◆ ◆ ◆
バキンッ!
響いた音は、黒板に接触したチョークが盛大に折れた事を示すものだ。
「あ」
渚はちょっと驚いて目を丸くしながら
こうして黒板には、"立花渚"と云う名前が、盲目でない限りは誰の目にも飛び込んでくるような勢いで場を占領する。
書き終えた渚はパンパンと手を叩き合わせてチョークの粉を払うと、黒板を背にして両脇腹に腕を置き、小振りながらも形の良い胸を突き出した姿勢を取って、声を張り上げる。
「立花渚じゃ!
先生の紹介通り、ユーテリアから交流留学しに来た!
堂々と響きわたるお爺さんのような口調に、教室内の一同は――担任の教師を含め――苦笑を浮かべる。
今、渚が居るのはプロジェスの都立高等学校、セラルド学院。その2年3組の教室である。
プロジェスは歴史の浅い都市国家だが、このセラルド学院はその中でもかなり若い施設である。歴史や謂われに深みはない代わりに、設備はプロジェスの中でも比較的新しいものが揃っており、所謂"偏差値の高い高等学校"として知られている。
とは言え、"怪物学校"であるユーテリアに比べれば、設備は非常に見劣りする。例えば、ユーテリアの教室には黒板はない。代わりに、2Dおよび3D表示が自在である液晶モニターが全教室に完備されている。また、成績面も全異相世界中から志高い"英雄の卵"が終結してくる時点で言わずもがな、である。
校内および教室の造りは、かなり綺麗だ。コンクリート製の校舎は内外において壁にヒビは目立たない。床はよく掃除されてワックス掛けもされており、作業用
教室の風景は、生徒の人種の多様性にさえ目を
一方のユーテリアは、生徒は教室に対する帰属意識がないため、周知や勧誘のプリントが貼られていることなどない。周知事項や勧誘ならば優秀な通信端末、ナビットを介して共有されるだけだ。
たまにアナログに
さて――渚はこんなレトロな教室にグルリと視線を巡らすと、
但し、渚の胸中を満たしたのは、教室に充満する木の香りではない。
(んー、懐かしいのう…!)
渚はユーテリアに入学する前、出生の地である
渚の出身地はプロジェスより煌びやかに繁栄しており、学校の設備ももっと進んでいる。だが、生徒達から感じられる教室への帰属意識や、雑多な情報の乗った紙媒体に溢れている様などは、彼女の記憶の琴線に深く触れた。
(ほんの2年程前の話じゃったはずが、何十年も昔のように思えてならんのう)
まるで口調に見合うような年老いた者のような思考である。それほどまでに現在の渚は、ユーテリアの環境に適応しきっているのだった。
朝のホームルームの終了から1時限目の開始までの間に設けられた、極々短い休み時間――学校は"準備時間"と呼んでいる――の間のこと。渚は即座にワッと生徒の大群に囲まれた。
一般の学生の間でも"英雄を輩出する超エリート校"として名高く、非常に独特なカリキュラムが組まれている事も広く伝わっている、ユーテリア。憧憬と羨望の的たるその地から留学生が来たのだから、生徒達の好奇と興味が集中するのは無理からぬことである。
地面に落とした飴に
「立花さんって、地球出身なの!?」
「どんな授業受けてるの!?」
「どうやって入学したの!? 入学試験ってどんな感じ!?」
「得意科目って何!?」
「なんでウチの学校来たの!? 勉強のレベル低すぎて、ツマんなくない!?」
「それ、ユーテリアの制服!? そもそもさ、ユーテリアって制服あるの!?」
「面白い話し方だよね!? ユーテリアで流行ってるの!?」
…等々。答える間もなく次々に
(むうぅ…園児に囲まれた希少動物とは、こんな気分やも知れぬな…)
渚は困って、胸中で刺々しい言葉を吐く。
渚は元来、注目されているのには慣れている。『星撒部』として超国家規模の騒動にも首を突っ込んでいる身の上なのだ、好奇どころか嫌悪や嫉妬の視線を受けても動じない。しかし…こんな風に大量の同年代から質問攻めに合うのは、これが初めてである。
(どうしようかのう…)
黒板の上、天井近くにぶら下がった時計をチラチラ眺めながら、この混沌とした時間が過ぎ去るのを待っていると。
「ちょっとちょっと、みんな落ち着くこう。立花さん、困ってるじゃないか」
そう語りながら、人混みを掻き分けて渚の手前に立つ男子生徒が居る。やや線の細い体格に、眼鏡をかけた、生真面目そうな顔の男子である。その雰囲気に、渚はどことなく蒼治を思い起こす。
その想起は的外れでなかったようだ。『星撒部』で常識的なまとめ役を買って出ている蒼治よろしく、男子生徒はクラスメイトのまとめ役のようだ。彼の登場に、生徒達は――不満は多少なりとも見受けられるものの――口を
男子生徒は言葉を続ける。
「そんなに一遍に質問したら、例え相手が旧時代の聖人、聖徳太子でも、返答できなくて困っちゃうよ。
それに、1時限目はすぐに始まっちゃうからね。後の休み時間に、順番を決めて質問しようよ」
「そんな事言ってさ、
人
「学級委員の特権だとか思って、立花さんと一番に仲良くなるつもりでしょー?
この美樹ちゃんには、お見通しだよー!」
美樹と自称した女子生徒に対し、秀と呼ばれた男子は悪びれなく微笑みながら答える。
「仲良くなりたい、って気持ちがあるのは確かだよ。僕が目標にしてるユーテリアの現役学生さんだからね、色々話を聞きたいってのが本音さ。
でも、今の言葉は、抜け駆けしたいとかじゃないよ。常識的に考えての話さ」
「常識的、ねぇ~」
更に食ってかかろうと言う気配を満々に漂わせる美樹であったが。彼女の肩にポンと手を乗せて制する、長身の女子生徒が居る。艶やかな黒髪を長く伸ばした彼女は、『星撒部』で言えばアリエッタのような落ち着きがあるものの、彼女と違ってどことなく男性的な雰囲気がある。
「美樹、秀の言う通りだよ。
こんな短時間にがっついても、立花さんには迷惑だし、次の授業で先生に迷惑をかけるだけだ」
「ナセラちゃんはホント、優等生だよねー」
美樹は肩を
「仕方ない、次の休み時間にたっぷりと! 立花さんの事、聞かせてもらうからねー! 覚悟しなよー!」
「う、うむ。一遍に質問されなければ、大丈夫じゃ…変な質問はNGじゃがな」
「変なって…例えば、えっちぃ質問とか?」
美樹が言った途端、ナセラが軽い握り拳を作ってポカリと頭を叩く。さほど力を込めてはいなかったようだが、中指の間接を立たせていたので、鋭い痛みが走ったようだ。美樹は頭を抱えて「おおお…」と呻きながら、屈み込む。
そんな彼女の襟首を掴んでズルズル引っ張りながら、ナセラは渚に苦笑を投げる。
「すまない、この美樹はゴシップ屋だからな。放っておくと、下着の数まで聞いてくるんだ。
根は悪い娘じゃないから、ひねくれた愛情表現だと思って、勘弁してあげて欲しい」
「うむ、心遣い感謝するぞい。わしは気にしておらぬから、気にせんでくれい。
…ところで…」
渚は席から立ち上がり、キョロキョロと教室内を見回しながら語る。
「この教室に、ニファーナ・金虹と云う娘は居らぬか?」
「ニファーナ!」
その名を聞いた途端、美樹が復活する。ナセラの手を素早く逃れると、渚の間近に寄って、嬉しそうに声を上げる。
「流石はユーテリアの生徒! やっぱり気になるのは、ニファっちのことかぁ!
そーだよねぇ、ニファっちでも居なけりゃ、こんな片田舎の
「いや、そんな事は…」
渚がフォローするよりも早く。美樹は人混みを掻き分けて隙間を作ると。
「ホラ、あそこだよ!」
と、指を差す。
美樹の細い指先が差す先に居るのは――机に座ったまま、突っ伏して寝ている1人の女子生徒である。但し、次の授業の準備はしっかりしてあり、顔の横には教科書とノート、そして筆記用具がキチンとまとめられている。
寝ているので顔は見えないものの、細くて運動的でない体つきや、気の抜けた風船のような雰囲気は人目で伝わってくる。
「ほほー。あの娘が、のう」
渚は落胆するでもなく、淡々と納得して首を縦に振る。
渚は女神の座を失った者を幾度も見たことがある。彼女らの有様と比較して、ニファーナの姿には目を見張るものは特にない。
強いて言えば、"比較的元気そうだ"、と評せられる。なんたって、女神の座を失った者は、強大な力を喪失したショックで
対してニファーナの寝姿からは、
「呼んで来ようか?」
美樹が渚の返事を待たず、ニファーナへと小走りで駆け寄ろうとした、その瞬間。教室内に間延びしたような音のチャイムが流れる。1時限目開始のチャイムだ。
同時に、扉のすぐ外で待ち構えていたとしか思えないタイミングで、グレーのスーツをキッチリと着こなした、眼鏡をギラリと輝かせた男性教諭が入室してくる。
「早く席に着けー、留学生が来ていようが何だろうが、授業は平常通りなんだぞー」
外観に比べて案外フレンドリーな言い方で教諭が声をかけると。美樹を始め、渚の周囲に集まっていた生徒達は
一方でニファーナは…ぐっすりと眠りこけていたらしい。隣の女子生徒に肩をトントンと叩かれると、のっそりと顔を上げて授業に参加するのだった。
◆ ◆ ◆
魔法科学は地球に様々な恩恵をもたらしたが…一方で、学生達は大きな負担に苛まれることとなった。
その負担とは、理系科目の必修事項の激増である。
魔法科学は"科学"の名を冠する通り、教育の場においては理科として扱われる。その理論体系は非常に複雑であり、その理解には高等数学が不可欠である。
例えば、
根元の理解を棚上げにし、"主要な"現象の暗記を行うだけの教育にしても、その"主要"にしても莫大な量がある。大抵の生徒達は、絶望のどん底に叩き落とされてしまう。
そんな地球の教育事情なものだから、都市国家によっては理系学科を選んだ生徒達が文系科目を丸々カットしてしまうようなカリキュラムを組まれるような事もある。
このプロジェスの場合、教育課程における文系科目の比率は小さい。都市国家の発展を方針においてきただけに、発展に直接関わる魔法科学への理解を優先するようにしているのである。
お
そしてこの日の1時限目の授業は、学生からの不人気度ナンバー1科目である、"複素則式学"である。
複素則式学の普段の授業風景は、
理解のみならず実践も出来れば、将来有望な学問であるにも関わらず、その難度故に生徒の大半が理解を捨てている。その気配を察知している教諭はやりがいを持てず、"如何にテストで何とか点数を取らせるか"と云う点のみに終始気を使う、消極的な授業を展開する。
とは言え、生徒の中にはこの学問にしっかりと食いつく者達も居る。彼らはこの授業時間になると、"待ってました"と言わんばかりに得意げな態度を取る。そして、"今の魔法科学の時代の適応者なのだ!"と誇らしげな態度を取りつつ、教諭に質問を繰り返し、優位性をアピールしてみせる。
教諭はやりがいを引き出してくれるこの手の生徒を、勿論歓迎する。だから、他の"一般的な"生徒を置いて、一部の生徒との質疑応答に授業時間の大半を裂くこともある。この間、置いて行かれた生徒達は、睡魔と戦うか、別の科目の勉強に励むばかりである。
このような授業風景は、プロジェスだけでなく、地球上の大抵の都市国家で問題視されているものである。
…それはさておき。今日の複素則式学の授業の光景は、一風変わっている。
その特異点はやはり、地球最高のエリート学校ユーテリアからの留学生、立花渚の存在である。
生徒のみならず、教諭も彼女に好奇の視線を注ぐ。
(…"英雄の卵"たる英才教育を受けているユーテリアの生徒が、一体どれほどの実力を持っているのか?)
渚はそんな好奇の気配を感じ取っているのかも知れないが…緊張する様子は全くない。むしろ、
留学に際して昨日から今日までしか準備時間が無かった彼女は、セラルド学院での教科書一式を揃えることが出来なかった。そこで、隣に座る女子生徒―― 凛然とした態度が目を引く黒髪ロングの女子生徒、ナセラである――と机を合わせ、教科書を見せてもらっている。
ナセラは美樹から"優等生"と呼ばれているだけあって、この授業を捨てるような真似はしていない。ただ、得意ではないようで、渚に教科書を見せる時に頭を掻きながら恥ずかしがっていた。
「この教科、私には難しくてね…見苦しい態度を、見せてしまうかも知れないから…恥ずかしいな」
そんなナセラに渚はニカッと笑い、ヒラヒラと手を振っていた。
「気にせんで良い良い!
手を焼かせる学問じゃと云うことは、わしも充分しっておる。
それに、ウチの学校でもこの教科を嫌う生徒は多いものじゃ」
「へぇ…そうなんだ…」
ユーテリアであっても、一般の学校と同じくこの教科を嫌う生徒が多い事に意外性と安堵を感じ、目を丸くしながらも微笑みを浮かべる、ナセラであったが…。
すぐに、その表情はソワソワとした好奇心に変わってしまう。
渚は、"ユーテリアでも嫌う生徒は多い"と言及したが、"自分もそうだ"とは言っていない。となると、むしろ得意としている可能性すらある。
"非常に高度"と聞くユーテリアの授業ですら得意としているのならば…凡庸な高等学校であるこのセラルド学院では、一体どんな態度で授業を受けるのだろうか。
(気になっちゃうな…)
ナセラは渚の机にチラチラと視線を走らせ、開かれたノートの中身を眺めてしまう。純白のページには、一体どれほど丹念なメモが記されるのであろうか?
「それでは、今日は一昨日の続きから。火霊のような攻撃的本能の強い魂魄定義を持つ
教諭が黒板に向かい、コツコツと音を立ててチョークを操りながら、式を描いていく。その挙動の最中、教諭の顔が難度もチラチラと教室の方へと向けられる。
彼の視線が向かう先には、勿論、渚が居る。
(ユーテリアは下手な大学より、よっぽど高度な授業を行ってると言うからな…ミスった教え方して、指摘されるのは勘弁だな…)
そんな緊張感を抱える教諭は、肩に鉄の竿でも入っているかのような、ぎこちない動きで記述を進める。
一方で、彼の胸中には、渚に対する好奇心も同居している。
(授業の後半で、小テストでもして、実力を計ってみようかな…)
そんな事を考えながら、授業はぎこちなく進んでゆく。しかし、大まかな進行は普段と変わりない。問題について生徒を指名し、その場に立たせる、もしくは黒板まで来させて回答させる。そんな事を難度か繰り返す。
"生徒を指名"とは言うものの、教諭が選ぶ生徒はほぼ決まっている。明らかに気怠く授業を受けている者を指名しても、「分かりません」と即答されるに決まっている。なので、頑張って理解しようと努めている者か、得意げに授業を受けている者しか選ばない。
この2年3組において、この授業を得意としているのは、男子の学級委員長たる秀。そしてもう1人、明るい青の短めに切り揃えた髪を持つ女子生徒、
特に凜明は、教諭のお気に入りらしい。かなり難解な問題について、3、4人の"かませ犬"を指名した後、満を持したかのように凜明を指名すると。彼女は自信満々にスクッと立ち上がり、黒板に向かう。そして、長大で複雑な複素則式を綺麗な字体でスラスラと描いて見せる。
「どうでしょうか?」
と教諭に尋ねる時の彼女の表情は、"間違ってるワケがないんですけど"と露骨に訴えている。その自信の通り、教諭は深く
そんな授業の中を、ナセラは口をへの字に曲げながら、必死にノートを取り続ける。その合間に、チラリと渚の方へと視線を向けると…ギョッとして、絶句する。
渚は、開いたノートに1文字を描いていない。ただ腕組みをして、黒板に視線を注いでいるだけだ。
(まさか…苦手なのか…?
いや…それにしては自信満々だな…。そすると…やっぱり、レベルが低過ぎるのか…?)
ナセラの疑問は、彼女だけのものではなかったようだ。教室を一望する教諭も渚の真っ白いままのノートを確認し、眼鏡の縁に一筋の汗を垂らす。
(ユーテリアの生徒とは言え…今は私の生徒だからな。学力把握の為にも…ちょっと、試してみるか)
そこで教諭は、今度の問題について渚を指名する。
「えーと、立花さん。
次のページの演習問題B、黒板に来て解いてもらえるかな?」
「分かりました」
渚は普段の独特の口調を捨てて、スッと起立すると。そのままスタスタと黒板へと向かう。
「あの、立花さん…教科書…」
ナセラが背中に向けて言葉をかけると。振り向いた渚はニッと笑ってこめかみをトントンと叩き、「覚えとるから大丈夫」と答える。
この振る舞いに、生徒のみならず教師もグッと固唾を飲む。
複素則式学の教科書に記載されている問題文は、難度を考慮して、非常にシンプルな文章である事が多い。"云々という機能を実現する
しかし、問題文はシンプルと云えども、解法は難解である。優等生であっても、解法のヒントがふんだんに記載されている教科書が片手にないと、不安を覚えるような科目だ。それなのに渚は、手ぶらの身一つで黒板に向かうのだ。
勇敢と云うよりも、無謀と云う言葉が生徒達の頭の中に浮かぶ。
生徒達の好奇と不安の視線を背に受けながら、渚は
("やっぱり解けません"、とかだったりして…)
そんな事を脳裏に浮かべたのは、お喋り屋の美樹である。そして、それがもしも本当ならば滑稽に過ぎると、思わず苦笑を漏らす。
しかし、美樹の予想は大いに的外れとなる。
「先生」
渚は教諭の方へ向き直り、尋ねる。
「教科書を見た限り、精度は第3項までのようですが。それで回答すると云うことで、よろしいんですね?」
生徒達は眉を
("精度"? …それって、何?)
一方、教諭は"ほぉ"と歓声をあげそうになる。
大学にて複素則式学を収めた身の上、高等学校の教科書に記載されている式が非常に粗い近似でしかない事を理解している。
そして、可能な限り厳密な定義を記載するには、恐ろしく難解な記述を用いる必要があることも、重々理解している。
(流石はユーテリアの学生、大学進学していなくても、その辺りの事情は理解しているのか…)
ここで教諭は、更に渚を試してみることにする。
「じゃあ、立花さん。あなたが出来る限りの高い精度で、この定義式を記載してみて下さい」
これで、彼女の実力が分かろうと云うものだ。
要求された渚は、黒板に視線を戻して暫し睨めっこした後。もう一度教諭の方へ振り返る。
「後ろの黒板を使っても良いですか?
全部書くには、黒板消さないといけないので…まだノートを取り終えていない人には迷惑でしょうから」
「ええ、どうぞ」
教諭はニッコリして語る。確かに、厳密な定義を記載するには、かなり長い式を記述する必要がある。
渚は生徒達の驚愕の視線を受けながら、スタスタと後ろの黒板に歩み寄ると。今度はボキンとチョークを折ることなく、綺麗な筆跡でコツコツと音を立てながら定義式の記述を始める。
…やがて、教諭は自身の提案を後悔することになる。
教諭は初め、暗闇の中でようやく同士に巡り会えた深海魚のような笑みを浮かべて、渚の様子を見守っていた。
一般の高等学校で教えている第3項を軽々と超え、8項目に差し掛かった際に平行四辺形を描くように4叉に分岐した時など、大きく
(流石はユーテリア。高等学校の枠ではとてもじゃないが収まらないな)
さて、教諭が収めた学士過程において把握している、この問題における式の項の数は15である。渚はそこまで迷うことなくスラリと書いてみせる。
しかし、そこでチョークの動きは終わらない。スラスラと、16項目へと突入する。
途端、教諭は眉を
完全に未知の領域である。ここから先の項が何を表すのか、全く把握出来ない。
(え…何、これ…大学時代の研究室でも、こんな事やってないぞ…)
学院内における複素則式学の権威として、面子が丸潰れになる事態に直面し、教諭はソワソワし出す。
渚は20項において、もう1つの複素則式学の独自記法、"
これを経て、渚の指がようやく終わったのは、第23項を書き終えた時のことである。これによって、黒板の大半が埋め尽くされてしまった。
「ふぅー、チョークで黒板に書くなど久しぶりじゃからのう。ちょいと疲れたわい」
パンパンと手を叩いてチョークの粉を落としながら、渚はそう呟いた後。クルリと
「どうですかね?」
"どう"と問われて、教諭は答えに窮する。完全に未知の部分が含まれている式について、正しいかどうかの判断を下せるワケがない。
かと言って、生徒達の前で「分かりません」と答えるのは
しかしながら、知ったかぶりをして渚から何らかの同意、もしくは議論など求められてしまったのなら…恥
そこで教諭は、はぁー、と深く溜息を吐いた後に、白旗を示す諸手を挙げる。
「…すまないね、16項目以降に見識がなくてね、正解かどうか判断できないんだ…。
申し訳ないけれど、ちょっと解説してもらえるかな…?」
情けない台詞だな、と教諭は凹んだが。生徒達は教諭のことを嘲るよりも、渚の書き出した壮絶な式に圧倒され、ポカンとするばかりである。
さて渚も、教諭を"力不足"と
「16項以降の部分は、最近5年程に追加されたとの話ですからね。研究者でない先生が分からないのも、無理はないと思いますよ。
それじゃあ、解説しますけど…3項より先から話します? それとも、16項目以降からで良いですか?」
「えっと…
「分かりました」
ここまで敬語口調だった渚であったが、その先は普段の独特の口調に戻って語る。
「3項目までは、教科書に書いておる通りじゃな。
さて、4項目から先は、4元素構成では考慮できず、精度が著しく低下してしまう部位の要素を補うものじゃ。
補うと云っても、それは言葉通りの"補助"の意味ではない。例えば、8項における4叉の
おぬしらが実技で使用しておる
さて――」
渚はスラスラとつっかえることなく解説を行うが――生徒達の大半は理解を放棄し、渚の実力に呆然としたり、睡魔に襲われたり、周囲を見回したりするばかりだ。
超高等学校級の桁外れの知識は、一般生徒にすれば正に馬の耳に念仏である。
たっぷり10分ほどかけて式の内容の説明を終えた時…付いてこれたのは、教諭に秀、凜明と他3名ほどだ。後は白旗を挙げてグッタリしている。
「――ところで先生。この問題なんですけど」
説明が終わってなお、渚は教諭に話す。教諭は学士の知識で以ても理解仕切れぬ部分に眉を
その実に情けない姿にも特に反応を示すことなく、渚は言葉を続ける。
「高等学校教育では広く練習問題として使われていますが、複素則式学に詳しい友人曰くには、3項目の時点で重大な欠陥があるため問題として不適切だと言うことなんです」
「あ、そうなんですか?」
教諭は返事するものの、大学時代にはそんな議論を聞いたこともないので、寝耳に水と言った感じで聞き返す。
渚は首を縦に振ってから、話を続ける。
「ここの乗算演算子なんですが、
渚は黒板の残り少ないスペースに、式を書いてみせる。
ここで教諭は少し元気を取り戻す。3項目までの議論ならば、研究職でなくとも学士の知識で充分判断が出来る。
「その式では、プレゲトン面が非常に不安定になりますよね?
そもそも、初めの式でいけない理由が分からないのですが」
「単純な乗算の式の場合、どうも火霊の振る舞いの一部が説明つかないそうなんです。
この式だと、確率的なエラー行動と思われていた火霊による一時的な急性休眠が説明付きます。不規則分布するエネルギーの不連続起伏と、急性休眠が重なります。
実際、急性休眠後に
これを吸収するためには、24項と25項による補正が不可欠だそうです」
「それが本当だとしたら…学会に発表すべき内容ですよね…?」
「はい」
渚は首を縦に振り、そして苦笑を浮かべる。
「論文は公開済みで、いくつかの学会で議論になっています。旗色は良いようですけどね。
…ただ、この事象を指摘した友人なんですが、どーにもぐーたらなヤツでしてね。論文も説得しまくった果てに、ようやく発表したんですよ。
あやつはもう少し、自分の才能を表現すべきですよ」
「は、はぁ、そうなんですか…」
教諭は生返事することしか出来ない。学会を揺るがすような論文を提出するような学生さえ在籍しているとは、想像は出来ても、こうして実例を聞かされると雷を撃たれたような衝撃を受けるのを避けられなかった。
さて、教諭まで呆けてしまった今、渚は教室全体を覆う茫然たる雰囲気にハッとして、後頭部を掻きながらヘラヘラと苦笑いを浮かべる。
「あ、と、とにかく、この問題はこれで終わり…じゃな!
せ、席に戻りますゆえ!」
渚は逃げるように小走りで席に戻る。
(…やり過ぎてしもうたか)
そう後悔する間、教室内はしばらくポカンとした空気のまま無為の時間が過ぎてゆくのであった。
- To Be Continued -