◆ ◆ ◆
4時限目の授業が終わったセラルド学院に訪れるのは、生徒達の大半が待ち焦がれているであろう時間。即ち、昼休みである。
セラルド学院には学生食堂が設置されており、バイキング形式の食事が格安で提供されている。
このような学生食堂は、現在のプロジェスでは至極一般的に見られる。『女神戦争』が終結してまだまだ日が浅い今、弁当を用意できるほど物資に余裕のない家庭を考慮して出来た制度である。
勿論、用意出来るのならば弁当を持って来ても良い。だが、わざわざそれを行う学生は、ほぼ皆無である。
渚は当然、弁当など用意していないので、学生食堂を利用することにしたワケだが。昼休みに入った瞬間に、ナセラや
この一行の中には、美樹が半ば強制的に連れてきたニファーナも含まれている。
各々がトレイに昼食を盛って席に着いた時、セラルドの学生達は渚のトレイを見て唖然とする。格安で食べ放題のバイキングとは言え、全てのメニューを山のように
「…立花さん、それ、1人で食べきれるの…?」
凜明が尋ねると、渚は幼児のような上機嫌な笑みを浮かべながら勢いよく首を縦に振り、舌なめずりする。
「うむ、勿論じゃ! 残すような勿体ない真似は絶対にせんからな!」
「…まさか、ユーテリアのヒトって、胃袋も超人級なワケ?」
美樹がそう尋ねた時には、渚は早くもチョコを練り込んだクロワッサンを頬張っている。そして、咀嚼しながらフガフガと答える。
「いひゃいひゃ。ひょうでもないひょい。ネズミのひょーに、ちびーっとしか食ふぇないやふも五万とおふ」
「…飲み込んでから答えてくれて良いよ」
ナセラが苦笑いしながら語ると、渚はゴクリと嚥下して、言葉を続ける。
「いやー、わしだって少食にも慣れておるんじゃよ? 戦場関連の部活動に従事すれば、嫌でも物資の節約を心掛けねばならぬからな。
じゃが、それが不要ならば、エネルギーをガッツリ蓄えないでいる理由がないのじゃ」
「…そうか、つまりその小せぇ体には凝縮された脂肪が詰まってるワケか。
突然、割り込んで来た低い男の声に、渚はムッと眉間に皺を寄せて反論する。
「その言い方、わしをデブだと言いたいワケかのう?
しかし、お
のう、
渚がチラリと肩越しに後ろを向くと。そこには、渚達と隣接したテーブルに座る、灰児を初めとする2年3組の問題児グループが居る。
「うっわ、何で学食になんて来てンのよ、腐ったみかんどもッ!
ニファが
美樹が"シッシッ"と手の甲を振って見せる。その様子に灰児の取り巻きの男2人はこめかみに青筋を立てるが、灰児苦笑いを浮かべるだけだ。
「お前、結構ひでぇヤツだよな。ヒトの事、害虫みてぇに扱わないでくれよ。流石に凹むぜ。
それに、俺はニファーナなんざに用は
お前らだけで独占するのは、ズルいってモンだ」
「まさか、さっきの授業でボッコボコにされた事を恨んで、ここで喧嘩ふっかけようってワケ!? うっわ、流石不良、器小さっ!」
「いや…そんなつもりも
灰児は苦笑いを浮かべたまま、短い髪に指をつっこんでポリポリと掻くと。フッと笑みから苦みを消し、脳裏に刻まれた美しい風景でも思い出すような、爽やかで懐かしげな表情を浮かべる。
「それに、恨むなんて
オレは全力で戦って、ブッ倒された。その結果に不満なんて
…アリガトよ、立花。面白かったぜ」
「ひゃーに、わしのひょうも楽しかったひょい」
そう答える渚の頬は、冬越し準備中のリスのように膨れ上がっている。その顔には、灰児だけでなく、こめかみに青筋を立てていた男子2人も、プハハ、と吹き出している。
美樹は灰児の台詞を聞いても警戒心を解かなかったが。ナセラがにこやかに言い聞かせる。
「今の室国なら、大丈夫だよ。
眼が違うからね。前は何て言うか…誰かに雷を落としたくてたまらない、不機嫌な曇り空って感じの目つきだったけど。今は、快晴って感じの爽やかさがある」
「人柄は、目つきだけじゃ分かり切らないってば!」
美樹はそう力説するものの…灰児を横目でしげしげと見つめては、その屈託のない笑い顔を見て、眉の怒りの勢いが殺がれる。
「…まぁ、確かに。前よりは、今の方がとっつきやすい感じだけどさ…」
「うんうん! あたしも、今のカッちゃんの方が好きさ!」
突如会話に割り込んで来たのは、灰児の取り巻きのガングロ厚化粧の少女である。
少女は腕を組んで、1人でうんうんと
「いやね、前のワイルドでハードボイルドな感じもカッコイイんだけどさ。
今はカッコイイだけじゃなくて…器の広さって言うか? 暖かみって言うか? そういう、じんわりと心に来る魅力が有るんだよねぇ…。
ますます惚れちゃうなぁ…!」
「えー…? 惚れるかなぁ?
私はやっぱ、不良はパスだなぁー」
美樹がそう語ると、ガングロ少女は聞き捨てならぬと眉根に皺を寄せて、美樹にズイッと詰め寄る。
「カッちゃんは不良じゃないよッ!
素行は不良かも知れないけどッ! そこらのチンピラと一緒にしないでよッ!」
「えー、だって見分け付かないじゃーん! こんな
「なんですって、このゴシップ女ッ!
あんたの眼はミーハー過ぎて、本当の男らしさを見る眼がないのよッ!」
「はぁ!? リリナこそ、その顔みたいにねじくれた性格してるから、変な男にばっか興味が出るのよッ!」
「な…っ!? この…ッ!」
2人がガミガミと言い合いするのを、その間に丁度座るニファーナはぼんやりと見つめながら、目の前に置いたフライドポテトをひたすらモグモグと頬張るのであった。
――一方、灰児や凜明、ナセラと云った実力者の面々は、体育の時限の出来事を受けて、渚に質問を浴びせている。
「そういやぁ、チラッと聞いたけどよ、お前って彼氏居るんだよな?」
「彼氏とは違うんじゃが…バウアーの事じゃよな?」
「そう、そいつ。確か、お前の部活の部長だったよな? で、お前が副部長なんだろ?
ってことは、お前より強いって事なのか?」
「いやいや! 先にも言った通り、あやつはわしに劣るわい! わしこそが、ユーテリアで最強じゃからな!」
渚は胸を張って堂々と声を張り上げたのだが…一つ咳払いをして、苦笑いを浮かべる。
「とは言え…本当の事を言えば、今はどちらが上か、よう分からぬ。
組み手ならば、勿論するのじゃが、本気でのやり取りなんぞ、とてもではないがやれぬからのう。
そんな事をすれば…どちらか、確実に、あの世逝きじゃろうからな」
「そ、そんなに…!? 恋人同士なのに…!?」
凜明が驚きの声を上げると、渚は苦笑いを浮かべたままパタパタと手を振る。
「じゃから、恋人ではないというに。
まぁ、兎も角、バウアーは絶対に手抜きをせぬ男なのじゃ。ちょいと隙を見せれば、本気で首を掻っ斬りに来おる。
まぁ、その即決力がまた、あやつの長所でもあり、短所でもあり、魅力でもあるんじゃがな」
(…やっぱり、恋人じゃん…)
渚の言葉を聞く物達は、しみじみと胸中で呟き、苦笑する。
「ところで、"今は"と言ってたけど…そのバウアー君とは、過去に本気で戦った事があるんだ?」
「…うむ」
凜明の問いに肯定の言葉を返した渚は、スッと目を細めて遠い日に視線を向ける。
彼女の脳裏に投影されるのは、ユーテリアに入学する前の、とある日。バウアー・シュヴァールと初めて邂逅した、電撃的な瞬間。
あの時、渚の中における世界のスケールが、爆発的に拡大した。
「初めてあやつに会った時、"動く山"かと思うたよ」
渚はナビットを取り出して、先刻2年3組で見せたバウアーとのツーショット映像を宙に投影しながら語る。
「こうやって写真で見る限りには、体格はさほど大きくない、むしろチビとさえ
初めてあやつと相対した時には、大地がグラリと揺れたような感覚さえ覚えてもんじゃよ」
「ハッタリがスゲェとかじゃねぇの?」
灰児の取り巻きの1人、極彩色のロングヘアの男がヘラヘラ笑いながら突っ込むと。渚は
「いやいや。
あの時のあやつは、小さなナイフを一振りだけ持っておっただけじゃった。なのにも関わらず、バカでかい岩の塊でも振り回されているような、飛んでもない重さがあった。
そのくせ、音かと思う程に速いわ、サルかと思う程に
あやつの真っ赤な眼が、芋虫をも無機質に殺して回る獅子か何かに見えてのう。
「お前ですら、そんなに手を焼くのかよぉ!?」
ピアスを付けまくった痩せぎす男が悲鳴のように騒ぐ。その後を次ぐように、灰児が口を開く。
「だけど、今はそんな怪物と肩を並べる仲なんだろ? 学園じゃ怖いモノ無しだったんじゃねーか?」
「わしら2人も、ようやく手を取り
実際、1年生の身の上ながら、並の3年生など相手に成らんかったからのう。
…じゃが、世界は広かったわい」
「嘘…!? 立花さんでも勝てない相手が、学生のレベルで存在するの…!?」
ナセラが眼を丸くして尋ねると、渚は悔しげに口を"へ"の字にして、嘆息しつつ首を縦に振る。
「"あやつら"には、結局卒業までに一本も取れんかったわい。
わしもバウアーも――別に、灰児のことを低く見とるワケじゃないぞい――四肢を総動員し、持てる技術を全て注ぎ込んだのじゃがなぁ…。
"手も足も出ない"って程ではないかったぞい。じゃが、最後に負けるのは、いつもわしらじゃった。
…むうぅ、思い出すと、かなり悔しいのう」
「"あいつら"って…複数人いるワケ!?」
凜明が問い返せば、渚は即座に首を縦に振る。
「わしらと同様、"あやつら"も男女のペアじゃよ。
当時のユーテリアにおいて、ダントツの最強じゃったな」
「そいつらって、卒業後、どうなったんだ…!?」
やせぎすの質問に、渚は
「2人揃って仲良く、
あそこの情報はあまり公報されぬからな、今何をしておるか分からぬが…あやつらなら間違いなく、特進ものの活躍を繰り返しておるに違いない」
「…なんか、凹むなぁ…」
灰児が溜息を吐きながら、ガックリと肩を落としつつテーブルに突っ伏す。
「こちとら、独学じゃあるが、汗水垂らして
そんな、天井突き破るようなレベルのヤツらの話されると…オレの努力って何なんだろうな、って虚しくなるぜ…」
そんな灰児の言葉を、渚はケラケラと笑い飛ばす。灰児は"笑うなよ、真剣なんだぞ"と睨んでくるが、渚はウインクして返す。
「おぬしの力は、充分に立派なもんじゃよ。それだけの力があれば、並の危機くらい跳ね返して、守りたいモノを守り切ることが出来るじゃろうよ。
現におぬしは、そうして勝ち得た信頼で持って、仲間を得ておるではないか?」
渚が"仲間"と言及したのは、取り巻き3人のことだ。その言葉に恥ずかしくなった事もあり、灰児の顔はサッと赤みを帯びたが…それ以前に、渚のウインクした表情に胸が高鳴ってしまった。
(ズルいヤツだよな…強ぇ上に…可愛いんだもんな…)
そんな灰児の胸中など露ほども気にせず、渚はまだまだ山と積まれている料理と向き合い、頬張り始めるのだった。
そんな時…食事を開始してから、ずーっとジト目気味で渚を見つめてばかり居たニファーナが、不意に声を漏らす。
「…立花さんさ…」
「むうぅ?」
「"あの業"…もしかして…いや、絶対に、"座"を使ったものだよね?」
周りの者はニファーナのこの発言の意味を理解出来ず、頭上に疑問符を浮かべたが。渚は直ぐに理解し、咀嚼を一瞬止める。
"あの業"――灰児と交戦した際、彼の虹色の翼壁をこじ開けるのに使った、錠前を作り出した業。それが、『
対して渚は、ニファーナへの信仰がまだ篤いこの都市国家において、要らぬ騒動の火種になる事を避けることにする。
「いやー? 何の話かのう?」
そうとぼけて見せるのだったが…ニファーナのジト目は、冷たく鋭く突き刺さるままであった。
◆ ◆ ◆
渚が昼休みを堪能している頃。
アリエッタ、ヴァネッサ、紫の3人もまた、昼食がてらの息抜きにプロジェスの繁華街を歩き回っている。
街は今日もお祭りのような賑わいである。ミュージックバンドを初めとするパフォーマー達が出店のようにズラリと道沿いに並び、ド派手に大音量で歌い踊る光景は、見聞きしていて頭がクラクラなってしまいそうな程だ。
だが、観客――ひいてはプロジェスの市民達――による評判は上々だ。昼休みを利用して学校や会社を抜け出した者達が、昼食を片手にパフォーマーの周りを取り囲み、目や耳を楽しませながら舌鼓を打っている。
多くの市民にとってパフォーマーの存在は、戦後の復興という陰鬱な雰囲気を払拭する花というだけでなく、無味乾燥に陥りがちな日常に非日常の刺激を与える炭酸水のような存在のようだ。
…さて、星撒部の女子一行も、出店で買ったランチを片手に、一際大きな観客の集団が形成されている一画に参加している。
集団の中心を担うミュージックバンドは、どうやらプロジェスにおける大物人気バンドのようである。以前にキチンとした会場でライブをしたことがあるのか、
観客達の会話によれば、このバンドの名前は"オーシャン・フォウ・アリス"と言うらしい。黒を基調とし、スタッズを散りばめた衣装に身を包み、派手な色合いに染めた髪と云う出で立ちは、なんとも奇抜なパンクバンドと云う印象であるが。サングラスを掛けたヴォーカルが歌い上げるのは、外観に似つかわぬしめやかなラブソングである。
「中々良い歌ですわね! わたくしの胸にキュンと響いて…共感できますわぁ!」
ヴァネッサは、手にした具一杯のホットドッグを胸に置いて、感激に浸り
その一方で…アリエッタを挟んで立つ紫は、とんでもなく詰まらない稚拙な寸劇を見せつけられているかのように、藪睨みのジト眼を作り、パクパクとタコスを頬張っている。
「…そぉですか…?
こんなの聞くより、昨日みたいにどこか美味しいレストランに腰を据えて、ゆっくりと食事を楽しんだ方が有意義だと思うんですけど…。
それに、出店の料理なんて、チャチなくせに割高で、損するだけですしー」
「紫ったら、ホントにお子様ですわねー」
ヴァネッサがヤレヤレと首を振りながら溜息を吐く。
「このほろ苦い大人の恋愛の世界の良さが理解できないなんて、甘いばかりのチョコレートばかり好んで食べるお子様そのものですわね。
そんなんですから、あなたの"想い"の表現も、幼児並みの素直じゃない不器用なものになってしまうのですわ」
ヴァネッサの言葉は、非常に抽象的なものであったが…紫には効果
「な…っ!」
紫は火が噴き出すほど顔を真っ赤に染める。明らかに動揺している表情だが…空気で熱を冷まそうとするかのように、直ぐに首を左右にブルブルと振る。
"具体的なことを言われたワケではない"と気を取り直したのだ。
「な、何ですか先輩、その話…?
一体、何が言いたいのやら、私にはサッパリなんですけど…」
ぎこちないが、精一杯余裕ぶった笑みを浮かべて見せるものの…。ヴァネッサは意地悪な半眼を作って語る。
「皆、とっくに感づいていますのよ?
あなたが、ロイに…」
「わーッわーッわーッ!」
紫は大声を上げて騒ぎ、ヴァネッサの言葉をかき消す。あまりにも大きな声は、アンプで増幅された楽器の音を上回ったらしく、近傍の聴衆達がビックリしたり非難を含めたりした視線で紫を睨んでくる。
紫はそんな視線に構わず――構えるほどの余裕などないほど動揺しているというのが、真実である――アリエッタに話題を振って誤魔化す。
「アリエッタ先輩は、どうなんですか、このライブ!?
チョイ悪系を気取ったオッサン達が、ナヨナヨしたラブソングを歌うなんて、気持ち悪くないですか!? しかも、歌詞が女性視点ですよ!? 演歌かよってツッコミたくありません!?」
アリエッタはヴァネッサの言わんとした事も理解しているし、紫がどうしても話題を逸らしたい事も理解している。しかし今回のアエリッタは、紫に肩入れして彼女の話題に乗ってあげた。元来、
「うーん、そうねぇ…。
別に格好だとか、歌詞だとかは、私は気にしないわ。
メロディーは結構良い感じね。バラード曲の魅力を十分に引き出していると思うわ」
アリエッタもこのバンドに肩入れするような評価を口にした事で、紫は面白くなさげに唇を尖らせたが。
「でもね…」
と言葉を続けながら、ニッコリと紫の顔を覗き込むと。紫は表情をハッと改める。
「個人的には、ヴォーカルの男性にもっと頑張って欲しいかな。声が優しいと云うよりも力がないから、楽器に負けちゃってるもの。だから紫ちゃんが"ナヨナヨしてる"って感じたんだと思うわ。
それに、高い音階になると、すぐに裏声に頼ってしまうのも勿体ないわ。そこを一番感情豊かに歌い上げなきゃいけないはずなのに、残念よね。
楽器の人達も皆、ちょっとずつ残念なところがあるわ。この都市国家では人気がある部類なんでしょうけど、
和やかな口調ながら、結構な辛口の評価に、手近な位置にいる聴衆が不機嫌そうに顔を歪める。しかし、反論して来なかったのは、アリエッタの意見が正論である事に加え、和やかながらも言葉の響きに何処か凄みを感じたからであろう。
この意見に紫は顔をパッと輝かせると、両の拳を顎の下に揃えて…。
「ですよね、ですよね!
こんなレベルで粋がってるんじゃないわよ、って言いたくなりますよね!」
と、力一杯に同意する。
そんなアリエッタに、苦笑いを浮かべた視線を送るのはヴァネッサである。
「貴女は相変わらず、芸事については厳しいですわね…」
アリエッタはニッコリと笑ったまま答える。
「同じく芸事で
もっと純粋に楽しむべきだって分かってるんだけど、これは性分なのよね」
「…ユーテリアに籍を置いていると云うのに、軍や超異相世界組織への所属が目標でなく、故郷の観光に一役買うのが夢だなんて…本当に勿体ない人材ですわね、貴女ってヒトは」
ヴァネッサの言う通り、アリエッタは故郷を
「
その点、ユーテリアは
そんな事をアリエッタが語ると、ヴァネッサは勿体なさげに口を"へ"の字に曲げて語る。
「
「私、生まれ故郷が大好きなんだもの。今の自分の選択を勿体ないなんて、全然思わないわ」
アリエッタは満面の笑みで、そう言い切って見せた。
◆ ◆ ◆
星撒部の3人を含め、聴衆がそれぞれの立場で"オーシャン・フォウ・アリス"の演奏を楽しんでいる一方で…。
聴衆に紛れて、"楽しむ"とは全く真逆の感情を抱いて立つ2人組の男の姿がある。
1人は、派手なライブの中では水の中の油のように浮いて見える、神父服に身を包んだ男。"若神父"と呼ばれて慕われて"いた"エノク・アルディブラである。
彼と並んで立つのは、質素な服ながら大きな
エノクの表情は、露骨に堅く苦々しい。その
一方のパバルは、エノクに比べれば随分と表情が柔らかい。笑みさえ浮かべているほどだ。だが、その瞳の奥から放たれる輝きは、冷たい嘲りである。彼の笑みは、踏まれて死にかけたアリがよろめく姿を見てあざ笑う時のそれに等しい。
「同じく詩を吟ずる者として、この歌をどう思う?」
エノクが語ると、パバルを肩を
「"同じく"、と言われるのは心外だね。
僕は"元"とは云え、"吟遊"の名を冠した『士師』だ。僕の作品は詩にせよ曲にせよ、キッチリとした芸術であると断言できる。
こんな…」
パバルは笑みをスッと消し、眼をナイフのように鋭く細めて、バンドメンバーに
「
もっと云えば、このバンドとあそこ(ちょっと離れた所で演奏している、小規模なバンドを示した)のバンドで、曲の個性の差が分からない。
これがトレンドってヤツなのかも知れないけど、右
「やはり、私の感性が狂っているワケではない…と云うことか。安心したよ」
エノクの言葉に対して吹き出したパバルの笑いは、バンドに対する冷笑とは違う、純粋な微笑みである。
「今更、安心してるのかい?
君と同じ感性の者が五万と居るからこそ、僕らはこうやって集って、行動を起こしているんじゃないか。
変な事を気にしているんだね、君は」
「…何度も何度も"植えて"はいるものの、狂った感性どもの中にぽつねんと
「僕には余り理解できない悩みだなぁ。
我が道行く
まぁ、それは兎も角…」
笑っていたパバルが、再びスッと眼を細めて、バンドメンバーを睨む。そして、口角を不愉快そうに歪めると、奥歯で骨を噛み砕くように口を動かして、押し殺した声を出す。
「もう、こんな糞みたいな児戯を耳に入れるのは、うんざりだ。
機は熟したはずだ。さっさと――取り掛かろう」
パバルの言葉に対して、エノクは即答せず、チラチラと視線を巡らせてバンドの集まり具合を確認する。
自分達の近傍こそ、
エノクもまた、パバルのように苦々しげに歯噛みを見せると。ゴクンと唾を飲み込むと同時に、真冬に凍り付いた池のようなのっぺりした表情を浮かべると、ポツリと返答する。
「ああ、始めよう」
その"異変"の発生を初めて知覚したのは、アリエッタである。
「…何…かしら…?」
手にした鯛焼きにかぶりついたタイミングで眉を
しかし、アリエッタは彼女らの問いに対し、首を左右に振って否定する。
「そうじゃないの…。
妙な…なんだか粘りつくようなな…厭な感じの魔力を感じるの…」
「魔力…ですの?」
ヴァネッサが片眉を跳ね上げて聞き返す一方で、紫は黙って片目を瞼で閉ざし、この場に対して形而上視認を行う。
だが、ヒト――ひいては魂魄が高密度に集まる場所では、形而上層に描画される定義式が入り組み過ぎて、詳細を把握しかねる。
「う…ん、よく分からないですね…。
もうちょっと、精度を上げてみれば…」
「気を付けてね…いくら紫ちゃんでも、この混雑下での
アリエッタが警告した時には、少し遅かった。紫は視覚野を埋め尽くした甚大な魂魄の定義式に頭痛を覚え、額を押さて
だが…形而上視認を解く、その寸前の事。紫の視覚野はチラリと、"異変"の定義を捉える事に成功する。
まるで、カモの群が浮かぶ池において、一匹だけ浮かんでいる大きなハクチョウを狙って突き進む、腹を空かせた怪魚のように――人々の足元を素早く這って走る、平たいながらも重くドス黒い定義。
見ているだけで、こちら側の魂魄にベットリと粘り着いてくるような、不快極まりない呪詛。
「先輩…ッ!
バンドの…ヴォーカル…!
気を付けて…ッ!」
紫が聴衆の迷惑などそっちのけで声を張り上げた時には…もう遅い。
アリエッタとヴァネッサがバンドのヴォーカリストに視線を向けた時には、"異変"が彼を襲った直後であった。
ビクンッ!
ヴォーカリストの体が、大きく痙攣する。
曲はサビに入り、演奏の盛り上がりも
これには聴衆のみならず、バンドメンバー達も眉を寄せ、不審を覚える。
(あいつ、どうしたんだ…?)
近くに立つギタリストが、演奏を続けつつも、ヴォーカリストの歩み寄り、彼の俯いた顔に視線を送る。
その瞬間、ギタリストの顔が驚愕と怯懦によって破裂したように激変する。
ヴォーカリストの両眼を塞ぐサングラスが、ポンッと勢い良く吹き飛んだかと思うと。直後、深夜の闇より尚濃い漆黒の液体が、ゴボリゴボリと噴水のように両眼から沸き出す。
「…なッ!?」
ギタリストが声を上げて演奏を中止した、その直後。
ヴォーカリストが闇の涙の滝のように流したまま、遠吠えする獣のように背を反らして点を向くと。
「ヴィィィヴェェェエエエエッ!」
ヒキガエルともブタとも付かぬ、不気味で歪んだ絶叫を張り上げる。
それは、"異変"が悪夢として具現化する産声であった。
- To Be Continued -