◆ ◆ ◆
さて、先に後回しにしていた"士師"について、『現女神』の性質を交えつつ、ここで解説する。
『現女神』たちは、自身に集った信仰心に比例する"神霊力"と呼ばれる強力な魔力を扱い、『神法』と呼ばれる独自の法則を世界に展開する能力を持つ。しかし、『現女神』は『神法』を直接行使することはできない。媒介者を介することで、初めて世界に影響を与えることが出来るのである。
『現女神』たちは、神霊力を行使して、『神法』の媒介者を一から作り上げることが出来る。こうして出来上がった存在が、"天使"である。彼女らの身一つで作り上げることが出来るというメリットがある一方、存在定義から創造する必要があるため、注いだ神霊力にロスが生じてしまうデメリットを抱えている。
このデメリットを克服する存在こそ、"士師"である。
士師は、プロクシムやヴァネッサが会話の中で匂わせていた通り、『現女神』から神霊力を付与された存在である。この時に、付与された『神法』の影響によって、外観に大きな変化が生じる者も多い。プロクシムの場合は――士師となる前の姿は不明なものの――さほど大きな変化はなさそうであるが。
『現女神』が士師を作る場合、用意された存在に対してふんだんに神霊力を付与するだけでよい。そのため、神霊力のロスは小さく、注いだエネルギーの大半は士師となる人物の能力に転化される。このため、行使できる能力を比較した場合、一般に天使よりも士師の方が大きくなる…つまり、『現女神』と敵対している者からすれば、士師の方が厄介な相手となるワケである。
戦力として大いにメリットのある士師であるが、『現女神』が自らの手駒を彼らだらけにしていないのには、もちろん理由がある。
まず、どんな人間でも士師になれる…というワケではない。『現女神』に対する信仰心が"非常に"大きい者に限られる。この"非常に"の具体的な量分や、信仰心の内容については、『現女神』たち自身も論理的に説明できないようだ。ただ、彼女らは士師となる資格を持つ者を判定できるようだ。
また、士師は天使と違い、自由意志を持つということもデメリットになり得る。士師に任じられた時には多大な信仰心を捧げていた者も、自由意志の働きによって、時と共に心持ちを変えるかも知れない。折角多大なエネルギーを注いで作り上げた士師も、役立たずになってしまう可能性があるワケだ。その点、自由意志のない天使は真に忠実な部下である。
このプロクシムはどうであろうか。事あるごとに主を称えている点、刃向う者に明確な不快感を示す点を鑑みると、"獄炎"の女神にとって忠実な部下であろう。そして安心して信頼を寄せることが出来るがゆえに、彼に単独行動を命じたに違いない。
――さて、物語の焦点をノーラとプロクシムに戻すとしよう。
◆ ◆ ◆
プロクシムの名乗りと共に上がった戦闘の火蓋。その先手を取ったのは、プロクシムである。
牙のように曲げた指先の爪が、パックリと開く。露わになった指先の肉から噴き出すのは、血ではない、赫々に煌めく輝線だ。鞭のように曲がりくねりながら宙を走るそれを、ノーラは見覚えがある。この場に到着してすぐのころ、ヴァネッサの作り出した水晶の巨兵を切り裂き、完全に溶融させた灼熱の鞭だ。
ヒュッ――プロクシムが厚い唇から鋭い呼気を吐き出しつつ、グルリと大きく腕を回す。その動きに同調して、灼熱の鞭は幾重にも弧を描きながら、高速で空間を疾駆。瞬きする間もなく、ノーラを八方から取り囲むと、彼女の柔肌目がけて迫る。
ここに至っては、攻め手を考えあぐねているノーラも、即座に思考を捨てて行動に出る。
(目の前のことに、集中しないと! 命を、落とす!!)
ノーラは手にした大剣に魔力を集中。刃の周囲を覆う水を術式で満たすと、水は蛍光色の強い励起光を伴いながら、一気に体積を増加。船を飲み込み砕く渦潮の勢いでうねりながら、術者を中心に球状に展開し、迫り来る10本の灼熱の鞭に対抗する障壁と化す。
直後、灼熱の鞭が水の障壁に激突する。瞬間、ジュワワワッ、と水が爆発的に沸騰・気化する騒音が辺りに響く。鞭の持つ魔力を帯びた熱を強烈で、水の障壁の術式を破壊しながら、グイグイと中心めがけてめり込んでくる。
(マズい…!)
ノーラは大剣への集中を更に強め、水中の術式の密度を増加させる。水分子の分子間力を劇的に強化し、沸点を金属並に、冷却性能を液体窒素並に引き上げる。それでも鞭の勢いは留まることを知らず、相変わらずジュワジュワッと障壁の表面を削り取る。
拮抗状態がしばらく続くか、と思われた矢先。ノーラは水の障壁の向こう側に、急にヌッと湧いて出たかのような巨躯の影を認める。プロクシムだ。彼は鞭に攻撃を任せるに留まらず、直接手を下すべく接近してきたのだ。
鞭の制御で手が塞がっているプロクシムは、筋骨隆々とした脚を高速で叩き付けてくる。その勢いは、鞭よりも素早く、強烈だ。ゴウッ、と大気を裂く音が水の障壁を突き抜けてノーラの耳に届く。直後、幾重にも鞭を束ねたような剛脚が、蒸気爆発音を伴って水の障壁を大きく引き裂き、煌めく青銅をまとった足先でノーラの顔面を狙う。
(ただ防御しただけじゃ、ダメだ!)
ノーラは瞬時に判断すると、手にした大剣に
(…熱…ッ!)
中空で体勢を立て直しながら、ノーラは柄を握る両手から這い上がる高温に痛みを覚え、歯を食いしばる。鞭で突破出来なかった水の障壁を蒸気爆発させたプロクシムの蹴りは、鞭とは比較にならない熱量を持っていたのである。ノーラが素早くも的確な判断を用い、大剣を耐久性重視の物質組成へと変換させていなければ、彼女の首から上は剣ごと溶融していたことだろう。
だが、プロクシムの勢いづいた蹴りは、彼の体勢に大きな隙を残した。これを見逃すノーラではない。足を発信源として方術を発現させると、青白い魔円陣が出現。そこに仮想の足場が作り出される。『宙地』と呼ばれる、方術ではポピュラーな行動補助魔術だ。これを両の足で思い切り蹴りつけたノーラは、大剣を再び定義変換。物質を分子レベルで崩壊させる超高振動を帯びた刃を作り出し、プロクシムの上方から露わになった太い後ろ首を狙って、流星のように跳びかかる。
重力を味方につけた斬撃は、無防備なプロクシムの首に激突。瞬間、ギギギィッ、と耳障りな激しい擦過音が響く。まるで、金属にチェーンソーの刃を打ち当てたような騒音だ。
(…っ!! 何、この硬度…っ! 筋肉の堅さじゃない!)
定義変換によって作り出した超高振動の刃は、理論的にはダイヤモンドをも両断できる、はず。しかし、プロクシムの薄皮一枚すら侵入することが出来ない。非常に強力な
柄を握る両手になおも力を込め、せめて薄皮一枚ぐらいはと、ノーラは大剣の刃をググイッと押す。その努力も虚しく、全く功を奏せないでいると…ノーラの視界の至るところに、赫々の輝線が現れ、見る見る内に迫ってくる。プロクシムの灼熱の爪鞭だ!
――即、回避しなくては! ノーラは再び『宙地』を発動、プロクシムの頭上を水平に跳び退る。その様子を漆黒の瞳でしっかりと追う、プロクシム。その視線に連動するかのように、爪鞭は柔らかくも素早い動きで方向を変え、ノーラを執拗に追う。
しかし、この攻撃はノーラには幸いだ。10本の爪鞭が一斉、前方から迫ってくる。
ノーラは大剣を前方に突き出し、定義変換。再び水が刃の周囲を駆け巡る形状を作り出すと、魔力を集中。刃を走る水が激流の勢いで切っ先の方へと
ドジュウゥゥッ! 10本の爪鞭が絡まり合い、錐のような形となって水壁に激突、激しい蒸発音を放つ。だが、ノーラの予測は的中だ。爪鞭は水壁を完全に蒸発し切れず、その奥へ1ミリとて侵攻することができない!
だが、これで安堵してはいけない。爪鞭は尖兵に過ぎない。真に注意するべきは、プロクシム本人による直接攻撃だ。彼が発する熱量は爪鞭を遥かに凌ぐ。この水壁であっても、その蹴撃を相殺できる自信はない。ノーラは魔力の集中をこなしながらも、油断なくプロクシム本人の動向を注視する。――いつ、跳びかかって来るか、と。
だが、ノーラの覚悟を他所に、プロクシムはその場を一歩も動かない。どころか、執拗に水壁にぶつけていた爪鞭を解くと、周囲に大きく散らすようにして退き下がらせた。諦めた…というには、プロクシムの表情は相も変わらず堅く、身体からは充実した闘気をひしひしと感じる。確実に、何かを企んでいる。
(取りあえず…間合いを取りながら、次の攻め手を考えないと…)
『宙地』で中空に留まっていたノーラは、魔術を解除。自由落下での着地を試みる。
その最中、プロクシムが動く。ゆらりと右腕を高く挙げてみせる…何かに号令を出すかのように。
直後、ノーラにとって奇妙にして危機的な現象が発生する。地面、壁、天井…あらゆる方向の溶融した物体が突如、モゴリと隆起…いや、流動したのだ。四方上下から迫る、網膜を焼き潰すような灼熱の津波が、一挙にノーラを包み飲み込もうとする。
(何…!? この、デタラメな攻撃!?)
焦燥で顔面にブワリと冷や汗を噴き出す、ノーラ。まだプロクシムと戦って間もない彼女は知る由もない、彼は自身の能力で溶融した物体を意のままに操れるということを。さっき、ノーラの水壁を突破せずに爪鞭を展開したのは、ノーラの防御の突破を諦めたからではない。灼熱の爪鞭で広げることで広範囲の物体を切り裂きながら溶融させ、灼熱の津波を作り出す布石としたのだ。
いかにして、この全方位攻撃を逃れるか!? じっくり思考する余裕など、ノーラには全くない。ともかく水の大剣に魔力を集め、球状の障壁を作りながら、本能的行動で視界を巡らす。どこかに、状況の突破口はないか…!?
(…あそこ…!!)
視界の端に映った、上方やや左後方にある溶岩の隙間。足元から迫る灼熱が追いすがる前に『宙地』を発動させ、全身の筋肉を総動員させてバネのように跳び上がり、隙間への突入を試みる。
…しかし、ノーラの見つけた糸口は、希望ではなく絶望に続いていた。
閉じ行く隙間からギリギリ脱出したノーラであったが、その顔が即座にギクリと強張る。すぐ横手に、背中から透けて輝く橙色の翼を展開して飛ぶプロクシムが居る。その右手を固く握り閉めて巨拳を作り、脇を締めて構えている。万全の攻撃態勢だ。
反射神経を限界まで駆使し、大剣の腹を盾にしながら、『宙地』で前方の中空を蹴りつけて跳び退る。この防御行動は何とか功を奏した。大剣の腹は見事にプロクシムの拳を引き受け、直撃を免れることができたのだ。
だが、安心できる状況ではない。受け止めた拳撃の衝撃は強烈で、先に喰らった蹴りと同様、小柄なノーラの身体を軽々と吹き飛ばす。同時に、灼熱が大剣全体を駆け巡る。大剣の柄は一瞬にしてステーキ皿のように高熱を持ち、ノーラは思わず大剣を放り棄てそうになった。そこを踏みとどまり、身体魔化で掌を耐熱処理して柄を握りなおしたのは、英雄志向の学園生活が生み出した強靭な精神力の賜物だ。
このまま吹き飛んでは、溶融物が沸き立つ灼熱の海に突っ込んでしまう。ノーラは『宙地』を応用して足元の大気の摩擦係数を上昇させ、ブレーキをかける。ところが、そこへプロクシムが輝く翼をはためかせ、獲物を狙うハヤブサと化して頭から突っ込んでくる。
しかも、プロクシムはノーラ打倒を万全とするため、彼女の足元に広がる溶融物を操作し、火山噴火のごとき溶融物の噴出を作り出す。休む間もない厳しい挟撃に、ノーラは一瞬息を飲み、目を回してしまう。
(ともかく、回避!!)
自身に鞭を入れ、『宙地』で横方向へ跳び逃れたが、正に間一髪。右足先は溶融物に触れられて靴が焼け焦げ、剥き出しになった素足は激しい
しかし、更にプロクシムの襲撃は続く。翼を器用にはためかせ、速度を殺さずに方向転換、ノーラの後をピッタリと追う。そして右腕を伸ばし、上から下へと振る仕草を見せる。この動作に呼応して、熱で柔らかくなった天井が即座に煌めく赤一色に染まると、大粒の滴となってドロドロと流れ落ちてくる。まさに、火の雨…いや、滝だ!
(…何なの、これ…っ!)
己の頭上だけでなく、行く先までも垂れ落ちる障害物に阻まれ、ノーラの回避速度が否応なく落ちる。そこへ、溶融物をモノともせずに直進するプロクシムが、ついにノーラに肉薄した。
――溶融物より、直接攻撃の方が危険度は大! 即座に判断したノーラは、頭上への注意を捨ててプロクシムに集中。大剣の腹でプロクシムの打撃に備える。
ゴォッ! ガッ! ドォッ! 嵐のようなプロクシムの連打が容赦なくノーラに襲い掛かる。なんとか剣で拳を、蹴りを阻むが、一撃一撃が砲撃のように重い。そして、熱い! 次第に刀身が赤みを帯び、輪郭が歪んでくる。漂い始める刺激臭は、焦げて空中に放出された金属粒子に起因するものだろう。大剣全体の帯びる熱はいよいよ高まり、掌の身体魔化を突破して熱痛を肉に植え付けてくる。
加えて、頭上から落ちてくる溶融物が肩や背中に付着し、制服を焦がして破壊し、剥き出しになったツルリとした皮膚をジリジリと焦がす。中には、小さな炎を上げる部位まである。
完全な防戦一方。しかも、反撃の糸口を見つけるような余裕は微塵もない。ノーラの陥ってしまった状況は、あまりにも絶望的だ。
――そして、絶望は更なる窮地をノーラに突き付ける。
「ぬがぁっ!!」
プロクシムが、鬼の形相を浮かべたかと思うと、厚い唇を獣のように開けて吠える。いつまで経っても獲物を手に出来ず、業を煮やして怒り狂う凶獣の咆哮そのものだ。
転瞬、乾き切った烈風と共に、プロクシムの渾身の拳が大剣の腹に激突する。衝撃で生まれた熱風の渦に、ノーラの眼球表面の水分が一瞬にして蒸発し、ジクジクと痛みを訴える。瞬きしたくなる衝動に駆られるが、この行動を抑制したのは、彼女の理性ではなく――なんと、本能であった。
拳が生み出した焦熱が、大剣の熱耐性を上回り、盾にしていた刀身が萎れた葉のようにグニャリと曲がり垂れたのである。これに驚愕したノーラの本能が、瞬きを妨げたのだ。
プロクシムの拳は更に驀進し、ノーラの顔面に迫る。ヒリヒリする高熱を伴う攻撃を、背を反らせてなんとかやり過ごすノーラであるが…過ぎる拳の余波が振り撒く熱は予想以上に強烈で、焼け付くような熱さを制服越しの皮膚に突き刺す。むき出しの顔面など、薄皮がパリパリと乾いてめくり上がってしまうほどだ。
この熱痛に運動神経が音を上げたのだろうか…ノーラの膝が不意に力を失い、カクンと折れる。
(…マズい…っ!)
そう思うも、時はすでに遅し。ノーラの体制は完全にバランスを失い、『宙地』の制御も失って、溶融物に満ちる床に背中から倒れ込んでしまう。
「んくぅっ!!」
背中から駆け上がる熱い激痛に襲われたノーラは、噛み殺した絶叫を上げる。別に、大声を出すのを避けての閉口ではない。あまりの痛みに反射的に歯を食いしばりながら叫んだ結果だ。
そこへ、容赦のないプロクシムの追撃。輝かしい青銅に覆われた右足を振り上げると、ノーラの顔面目がけて踏みつけてくる。転がって避けようにも、右も左も灼熱に
四面楚歌、絶体絶命、万事休す。
ノーラ自身、ここで命を潰えるものと覚悟していたが…。
まだ諦めていない、小さな鼓動がノーラの耳元をくすぐる。
それには確かに、死への恐怖も含まれている。だが、そんな受動的で真っ暗な因子は、この鼓動の中においてもあまりにちっぽけだ。
鼓動の正体――それは、輝きだ。
部員たちからもらった、小さな希望の輝き。成し遂げてみたいこと、どうしてもやり抜きたいこと…そして、その向こう側にあるものを感じたいという欲求。これがノーラの絶望色に染まった思考に奮起の光を投げかける。
――ここで終われば、何も手に入らない! ここで終われば、あなたの言葉は全て無為になる! ここで終われば、あなたが憧れる希望を振り撒く星になんかなれない!
そして、脳裏に過ぎるのは――ロイ・ファーブニルの顔だ。仮入部員の分際で差し出がましいことを言った自分に手を伸ばしてくれた、屈託のない笑顔。
彼もまた、今なお戦い続けている。天使の大群を前にしても、彼は絶望していなかった。そんな彼が、今のノーラを見たらなんて言うだろうか。
彼に、絶望に負けた顔を見せたいのか?
(…私がロイ君に見てもらいたいのは…振り撒いた希望に彩られた、私の笑顔だ!)
そう胸中で叫んだ転瞬。ノーラは一気に痛みも絶望も飛び越えた。思考の暗雲を振り切り、その向こう側にある青々とした爽快感、そしてその中央に座す輝かしい希望の光を見た。
――見るだけでは、満足できない。あれを、掴んで見せる!
ノーラの眼が、剣呑と活気の輝きを放つ。
迫り来る絶望の足蹴を眼前にして、ノーラがとった行動は…足蹴に向かい、勢いよく立ち上がることだ。
もちろん、そのままでは単なる無謀な自殺行為である。それを希望的行為に変えたのは、彼女の人生で最高のパフォーマンスを実現した定義変換だ。両手が掴む萎れた大剣が一瞬、目も眩むような蛍光色を発したかと思うと、形状が一瞬にして激変。体積を増して長大に伸長したその姿は、大剣というよりも
ノーラはこの槍を、迫り来る足蹴に激突させる。インパクトの瞬間、槍は盛大な蒸気を吹きながら、ドォッ、と轟音を発する。同時に、槍先がパイルバンカーの要領で高速で伸長。その衝撃にプロクシムの巨躯が大きくバランスを崩すと、彼は体勢を立て直すべく数歩後退せざるを得なかった。
途絶えた猛攻を幸いと、ノーラは立ち上がった勢いのまま宙へと踊り、『宙地』によって中空に足場を作り出し、そこに直立して体勢を整える。制服の上着の背中は溶融物によって焼失し、火傷で腫れた背中が剥き出しになっている。靴はもはや両方とも失い、やはり火傷が覆う素足が露わになっている。その他、露出している顔や手、プロクシムの猛攻によって破砕した制服の合間も、痛々しい火傷に覆われている。
まさに満身創痍であるが、その眼に灯る輝きは、さっきまでとは全く違う。凛とした凄みを伴った、普段の"霧の優等生"の
ノーラは今、完全に自身を取り戻したのだ。
プロクシムが初めて、その無感情な顔にうっすらと驚愕と困惑の表情を浮かべる。このタイミングで何故、ノーラが活力を取り戻した…いや、盛り上げたのか。全く理解できないと、その表情は訴える。
その隙をみすみす見逃す"霧の優等生"ではない。再び大剣を定義変換、今度は分厚い刀身を持つ、比較的オーソドックスな形状へと変化させると。『宙地』の足場を力強く踏み切り、一陣の疾風となってプロクシムの真正面に突撃する。
対する"溶融の士師"も、黙って為すがままに委ねることはしない。表情を無感情な冷徹に引き締めると、ノーラを迎撃すべく巨拳を固め、砲撃の勢いで放つ。
轟ッ! 真正面の激突は、接面を中心に円状の衝撃波を大気中にブチ撒く。ノーラの一撃はプロクシムの腕をビリビリと震わす力を生み出すが、プロクシムの薄皮一枚にすら損傷を与えることはできない。
(別に、それで構わない!)
ノーラは無為とも取れる結果に失望しない。いや、そもそも、この結果は彼女にとって無為ではない。
ノーラ自身も叩き付けた大剣から這い上がるビリビリとした震え、そしてジリジリとした熱を腕に受けるが、それに身を委ねはしない。衝撃を振り切り、回るような体捌きでプロクシムの腕の横手へと過ぎると、そのまま彼の脇腹を――青銅の鎧が覆わぬ、筋骨隆々の体表剥き出しの脇腹を目がけて、強かに大剣をぶつける。
慟ッ! 響き渡る強烈な打撃音は、ノーラの目論見の直撃を物語る。この攻撃に対応できなかったプロクシムだが、その顔はピクリとも動かない。そして、脇腹の表面もやはり、小さな擦過傷すら付かない。
それでも、ノーラは失望しない。
プロクシムがノーラに対応すべく身を回す…が、既にノーラも次の行動へと移っている。『宙地』を駆使してプロクシムの背面やや上方へと跳び上がると、更に『宙地』を使ってプロクシムの首筋へと落下。三度大剣を叩き付けると、ギィンッ、と陶器を打ち合わせたような耳障りな音が響く。この音から想起されるように、この攻撃もプロクシムを傷つけるに至らない。
それでも、やはり、ノーラは失望しない。
続けざまの直撃に、プロクシムの顔が怒りに歪む。転瞬、彼の背中に輝く橙の翼が太陽のごとく輝きを増すと、幾重にも枝分かれしてうねりつつ、ノーラに向かって迫る。その一本一本が猛烈な高熱を帯びている。爪先から出した灼熱の鞭と同じような攻撃のようだ。
この攻撃はノーラの予想外だが、驚愕に息を飲んだのは、一呼吸する間もないほどの一瞬のこと。取り戻した怜悧さで以って、瞬時の的確な判断を重ね、『宙地』と運動神経をフルに活用して悉くをかわす。まるで、舞踏のような有様だ。稀に鞭は、ノーラの体表すれすれを過ぎり、彼女の身体に高熱を与えることもある。この時はさすがにノーラの顔に痛みに耐える表情が浮かぶものの、動きが鈍ることはない。
それどころか、鞭の動きの中に隙を見出すと、細かく『宙地』で中空の足場を作りながら、一気にプロクシムに接近してみせる。
「羽虫が…っ!」
ノーラの執拗で器用な行動に、プロクシムが堪らず声を荒げる。続いて、五指を牙のように曲げた両手を突き出すと、爪を開いて灼熱の鞭を出現させる。背中から跳び出した鞭と合わせると、総計20を超える破壊の輝線が宙を踊り狂い、ノーラの命を目指す。
さすがにこの数量・密度では、怜悧さを取り戻したノーラも体捌きだけでは対処しきれない。これまでのノーラだったならば、大剣を水の刃に変化させ、球状の水製障壁を作り、亀のように身を固めて防御したことだろうが。
(そんなコトをしても、追いつめられるだけ…! だから…!)
ノーラは大剣に魔力を集中するものの、定義変換を実行しない。刃に防御系の魔化を施すに留めると、肉薄する灼熱の鞭をことごとく打ち払う。インパクトのたびにギィンッ、と鋼のぶつかり合う騒音が起こる。しなやかな動きに反して、鞭の硬度は高いようだ。直撃すれば焼かれるだけでなく、衝撃で肉がごっそりと
刃を合わせて初めて、鞭の物理的性質を悟ったノーラだが、胸中でざわつきそうになる不安を歯噛みと共に押し殺す。怯懦は重い
ノーラの剣捌きは、時を経ると共に、無駄が削ぎ落ち洗練されてゆく。今の彼女は、剣撃の
「チィッ…!」
己の攻撃が功を奏さぬ光景を前に、プロクシムは怒りの炎を強める。そして舌打ちと共に、翼と爪から伸ばした鞭を一斉に消滅させる。もちろん、ノーラの抵抗に音をあげて諦めたワケでない。次策への布石であろうが…その内容がどうあれ、ノーラにとっては決定的なチャンスだ。『宙地』にアレンジを加えて反発係数を増大させると、バネのようになった足場を思い切り蹴りつけて跳び出す。もはや砲弾というより、紫電とも言うべき勢いだ。
頑ッ! 響き渡った堅い打撃音の源は、プロクシムの額だ。ノーラは大剣でプロクシムの顔面を狙ったのであるが、プロクシムが素早い判断で獅子を象った兜で斬撃を受け止めたのだ。兜は傷一つつかず健在であるが、その衝撃はプロクシムの顔面を強かに揺るがしたようだ。彼の顔が初めて、苦痛の色を浮かべて歪む。
しかし、これで喜ぶノーラではない。『宙地』を駆使し、すぐにプロクシムから距離を取りにかかる。この行動は正解だ。跳び退る彼女の足先すれすれを、真紅の熱塊に包まれたプロクシムの拳が大気を裂いて過ぎったからだ。乾いた灼熱の拳風がノーラの全身を襲い、身体中の至るところの火傷がビリビリと悲鳴を上げる。
プロクシムは、ノーラの後退を好機とみなした。背中の翼を力強く羽ばたかせると、巨躯を弾丸と化し、ノーラへ一気に肉薄する。彼の両手は、真紅の熱塊に包まれている。これを嵐のように暴力的振るいまくり、ノーラを捉えようと躍起になる。
対するノーラは、『宙地』で足場を作って後退を停止すると、なんとプロクシムの正面へと跳び出した。自ら死の嵐の中へ進んだのだ――そう、一撃でも喰らえば、ノーラの身体にはひどく炭化した輪郭に覆われる大穴が開き、生命は地獄の熱苦に埋没することだろう。そんな危機的な状況の中へ飛び込む彼女の顔に浮かぶのは、自殺者の諦観ではない。辛苦の向こうに存在する希望を見据え、掴み取らんとする眩しいほどの熱意と気迫である。
そして、ノーラとプロクシムの間に、あまりにも激しい乱撃の拮抗が生じる。絶え間なく響き渡る、重く堅い激突音。バラ撒かれる、熱風を交えた衝撃の颶風。人の域の極限まで…いや、魔術によって限界を遥かに突破した速度で、息つく間もなく、両者は互いを打ち伏せるべく攻め続ける。
この最中、ノーラは何度もプロクシムの身体に直撃を当てている。しかしやはり、『神法』の加護を受けた士師の身体は、かすり傷一つ追うことはない。一方で、プロクシムの灼熱を帯びた攻撃は、直撃を避けても拳の熱塊が放つ灼熱が制服を焦がして破き、皮膚を焼く。時を経るにつれて傷だらけになってゆくのは、ノーラだけだ。
それでも彼女は、瞳に灯す希望を、決意を、気迫を、決して失わない。どれほどズタボロになろうが、痛みが全身を駆け巡ろうが、歯茎から血を流さんばかりで歯を食いしばり、攻撃を繰り出し続ける。
傍目から見れば、自暴自棄による闇雲な行動にも見えるだろう。何せ、彼女の攻撃は全く功を奏してないのだから…"表面的には"。
だが、一見無為にも見える行動の繰り返しの中で、ノーラは着実に成果へと前進しつつあった。
ノーラの連続攻撃の狙いは、プロクシムの身体に損傷を与えることでは、ない。
彼女は一撃一撃において、刀身に全く異なる術式を高速で付与している。これを"灼熱の士師"にぶつけた際に形而上相で発生する魔法科学的現象を、瞬きを惜しみ始終観察し続けている。これが、彼女の真なる狙いだ。
天使や士師は強力な存在であるが、彼らの強さを構築しているのが『神法』である。この『神法』、"
そして、"霧の優等生"の通り名を冠されるノーラの怜悧な頭脳は、着実にプロクシムを守護する『神法』の正体に迫っている。
(確かに、この士師には傷がつかない。でも、私の与えている攻撃の衝撃は、確実に彼を苛んでる。つまり、単純な力学的作用を無効することはできないということ…!
鎧の有無は、この士師の防御力には無関係だ。鎧の表面も皮膚も、打撃を与えた時に発生する防御的魔法現象に差はない。鎧は、『現女神』のデザインに過ぎない。つまり、鎧を突破できるなら、皮膚も切断できるということ…!
そして、彼のあらゆる物体を溶融させる力と、身体を堅固に保つ力…そこには、関連性がある。物質を溶融させるということは、その分子運動を増大させ、分子間力を振り切らせるということ。逆に物体を堅固にするということは、分子運動の増大を防ぎ、分子間力を強固にするということ。すなわち…彼の能力の根本は、分子運動の操作!)
ここまで分析し終えたノーラの次なる課題は、いかにして分子運動の操作能力に打ち勝つか。そこで彼女が採った試行は…これまでのプロクシムの性質・行動と照らし合わせると、あまりに不可解なものである。
全体重に『宙地』の反発力を乗せた一撃を与え、プロクシムの身体をのけぞらせた、その一瞬。ノーラは定義変換を実行、そして大剣は…なんと、激しく噴出する青い炎が刀身を包む、"火炎の大剣"と化したのだ。この炎、青色をしているからといって、冷気を発しているワケではない。プロクシムの身体同様、大気を激しく揺らめかす乾いた灼熱を発する、正真正銘の炎の刀身だ。
体勢を立て直しつつ、これを見たプロクシムの顔が、思わず揶揄に歪む。"獄炎の女神"の使者たる自分に、炎など効くワケがない。この少女は度重なる焦熱と無為の結果に当てられ、正常な思考を失ったのだ…そう判断し、爪先ほどの憐憫と、その数百倍も大きい残虐な哄笑の衝動を抱える。
「哀れなるかな、凡愚ッ!!」
プロクシムの大振りな右拳は、愚者とみなしたノーラの死出を艶やかに飾ろうとするかのよう。これに対してノーラは、笑みも嘆きもせず、ただただ冷たい光を瞳にたたえ、ややゆっくりとした動作で舌から上へと、プロクシムの一撃に蒼炎の刃を合わせる。刃は熱拳がノーラの顔面に届くより先に、トン、とプロクシムの筋骨隆々の腕に当たる。
そしてそのまま、まるで羊羹に包丁が潜り込むような有様で、スーッとプロクシムの筋肉へと沈み込む。
「――!?」
この状況に、プロクシムは驚愕を覚えずにいられない。これまで無敵を誇ってきた彼の肉体が、あろうことか彼の土俵であるはずの炎によって、苛まれたのだから。士師となって以来、初めて覚えた鋭い激痛に、彫りの深い顔から脂汗が一気に吹き出し、厚い唇が悲鳴の形に歪む。
自身の行動の成果を眼と手でしっかりと認識したノーラの顔に、剣呑な輝きがギラリと宿る。転瞬、ノーラは剣を振るう両腕に目一杯力を込め、一気に斬り上げる。
斬ッ! 大気を裂く鋭い切断音と共に、プロクシムの右腕が両断される。身体と離れた拳からは急激に炎熱が失われ、旋風に巻き上げられた枝のようにクルクル回りながら宙高く舞う。
絶望に晒され続けながらも、積み重ね続けて来たノーラの努力が、遂に功を奏した瞬間である。
グヴァアアアァァァッ――!! プロクシムが狂獣の咆哮を上げ、激痛と絶望的な喪失感に激しく身をよじる。右腕の断面からは、恒星表面の輝きを放つ熱溶融物で構成された血液がドロドロと強い粘性を伴って流失してゆく。
この決定的なチャンスを、ノーラは絶対に逃さない。振り上げた大剣を握り直すと、横薙ぎに払ってプロクシムの首を狙う。赫々の世界に映える眩しい蒼が美しい直線を描いて、士師の肉体へと吸い込まれてゆく。
対してプロクシムは、背の翼を乱暴に羽ばたかせて転身し、大剣の直撃を回避する。しかし、余裕のない、ギリギリの回避だ。その証拠に、大剣の切っ先がプロクシムの咽喉を浅く斬り裂いている。熱溶融物の血液が小さな滝のように首筋にドロリと流れる。
傷つきながらも粗雑な動きで距離を取ったプロクシムは、混乱を隠せない様子で右腕の断面を見遣ったり、咽喉の傷口に触れたりする。
(一体、何をされた!?)
彼は、大いに混乱している。自身は炎を総べる"獄炎の女神"から『神法』を授けられた士師である。あらゆる世界の炎はこの『神法』の下に絶対的にひれ伏し、『現女神』はもちろんのこと、天使や士師に仇為すことはない――それが"当然"だと認識していた。しかし、その"当然"が瓦解した今、彼の困惑は精神から身体までも害し、"獄炎"に似合わしくない冷たい汗を噴出させる。
プロクシムの認識には、大きな勘違いがある。彼は『神法』を世界の枠を超越した、絶対にして不可侵、そして孤高の強制則と認識していた…それは間違いだ。士師であることを…『現女神』から力を得たことを過剰に誇る彼は、夢にも思わない――"神"の名を冠する『現女神』もまた、この異層世界の一部を成す因子に過ぎないことを。『神法』もまた、自然起源ではないものの、所詮は"法則"に過ぎないことを。
ノーラがやってみせたのは、"法則"の持つ弱みをピンポイントで点く行為だ。先に述べた通り、プロクシムの力の根源は分子間力の操作にある。彼の身体を傷つけるには、異常なまでに強固な分子間力を克服し、物質の分断を実現することだ。そのため、ノーラは何度も何度もプロクシムの身体を叩いては分子間力を強化する術式の構造を解析し、これを無効化する術式を生成する装置の構想を練り上げていたのだ。その結果として出来上がった装置が、蒼を呈しながらも炎を吹き上げる大剣だったことは、プロクシムにとってこれ以上ない皮肉であったころだろう。
事実、プロクシムは困惑しつつも、自らの口腔を破砕せんばかりの歯ぎしりをして、ノーラへ呪詛の視線を送っている。
相対する二人の間に距離が空いたと共に、戦況はほぼ白紙に戻って仕切り直される。
ノーラは体勢十分でないプロクシムをすぐに追撃したかったが、蓄積した疲労が足枷となり、行き足が止まってしまう。そのせいで全身の筋肉が上げる悲鳴や、暴れ狂う鼓動や呼吸を認知してしまったことは、確たるマイナス要因だ。引き寄せた流れが途切れるとまではゆかなくても、その勢いを削いだことには違いない。
他方のプロクシムは、生じた間を利用し、体勢の立て直しを図る。右腕の切断面から餅のように粘り気の強い溶融物の体液をドロリと山のように盛り上げると、それは徐々に複雑な形を成し、掌を形成する。とは言え、この反応は肉体の再生ではない。出来上がった掌は体液の煌めきを放ったままで、褐色の肌へ落ち着こうとはしない。どうやら、彼の溶融物操作の能力を用いて、体液を掌の形に成形しただけらしい。
この手で動きを慣らすこともせず、プロクシムは固く握り込んで輝く拳を作り出すと、拳を脇腹の横に引いて腰を落とした、大仰な構えを取る。その顔には、初見の際に見せた無情な余裕は一分もない。未だ噴き出す困惑の冷や汗を抑えつける、苦しげな憤怒の形相が浮かぶ。
真正面からこれと対峙するノーラは、身の疲労に苛まれてはいるものの、プロクシムの有様に対しては全く恐怖を抱いていない。むしろ、喜びを交えた昂揚感のようなものが胸中に浮かぶ。積み重ね続けて来た労苦が報われ、痛手を与えたのだという事実をようやく受け入れたのだ。
しかし、油断は禁物だ。怒り狂ったプロクシムの身体から湧き上がるのは、暴獣の気迫だ。なりふり構わず、ノーラの生命を速やかに断つべく暴れ狂うことだろう。疲労を言い訳に集中力を欠けば、即座に無情の死が訪れる。
無言の対峙の時間が訪れたのは、ほんの数瞬のこと。先に動いたのは、怒れるのプロクシムである。灼炎の翼を鋭く一打ちすると同時に高温の大地を蹴り、二段の加速を得て、ノーラの元へと一気に迫る。そして、失った拳の弔いとでも言わんばかりの勢いで、体液で形成した右
拳を烈風と化して放つ。
ノーラも黙って灼熱の憤怒に甘んじはしない。反発係数を操作した『宙地』を駆使し、迫るプロクシムに真っ向から挑む。
顎をめがけて突き上げられる炎拳に、蒼炎の刃を叩きつける、ノーラ。体液でで出来た拳はプロクシム自身の肉体とは異なり、硬度がない。刃に宿した術式の加護が無くとも、水に箸を通すように、すんなりと拳の中へ潜り込む。
だが、プロクシムとしても、この炎拳は仮初めの肉体。刃が通ろうが、痛みを覚えることはない。刃が更に食い込むのも構わず、更に拳撃を押し進める。
対するノーラも、一歩も退かない。身をよじって炎拳を鼻先スレスレにやり過ごしながら、蒼炎の刃を更に押し進める。刃はついにプロクシムの仮初めの腕の終端までたどり着くと、そのまま彼の肉体に新たな損傷を与えるべく、斬り進む。
「ングァッ!」
新たな苦痛に、思わずプロクシムが苦悶の声を上げる。だが、彼の動きは止まらない。自身の体が害されることも厭わず、攻撃をそのまま裏拳へと移行し、ノーラの顔面を狙う。
ノーラは決して焦らない。熱風をまとう剛拳をしっかりと視界に捉え、十分引きつけた上でサッと身を屈めてやり過ごす。憤怒ばかりが先立つプロクシムは、ノーラの変化に素早く対応できない。火を吹く視線で彼女を睨めつけるのがせいぜいだ。
ギリリと悔しげに響く歯ぎしりを後目に、ノーラは一度大剣を引く。この動作でプロクシムの右腕は更に抉れ、彼の顔に吹き出す冷たい汗が滝のように流れる。新たに出来た切断面から、高温の溶融物の体液が派手に飛び散る最中、ノーラは『宙地』で一気にプロクシムの胴へと潜り込む。そして、鎧をまとわず、隆々と割れた腹筋が露出する腹部へと、蒼炎の切っ先を稲妻のように突き出す。
ズブリ…刃がまとう術式はプロクシムの身体硬度を支える分子間力を破壊し、易々と内臓に向かって沈み込む。傷口からデロリと真っ赤に輝く溶融物が流れ、褐色の肌を彩る。プロクシムの顔が、倍加した苦悶に酷く歪む。
だが、表情とは裏腹に、彼の思考は予想以上に冷静であった。
「ハアァッ!」
痛みを押し殺しながら、プロクシムが気合いを込めて吠える。同時に、彼の全身から赫々に輝く炎熱の闘気が爆発的に噴出。乾ききった灼熱の大気に眼球を痛め、ノーラは生体反射に従って
この時、ノーラは大剣を伝わる手応えに違和感を感じる。士師を加護していた『神法』を克服したはずの刃が、プロクシムの肉体に捉えられ、前進しようにも後退しようにもピクリとも動かなくなったのだ。
(何をしたの!?)
ノーラが慌ててプロクシムの肉体に起こった魔法科学的事象を解析しようと集中を始めるが、これが隙を呼んでしまう。うっすらと浮かんだ焦燥の色を見て取ったプロクシムが、してやったり、と凄絶な
プロクシムが先に行った闘気の練り上げは、攻撃のためのものではない。自らの身体の分子間力を極限まで高めるための布石だったのだ。そして、身体に潜り込んだ大剣にさえも強化した分子間の影響を及ぼし、肉体の中に閉じこめる算段だったのだ。
オオアァァッ! 次いでのプロクシムの咆哮こそ、攻撃ーーいや、滅殺への意思表示だ。左脚中の血管を恒星表面並に輝かせると、ボォッと大気が爆発的に膨張する音が響く。脚の熱量を彼の出来うる極限まで高めたのだ。そして全身全霊で筋肉を総稼動させ、突き刺さった大剣の腹をめがけて蹴り薙ぐ。その有様は烈風と形容するにはあまりにも烈しく速い、まさに一閃の攻撃だ。
ビリビリビリッ! 強烈な衝撃が大剣を揺るがし、蒼炎を一瞬にして吹き飛ばす。更には脚の炎熱が大剣全体を瞬時に駆けめぐり、
しかし、それでもノーラは大剣を放さない。血が滲むほどに唇を噛みしめて激痛に耐えるだけでなく、刃をグリッと回してプロクシムの腹部を抉り、大剣の解放を試みようとまでする。
そこへ、プロクシムが更なる一撃を加える。無事な左腕を堅く握りしめ、再び渾身の筋力と魔力を宿すと、先の蹴撃とは真逆の方向から拳撃を放つ。ガギュン、と金属がたわむ悲鳴が響きわたるーーと同時に、プロクシムは肉体の分子間力をわざと緩和した。転瞬、拘束から解放されようと踏ん張っていたノーラの力は急に障害を失い、勢い余って大剣が大幅に逸れる。加えて、重度の火傷を負った手のひらは、すり抜けてゆく灼熱の柄を引き留めることができない。
「あっ!」と悔恨の叫ぶ間もなく…大剣は暴力的な熱風にさらわれて吹き飛び、そのまま溶融した通路の壁に激突。壁は貪欲な口腔のように大剣を
武器を失った今、ノーラは"溶融の士師"を傷つけることも、彼の攻めを捌くこともできない。もはや、丸腰同然だ。
プロクシムは、これ以上ないほど凄絶で残酷な嗤いで口角を思い切りつり上げ、最大の危機に陥った敵を睨め付ける。
(お前はもはや、私に対して何一つとして抵抗することはできぬ!)
胸中で勝ち名乗り同然の叫びをあげると、プロクシムは全魔力と神霊力を失った右腕に集中する。その余波で彼の全身からは炎熱の術式が可視化した赤光が放たれる。直視できないほどの輝きに達した彼の身体は、中天で輝く太陽そのものと化したかのようだ。しかし、全霊を注ぐ右腕の輝きは、それ以上の烈しさをまとっている。いわば、超新星の輝きと形容しても差し支えないかもしれない。
実際、今のプロクシムの右腕は星の苛烈さを持ち合わせている。すなわち、その強大過ぎる熱量で周囲の大気をプラズマ化させるほどだ。そう、女神の代行者たる"溶融の士師"は今、神から授かりし力により、腕の中に星を作り出したのだ。
この強烈な現象を可能せしめたのは、プロクシムが自身の全能力を右腕の攻撃に集中させたためだ。そのため、今彼の身体の分子間力は通常より大幅に弱体化している。身体から発せられる高温さえ乗り越えられれば、安物の剣でも彼の褐色の肌に傷を与えることが出来るだろう。
しかし、武器を失ったノーラでは、手も足も出すことができない。格闘術で対抗する手立てが考えられるが、プロクシムの身体に触れた途端、発火点を迎えて燃焼してしまうことだろう。
(…だが、お前に賜る終末は、焼死程度では済まさぬ。お前に奪われた右腕の屈辱は、その程度でのものではない! 素粒子レベルで跡形もなく! 存在定義ごとこの世から消滅させてくれる!)
プロクシムが、走り出す。恒星と化した右腕は眩いプラズマの輝線を尾引きながら、火傷だらけのノーラの顔面へと容赦なく肉薄する。
絶体絶命。惨死の絶望が実体となって迫り来る…この状況下において、ノーラはしかし、その眼から輝きを失いはしない。恐怖や怯懦の曇りや濁りは、一片もない。澄み渡る蒼天に輝く陽光のような、清々しく精悍な光をたたえている。
プロクシムは、そんなノーラの態度を激しく嫌悪する。
(なんだ、その眼は! 残酷なまでに強大な神の威光を前にして、悔いて畏怖する素振りも見せぬ、傲慢なる涜神の態度ッ!
終末まで私の心を乱す、毒蟲がッ!)
ーー滅せよッ!ーーその形に厚い唇が動いた頃には、星拳は数十センチに満たない距離までノーラに肉薄している。荒れ狂うプラズマの乱流がノーラの火傷だらけの顔の皮膚をめくりあげ、ボロボロの制服を発火させる。
それでも、ノーラの瞳からは一向に、輝きは消えない。
彼女の瞳に灯る輝きは、決して悪足掻きが生み出す
退路も迂回路もない絶望的状況下に置かれているはずであろうとも、彼女は怜悧な思考をしっかりと働かせ、そして"狙っている"。
ーー"狙っている"? 頼れる武器を失った今、彼女は士師を前にして赤子にも等しい丸腰である。その状況で、何を狙えるというのか?
無論ーー勝利だ!
事実、彼女には勝利を呼び込む"奥の手"がある。
(勝機は五分五分…いや、それ以下かもしれないけれど…!)
恒星の暴拳が更に肉薄し、プラズマが顔の皮膚をジリジリと焦がす頃…ようやく、ノーラが行動に出る。腰を落とし、右手を脇に置いて構えるーーその格好はまるで、腰に差した剣を掴んだ居合いの構えだ。しかし、彼女の脇には手にすべき剣は、ない。
だが、問題はない。剣ならば、"今から作り出す"のだから。
…ノーラの扱う特殊能力、定義変換は通常、作用対象や結果は極々限られる。物質を定義の根本から変化させるその
ノーラもまた、『神』ではないがゆえに、定義変換の対象は限られる。彼女がこの技術を適用できるのは、2つの場合に限られる。1つは、彼女が愛用する一族から贈られた大剣を変換元とし、魔法科学的機械機関を作り出す場合だ。
そして、もう1つの場合とは…無生物全般を対象とする。彼女はこの対象物を変換し、"剣"を作り出すことが出来るのだ。大剣の場合と違って、凝ったギミックを実装することはできないものの、変換対象物の性質を拡張した能力を持つ剣を作り出すことが出来る。
今、ノーラはこの力を窒素に対して作用させると…強烈な蛍光色の魔術励起光が長剣の形に発生し、実体化。今、ノーラの腰には、一振りの長剣が下がる。
(何だ!?)
魔術励起光を認識した時点で、プロクシムは
(だが、今更何が出来るというのだ! 弱者の虚しき悪足掻きに過ぎぬ!)
プロクシムは身の勢いに思考をゆだね、弱気な慎重さを放棄した。ノーラの作りだした長剣のことなど認識の外に追いやると、残虐な復讐のみ力を注ぎ、思い切り拳を振り抜くーー!
一方のノーラは、身を焼かんばかりの暴星の拳へと、自ら一歩を踏み出す。更に接近したプラズマの超高温の前に、衣類はもはや炎上さえしない。音もなく分子分解し、虚空に溶け込んでゆくばかりだ。彼女の美しい薄紫の髪も、琥珀を思わせる褐色の肌も、制服と同じ末路を辿ろうとしている。分子レベルで分解が始まった神経は、痛覚を喚起させる機能すら放棄した。このままノーラは、残酷な熱光の中へと、痛みもなく消え去るのであろうか?ーー
いや! 彼女の前進は、悲壮な自殺行為などではない。確実なる勝利への一歩だ!
顔面を激しく焼き焦がされ、頬の色が褐色から炭化の黒へと染まりながらも、ノーラは依然として瞳に毅然とした希望の輝きをたたえている。その輝きが導くままに、プロクシムの暴星の拳を神業がかった反射速度で頭上にやり過ごすとーー!
「はぁっ!」
鋭い呼気と共に、腰から窒素の長剣を抜刀。ガラスよりもなお澄み渡った透明の刃が炎熱を受けてギラリと強烈に輝く。まるで飢えた獣の牙のようなそれは、居合いの勢いに乗って、速やかにプロクシムの胴へと肉薄しーー。
サクリーー窒素の刃は、ノーラの腕にさしたる抵抗を伝えることなく、プロクシムの体内へと侵入する。
己の全能力を攻撃へと転化したプロクシムの身体は、物理的には単なる肉の塊に過ぎない。ことごとく刃を受け止め、弾き返していた堅固さは、もはや見る影もない。
(っ!!)
プロクシムが苦痛と悔恨で顔を歪めつつ、慌てて能力を肉体の硬度へ振り分けようと試みるが…時既に遅し。澄んだ透明の刃は美しい一閃でもって、プロクシムの胴体を両断、通過した。
全身に一気に広がる、鋭い激痛。酷く冷たく喪失する、下半身の感覚。腕どころでない身体の重大な欠損は、プロクシムの思考に困惑と恐慌の嵐雲を呼び込む。
(だが…だが…! 我が体液を操作し、切断面を溶接すれば…!)
プロクシムは散り散りになった冷静さをなんとかかき集め、取り得る最善の回復手段の実行に取りかかる…が。すぐに彼の顔色が、更なる蒼白に染まる。
(体液が、操作できない!?)
この時、彼は自信の身体に刻まれた深く傷跡を目にしていない。ゆえに、彼は自分の身に起こっている"異変"に気づけずにいた。
彼の体内には、灼熱の体液が巡っている。そのため、切断面は体液が放つ熱光の輝きに彩られている…はずなのだが。ノーラに付けられた傷口からは、光も熱も漏れていない。冷え切った赤黒いドロリとした血液が瀑布のように飛沫をあげながら、微動だにしない下半身を流れ下るだけだ。
(何が起こってる!?)
彼の問いの答えは、こうだ…ノーラは定義変換を用いて長剣を作り出す際、窒素の不燃性に着目し、その性質を大きく拡張した。その結果、長剣は切断した物質から"燃焼"という現象を取り除くという性質を持った。ゆえに、その斬撃を受けたプロクシムは、切断面を中心にした一定範囲の燃焼が停止してしまったのである。つまり、今の彼の体液はぐらぐらと煮えたぎる溶融物ではなく、凡人同然の血液になってしまったのだ。これでは"溶融の士師"の能力を作用させることはできない。
能力の不発は、プロクシムに更なる混乱と失意を与える。白痴のように呆然と立ち尽くし、
この致命的な隙を、ノーラは決して見逃さない。素早く転身し、プロクシムの背後を正面にとらえると、『宙地』にて一息に跳躍。くたびれた獅子のたてがみにも見える長髪に覆われたプロクシムの頭頂から真っ直ぐに、窒素の長剣を振り下ろす。
斬ッーー澄んだ透明の刃は、脳天から一直線に"溶融の士師"を両断する。
呆然とした表情のまま、顔面の左右がズレてゆく、プロクシム。彼はもはや、我が身を襲った災厄に混迷を深めることも、災厄をもたらしたノーラに憤怒を覚えることもなくなった。
両断され、溶融を支える熱源を失った彼の脳は、赤黒い血液をドバドバと垂れ流しながら、急速にその機能を失ってゆく。
急速に暗転してゆく意識の中で、彼が最期に思考に描いたことは…『現女神』の元に魂魄が召されることへの歓喜でも、現世で彼女のために働けなくなる口惜しさでもない。超人的な能力が役立たなくなった今、プロクシムは存在のみならず思考までも凡人の水準へと成り下がっている。彼は無情の死に直面した病人のように、自身を包む虚無に怯え
(いやだ…消えたくない…消えたくない…消えたくーー)
意識の消失は、不意に訪れる。もはやプロクシムは、その事実を認知することはない。彼の思考は久遠の閑寂に覆われる。
プロクシムが死を迎えた瞬間。彼の身体は眩い純白の光を爆発させる。網膜を焼き切らんばかりの輝きの中、彼の褐色の巨躯は完成したパズルを崩すように、白い軽やかな破片ーーそれは、純白の羽根に似るーーへと分解してゆく。
士師の最期は、天使と同様だ。その身に宿した『神霊力』が爆発的に解放され、形而上層へと蒸発してゆく。その強大なエネルギーの放出に、士師自身の肉体を構成する物質は定義崩壊を起こし、術式の単要素へと相転移する。結果、物質界においては、彼の遺体は
ノーラは、プロクシムの身体が昇華してゆく様子を鋭い眼で見送っていた。
士師について深い知識を持たない彼女は、この状況に至っても気を抜けずにいた。爆発的な純白の光から放出される神霊力をビリビリと感じ取ると、眼前の"溶融の士師"が新たな力を宿して再び立ち上がってくるのでは、と
しかし…燃え尽きる蝋燭のような有様で光が消失し、プロクシムの巨躯が物質界からすっかりと滅した事実を認識するに至ると…彼女はようやく、深い吐息と共に表情を緩める。
同時に、彼女の胸裏にじわじわと興奮が沸き上がってくるーー勝利の興奮が。
(そうだ…私、勝ったんだ…!)
興奮が鼓動を早め、火傷で覆われた顔がニコリと綻ぶ…その途端、ガクンと彼女の膝が折れ曲がる。同時に、全身にビリビリとした火傷の痛み、ドンヨリとした筋肉の疲労感、フラフラとした
方術に集中していた精神が解け、足場にしていた『宙地』が失われる。床から50センチ足らずのところに浮いていたノーラは、そのまま溶融物に満ちる床へとくずおれる。ーーいや、床はもはや、煮えたぎる溶融物で構成されてはいない。プロクシムが滅した今、熱源を失った床は、急速に冷えてゆくばかりだ。冷え固まった溶岩のデコボコとした大地にも似た有様の床は、いまだ暖かみを宿している。その温度加減は丁度よく、疲れ切ったノーラの身体を優しく包んでくれる。
手にした窒素の剣も、定義変換を失って元の大気へと戻ってゆく。愛剣はいまだに、壁にめり込んだまま。身体を支える術のないノーラは、くずおれた勢いのまま、床に五体を投げて寝ころぶ。
今、ノーラの視界一杯に、溶融した天井が映っている。その中央には、派手に溶け落ちてポッカリと開いた、空まで見通せる大穴がある。穴の向こうは相変わらずの灼熱地獄化した天国と紅色が広がるばかりだ。
この異様な天空を目にしていると、まだ事態の根本的な解決には至っていないことを再認する。しかし、それよりも今は、空の広さがーー毒々しい赤が広がろうとも、障壁の一つもない天空の広大さが、ただただ心地よい。
これまで、文字通り身を刺す緊迫感に晒され続けた閉塞感ーーそれが跡形もなく消失した解放感! そして、未曾有の艱難辛苦を自力で乗り越えたという達成感! それらがジワジワと脊椎に浸透するにつれ、浮かんだ笑みが更に澄み渡り、大きくなる。
そして天空はもう一つ、彼女の心に訴えてくる。それは、一人の男子の顔ーー真っ先に天空へ登り、凶悪な天使たちと激闘を繰り広げる、ロイ・ファーブニルの顔。勇壮ながら朗らかに笑うその顔を脳裏に浮かべ、小さく唇を動かして語りかける。
「ロイ君…私、やったよ…。これで…星撒部のみんなの…そして、この
ノーラの呼吸は疲労と苦痛で荒く、苦しげであったが、その響きは灼熱の炉を経て生み出されたガラス細工が奏でる澄音のように、清々しかった。
勝者を讃える平穏ーーそれが唐突に大破されてしまうなど、ノーラは全く想像だにしていなかった。
◆ ◆ ◆
轟ッーー突如、大気の激震がノーラを叩く。
続いて全身を襲う、暴力的な浮遊感。視界が目まぐるしく遷移し、三半規管が悲鳴を上げる。
ーー何が起きている? 激変した状況にノーラの認識は適用できず、巨大な疑問符を頭上に浮かべる。しかし、脊椎を中心に広がる強烈な鈍痛を認識し、ようやく理解するーー岩を破砕するような強打に襲われ、
(そんな…まさか、敵…!? 一体、どこから…!? 神霊圧なんて、どこにも感じなかったのに…!?)
脊椎を激しく軋ます衝撃に苛まれながら、なんとか体勢を立て直そうとするも…鉛のように重い身体は、ピクリとも動いてくれない! 焦燥に駆られるノーラは、必死に眼球を巡らし、状況確認に勤しむ。
その最中ーー彼女が敵の姿を直視するよりも速く、巨影が視界を過ぎる。慌ててその跡を視線で追うがーー影の正体を視界に捕らえるよりも速く、凶悪な二撃目に襲われる!
「あうっ…!」
圧痛に苛まれた肺からの辛苦の呼気と共に、
痛みに耐えるも、束の間。今度は巨大な質量がノーラの上に降下し、押し潰す。全身の骨格がメキメキと悲鳴を上げ、血の混じった吐瀉物が口腔から噴き上がる。
窒息を催す重圧に浅く素早い呼吸で抵抗しながら、視線を上げるノーラ。そこでようやく彼女は、自身を足蹴にする"敵"の存在視認する。
"そいつ"は、ちらりと見た印象そのままの、巨体を誇っている。ただしーー先に倒したプロクシムも巨躯であったが、その大きさは比ではない。体長は5メートルを優に越えている。更に体幅も、筋骨隆々のプロクシムを凌ぐ分厚さだ。両点を合わせるに、俯瞰の視線も相まって、巨大な岩山のような印象を受ける。
岩山ーーそう、まさに"岩"の巨体である。"そいつ"の皮膚は、赤銅の光沢を放つ岩石で出来ている。プロクシムのように鎧をまとっているのではない、"そいつ"自身の体質が岩石質なのだ。二本の腕と脚がなければ、とてもではないが初見で人類だと判別することができない外観だ。
赤の空に浮かぶ恒星型天国の逆光で、"そいつ"の顔はうまく見えない。辛うじて読みとれるのは、地球旧時代の祭り、ハロウィーンで使われるお化けカボチャのような無骨で粗雑な顔立ちだ。
実際、ノーラの印象は間違いではない。"そいつ"の顔は岩石に
正に、怪物ーーいや、怪人の呼び名が相応しい存在だ。
"そいつ"はゴキゴキと岩石質の皮膚を打ち鳴らしながらノーラを覗き込むと、グリグリと足の裏を抉り込ませる。ノーラが、ゲフッ、と血の混じった内容物を更に吐き出し、苦痛に表情を大きく歪める様子を眺めると、"そいつ"は残虐にゲラゲラと哄笑する。
笑い声が解き放たれると同時に、巨体から一気に放出される威圧感。強風のように魂魄をたなびかせ、暴腕のように意識を屈服させる魔力の波及ーー神霊圧だ。
(この敵…さっきの人と同じ…士師!!)
認知と共に、槌で頭を割れたような絶望感が意識を支配する。もう絞り出すこともできない程に全力を使い果たした後に、またも凶悪な敵が現れるとは!
「ったくよぉっ!!」
岩石質の士師は嘲笑を込めながら唾棄すると、ノーラの体をサッカーボールのごとく軽々と蹴り上げる。一気に士師の胸の辺りまで飛び上がった彼女の体に、士師の巨腕が素早く延びて掴み、ギチギチと骨を軋ませながら握り締める。
「…っんくぅぅぅっ…!!」
溜まらず漏れる、苦悶の声。今、ノーラの身を苛むのは、拳の圧力だけでない。拳から伝わる高熱もまた、火傷が
士師はねっとりとした愉悦の眼差しで彼女の苦悶を眺めつつ、嗤いに震える声を口にする。
「こんな脆弱華奢なメスガキ一匹の息の根も止められねぇなんてなぁ! プロクシムのヤツァ、やっぱり大甘ちゃんのバカ野郎だぜっ!
どうせ、いつものようにスカした余裕かましたんだろうさ! その隙突かれて、女神様から頂いた力も命も失うたァ、士師の名折れってモンだろ!
だが、その点じゃあオレ様は…ッ!」
士師の苛烈な攻撃は、更に続く。ノーラの小柄な体をすっかり覆う程の巨大な足を振り上げ、思い切り踏みつける。打撃音よりも、大地が砕ける重く鈍い音が響き渡る。そしてノーラには加撃が生む衝撃だけでなく、士師の足裏から発せられる焼き
「オレはナァ、相手が女子供だろうが、手加減しねぇ完璧主義者なんだよッ!」
もう一度足を振り上げ、思い切りノーラを踏みつける、士師。ノーラの制服は密着した灼熱で黒煙を上げ、皮膚が真っ赤に腫れ上がる。身悶えしようにも
(…誰か…助けて…)
声も出せず、身動きもとれない。この状態でノーラが出来ることは、せいぜい"誰か"に対して助けの祈りを捧ぐことだ。
だが、悲しいかな、
それでも、指一本での抵抗すらできぬ惨死への恐怖の前に、彼女は祈らずにはいられない。
(…お願い…誰か…)
この行動が無益なことは、彼女のなけなしの理性が
祈りが続く一方で…士師は残酷にも、次の加撃のために足を振り上げる。これが直撃すれば、折れた骨が内臓に突き刺さるかもしれない。下手をすれば、致命的な臓器が破壊され、即座に命の灯火が消えるかも知れない。それとも、辛うじて生きながらえるも、更なる地獄の苦悶に襲われるか、生死の境をヒクヒク蠢く惨めな芋虫のようになるかも知れない。ーー何せよ、待つのは絶望的な将来だ。
ぼんやりとした視界の中、士師のギラリとした嗤いを見た気がしたーー直後、士師の足が霞んで消える。またも渾身の踏みつけが、無抵抗なノーラに突き刺さることだろう。
ノーラは、祈りを更に届けようとでもするように、視界を天に向けた。そして、灼熱地獄と化した天国の有様を見て、思わず自嘲の笑みが漏れる。
(ダメだよね…今の天国は、私たちの敵の作り出した天国だもの。私の祈りなんか、届くどころか、逆手に取られるだけじゃない…)
胸中で自虐したノーラは、もはや観念した。両の
瞼を閉じる直前のこと…赤い空の中を、一筋の漆黒が飛び込んで来たのを見た気がした。ノーラはこの現象を、死が自分の上に降りてきたのだと解釈した。
その後、ノーラは…何も、感じなかった。いや、正確には火傷や骨折の痛みをズキズキと感じている。新しい衝撃や激痛が生じていない、ということだ。士師の脚の速度にしては、その結果が現れるのがあまりにも遅い。
ーー一体、どうしてしまったのか。本格的に脳が壊れてしまったのか。それとも…? 確かめるべく、重い瞼を開くとーー彼女は、飛び込んで来た光景に目を見開いた。
自分の真上に立っていたはずの士師の姿が、ない。いや、視界の隅に岩石質の手の先端が見える。だがそれも一瞬のこと、視界の外へと消えてゆく。
その数瞬後。岩石質の腕が消えていった方角から、
(え…何が…)
視界をうまく巡らすことができないノーラは、状況が把握できずに目を白黒させるばかりだ。
そんな時だ。彼女の耳に、逞しくも優しい、凛と通った男子の声が届いたのは。
「"無力化した女の子をいたぶれ"ってのが、お前のメガミサマの教義なのか? それとも、お前の変態趣味なのか?
どっちにしろ、サイテーなことには変わりねぇけどな、岩石野郎!」
士師の神霊圧を前にしても、平然と罵声をぶつける、闖入者。その凛とした声音には、聞き覚えがある。
ノーラの喉を感激と安堵がこみ上げるより早く、彼女の視界に"彼"が現れる。背には漆黒の竜翼と竜尾、頭には燃えるような真紅の髪に鋭い一対の尖角。ヌラリとした漆黒の鱗光沢を放つ、鎌のような爪が延びた手足。そして顔には、真夏のひまわりのような無垢な笑顔がニカッと浮かんでいる。
「よくやったぜ、ノーラ! この
ロイは褒め称えながら、無骨な竜腕でそっと優しく、ノーラの体を抱え上げる。竜鱗でザラザラする掌は火傷した皮膚にチクチク痛むが、それ以上にじんわりと広がる柔らかな体温が心地良く彼女の神経を包む。疲弊の色濃い彼女の顔は、思わずニコリと綻ぶ。
ロイはそのままノーラを通路の端へと運ぶと、比較的平らな地面を選び、そっと体を安置する。
「ちょっと待っててくれよ。
お前のことを散々痛め付けやがったクズ岩野郎はーーオレが、片づけるからさ!」
拳と掌をバシンッと打ち合わせ、ギラリと剣呑な笑みを浮かべると、ロイはくるりと背を向ける。彼の爬虫類的な黄金の瞳が鋭く細まり、睨めつけるのはーー十数メートル先で無様に転がる、岩石の巨躯を持つ士師。
この士師を吹き飛ばしたのは、もちろん、ロイだ。ノーラを助けに飛び込んで来た際、士師が脚を踏み降ろすより早く飛び寄り、両の脚で思い切り蹴りつけたのだ。
しかし、この一撃は士師への致命打には至らなかった。
ロイの激情の眼差しに呼び起こされたかのように、岩石の士師はバネのような急激な動きで立ち上がる。その粗雑で無骨な顔には、不器用ながらも烈火のごとき激怒が浮かんでいるのがよく読みとれる。
「何だ、何だ、何なんだよ、オイッ!? 不意打ちでオレを転ばしたくらいで良い気になりやがった挙げ句に、オレを"片づける"だと!?
いきがるのもいい加減にしろよ、人間風情がっ! 甘ちゃんのプロクシムを斃したくらいで、人の身で士師を凌駕できるなんざ思ってんじゃねぇぞ!
ヤツとオレは違う! オレはヤツみたいに余裕かまして足下をすくわれるような甘ちゃんじゃあーー」
士師のたれ流す高説に対し、ロイは飽き飽きした不機嫌な態度で聞き流していたがーーやがて、その姿が消える。嫌気が差して雲隠れした…ワケではない。漆黒の翼を一度、大きく鋭く羽ばたいたと同時に、高速低空飛行で士師の懐に肉薄したのだ。
「あ?」
士師が間抜けな声を上げた、次の瞬間。ロイの竜腕が岩石の腹部に激突する。ガゴンッ、と岩が軋み砕ける音が響き渡る中、士師の超重量の巨躯がブワリと宙に浮き上がる。
更にロイは竜翼をもう一羽ばたきさせると、浮いた士師の頭上へと急上昇。全身を縦回転し、竜の踵を士師の脳天にたたき込む。ゴギンッ、と鈍い音と共に士師の体は稲妻の勢いで大地へと激突。轟、と衝撃波が強風を伴って大地を走る。
「おっと、こいつは悪かったかな」
ロイが宙に浮いたまま、腕を組んで士師の落下地点を見下すと、ニヤリと嗤って言い放つ。
「余裕ブッこいて、隙だらけで能書きタレてるもんだからさ、退屈しちまって思わずブッ叩いちまったよ。
だけど、負けた仲間のことを大甘、大甘ってこき下ろしてるアンタのことだ。隙とみせかけて、さぞや
ロイは上空からたっぷりとした皮肉を投げつける。と、その口撃が神経に障ったらしい、もうもうたる土煙の中から怒気の色濃い闘気が爆発的に発生。一気に砂塵の帳を吹き飛ばす。その中から現れたのは、両腕を大きく上げ、岩石の巨躯に
「こンの…クソガキがっ!!」
堅い岩肌では、こめかみに青筋を立てることはできない…その代わりに士師は、背にビキビキと音を立てて二本の大きな亀裂を走らす。その隙間から勢いよく噴出するのは、眩い橙色の魔力励起光だ。それは広がりながらも翼状に形成するーー実際に、それは翼だ。ロイの体をスッポリ覆い尽くすほどに巨大なそれを大きく一打ちすると、岩石質の士師の巨大質量が空中に舞い上がる。その姿から、神の使いたる天使を連想するべきであろうが、どうみても地獄から這い出て天を目指す魔獣にしか見えない。
「このオレ様、"溶岩の士師"ヴォルクスを憤らせておいて、ただで済むと思うなよッ!
偉大なる女神より頂いた獄炎で、魂魄ごと焼失させてやるぜッ!」
力強く羽ばたき、急上昇する士師ーーヴォルクス。凶暴なヒグマも逃げ出すような気迫で急接近する彼を正面に、ロイはあろうことか、浮かべた笑みをますます大きくする。
「お前、ヴォルクスって言うのか! すげぇ言いにくい名前だな!
まぁ、でも気にすることねぇか! だってーーこのオレ、ロイ・ファーブニルがすぐに、お前をメガミサマの元に昇天させてやるんだからな!」
強気に発言しつつ、ロイもまた翼を一打ち。漆黒の流星と化し、上昇する巨岩に真っ向から立ち向かう。
士師と竜。二人の凶暴の嗤いの交錯は、激闘の開始を訴える火花を散らす。
- To Be Continued -