元へと急接近。腕を高く上げて、叫ぶ。

 「先輩っ! イェルグ先輩っ!」

 ノーラのほぼ真上を跳ぶイェルグが、顔面に疑問符を張り付けたような表情を作り、こちらを見下ろしてくる。そこでノーラは、両手で口元を囲んでメガホンを作ると、続けてイェルグに叫ぶ。

 「私も…! 私も、連れて行ってください…!

 私が…私が…!」

 一呼吸おいてから、ノーラは一際大きな声を上げる。眼に残ったカスのような恐怖を、吹き飛ばさんとするかのように。

 「『バベル』を、やっつけます!」

 

 先刻とは全く打って変わった、力強い堂々たる宣言。

 その余りに変わりように、却って不安を抱く者も居るかも知れない。雰囲気に押されたがゆえの、自棄(やけ)になった行動ではないか、と。

 しかし――ノーラを見下ろすイェルグは、「本当に大丈夫なのか?」とか「やれるのか?」と云った言葉を一切口にしなかった。

 それどころか、疑問符を張り付けていた表情を一変、愉快そうにニッと笑うと、ノーラの元に急降下。そして、戦いへと誘う右手を、一片の躊躇(ためら)いもなく、スッと伸ばす。

 「そんじゃ、行こうぜ」

 「…はい!」

 ノーラが誘う手をしっかりと握り返した、その瞬間。イェルグはグイッとノーラを引っ張り上げて、両腕で抱え込んだかと思うと、一気に急加速。急角度で上昇しながら、疾風そのものの勢いで飛翔する。

 「しっかり捕まってな。一気に運んでやるよ」

 語る最中にも、イェルグは更に加速し、瓦解した上に溶融した街並みをグングンと過ぎって行く。"空の男"を自称する彼は、飛翔の魔術には非常に長けているようだ。

 ゴウゴウと耳元を過ぎゆく風の音にちょっとビックリしたノーラは、イェルグの首の辺りに腕を回してしっかりとしがみつく。そして、イェルグの崩れぬ微笑みを間近に見ながら…ふと、その頭上に疑問符が浮かぶ。

 (先輩、鳥のようにこんなに速く飛べるのに…さっきまでは、フワフワと浮かぶ雲みたいに飛び跳ねてたよね…?

 時間切れとか言ってのに…なんでそんな事を?)

 眉根を寄せるノーラの表情から察したのかも知れないが、イェルグがナハハ、と笑いながら、彼女の疑問の答えを口にする。

 「いやー、良かった良かった。ノーラがやる気になってくれて。

 中々動かないからさ、正直焦っちまったよ。本気で『バベル』も"インダストリー"も癌様獣(キャンサー)も、全部相手にする羽目になっちまうのか、ってな」

 それを聞いたノーラは、目が点になる。

 ――つまり。シビアだの何だの散々語っておきながら、イェルグの言動は全てが"振り"だったのだ。失意に沈んでいたノーラを、その気にさせるために。

 高速飛翔が可能なのに、わざわざフワフワと飛び跳ねて見せていたのは、ノーラの逡巡する思考を煽りたてるためだったワケだ。

 そしてノーラは、まんまとイェルグの計略にハマってしまったワケだ。

 その余りにも見事な演技力と計算高さに、憤りを通り越して呆れるというか、感心してしまう。

 しかしながら、胸の内にはチクリと苛立ちのトゲが刺さったので、ノーラは精一杯に慣れない半眼ジト目を作り、イェルグを睨みつけてボソリと呟いてみせる。

 「…先輩。ヴァネッサ先輩に、人が悪いって言われること、ありませんか?」

 普段、イェルグと多くの時間を過ごしているヴァネッサならば、自分以上にその被害に遭っているに違いない。

 そんなノーラの予測は、図星だったようだ。イェルグは苦々しさを滲ませながらも、それが勲章であるかのようにちょっと誇らしげに語る。

 「たまに、"砂糖の代わりに塩を入れたチョコレートケーキを食わせたくなる"とは言われるな」

 「…先輩は一度、食べた方が良いと思います」

 ノーラが語ると、イェルグは舌をベーッと出す。

 「そんなモン、食ってられるかよ。全力で遠慮するね」

 その余りの悪ぶれなさぶりに、ノーラは呆れて小さく溜息を吐く。そして直後、クスクス、と笑い出した。

 眼前には、正真正銘の怪物たる『バベル』が急速で迫り来ているというのに。イェルグの冗談めいているほどの裏表の無さは、あまりに滑稽で笑いを催さずにはいられなかった。

 小さくだが声を上げて笑うと、それまで胸中にズーンとのし掛かっていた諸々の不安や緊張感が、緩んだ頬の肉と共に柔らかくなり、そのまま(とろ)けてサラサラと流れるように消え去っていった。

 …もしも、イェルグがここまで計算した上で行動していたとしたら、彼は非常な大物に違いないことだろう。

 その事を確かめてみたい気になったノーラであるが。彼女が疑問を口にするよりも速く、イェルグが和やかな口調のままながら、気を引き締めさせる言葉を口にする。

 「さぁーて、そろそろ接触するぜ、怪物さんによ」

 言われて、ノーラは視線を前方に向けると。その巨大さが重量感を伴って認識されるほどに眼前に迫った『バベル』の俯瞰(ふかん)による全貌が視界の大半を埋め尽くす。脊椎によって結合した人体から伸びた手足が、水に揺れるイソギンチャックの触手のようにワサワサとゆっくり(うごめ)いている様がよく見える。

 『バベル』の体表には、手足の他に顔が突出している箇所もある。その顔は性別が分からないほどノッペリとして、ツルリとした無毛の、仮面にも似た様相を呈している。眼は白一色で瞳が見えず、どこを向いているか分からない。しかし、青白く輝く体液を垂れ流しながらパクパク動く口や、伸ばしたまま揺れ動かす手足と相まって、救いを求めているかのようにも見える。

 ノーラがただ独りで対峙した時には、多大な生理的嫌悪に嘔吐感、そして涙を誘う恐怖感に満ちていた、おぞましい姿。

 しかし、今は――勇気を奮い(おこ)してくれた仲間と一緒に行る今ならば。嫌悪や嘔吐や恐怖よりも、憐憫(れんびん)と[[rb:憤怒]]に眼が燃え上がる。

 ――人道にもとる欲望のために、理不尽な惨劇に晒された者達を救い出してあげたい。

 ――そして、人道にもとる欲望を恥ずかしげなく押し進め、犠牲と言うなの梯子を踏みつけて『天国』を手中に収めんとする者を、思いっ切り()らしめてやりたい!

 「さぁて、どうするよ、ノーラ?」

 『バベル』の臀部上空に達したイェルグが問うと。ノーラは桜色の唇をキリリと引き結んだ後に、口早に要望を伝える――。

 

 『バベル』、いや、ヘイグマンは、笑っていた。

 『バベル』を起動し、魂魄干渉を引き起こす叫びを上げてからというもの、ヘイグマンの顔にはギラギラとした笑みが灯りっぱなしであった。普段は枯れ木のように表情に乏しい彼が、『バベル』という水を得て活き活きとした魚の(ごと)くであった。

 ヘイグマンの頭部に埋め込まれた胎児様生体共振器官により、ヘイグマンの感情が伝搬した『バベル』もまた、死んだ眼をギョロギョロと動かしながら、巨大な口をニタァリと歪めて開き、狂気を(はら)んだ凄絶な笑みを浮かべ続けている。

 そして、ヘイグマンは笑うと同時に、興奮してもいた。着込んだ軍服越しにでも分かるほど、高鳴る鼓動の振動が分かるほどに、興奮していた。

 「素晴らしい…ああ、素晴らしい…!

 これが、これがそうなのか…!

 これが、『天国』を手にする権利者が体感する世界なのか…!」

 独りごちるヘイグマンの視界に描画されるのは、もはや単なる物質世界ではない。『バベル』の有する認識能力のフィードバックを受けた彼の感覚は、(あまね)く存在――物質、事象、そして、概念さえも――の詳細な定義が超高精度の術式として捉えている。

 "それ"は一体何物なのか。世界の中でどんな役割を与えられ、存在しているのか。何を考え、何を感じ、そして何をしようとしているのか。現在という主観の全てが、"真理"と表現しても差し支えない情報を差し出してくれる、全知の世界。人類の領域を超越した領域に踏み込んだという優越感に、ヘイグマンは垂涎の笑みを浮かべっぱなしだ。

 そして何より彼を興奮させたのは、『バベル』を通して()た『天国』の姿である。

 形而下においては、何者も触れるおとの出来ない存在である『天国』。その形而上相における姿は、ブラックボックス――つまり、たったの一行の術式も認識出来ぬ、虚無の塊なのである。

 もしも『天国』を形而上相上で正しく認識することが出来るのならば、接触できなくとも『天国』の研究に魔法科学者たちが頭を抱えることも無かったであろう。

 視界で捉えることが出来る『天国』が、何故形而上相では何一つ捉えることが出来ないのか。その理由として魔法科学者達は、人類をはじめとする生物達の認識の水準が低いために、『天国』の発するクオリアをうまく解釈できないためだと言う仮説を立てている。

 そして今、ヘイグマンは科学者達の仮説は正しいと確信する。

 『バベル』と言う高等な魂魄機構を持つ存在は、アルカインテール上に存在する『天国』の形而上相における姿――つまりはその存在定義を、遂に捉えたのだ。

 それを認識したヘイグマンは、意図せずもボロボロと感涙し、ひび割れた唇には余りに似つかわしくない、恍惚に潤んだ声を漏らす。

 「美しい…なんと、美しいことか…!

 これが、高々人類では、自然界の枠に囚われた生物では認識できぬ、『天国』の姿か…!」

 そんな彼の言葉をスピーカー越しに聞いていたドクター・ツァーインは、マイクに噛みつくような勢いで尋ねる。

 「大佐殿、大佐殿! 美しいとは!? 一体どのように、美しいとおっしゃるのか!?

 せめて、せめて言葉だけでも! 私にもたらしてはくれませぬか!!」

 しかしヘイグマンは、人の領域を越えた領域に至って初めて認識したその美しさを、人の言葉で表現する術を持たない。

 美しい。その言葉だけが、魂魄の奥底から湧き出て来る。美しい。それが色彩的なのか、形態的なのか、幾何学的なのか、数学的なのか――判断など出来ない。ただひたすらに、美しい、それだけだ。

 "美しい"という言葉の純然たる、そして唯一絶対なる定義があるとすれば、今目にしているものが正にそれなのだと、思うほどに。

 「…それに比べて…」

 ガラリと口調を変え、ヘイグマンは口角を歪んだ形につり上げながら、怨嗟の言葉を吐く。

 ツァーインが執拗に『天国』の感想を問う言葉を聞き流しながら、ヘイグマンが見たのは、こちらに迫り来る大群。"インダストリー"の操縦適応者(クラダー)、エンゲッターが操る機動兵器と、彼の手足を引っ張りながらワラワラと怒濤のように走る癌様獣(キャンサー)どもである。

 高等にして美麗なる『天国』の定義と比肩して、彼らの定義のなんと(けが)らわしいことか。狭量たる我欲に染まりきった精神(こころ)身体(からだ)がギトギトと(うごめ)く有様は、糞に(たか)る蛆蠅のように見えてくる。

 こんな下劣な存在に、至高の美たる『天国』を握らせるなど、もってのほかだ。

 「消え去れ、ゴミ蟲どもが…!」

 ヘイグマンは歪んだ口から憤怒の炎を吐く。同時に、頭に埋め込まれた生体共振器官を通して、『バベル』に命令を下す。

 (たか)る蛆蠅どもを、完膚なまでに叩き伏せろ、と。

 その信号を受けた『バベル』は、赤ん坊と言うよりも暴れ牛のような有様で四肢をバタつかせ、迫り来る大群へと自ら突進。同時に、人類の魂魄の処理速度では到底実現不可能な高速度にして緻密な破壊的術式を練り上げ、それを右拳に集束させると、大きく振り上げる。

 そして、天よりの使いからの鉄槌だと言わんばかりに、(ゴウ)ッ、と風切り音を伴いながら、凶悪な威力を持つ拳を叩き下ろす

 ――その時だ。

 ガリガリガリガリガリッ! 『バベル』の聴覚を(ろう)する、耳障りで盛大な擦過音が発生。同時にヘイグマンは、生体共振器官を経由して『バベル』の背中の中心線に沿って一直線に駆ける鋭い一撃を覚える。

 (何事だ…ッ!)

 ヘイグマンは恍惚の表情を一転、燃える憤怒による渋面を作る。枯れ木のようであった彼の顔面にようやく活気の潤いが灯ったかと思いきや、普段以上に(しわ)が深々と刻み込まれる。

 ヘイグマンは『バベル』の顔を巡らせ、背中に茶々を入れた憎き相手を視認しようとする。『バベル』の形而上感覚をもってすれば、全方位の状況を術式の形で詳細に把握することは出来る。しかし、『バベル』に接続したとは言え、ヘイグマン個人は高々人間の一個体に過ぎない。故に彼は我欲的な激情に駆られ、"憎き相手"の面を拝まねば気が済まなくなったのだ。

 "憎き相手"は非常にすばしっこい動作の持ち主であった。その姿を捉えるために『バベル』は、首をほぼ180度回す羽目となり、結局眼前に視線を戻すこととなった。

 『バベル』の3つの死んだ眼に移る、"憎き相手"の姿。それは、一人の少女だ。猛々しい真夏を思わせる瑞々しい褐色の肌に、透き通るような薄紫色の髪を持つ、凛々しき少女。その手には、彼女の身長とほぼ同じ位の長さを有する、幅広で複雑な形状した大剣が握られている。

 一片の怯懦の曇りも見えぬ、勇ましく引き締まった表情に、堂々と両足で大地を踏みしめて立つ、その姿。それを知覚したヘイグマンは、歯茎を噛み砕かんばかりにギリギリと歯噛みをしながら、重い怨嗟の呻きを漏らす。

 「女か…ッ!

 ここに来て、また私の前に立ちふさがるのは、女なのか…ッ!」

 

 ノーラが『バベル』の眼前に着地してから一拍ほど遅れて、イェルグがヒュンと風を切りながら急降下。ノーラと背中合わせになる形で着地する。

 ノーラが『バベル』を睨むならば、イェルグが睨むべきはこちらに迫り来るエンゲッターや癌様獣(キャンサー)の大群だ。しかし、彼は敵をチラリと目にすると、すぐに視線を背後のノーラに向けて走らせる。

 「どうだい、一撃喰らわしてやった感想は?」

 イェルグの問いが示す通り、『バベル』の背中を襲った一撃を放ったのはノーラである。

 イェルグと共に飛翔していた彼女は、『バベル』の臀部に到達するとイェルグの手を離れた。そして『宙地』によって中空を思い切り、全身を弾丸のようにして『バベル』の背中をめがけて跳躍。同時に定義変換(コンヴァージョン)した愛剣で以て、『バベル』の背の上を飛びながら斬りつけたのだ。

 その感想として、ノーラが口にしたのは。

 「…固い、です。とても」

 味も素っ気もない、手短で淡々とした言葉。それを耳にしたイェルグは、苦笑を浮かべて、これから戦闘だという緊張感のない軽い言葉を口にする。

 「いやいや、そうじゃなくてよ。

 ムカつく奴に一撃入れられてスカッとしたとか、やっぱり相手にするのを後悔したとかさ。そういう感想はないのか、って訊いてンだよ」

 「特に、ありません」

 ノーラはやはり無味乾燥な返答を口にし、イェルグは苦笑を浮かべたままヤレヤレと言った感じで頬を掻く。

 …そう、ノーラという少女は、こういう人物なのだ。

 普段はどこか引っ込み思案で、語り口もどこか一歩退いたような物言いをする。自分に対しては悲観的な過小評価をし、それ故に惨状を目にした時の虚無感が凄まじく、先刻のように激しく落ち込むようなきらいがある。

 しかし、一度決意のスイッチが入ると、その態度は一変。ダイヤモンドで作ったナイフのように固く、鋭い意志と行動を示すようになる。先日、士師と交戦した時の彼女の態度が、それだ。"シビア"という言葉は、窮地に置いてもそうそう笑みを崩さぬイェルグよりも、ノーラにこそ相応しいと言えよう。

 しかし、"固い"と言うことは、無茶な力を加えらてしまうと、ポキンと折れて元に戻すことは困難であるということ。

 難敵という一言ではとても片づけられない『バベル』を相手に、固いまま苦戦必死の交戦に飛び込むのは、危うい。

 そう考えたイェルグは、スイッチが入ったノーラにも絶対に通じる、軟化の呪文を唱える。

 「背中を守るのがロイでなくて、申し訳なかったな」

 転瞬。ノーラの顔が湯気立つほどにボッと真っ赤に染まる。その熱気に(あぶ)られて暴れ回るように、ノーラはワタワタと身体を(よじ)らせながら、首を巡らせてイェルグに視線を投じる。

 「な、なんでロイ君のことが、話に出るんですか!」

 「いや、何となくだよ、何となく」

 と答えつつも、イェルグは意地悪く舌をベーッと出すが、幸か不幸かノーラには見えなかった。

 …さて、ノーラが柔らかくなったところで。イェルグは相変わらず軽い口調のまま手短に打ち合わせる。

 「そんじゃ、『バベル』のことは任せたぜ。

 オレは、お前さんに邪魔が入らないように露払いさ。絶対に抜かせやしないから、安心して『バベル』に集中しな」

 「…大丈夫ですか? あの物量を、生身一人で?」

 イェルグは苦々しさを交えず、屈託なく笑う。

 「オレは"空"だぜ? 何百、何千程度の数量、軽く包み込んでみせるさ」

 そういうイェルグの眼前には、常人がただ独りで向かい合ったのならば、あまりの絶望感で笑ってしまうような、黒々とした敵意の津波が迫っている。

 飄々としたイェルグの語りぶりに対しても、ノーラはなかなか心配を払拭出来なかったが。ズルリ、ズルリ、と云う連続した重低音を耳にし、ハッと前を向き直る。

 イェルグも大変だが、自分もまた大変な怪物を相手にせねばならないのだ。気を抜いていたら、命を落とすだけでなく、この都市国家、ひいては地球そのものに惨劇がもたらされるかも知れないのだ。

 それに、自分より実戦経験豊富な先輩を心配するなど、イェルグを侮辱しているようにも思えてきた。

 ――ノーラは、自分の中のスイッチを完全に、目前の怪物の方へと倒す。

 「それでは、先輩、お任せします。

 ――行ってきます」

 「ああ。やっつけちまってくれ」

 2人は言葉を交わすと、ほぼ同時に大地を蹴り、真逆方向から迫る難敵へと突撃する。

 

 大剣を横だめに構え、迷いも恐怖もない凛々しい表情で、態度で、駆け寄ってくる、ノーラ。

 その姿を『バベル』を通して知覚したヘイグマンは、こめかみにボッコリと青筋を立てて、火炎のような怨嗟を吐く。

 「女、女、女、女ッ!

 私の前に立ちふさがるのは、いつでも、このような女ばかりだッ!」

 "女"という言葉に呪いを込めるヘイグマンであるが、彼は別に女性全般を嫌悪しているワケではない。老齢の母のことは尊敬こそすれ、侮蔑の感情を抱いたことなどない。部隊における女性部下に対して差別的な言動を取ったこともない。道行く女性を目にしたからと言って、虫酸が走るなどとなく、気にも留めないのがほとんどだ。

 彼が女性に対して激情を抱くのは、極々限定的な条件下でしかない。

 それは――今、『バベル』の前に立つノーラのように――見目麗しいながら、地獄のような状況にあっても勇ましく、誇り高く、凛然と在るような女性だ。

 丁度、"女神"と云う言葉が相応しい女性像である。

 常人からは尊敬や羨望、時には崇拝の眼差しを集めこそすれ、憎悪などひねくれ者からしか送られないような女性達。そんな彼女らを嫌悪するヘイグマンも、"ひねくれ者"の一員なのだろうか。

 ある意味、彼は正に"ひねくれ者"であろう。しかし、彼にはそうなるだけの理由が――心傷(トラウマ)がある。

 

 時を(さかのぼ)ること、数年前。ヘイグマンがアルカインテールの駐在軍司令になる前、前線に足を運んでは勇猛果敢に指揮を振るっていた頃のこと。

 彼の率いる部隊に、『女神戦争』に関わる任務が言い渡された。

 戦場は、旧時代にアフリカ大陸と呼ばれた、過酷な環境が支配する大地。その中に広漠と横たわる、灼熱地獄を想わせる赫々(かっかく)の岩沙漠のほぼ中央に位置する、消して途絶えぬ業火で彩れた都市国家…いや、要塞国家。その名を、『炎麗宮』。

 そこは、『女神戦争』の勝利者候補と目される強大なる『現女神』、『獄炎の女神』の本拠地である。

 ヘイグマンをはじめとする、大規模の戦力に課せられた任務は、『獄炎の女神』の求心活動によって掠奪された、とある都市国家の市民達を救い出すこと。この任務は同時に、当時から頭角を表し、苛烈な求心活動を繰り返していた『獄炎の女神』に釘を刺す目的も兼ねていた。

 当時のヘイグマンは、今ほど枯れた姿をしていなかった。むしろ、年齢より若く見えるほど瑞々(みずみず)しく、活力に満ち溢れていた。指揮官という立場上、前線で一兵卒として交戦する機会はほぼ無かったが、自己研鑽を怠らぬ彼は部隊の中でもトップクラスの戦力として知られていた。

 当時から部下であったゼオギルドやチルキスは、そんな彼を慕い、望んで麾下となったのだった。

 そんなヘイグマンは自分の能力に絶対の自信を持っていた。そして彼は、次のような持論を振りかざしていた。

 「『現女神』は、真の神ではない。天賦の才は与えられているものの、初戦はヒトの肉体を持つ生物だ。

 我々は、例え男の身であろうとも、絶え間ない厳しい自己研鑽を重ねることで、必ずや『現女神(かのじょ)』らを凌駕することが出来るだろう!」

 ――さて、ヘイグマンはその他50を越える部隊と共に進軍、炎麗宮に至る。道程の岩沙漠では、魔法体質の野生動物に襲われることはあれども、人為的な妨害には一切遭わなかった。

 その状況を『獄炎の女神』の見下した余裕と見なしたヘイグマンであったが、決して怒りを感じはしなかった。むしろ、鼻で笑うような興奮さえ覚えていた。

 (今のうちに見下しているが良い、『現女神(クソアマ)』!

 貴様のその鼻、私がまんまと明かしてみせよう!)

 炎麗宮に近づくにつれ、岩沙漠の気温は徐々に上昇してゆく。涼感の魔術を駆使してなお、屈強の兵士達を汗だくにして膝を折らせる熱気の中、ヘイグマンはますます意気揚々として目的地に向かった。

 そして、炎麗宮到達後。地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の軍団混成部隊の先制攻撃によって火蓋を落とされた激戦は――ヘイグマンの精神に霹靂を落とすような戦禍となった。

 炎麗宮から出撃した敵対戦力は、たったの8名。その寡勢に、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の戦力は壊滅的な被害を受けたのだった。

 敵対勢力8名のうち、7名は『獄炎の女神』選りすぐりの士師達。その中には、士師でも最強と叫ばれて名だたる"炎星の士師"レヴェイン・モーセの姿も在った。7名は正に怪物的な戦力を存分に発揮し、大量の兵士が業火の中に消えていった。

 そして、残りの1名は――あろうことか、『獄炎の女神』その人…いや、その"神"が、直々に降臨していた。

 ヘイグマンは幸か不幸か――今となっては、不幸極まりないと断言できる――『獄炎の女神』と対峙する戦力の一端を担っていた。

 8恒星の表面のような姿と化した『天国』を背にし、4対の真紅の翼で以て中に浮かぶ女神の姿を見ても、ヘイグマンは(おそ)れを感じなかった。むしろ、神殺しの機会を与えられたのだと、顔がニヤケっ放しになるような興奮に襲われ、武者震いが止まらなかったほどだ。

 しかし――交戦を開始して程なく、ヘイグマンの武者震いは、恐怖――いや、畏怖の震撼(しんかん)へと取って代わる。

 女神は細く、美しい指を伸ばし、宙に一筋の直線を描くと。その延長線上に存在する兵士達が、突如ブクブクと音を上げて沸騰する。まるで、バーニャカウダのソースか、熱せられたハンダのような有様であった。彼らは火を吹くことも煙を放つこともなく、そのままドロリと溶けて灼熱の液体と化したのだ。

 この攻撃の前に、ヘイグマンは必死に対抗術式による防壁を形成し、その中に篭もるしかなかった。防壁の術式構造が組み上がったパズルのピースがボロボロと(こぼ)れるように壊れ始めると、ヘイグマンは防壁越しに及ぶ灼熱に当てられる以上に、冷たい汗を滝のようにブワリと噴き出したものだ。

 ――気付けば、防壁を襲う『現女神』の攻撃が止んでいた。その事実をようやく悟ったのは、『獄炎の女神』とその士師達が攻撃を停止してから、時間が大分経過した後のようだ。汗で滲むヘイグマンの視界には、『獄炎の女神』の左右を固める、錚々(そうそう)たる士師達がズラリと並んでいた。

 士師達の表情は様々であったが、そこには共通の感情がある。それは、嘲笑、である。どんなに固い表情をしていようが、晴れ晴れとした表情をしていようが、悲哀を浮かべた表情をしていようが、彼らは皆、ゾウの巨脚に挑んだアリの群れを見るような表情を浮かべている。

 『現女神』もまた、同様の表情を浮かべているだけであったならば。ヘイグマンは誇示していたはずの己の力の矮小さに恥じたり、無謀な作戦を企てた本部へ憤りを向けたり、無力な己に対する絶対的な強者の力に恐怖したりすることで済んだであろう。そして、今後はなんとしてもこの記憶を封じて、心の穏やかさを貪ることを望んだことだろう。

 しかし、『現女神』の表情は、ヘイグマンにそんな感情を抱くことを許さなかった。

 彼女は、嘲ってはいなかった。

 彼女は、(わら)ってもいなかった。

 彼女は、憐れむこともなければ、讃えることもなかった。

 彼女は、ひたすらに威厳のある美しさで、ヘイグマンを眺めていた。

 ――いや、実際には彼のことを眺めていたワケではないかも知れない。ヘイグマンが単に、『現女神』の視線が己の注がれているのだと、特別視したかっただけかも知れない。

 真実はどうあれ、ヘイグマンの記憶には、『獄炎の女神』の表情が鮮明に、深々と刻まれたのだ。

 燃えるような真紅の髪に、瞳に、唇を持つ、若々しくも力強い、まるで神話の存在をそのまま現実に削りだしたかのような姿。部下達を虐殺する行為などせずとも、その姿だけで見る者の息を詰まらせるほどの威厳と美貌。

 (…ああ、素晴らしい…)

 ヘイグマンは大量に命を奪われた部下への憐憫も忘れ、呆然と賞賛するばかりであった。

 …かと思えば、その顔を美しき天使を憎悪する悪鬼の如く歪ませ、皮膚を焼き焦がすほどに灼熱した岩沙漠の大地にギリリと爪を立てた。その全身から噴き出す感情は、憎悪ではなく…嫉妬、だ。

 そう、ヘイグマンは『現女神』の絶対的な力と美しさ、そして全異相世界を支配し得ると云われる『天国』を得る権利を…そして、女性の身に生まれたが故に、それらを手にする可能性を得た者達を強く、強く妬んだ。ゴリゴリと盛大に音を立てる歯噛みは、歯を擦り減らしてしまうのではないか、と思うほど烈しかった。

 (何故、私は"男"に生まれたのだ!?

 いや、何故この世界は、男に『天国』を得る権利を与えなかったのか!?

 魔法科学により可能性が格段に広がったこの時代においても、私が『神』の名を関する高々の生物と肩を並べることも、到底適わないと云うのか!)

 ヘイグマンの視線を、しばらく為すがままに受けていた『獄炎の女神』であったが。やがて彼女は、ふいと踵を返し、士師達と共に燃えさかる要塞の中へと姿を消してゆく。その挙動は、ヘイグマンの視線を拒絶するどころか、歯牙にも欠けぬ絶対的自信に満ち溢れていた。

 ヘイグマンは彼女の後ろ姿が業火の城壁の向こうへと消えるまで、いつまでもいつまでも、睨み続けていた。しかし、『現女神』は最後まで、こちらに一瞥もくれることなく、炎の帳の向こうへと堂々と歩き去って行ったのだった。

 ――炎麗宮の戦いが終わってからの後。ヘイグマンとその残存部隊は、人員の補充を受けると共に、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の庇護都市国家であるアルカインテールの防衛任務を与えられ、駐留軍として派兵されることになった。

 この部隊配置に関して本部は、優秀な資源採掘拠点であるアルカインテールは様々な悪質な勢力に目を付けられやすい故に、実力者揃いの部隊を派兵する必要性があると説明していた…が。実際のところは、肉体的にも精神的にも疲弊したヘイグマンの部隊の慰労と保養の為に、危険度の低い現場を与えたという意味合いが強かった。

 事実、大抵の隊員はこの任務に安堵して大歓迎していたが、ゼオギルドやチルキスのような地獄を経験して尚、血の気が余る連中にとっては退屈極まりない役回りとなった。

 そしてヘイグマンには、ゆるりと時間が増えたが故に、炎麗宮での『現女神』との邂逅(かいこう)を悶々と思い出しては、羨んだり、(ある)いは妬んだりを繰り返していた。そのグルグルとした非生産的な思考の渦に、心ばかりがギラギラとした興奮ともトキメキとも着かぬ衝動に駆られる一方で、やり場のない肉体は強大なストレスを抱え、急激に老け込んで行った。

 ――そんな最中、魂魄魔法科学の先駆者にして、『天国』の求道者たるツァーインと知り合ったのは、本当にい偶然のことだ。

 『現女神』との邂逅の記憶を、ニンジンを目の前に吊されたウマのようにせがむツァーインに対し、ぼちぼちと体験を口にしていたヘイグマンであったが。ついポロリと、悶々としていた思いを口に出していた。

 「何故、この世界においては、我々男は『天国』を手にできないのだろうか。

 何故、凛々しき女どもばかりが『現女神』として『天国』を手にする権利を与えられ、我ら男は高々"士師"として、彼女らの下に甘んじることしかできないのであろうか」

 すると、ツァーインはゲラゲラと笑い、そしてヘイグマンの肩をバンバンッ! と強く叩いてみせた。それは、ヘイグマンを元気づける為だったのか、それとも魔法科学者としてヘイグマンの言葉が稚拙に聞こえたのを嘲っていたのかも知れない。

 何にせよ、ツァーインはこんなことを口にした。

 「確かに、この世には『現女神』は存在し、男が『現男神(あらおがみ)』になった例はございませんな!

 しかし、だからと言って、自然が女性だけに『天国』を掌中に収める権利を与えたとは限りませんぞ! そのような法則、魔法科学は証明などしておりませんからな!

 それならば、ですぞ、大佐殿! あなたが、男の身で『天国』を握る第一例となっては如何ですかな!?

 私には、それを実現し得るだけの思慮と理論が在る! そしてあなたには、その身を焦がして止まぬほどの『天国』への、そして『力』への情熱が! そして一声かければ山と動く人員と資金があるではありませんか!

 我らの要素が合わされば、史上において類を見ぬ、最大最高の『握天計画』を実現できましょうぞ!」

 このツァーインの言葉に押され、始まったのが『バベル』計画。

 そして実行に移った計画は、実際に、『天国』をこの地に降臨せしめた。

 ヘイグマンは今、『天国』を掌中に収めんと――全異相世界の支配権を手に入れようとしているのだ。

 地獄から得た暗い欲望が今、結実しようとしている。

 

 しかし、その前に立ちはだかったのは、またもや女。

 若く、凛々しく、美しい、戦乙女という名を冠するに相応しい少女。

 「また私を虚仮(こけ)にするのか!?

 灼熱の大地に這いつくばらせるのか!?

 ――いや、いや! 今度は! 『現女神』でない貴様は! この私の『天国』の礎としてくれるぞ、女ァッ!」

 ヘイグマンの最後の叫びに同調して、『バベル』が巨大な唾液塊をベチャベチャと飛沫(しぶ)かせながら、オオオッ! と叫ぶ。

 大気を震わす烈風に、立ちふさがる少女――ノーラの薄紫の髪がバサバサとはためくが。彼女は目を細めることなく、風に身を竦ませることもなく。泰然と大剣を構えたまま、微動だにしない。

 その勇ましき(たたず)まいが、ますますヘイグマンの感情を逆撫でする。

 「生まれながらにして、権利を持つ者めッ! 消え失せろッ!」

 ヘイグマン――いや、『バベル』は、一度は消滅させた右手の集束術式を再構築。鉄槌のように振り上げると、拳の周囲には輪郭のぼやけた漆黒の、憤怒の表情を呈する塊が幾つも生ずる。それが単なる暫定精霊(スペクター)でないことは、形而上相を視認することで明白だ。『現女神』で云うところの"天使"に類する存在なのかも知れない。

 禍々しい顔の張り付いた鉄拳に対し、ノーラは手にした愛剣をやや上段に構えながら、定義変換(コンヴァージョン)を開始。パタパタとパネルがひっくり返るような過程を経て体積と形状が激変すると、ノーラの身長よりもずっと長大な、そして白銀の輝きが目を引くシンプルなデザインの大剣と化す。

 大剣の変化を待っていたというワケではないだろうが、丁度そのタイミングで漆黒の鉄拳が轟音と共に振り下ろされる。一方、ノーラは大地を蹴ると、自ら鉄拳へと飛び込み、大剣を鋭い銀閃と化して、鉄拳を縦一文字に斬り付ける。

 

 ――こうして、アルカインテールの命運を左右する、異形の神モドキと戦乙女(ノーラ)の戦いの幕が上がる。

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