星ヲ撒ク者ドモ   作:眼珠天蚕

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Irresponsive Hate Anthem - Part 2

 ◆ ◆ ◆

 

 (決して、捕らえられぬ速度ではない!)

 渚はそう思考しつつ、眼前に迫ったエノクの顔面を狙った前蹴りを首を動かして回避。そして逆に、堅く握った右拳でエノクの左の頬面を狙う。

 天使化したエノクの脚は、烈風の速度とツバメのような機敏さを持ち合わている。視界の中で霞むような速度でありながら、慣性を無視したような鋭角的な動きを実現できる。

 彼らの体から作り出した天使の群れの中をかいくぐって攻撃されれば、簡単に死角を取られてしまう。

 それでも神経を研ぎ澄ませば、補足できない程の動きではない。

 ――ただ、脚の発する輝きに皮膚が触れると、小さな十字架状の傷が否応なく出来てしまうのが難点だ。前蹴りの直撃は避けられたものの、渚の左頬がプシュプシュと血を吹いて、赤い小さな十字架を幾つも作り出す。

 (じゃが、止まるかよッ!)

 渚は握った右拳の中指間接を立て、黒点針の構えを作る。そしてエノクの左頬を、真っ向から殴りつける。エノクの顔は頬と言わず、そのすべてが呪詛で形成された面によって被われている。それでも渚の一撃は確実に面を貫き、頬肉の柔らかな感触と頬骨の堅固な感触とを揺さぶる。

 グラリ、とエノクの顔が傾く――が。彼の体は倒れるには至らない。それどころか、加撃した渚の方が顔を歪めて、表情を焦燥に染める。

 エノクの面の頬部から、ニュウッと掌が生えている。それは渚の拳をガッシリと掴んで、離さない。そして掌は浄化の純白光を放って、渚の右拳に次々と十字架の傷を穿つ。

 (こやつ、こんな所からも天使を出せるのか!)

 渚は拳が壊れる前に、と距離を取ろうと後ろへ跳ぶ。すると、その動きに合わせて、エノクの頬面からズルズルズル、と腕が、肩が、そしてのっぺらぼうの顔と痩せ気味の胴体が現れる。天使だ!

 「ッ!!」

 渚は表情を更なる苦痛に歪める。天使の浄化により、渚の拳の構造がグルグルと渦を巻き始めたのだ。その歪みは腕にまで達し、思い切り絞り上げた雑巾のようにねじ曲がってゆく。

 「離さんかいっ!」

 渚は思わず叫びつつ、大きく下半身を回して蹴りを叩き込む。回転する蹴りは疾風の刃と共に、赫々(かっかく)たる火焔をまとっている。体温の持つ火霊の力を練気技術で増幅した、炎の一撃だ。炎と風の刃が天使の細い腕を強打すると、ゴギン、と痛々しい音と共に天使の腕が両断される。同時に、ブワリと火焔が天使の体を上り、その体を火だるまに変えてゆく。

 だが、天使は怯まない。それどころか、壮健さを印象づけるように、のっぺらぼうの顔に大きく横に割れた口を表すと、血を吐くような責め立てる声を上げる。

 「禍在れ、邪神の暴力」

 そして天使は火だるまになったまま、渚の元へと突進してくる。切断された腕からはニュルリと槍状の突起が生え、渚の体を貫かんと狙う。

 (面倒なヤツじゃのうッ!)

 着地した渚は、迫る天使の顔面に回し蹴りを叩き込む。インパクトの直後、天使の顔面を突き進む衝撃は練気の影響を受けると、頸椎に達した瞬間にあらぬ方向へとベクトルを分散。ゴギン、と鈍い音が響くと同時に、天使の首がグルリと異様な方向へと回転し、頸椎が脱臼する。

 天使は『現女神』の生み出した『神法(ロウ)』の産物ではない。故に、その身体構造は通常の生物学の法則に従う。頸椎を破壊された天使は直ちに全身麻痺に陥り、力なく大地へと倒れ込む。

 渚は捻れた腕を回復する間も惜しんで、エノクへと再び接近を試みる。だが、その頃にはエノクの次なる攻撃の準備は整っている。

 エノクは手に愛用の拳銃を持ち、渚に向けると。パン、パン、パン、パン、と4度の銃声を発する。直ちに射出された弾丸は、風船ガムのようにみるみる体積を膨張させ、先に通路で相手をした騎士の天使へと変化する。

 この天使達も、フルフェイスの兜に一文字の口を開くと、カラスにも似た(やかま)しい濁った声で、一斉に唱和する。

 「禍在れ、邪神の矜持!

 其は在るだけで、罪なりッ!」

 その聖句が耳に届くなり、渚の体から再びブシュブシュッと赤が飛沫き、十字架の傷が形成される。

 (ならば、これでどうじゃッ!?)

 渚はなるべく動きが大きくなるようにん、飛び上がって体を回転させる。そして両足に火焔を纏い、一直線につっこんでくる騎士の天使を迎撃する。

 ガギィンッ! 鋼鉄同士の激突する音が響くが、渚の狙いは騎士の天使を迎撃することではない。彼女の真の目的は――火焔にて、空気をかき乱すことだ。

 渦巻く炎が空気に乱流を引き起こすと、騎士の天使達の唱和が激しく揺れ動き、言葉の(てい)を失う。すると、渚の体から新たな鮮血が飛沫(しぶ)く事はピタリと止んだのだ。

 (やはりのう!)

 渚はニヤリと笑いながら、十字架の傷が刻まれる原理を理解する。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 それは、ヒトが宗教観を持ち合わせて以来の本能なのか。渚は勿論、魂魄理論を用いる人文科学者だって分かり得ない。

 だが、ヒトはリンゴの実を見て"食物である"と理解するのと同じく、意味を深く理解していなくても聖句を"神聖である"と理解するらしい。それが

 エノクの天使は、このプロセスを利用している。

 彼らが聖句を唱え、ヒトがその言葉を聴覚で捕らえ、"神聖である"と認識する。この事を引き金として、魂魄に干渉を与え、脳幹にある種の信号を発するように仕向ける。その結果、"神聖である"事の連想から十字架のイメージが成され、この形に添って急速な細胞の自滅を起こさせる。

 つまり、エノクの能力(ちから)は天使を生み出すだけでなく、"神聖である"事を認識させる事を引き金として、対象の身体に干渉を与える特性もあるという事だ。

 だが――この絡繰りが解ければ、十字架の傷の防御は容易い。

 聖句を耳に入れないようにすれば良いのだ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 こうなると、騎士の天使は、高熱を帯びて高速で飛び回る兵器に過ぎない。

 "過ぎない"と言い捨てては居るが、常人には厄介極まりない相手だ。高速の時点で回避し(がた)く、受け止める等をして接触すれば火傷を負う。破壊しようにも、金属の耐久度が壁となって立ちはだかる。

 だが、渚にしてみれば、騎士の天使の本質が"金属の弾丸"である時点で、問題の大半は解決する。

 宙で独楽のように激しく回転する渚の元へ、2体の騎士の天使が接近してくる。大気の乱流の中でも彼らが口をパクパクと動かし続けているのは、相変わらず聖句を唱えているからであろう。

 騎士の天使は手にした馬上槍(ランス)を振り回して突き出し、渚を串刺しにしようとする。対して渚は、指を曲げた奇妙な掌底を作り出すと、繰り出された馬上槍(ランス)の横面に叩きつける。

 転瞬、グワワン、と馬上槍(ランス)が音叉のように細かく震動して音を立てたと思うと。掌底を食らった部位が突如、輝かんばかりの赫々(かっかく)に染まり、そのまま泡を立てながらドロリと融解してゆく。

 赫々の影響はそれだけに止まらない。大地を這い回る溶岩のように馬上槍(ランス)(さかのぼ)り、遂には騎士の天使本体に達すると。天使は体の至るところを赫々に輝かせながらデロリと解けだし、真っ赤な液体金属と化して床にボトリと落ちる。そのままプシュウ、と空気が抜けるような音を立てて体積を減らすと、小さな溶融した金属の滴と化す。それは、弾丸が融解したものだ。

 渚の使ったこの技は、練気の一種、『赤竜慟』だ。身体の熱を火霊によって増幅させつつ、細胞を震動させて高熱震動を発生。対象の固有振動数に干渉し、熱と震動の二面性によって破壊を引き起こす。

 弾丸という単純な構造の金属が本質であった事が災いし、騎士の天使は即座に固有振動数に干渉され、哀れにも熱震動の餌食になったのである。

 残る2体の騎士の天使は、無惨な最期を遂げた同朋の事など省みず、果敢に一直線に渚へと向かってくる。しかし、この彼らの突撃は最早、無謀の自棄(やけ)と同類だ。渚は馬上槍(ランス)による攻撃を回避しつつ、掌底と蹴りで――そう、『赤竜慟』は脚でも出来る――一気に騎士の天使達を解けた弾丸の滴へと返す。

 この勢いのまま、渚はエノクに突撃する。聖句対策として、身体中の体温に宿る火霊を増幅させ、炎の化身のように身体のあちこちからゴウゴウと火焔を巻き上げ、耳に届く音を蹴散らす。

 案の定、十字架状の傷を付けられることはない。

 (さぁてッ、お返しじゃぞいッ!)

 エノクの間近へと一気に接近する、渚。エノクも呆然と見届けてはおらず、脚を天使化させ、高速移動によって渚の背後に回り込みつつ、回し蹴りを後頭部に叩き込もうとしてくる。対する渚は体勢を低くして蹴りをやり過ごしつつ、ヒュウッ、フゥー、と素速く深呼吸。そして、腹部で気を練り上げると、再び掌底を作ってエノクの鳩尾に叩き込む。

 ズクンッ! 打撃とは異なる衝撃音が響き渡る。まるで、山のように巨大なゼリーをブルンと震わせた時のような、水っぽい震動音だ。

 転瞬、慟哭の面の下で、エノクは生理反射によって面と同じくらいの大口を開く。掌底を叩き込まれた彼の腹部は、やはり打撃とは異なる、破裂するような痛みと、内臓が直接かき混ぜられたような強烈な不快感を覚える。食道を内容物が(ほとばし)り、喉元(のどもと)にまでせり上がって、口の中を激しく熱い酸味で満たす。

 渚が放った掌底は、またも練気技術の一種である『波砕震』だ。打撃を与えた相手の内部の水分に作用し、激しい水流と震動を引き起こす。エノクの内臓はこの影響を受けて激しく震え、不快感を得たのだ。炎の塊のような姿とは裏腹の、水霊の作用を増幅させる技術である。

 エノクはそのまま、不快感に飲み込まれそうになるが――嘔吐物をゴクリと飲み下しながら、打撃を受けた腹部に対して天使化を作用させる。すると、エノクの腹部に縦横に幾筋かの切れ目が走り、それらはそれぞれ正方形の肉の破片と化して宙に遊離すると、それぞれが(のこぎり)を手にした小さな天使と化す。

 一方、エノクの腹部はポッカリと穴が開いた状態だ。その断面は抉れた左上半身と同様、粘土のような質感を呈する奇妙な凹凸面となっている。

 こうして、痛みを得た内臓を切り離したエノクは、不快感からケロリと解放される。そして自らの腹から作り出した天使と共に疾駆し、渚に襲いかかる。

 「神は、天の主にして唯一無二なり」

 エノクと天使が唱和する。しかし、渚には身に纏った轟々たる火焔がある。聖句が耳に届かないはずだが――。

 ブシュッ! 痛みと共に鮮血が宙に舞う。渚の首筋に、十字架の傷が3つほど固まって、皮膚と肉に穴を穿っている。

 (何じゃッ!?)

 渚は痛みと共に困惑を噛み殺しながら行き脚を止めると。身に纏ったは炎はそのままに、鋸を振り回す天使達へ拳足を叩き込む。ベチャリ、と力のない肉の感触が渚の身体に響き、天使達は熟れ過ぎた果実のように床に叩きつけられて広がる。

 だが、天使は直ぐにグググッと盛り上がって立ち上がり、元の形状を取り戻すと。すぐに渚の肉を切り取らんと飛びかかってくる。

 (面倒なヤツらじゃなッ!)

 渚はすぐに天使達の位置を把握して再び拳足を振るい、彼らを叩き伏せる――と。

 「一なる神を組み伏せし理不尽は無し」

 天使をかいくぐって接近してきたエノクが、右拳を叩きつけながら聖句を唱える。その言葉は、やはり、炎に煽られて渚の耳には届かないが…。

 ブシュッ! ブシュッ! 再び宙を待つ、鮮紅の煙。今度は渚の左頬や左耳に十字架状の傷が現れる。

 (なるほどのう…! 流石は天使の親玉、こやつは"特別"か…!)

 渚は思考を改めながら、突き出されたエノクの拳を屈んで回避しつつ、その腕を肩に背負う。そして雷のような勢いで地面に叩き落とす。

 「ぐは…っ!」

 背中から強かに叩きつけられたエノクが一瞬呼気を漏らすが。直ぐに面越しにギラリと視線を輝かすと、足で渚の顔面を狙う。つま先が渚の眼を目掛けて、一直線に向かってくる。

 渚はその蹴りをギリギリ引きつけてかわすと、中指を立てた拳を握り込み、黒点針でエノクの面越しに額を狙う。幾ら強烈な呪詛で生成された面とは云え、渚の卓越した練気技術による勁の一撃は、やすやすと面を貫通して頭蓋を貫くことだろう。

 対するエノクは、右手を突きだして渚の拳を受け止める。その手は無数の翼が生えて、天使化している。加えて、その掌には、まるで杭でも穿(うが)たれたように、鋭い突起が突き出ている。

 渚の突き立てた中指の間接と、エノクの突起が真っ向からぶつかる。まずは渚の一撃が技名の通り針となってエノクの掌を、そして腕を一気に貫通してゆく。エノクの右腕はたまらずビクンと痙攣する。

 一方で、エノクは激痛の走る右手で渚の掌をガッシリとつかみ取ると。掌の突起をグリグリと押し当てながら、聖句を唱える。

 「一なる神の恩寵を打ち倒す業は無し!」

 その言葉はやはり、渚の纏った炎が轟々たる音でかき消したが。渚の腕を幾つもの十字架状の傷がブシュブシュと刻まれる。

 (厄介なモノじゃな、この"特別"は!)

 渚はギリリと歯噛みし、腕をジクジクと苛む痛みに耐えつつ、エノクの手から拳を振り解こうとする。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 エノクの"特別"の原理。それは、彼の"聖句を唱える"と云う行為が、天使のそれと異なり、単に聞く者の魂魄の干渉するものではない事に発する。

 天使の親玉であるエノクの聖句は、もう一歩も二歩も前進した結果をもたらす。

 彼の聖句、および、信仰にまつわる行為は、世界そのものに対して"神聖"を認知させるのだ。

 結果、渚が言葉を耳にしようとしまいと、世界が"神聖"に従って、渚の身体に聖痕を刻みつけるのである。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 エノクは更に、もう一つ新たな業を見せつける。

 渚が捕まれた拳を振り解いて、身体ごと腕を引いた、その時だ。エノクの掌の突起がズワッと広がると、それは(いばら)となって四方八方に展開。植物の成長速度とは比肩にならない、超高速の奔流となって渚の腕を掴み、這い上ってくるのだ。

 (いたたッ! このッ、離さんかいッ!)

 すっかり茨に飲み込まれてしまった右腕を激しく振り動かし、解放を試みる渚。だが、茨はガッシリと腕を咥え込んだまま、シッカリと棘を肉に食い込ませて、離れようとしない。それどころか、棘を中心に体組織がギュルリと渦巻き始め、右腕から力が抜けてゆく。

 渚が茨と格闘している間に起きあがったエノクは、天使を腹部の穴に戻して、体勢を立て直す。そして足を天使化させ、純白の電光のように地を疾駆し、渚の背後へと回り込み、後頭部を狙って蹴りを叩き込んでくる。

 渚は舌打ちを残し、茨の処理を一端は諦めて、前方へと跳んで蹴りを回避。宙空で体を回し、エノクと対峙しようとすると――。

 バサバサバサッ! 無数の大きな羽音が響き渡る。そして、渚の視界には純白を身に纏った巨躯の人影に覆い尽くされる。

 巨大な剣を頂き、フードを目深に被って素顔を影で隠したそいつらは…この部屋に入った時、天井近くをクルクル回っていた8体の巨躯の天使達だ。エノクの左上半身が無いのは、彼らを創造する為に肉体を削ったからであろう。

 「神罰、此処に降れり!」

 8体の天使は一斉に唱和すると、大剣を軽々と振るい、渚を切り刻みにかかる。

 天使の大剣が、単なる金属の塊であったならば――渚は茨で片腕を封じられようとも、拳足で剣の腹を叩いて弾き、軽々と対処することも出来たであろう。だが、天使の大剣は厄介な事に、8体で各々異なる事象を(まと)い、激しい渦を巻いて斬撃を強化している。即ち――火焔の渦、吹雪の渦、水流の渦、電光の渦、土砂の渦、烈風の渦、聖光の渦、そして腐毒の渦だ。大剣を弾きに行けば、事象が即座に肉体を傷つけてくる。

 (面倒な事じゃなッ!)

 渚は歯噛みしながら、茨の痛みに耐えつつ、混沌の嵐と化した天使達の事象の斬撃の回避に専念する。傷つくのを承知で天使達を攻撃することも可能だろうが、いかんせん、渚の肉体は傷つき過ぎている。それに、天使を破壊しても、エノクと云う根幹を屈服させねば、再び天使を呼び出される。

 (そう、あの男…!

 何処へ行きおった!?)

 激しい斬撃の中、渚はチラリと視線を走らせてエノクの姿を探す。だが、直ぐに渦巻く事象の斬撃が肉体の間近を通過し、渚に集中を許さない。却って、ハチミツ色の髪が渦に巻き込まれ、チリチリに焦げ付いたり、ミチミチと引き抜かれたりする。

 (一端、距離を取るかのう!)

 渚は一気に上空に飛び上がり、8体の天使を眼下に見下ろす。天使達は正に神懸かった反応速度で渚を追うが、渚も神業的な達人だ。即座に『宙地』を駆使して横に跳び、8体の天使から距離を取る。

 その時だ。不意に、渚の顔に影が掛かる。ふと上を見れば、そこには天使化した脚を振り上げ、脳天へと叩きおろしてくるエノクの姿がある。

 渚が状況を脱する事を予測し、彼女が飛び出した所を迎撃に来たとでも云うのか。

 (こンのッ!)

 避けられないと判断した渚は、茨に被われた右腕を振り上げ、この腕を捨てる覚悟で踵落としを受け止める。

 ゴギンッ! 嫌な打撃音は、渚の腕の骨が完全に折れた音だ。茨の中ではただでさえ、腕の組織が渦巻いて負荷を得ていたのだ。そこにエノクの強烈な蹴りが叩き込まれれば、骨は脆くも破壊されて当然のことだ。

 「っつぁッ!」

 渚は思わず叫び、目尻に涙を浮かべる。だが、痛みを味わう暇などない。彼女の体は衝撃を受けて落雷のように床に落下したのだ。激痛がジンジンと思考を蝕む中、なけなしの理性で『宙地』を使い、床への激突は避けたものの――状況は、好転しない。

 と云うのも、8体の天使が上空から降りてきて、一斉に彼女の体に刃を振り下ろしてきたのだ。

 (ザン)ッ! 惨たらしい、骨身を断つ音が聞こえる。渚の体が、刃の直撃を受けた証拠だ。

 だが――渚は、8つに分断されてはいなかった。刃は確かに渚の体にそれぞれ食い込んでいたが、程度に違いはあるものの、体を両断するまで深い位置まで潜り込んではいなかった。

 渚は咄嗟に功を用いて肉体の硬度を高め、刃を受け止めたのだ。単なる剣であれば、彼女の硬度は却って刀身をポキリと折ったことだろうが。天使の刃は一味違う、渚の肉にスンナリと潜り込んでくる。そして、事象の渦で傷口を焼き、凍えさせ、激しく抉り、腐り(おか)す。

 そこへ、エノクが天使を分けて渚に急接近すると。渚の首を掴んで締め上げながら、体を持ち上げる。8体の天使は渚の体から刃を引き抜いて下がり、創造主が邪神を吊し上げる様をフード越しに見守る。

 「え…ぐ…っ」

 渚が舌をダラリと垂らし、唾液の糸を引いて、塞がった気道をなんとか開こうと呼吸を試みるが。エノクの万力のような腕は、ますます渚の首を締め上げる。そのまま頸椎をへし折らんばかりの剛力だ。

 血の気が引いて蒼白になり、滝のように冷や汗を流す、渚の顔。それを面越しに真っ向から見つめるエノクは、冷淡な声を口にする。

 「神の業を使って抗え、邪神」

 その言葉の響きには、軽蔑と共に失望の意志が読みとれる。

 「この程度では、試練の内にすら入らん。

 禍なる傲慢を捨て、全力を尽くし、真なる神の御業と戦え」

 エノクは武人ではない。むしろ、勝てる時には徹底して力を振るって勝利を収める、合理主義者だ。そんな彼がわざわざ相手の全力を誘うのは、合理主義者である前に、聖職者であるという意地のなせるものか。大きな試練こそ神に近づけるという信仰の大儀に沿った行動か。

 この言葉を聞いた渚は――喘ぐことすら困難な状況で悶えながらも、その顔に何とも傲慢で不敵な笑みを見せる。

 「じょ…だん…じゃろ…」

 答えを得るためか、エノクが少し締め付けを緩めたその時。渚は剛毅にも元よりの意志を貫いた言葉を口にする。

 「ヒト相手に…神の力なぞ…分に過ぎると…云うものじゃ…」

 「そうか。あくまで傲慢を貫くか」

 エノクはそう言い捨てると。(にわか)に渚の首を締め上げる手に更なる力を込める。渚の顔は色を失い、広角には苦悶の泡が(あふ)れ出る。

 「禍在れ、傲慢の大罪」

 そう語った転瞬、エノクの腕が変質。鋭い棘が高密度に生えた茨と化し、渚の首を貫きながら、いよいよ頸椎をへし折ろうと絞るように締め上げる。

 渚の顔面が更に蒼白になり、激しい苦痛に表情が歪むが――エノクは彼女の面持ちを見て、ピクリと片眉を跳ね上げる。明らかに、怪訝を抱いている表情だ。

 それもそのはず…絶対的な窮地に陥ったはずの渚が、苦痛に顔を歪めながら、微かながら笑みを浮かべているのだ。

 「何を嗤う、邪神」

 エノクは怪訝の色を消して不快感を露わにし、今度は眉に怒らせる。一方で渚は、酸欠気味で痙攣が始まっている左腕を、自らの首を締め付ける茨にポン、と力無く置くと。締まった気道を何とか動かして、途切れ途切れに言葉を口にする。

 「おぬ…の…底…これまで…か」

 「底?」

 エノクは不快感を露わにしながら、疑問符を浮かべて言葉を繰り返す。底――それは、底力の事を意味しているのか? つまり、"これで実力の全てを出し切ったのか"と訊いているのか?

 「知らん。

 が、どの道、お前はここで浄化される。

 地獄にて己の傲慢を永劫に悔いろ」

 エノクは冷淡に吐き捨てて、ギリギリと渚の首を更に締め上げる。棘が深々と首の肉に食い込み、ドロリと鮮血が茨の伝って滴る。

 渚はエノクの反応に、乾いた笑いを浮かべて、声にならぬ言葉をパクパクと呟くと。痙攣が酷くなった左手で、精一杯首の茨を力強く掴む。

 

 (無益な抵抗だ)

 エノクはゾウに噛みつく一匹のアリでも眺めるような眼差しで渚を見やる。そこに込められた感情は憐憫などではなく、見下した非難だ。

 エノクは、渚を引き裂かんばかりに敵視している。

 信奉するニファーナが神の座を失ってから現れた、二柱目の『現女神(あらめがみ)』。それが再び人心を奪ってゆくのかと懸念すれば、烈火のような憤怒が胸中にメラメラと燃え上がる。

 (傲慢に抱かれたまま、死ね、邪神)

 エノクは全力で茨と化した腕を締め上げて、渚の頸椎を破壊しに掛かる。

 どれほど鍛え抜かれた首だとて、呪詛によって細胞の能力を強化されたエノクの力に抗うなど、本物の『士師』ですら困難かも知れない。渚の首は、数瞬と待たぬ間にポキリと砕ける――はずであった。

 

 だが――予想外の事象が、2人の間に起こる。そしてエノクは、目を見開く。

 

 (何だ!?)

 ザワリ…腕を変質させた茨に、震えを伴う悪寒が駆け抜けてゆく。同時に、茨がビクビクと痙攣を始め、勝手にブルブルと蠢き始めると。その棘が見る見る内に(いばら)と化し、ポンポンと音を奏でるように次々と花を咲き誇らせる。その各々の花は、サクラにも似た薄いピンク色を呈するバラのものだ。

 勿論、エノクが意図しての所業ではない。

 (こいつ、何をした!?)

 エノクは渚に烈火の視線を送り、さっさと頸椎を粉砕しようと剛力を込める。しかし――花咲く(つる)と化した茨は、全く力が入らない!

 それどころか、花と化した棘が見る見る内に花びらを落として散ってゆくと。それに連動するように、蔓がシワシワに(しお)れて枯れ木の茶色を呈する。まるで、一年草の一生を早回しで眺めているかのようだ。

 (何はともあれッ! こいつを叩き潰す!)

 すっかり脱力した蔓から、スルリと抜け落ちる渚。その姿を認めたエノクは、直ぐに両足を天使化。まだ酸欠から立ち直っていないはずの渚の胴にたたき込み、盛大な浄化をブチ込むつもりだったが――!

 ギンッ! 渚の眼が、鋭い輝きを放ってエノクを睨みつける。ほんの数瞬前まで酸欠で喘いでいたとは思えない、刃のように研ぎ澄まされ、煌々と輝く星のように眩しい眼差しだ。

 「ッ(セイ)ッ!」

 渚は全身をギュルリと回転させ、激しい渦へと化すと。両足に青白く輝く烈風の颶風を巻き付けて、そのままエノクの胴へと突撃する。

 エノクの蹴りの方が発生は早かったというのに、渚の突撃はその速度を大きく上回る。蹴りが到達するよりも断然早く、渚の両足がエノクの胸に激突し、その筋肉をギュルギュルギュルッ! と抉る。

 

 練気と身体(フィジカル)魔化(エンチャント)を混合させた、渚独自の業だ。名前は特に付けていない。即興の攻撃だ。

 

 「グハッ!」

 エノクは胸筋への痛みと同時に、肋骨越しに肺を激しく圧迫され、悲鳴の混じった呼気を漏らす。

 それでもエノクは蹴りの勢いを極力殺さず、渚の体に叩きつける。

 天使の翼が幾つも生えた脚は、世界の認知する"神聖"の定義に従い、渚の組織に聖句を焼き入れる――はずであった。だが、蹴りを叩き込まれた渚の脇腹は、衝撃に歪むものの、浄化現象を起こさない。

 これではエノクの一撃は、ただの高速の蹴りだ。

 (何故だ!?)

 エノクの理解が追い付かぬままに、渚はエノクの天使化した脚を掴む。渚の手は、やはり、浄化の影響による体組織の歪曲を起こさない。小柄な体躯に似合わぬ万力のような力でエノクの脚をギリギリと掴み上げながら、その場に着地した渚は、エノクの脚をグルリと回転させる。独楽のように宙で回るエノクの頭部が床近くにまで移動した転瞬、渚は強烈な蹴りを容赦なく叩きつける。

 エノクは右腕一本で蹴りを受け止めたものの、ミキミキッと痛々しい軋みが響き、彼の体は紙切れのように吹き飛ぶ。そのまま床を数度転がり、堅い有機機械へ強かに衝突する。

 (邪神めが、何をした!?)

 エノクは体の芯から衝撃が抜け切らずとも、精神力で抑え込んで跳ねるように立ち上がり、面越しに渚を睨みつける。そして――渚の体に生じた"変化"を認識し、眉を(ひそ)めてギリリと歯噛みする。

 

 渚の輪郭が、ぼんやりと黒紫色の影に被われている。その陰惨な気配に呼応するように、渚の顔が鬼にも似た凄絶な笑みに歪んでいる。

 エノクは、渚が用いているこの技術の事をよく知らない。だが、彼女の纏う"影"が、浄化の影響を防ぐ役目を担っているだろう事を理解する。

 しかし、茨の棘を花に変え、急激に枯れ(しお)らせた技術が全く理解出来ない。

 そんなエノクの困惑を面越しの雰囲気に読みとったのか、渚は凄絶な笑みの中に挑戦的な眼光を灯し、満身創痍の身体を軽々と動かしながら、誘うような構えを取ってクイクイと指を動かしてみせる。明らかに、挑発している。

 「おぬしの天使の力、とくと味わったわい。

 ならばこちらは、悪魔的に行かせてもらうわい」

 ――確かに、渚の身体を包む黒紫の影や、彼女の凄絶な表情からは、悪魔と形容するに相応しい暗澹とした気配をヒシヒシと感じる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 渚の用いた2つの業。その正体は、全く別の技術によるものだ。

 

 まず、浄化を防いだ黒紫色の影。これは"感情魔術"と名付けられて体系づけられた魔術一派を用いたものだ。

 その名が示す通り、感情という心理現象を形而上および形而下に干渉させ、何らかの事象を得るというものだ。憤怒ならば炎や熱、爆発といった事象を得やすいし、悲泣ならば水や湿気、そしてやはり爆発といった事象を得やすい。

 渚は"神聖"や"浄化"に対抗するため、その真逆の事象を引き寄せるための感情を作り出すことにした。即ち、嫌悪や憎悪といった、負の感情である。これが魔術励起光として可視化したものが、彼女の身を被う黒紫色の影である。

 感情魔術は、事象を発生させる事が非常に困難であるとされている魔法技術だ。感情という心理現象は個人に強く依存しており、事象世界に干渉を起こせるほどに影響を波及させる事が難しい。それを成すには、感情の強さと共に、感情を構築するクオリアを干渉させやすい構造へと操作する器用さが求められる。

 この困難に打ち勝てるほどに、卓越した魔法技術と感情操作技術を持つ渚は、やはりユーテリアで"最強候補"として名を上げられる程の実力者に相応しいであろう。

 

 さて、もう一つの業――茨を破壊した技術は、練気の応用だ。しかも、飛び抜けて硬度な応用だ。

 練気は、旧式の魔法体系として知られる五行思想の影響を強く受けている。五行の各々の属性は、身体部位や要素に対応するように関連づけられている。

 即ち――火は体温に、水は水分に、土は筋肉に、金は骨格に。そして木は雷気を含むことから、電流の走る神経系統に対応する。

 練気において木行を反映した業と云えば、神経電流を増幅させることで実現する電撃や電磁場である事が大部分だ。…とは云え、木行が全て雷気ばかりに関連するワケではない。

 人間の体構造上、干渉は困難であるものの、原義である植物への干渉を行う事も可能だ。

 渚が使ったのは、この原義によるエノクへの干渉である。

 茨と化したエノクの腕には、植物のクオリアが含まれていた。ここに練気による木行を干渉させ、急速な成長を促し、茨の寿命を迎えさせたのである。花が咲いた事象は、茨の成長を物語るものだったのである。

 

 この2つの業を用いて、渚はエノクんも拘束と浄化に対抗したのだ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「悪魔、か」

 エノクは面越しに燃え盛る視線を渚に叩きつけ、地の底から響くような威圧的な声を上げる。

 渚はそれに対して、ちょっと表情を緩めて語る。

 「悪魔と言えば、のう。

 ちょいと昔に、おぬしのものと良く似た能力(ちから)と対峙した事があったわい。

 おぬしの場合は天使じゃが、"あやつ"の業は悪魔であったのう。

 あの時は大分苦労したが、その経験が生きておるようじゃ。お蔭で、『現女神(あらめがみ)』の能力(ちから)を発揮せずとも、おぬしと十分に渡り合えておる」

 「…悪魔と振興を持つか、卑しき邪神めが…ッ!」

 エノクは火を吐くような重苦しい声で渚を威圧すると。8体の天使を左上半身に戻し、五体満足な肉体を取り戻す。

 しかしその直後。彼の体は大きな異変を生じる。腕も脚も、胴すらも天使の翼が滅茶苦茶に生じたかと思うと。両腕とその付け根がバラリと裂けるように展開。翼ともクモやカニの脚とも付かぬような、幾つもの枝分かれした腕となる。その先端には勿論、手がくっついているものもあるが、口がくっついていたり、小さな天使の上半身がくっついているものもある。

 エノクの体は枝分かれた上半身に対応するように、胴がヒョロリと上に延び、身長が優に3メートル半は越えるようになる。

 その姿は、神の使者と言うより、闇夜に浮かび上がる不気味な針葉樹か、神性とは真逆の禍々しさを連想させる異形の怪物を思わせる。

 エノクは縦長の体をグラリグラリと揺らしながら、枝の先についた口と共に、エコーがかった叫声を張り上げる。

 「神の名に()いて、我、邪を(はら)い滅ぼさん!」

 「やってみるが良いわ、似非(えせ)使徒がッ!」

 渚は感情魔術と身体(フィジカル)魔化(エンチャント)による二重の筋力強化を用いた加速で、烈風の形容すら生温いような加速を実現。一瞬にしてエノクの懐に潜り込むと、その胴に黒紫色の影に被われた右拳を叩き込んだ。

 

 邪神と呼ばれし者と、神の徒を語る異形との交戦は、佳境に突入する。

 

 - To be Continued -

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