◆ ◆ ◆
負けを認めたつもりなど、微塵もなかった。
実際、エノクの理性は烈火の如き不屈の精神によって燃え上がっていた。
(立たねば、ならぬッ!)
何時の日であったか、目を通した事のある或る宗教の聖書の記述のように――手足がもがれようとも、歯だけでも喉笛に噛み付いてやろうと云う気概を持つ程に、エノクはまだまだ戦い続ける気でいた。
だが――理性はそうあっても、彼の生物としての本能は、そうはいかなったらしい。
『士師』であった頃すら
(立たねば、ならぬのだッ!)
いくら己自身に言い聞かせて、鞭を入れようとも、体は指一本すらピクリとも動かなかったのだ。
それどころか――彼にとっては、あまりにも残酷な現象が発生する。
彼の全身から、純白ではなく、黒紫色の魔術励起光が業火の煙のように排出されてゆく。それと同時に、エノクの異形は萎んでゆき、"神聖"としての姿は失せて…満身創痍の、鍛え抜かれたヒトの体へえと変じて行く。
それは、体組織の内部に宿っていた呪詛が抜けて行く光景だ。
(そんな、そんな、そんな…ッ!)
エノクは、抜けて行く呪詛をかき集めて体内に戻したいと、強く願う。それでも、魂魄を焼くような焦燥に反して、体はやはり指一本すらピクリとも動かないのだ。
(私は、まだ、まだ、まだ…!)
どんなに意志を込めようとも、呪詛の流出は止まらない。そして、呪詛が抜けた事による細胞構造の変化と、それに伴う感覚の鋭敏化によって、エノクは気を失いたくなるような全身の激痛に苛まれ、顔面を蒼白にさせて冷や汗を噴き出す。
(そんな、そんな、そんな…バカなッ!)
――どう心中で叫ぼうが、もう力は戻らない。エノクの体は単なる鍛え抜かれたヒトのものへと成り下がってしまった。天使を作り出す事も、肉体を天使化させることも、もはや出来ないのだ。繊維の
――エノクは、渚に完全に敗北したのだ。
◆ ◆ ◆
エノクの眼前では、これまた満身創痍の状態である渚が両腰に手を当てて、肩幅程に足を広げ、威圧感たっぷりに立ち尽くしている。
彼女の消耗具合も、エノクに劣らぬ過酷な具合だ。制服は十字架状の穴が幾重にも重なって大きな穴を幾つも開き、ボロ
それでも渚は、真紅に
対してエノクは、万語を尽くして…或いは、火を吐く勢いで…眼前の渚に罵声を浴びせたかったが。消耗しきった体組織は、声帯も顎も動かす程の余力すら残っていない。
だからエノクは、見開いた眼だけで――その奥に灯る憎悪の眼光だけで、渚への反抗を示す。
"例え、この暴力の勝負で敗北を喫したとしても、我が魂魄は決して屈しない!"
その意志を痛い程に読みとった渚は、スゥーッと深く息を吸い込むと。
「本当に大馬鹿なガキじゃな、おぬしはッ!」
全身の傷に響くのも意に介せず、渚は怒声をぶつける。
エノクはそれでも瞳の奥の憎悪を絶やすことはない。その態度がますます、渚の意志を逆撫でする。
「わしは正直、宗教と云う代物は好かぬ! 自然の摂理で無し、ヒトが都合で勝手に作り出した
じゃが、人生にしっかとした根を持たぬヒトビトが、その手摺りに
じゃから、個人的には好かぬが、同じく希望を蒔く身としては、宗教の存在意義を或る程度は認めておる。
――じゃがなッ!」
渚はギリリと奥歯を噛みしめ、座ったまま反抗的な眼差しを投じるばかりのエノクの襟首を掴むと、グイッと引っ張り無理矢理に立たせる。
2人の真逆の意志を有した激しい視線が、真っ向からぶつかる。
渚は、ぶつけた言葉でエノクの顔の川を剥ごうかと云う勢いで、叫びまくし立てる。
「『僧侶の士師』たるおぬしが為したこれは、なんじゃッ!? どこに希望という大義名分が存在するッ!?
都市国家1つを巻き込んでッ! おぬしと価値観の合わぬ大多数を絶望に追い込んでッ! 思い通りにならぬことを憤って呪詛を放ち、無茶苦茶に暴れ回ってッ!
挙げ句の果てに、
この何処に、希望の大義名分がある!?
――いや、おぬしらにとっては希望なのかも知れぬがッ! こんな内輪の希望を世に押し付けることが、おぬしの『僧侶』としての仕事かッ!?」
エノクは正直、言われっ放しに甘んじるしかない現状に、強い憤りを感じている。
彼とて、この邪神にぶつけたい反論は五万とある。
数日過ごした程度でプロジェスの意志を代弁しているかのようなデカい態度が、気に食わない。長年の苦渋の果てに繁栄を得たプロジェスの意志など微塵も知らぬ白痴のくせに、"プロジェスの希望"を語る口が、許せない。
そして何より、二ファーナを『現女神』として再降臨させようという大業を、変質者の所業であるかのようにバッサリと言い切る尊大さが、憎たらしいッ!
だが、それらを語るべき口が全く動かないのが、無念で仕方ないのだ。
――しかし。形而上を事象に落とし込む魔法科学が渚に味方してエノクを倒したように。魔法科学は今度は、物言えぬエノクの胸中で燃え盛る憎悪と無念に味方する。
エノクの魂魄から発せられた、電磁場にも似た強烈な負の感情の場――
形而下の感覚だけを頼りにしていては、その現象を知覚することは出来ない。産毛をサワリとすら撫でることのない、純粋な形而上の波動が走っただから。それは神経電流にも何らか干渉を与えず、如何なる生物の感覚器官にも何の刺激も残さなかったろう。
しかし――渚を始めとする『星撒部』の部員達のように、常日頃から形而上相の知覚を意識している者ならば、即座にその波動の強度を把握する。
(こやつ、この期に及んで何を悪
渚は噛みしめた歯の奥で大きく舌打ちすると、襟首を掴み上げていたエノクを思い切り床に叩きつける。防御する体力もないエノクは、熟れ過ぎて落下した果実のように、無抵抗に床に激突する。ガタの来た内臓が容易に出血し、黒々とした赤の飛沫がエノクの口から噴き出す。
しかし、エノクは赤黒い血液でヌラリと濡れた唇を、ヒクヒクと痙攣させながら吊り上げて、声無く
「何が可笑しいのじゃ!?」
そう渚が叫ぶと、エノクは震える口でパクパクさせ、枯れ木の隙間を
その声は渚には全く聞こえなかったし、エノク自身にも骨導音としてすら知覚出来なかったかも知れない。
だが――彼の言葉を代弁するように、輝きに満ちる室内のあらゆる方向から、"声"が響きわたる。
それは、"歌"だ。幼子のような甲高い声もあれば、女性の玉のように美しいソプラノもあり、男性の身を震わす体亜音もある。その全てが調和を成し、響き渡る有様は――讃美歌そのものだ。
渚は嗤うエノクから視線を外し、讃美歌の歌い手を探して眼を走らす。
歌い手は、直ぐに――そして、"大量に"見つかる。
曰く――。
「幸いなるかな、幸いなるかな!
今この時、真なる神は降り立たん!
幸いなるかな、幸いなるかな!
我ら、悲願の血肉とならん!
幸いなるかな、幸いなるかな!
我らが神、唯一無二たる真理をもたらす神! 世に蔓延る邪悪を討ち取らん!
悲願に心血を捧げた聖人達の誠意に報いるがため――!」
(――まさか!?)
渚は、予想だにしていなかった現象の発現を認識し、眼を見開く。
(呪詛風情が、
渚が驚愕している間に、室内では巨大にして激しい現象が巻き起こる。莫大な体積を持つ、堅固な硬度を誇っていたはずの有機機械が粘土のようにグニョリと歪むと。まるで穴の中に吸い込まれてゆく水流のように、天井近くの1点を目指して急速に
ズルズルズルズルズルッ! 粘水が地を削りながら流れて行くような不気味な音が、大広間に広がる。その音の中に混じって、何やら悶え苦しむ絶叫が聞こえる。
それは、確固たる生命力を有する少女の声。その声音に、渚は聞き覚えがある。
そして、渚が見つめる有機機械が集結する1点に、その声の主の姿がある。
「ニファーナ!」
――そう。有機機械が作り上げた山のような頂の上、混沌とした人体で作り上げられた椅子に全裸で座らされていた少女の体に、禍々しい肉の奔流が集まってゆくのだ。
「今、助け――」
叫ぶなり、『宙地』を使って跳び上がる渚であったが。その矢先に突如、風船の破裂が莫大な規模になったような衝撃が彼女に襲いかかり、一気に数メートルを後退させられる。
この時に身に受けた力の感覚に、渚は更に驚愕を覚える。それは『現女神』の放つ『神霊圧』に極めて近い感覚だ。細胞一つ一つ、そして魂魄の一片に至るまで、押し包んで抑えつけ、支配下に置こうと云う暴力的な威圧感。
「ニファーナッ!」
渚は、『神霊圧』が生み出す烈風に対して全力で足を踏ん張りつつ、大声をあげる。彼女が声をぶつけた先には、スパゲッティが激しく絡みあったような巨大な球体が浮かんでいる。その球体こそ、粘土のように蕩けた有機機械が集結した姿だ。
そしてその内部に、ニファーナは押し込められている。
渚は満身創痍の肉体に鞭打ち、全力で『宙地』を駆使して有機機械の球体へと跳び掛かろうとした一方で。『神霊圧』の烈風によって大広間の壁にまで叩きつけられ、横に転がったエノクは、ようやく
「悲願、達せり…!
我らが神は、再び降りた…!」
エノクの呟きに呼応したかのように、『神霊圧』の烈風がフッと消滅する。
跳び出そうとした渚は危うく勢い余って、あらぬ方向へと飛んでしまいそうになるのを踏ん張り、その場に留まる。
そして、有機機械の球体の方へと眼を向けると――一度、ポカンと口を開いてから、グッと口を一文字に結んで憤り顔を作る。
渚が中空に見たもの。それは――怨嗟を祈りと換え、純白ではなく漆黒の神聖を身にまとった、再臨せし"夢戯の女神"の姿。
◆ ◆ ◆
混沌とした球形の肉塊が、宵闇より尚暗い漆黒一色に染まったかと想うと。凝縮された夜がその帳を一気に天空に広げるかのように、球体は一気に展開して表面積を拡大させる。
そうして現れたのは、チョウ――いや、夜のイメージならばガの方が適切か――の如き巨大な体積。広げた翼は鳥のように1対であったが、アゲハチョウかツバメガを想わせる形状をしている。その翼開長は、優に5メートルを超えるような代物だ。
しかし、大広間の大部分を覆っていた有機機械の体積から鑑みると、体積はかなり縮んだように見える。
これら翼の近傍には、一対の巨大な漆黒の手が浮かんでいる。形而上相上では本体と結合している、体外器官であろう。指先は槍のように鋭く尖り、神と云うよりは悪魔のものを想わせる形状をしている。
女神の姿をチョウやガに見立てたとして、頭上には目映い輝きを放つ輪が浮かんでいる。この輪が放つ輝きは、体色とは真逆の、清らかにさえ見える陽光のような黄色掛かった白色を呈している。眩しさに眼を細めながら輪の本体をみやると、そこには数珠のようにツルリとした球体がズラリと円形に並んでいる様子が見て取れる。
そして、チョウやガの頭部にあたる部分――そこには、漆黒の胴体の中に埋め込まれた、血色の良い皮膚を露わにした少女の裸体がある。手足は完全に漆黒の胴体の中に埋め込まれているものの、不自由さに苛立つような様子は見えない。
むしろ、その顔――ニファーナの表情は、渚はおろか、エノクさえも見たことのない、
ニファーナは、上気して赤身を増した唇を一舐めすると。
「ああ…」
うっとりと、極上の甘味を舌の上に載せた時のような、妖艶な吐息を漏らす。
その有様は、ニファーナを『現女神』の座から引きずり下ろした呪わしき"陰流の女神"ヌゥルの淫靡なる振る舞いに似る。
しかしエノクは、そんな不都合な記憶には蓋をしたかのようで、期待と畏敬で爛々と輝く眼差しでひたすらに新たなニファーナの姿を眺める。
「悲願…成れり…!」
――そう、ニファーナは功労者であるはずのエノクになど、
ただただ、満身創痍ながらも力強く立ち尽くし、ニファーナの事を眉を跳ね上げて睨みつける渚を見下している。
「怖い顔ね」
ニファーナは、唾液がまとわりついているのではないか、というほどネットリとした物言いで渚の表情を評する。
「当たり前じゃわい」
渚は揺らぐことなく、真っ向からニファーナの言葉に応じる。
「頭に来ておることが、2つあるからのう」
「そうなの…一体、何?」
「1つは、こんな事態には絶対にせぬと奮闘したつもりが、まんまとしてやらえてしまったわし自身への不甲斐なさ」じゃ」
「仕方ないじゃない…あなた、一人も信者の居ない邪神だもの」
ニファーナはチロリと舌を出しながら、クスクスと嗤ってみせる。だが、渚は反論することなく、抱く憤りの他方の理由を語る。
「そしてもう1つは、『現女神』の座から落とされ、大きな
「情けない?」
ニファーナはキョトンとして繰り返した直後、クスクスと再び艶然とした嗤い声をあげる。
「情けないと云うのは、お門違いの非難ね。でも確かに、私には落ち度があったわ。
愚かだった――こんな素晴らしい
ヒトの身で居ると、合理性に目を瞑ってしまう奇行をしてしまう事があるわね」
「"ヒトの身で居ると"、じゃと?
なんじゃ、その神にでも成ったかのような口振りは?」
渚が更に眉を跳ね上げて反論すると。ニファーナは万物を見下す傲慢さをたっぷりと表情に乗せて、伏し目がちな視線で渚を睨んで語る。
「"ような"、じゃないわ。"成った"のよ、正真正銘にね。
今の私は、ヒトではない。私は『現女神』、"夢戯"の号を有する女神ニファーナ。
この都市国家プロジェスを統べる存在にして、その民草の信仰を一身に受ける聖神よ」
その言葉に対して渚は、ハンッ、と鼻で笑い飛す。
「呪いの力で出来上がった神じゃとな? しかも、"聖神"じゃなどと、滑稽千万じゃな。
大魔王の間違いではないかのう? その夜に這い回る害虫のような真っ黒な姿には、そっちの名の方が似合いじゃぞ?」
渚の挑発は、目に余る程に剛毅だ。とてもではないが、立つ事すらやっとのように見える満身創痍が口するような言葉ではない。
黒い女神と化したニファーナは、その言葉に対して妖艶な笑みを決して崩しはしない。しかし、その内心はどうであったろうか。もしかしたら、真っ赤になるほど灼熱したヤカンの中身のように煮えくり返っていたかも知れない。
その証拠に、ニファーナは漆黒の大翼をゆっくり羽ばたかせながら、飛行高度を下げると。宙に浮いた1対の手をニファーナ本体の前で交叉させた後、床を撫でるようにして手を広げる。すると撫でた床の上に、炭と云うよりは濃厚なタールのような漆黒の粘体がネバリと広がる。そして粘体は速やかに膨張して体積を増し、大小形状多様な姿を取る。そして光沢が金属表面を撫でるような素早さで色彩が漆黒の表面を走ると、"そいつら"は確固たる存在として具現化する。
"そいつら"は、ニファーナの尖兵だ。彼女の"夢戯"の号は、ゲームに由来する。その定義に相応しく、尖兵の姿はビデオゲームの中に出てくるキャラクターの姿をしている。
屈強にして華麗な鎧を着込んだ英雄がいる。大仰なトンガリ帽子を被り、水晶玉が先端についたロッドを持った魔術師がいる。黒装束に身を包み、ギラリと怪しく輝く小刀を逆手に持った忍者がいる。
キャラクターはヒトだけではない。ねじくれた巨大な角を誇る、牛のような頭とコウモリの翼を持つ悪魔がいる。鋼の体を有して両手には機銃、背中には砲を背負ったロボットがいる。ギラギラと輝く鱗を纏い、天を覆うような翼を有する巨体を誇り、炎の息を吐くドラゴンがいる。
そういったキャラクターの尖兵が、ざっと眺めても優に50を超える軍勢を作り、ニファーナの眼前に勢揃いする。彼らの全身からは、もうもうと巻き上がる程の威圧感と殺気が放たれ、一人ででも巨城を落とさんばかりの気力に満ち
――ただ、そんな強靱な気力にそぐわない要素を、尖兵達は
鎧には、今にも崩れ落ちそうな錆が点在している。着込んだ衣服はボロのように破け、その内側から覗く肉体は黒痣を有していたり、腐敗して骨や内臓が露出しているものもある。ヒトでない存在にしても、ゾンビか廃品を連想させる容姿である。
呪詛と云う禍々しい力によって得た神の力のためか、ニファーナの能力にはネガティブな要素が付きまとっているようだ。
それでもニファーナは、自身の能力を嘆くことなどなく、むしろ誇らしげに笑みを浮かべながら、渚に優越感をぶつける。
「貴女が私の事をどう評しようが、何の痛痒も感じない。
ただただ、貴女への憐れみだけは、どうしようもなく胸の内に浮かんでしまうわ。
貴女は信者が誰一人も居ない、お粗末な唯の一匹の天使しか有さない、消え入りそうな矮神。
対して私は、この
矮神がどんな負け惜しみを
対する渚も、憤りを露わにすることはない。それどころか、ニファーナの言葉を愚直に受け止めたかのようで、照れたような笑みを張り付けて後頭部を掻く。
「いやはや、憐憫とはのう! そんな情を寄せられたのは、生まれて初めてじゃわい。
か弱い存在として慈しまれるというのは…何というか…照れくさいのう」
そんな
「貴女…」
ニファーナが渚に何か語りかけようとするが。それを塗り潰すように、
「じゃがのう!」
と渚は思い切り声を張り上げる。
言葉を次ぐ機会を逸したニファーナは、不本意そうに口を一文字に閉じて、
「やはり、滑稽じゃなぁ!」
渚の張り上げる声と共に、彼女の背後からキンコン、と澄んだ鐘の音が響く。そして、純白の輝きと共に宙空から姿を現したのは――拘束具に身を包んだ、渚の有する唯一の『天使』である。
「憐憫を催す程の矮小な相手に、今から完膚なまでに叩きのめされてしまうのじゃからのう」
そう語る渚の一方で、彼女の背後の天使は自身の体の拘束具をバラリと解き、コートのように広がる。そして渚の体にバサリと覆い被さると、純白の輝きを放ちながら形状を変化。渚を覆う武具となる。
ボロ雑巾のように無惨に破壊された制服は、もう身につけてはいない。代わりに彼女の身を覆うのは、彼女の肉体の輪郭にフィットした、陶磁器のような質感と光沢を持つ純白の装具。手足には、今にも火を吐きそうな激情で牙を剥く獣面の籠手。背中から生えるのは、魚のヒレを想起させる一対の翼。臀部からは骨片をつなぎ合わせたような尾が延び、その先端は鍵を想わせる凹凸のついた円柱だ。
そして、ハチミツ色の頭髪の上に浮かび、
この姿こそ、"解縛の女神"ナギサの神格を具現化したもの――だが。
装具一式は、磨き上がったばかりの玉のように、傷一つなく輝かんばかりの美しさを見せているものの――これらの装具を纏う渚本体は、その有様には余りにも似つかわしくない。
何せ、体の至るところに刻まれた火傷や十字架状の傷がそのままに、痛々しい姿を曝しているのだ。
――これが、ヒトでありながら神性を有する『
天使を装具として纏い、『
だが…渚は満身創痍など気にも止めず、己の神聖なる装具を誇るように胸を張り、巨躯にて宙を占拠するニファーナを自信の輝きで
「おぬしがあくまで"神"だと称するのならば」
渚は冷たい視線でこちらを見下すばかりのニファーナに、挑戦的な響きの言葉を叩きつける。
「2人の相対する『現女神』が出逢ってすることは、唯一つ! 『女神戦争』じゃな!」
ビシッとニファーナの顔を真っ向から指差し、ニヤリと笑ってみせる渚。それを見たニファーナの片眉が一瞬、苛立ちに跳ね上がったが。すぐに穏やかな――いや、見下し切った安堵感を醸し出して眉尻を下ろすと。妖艶に赤い唇を一舐めして、言い返す。
「『女神戦争』…ね。そうね、その通りだわ。それが私たち、『現女神』の本分ですもの。
良いわ、勿論受けるわ。そのつもりで降臨したのですもの。
その酷く醜いズタボロの体で張った虚勢で何処まで私に抗えるか――さぁ、楽しませてね?」
「おぬしが楽しめる瞬間など、刹那もないであろうよ」
渚が更に言い返し、そしてこれまでの中でも一番凄絶な――エサを目の前にした猛獣の如き笑みをニィッと浮かべて、言葉を次ぐ。
「真なる『現女神』であるわしが、偽神のおぬしに格の違いを見せつけるだけに始終するのじゃからな」
ニファーナの顔から、笑みが消える。
磨き込まれた氷のようにのっぺりとした無表情には、嵐の前の静寂が
「滅びろ」
ニファーナの少しだけ赤味を失った唇が、固い号令を発すると。彼女の眼前に展開する50を越える眷属達が、津波のようのドッと音を立てながら、渚を飲み込まんと驀進する。
『女神戦争』が、始まる。
◆ ◆ ◆
ニファーナの眷属は、『天使』に極めて似た性質を持つ。『神霊圧』に酷似した魂魄干渉を引き起こす力場を発しているし、『
それらの強敵が一気に迫り来る様は、英雄と呼ばれる人物でも足に震えを覚えて仕方のない光景であろう。
だが――満身創痍にして戦いの疲労が重くのし掛かっているはずの渚は、彼らに引けを感じることなど全くない。胸を張ったまま、自信の輝きに満ちた視線を相変わらず投じている。
そればかりか――彼女は一瞬、身を低くしたかと思うと。
疾る渚の背後で、魚のヒレの如き翼が大きく開き、そして力強く羽ばたきを起こす。すると渚の体はフワリと浮かび上がり、ハヤブサの如き高速で低空の飛翔を開始。更には、脚部の装甲が形状を変化させ、足裏に推進機構を形成すると、青白い神霊力の励起光をバーナーの如く噴出しながら急加速。青白い稲妻となって、魑魅魍魎の怒濤へと突進する。
怒濤へと突っ込む直前、渚は右手を真っ直ぐ前に突き出す。すると、獣面の籠手が形態を変化、鋭く長く、螺旋を巻く錐状となる。これをギュルリと高速で回転させると、周囲の大気どころか空間すら巻き込み、光景を螺旋状に歪曲させる苛烈な渦を作り出す。
この激しい武器を携えて、ニファーナの眷属へと激突すると――
この唯の一撃で以て、ニファーナの眷属のうち10余りの個体が紙切れのように宙空に舞い上がる。これが単なる爆風ならば、『
…だが、この一撃は正真正銘の『現女神』の一撃だ。
巻き上げられた眷属の体の至るところに、錠前が出現する。それらは勝手にガチャリと音を立てて外れると…同時に、眷属自身の体に直線的な亀裂が無数に走る。そして、外れた錠前がポロリと宙空に落下すると同時に、亀裂に沿って眷属の体が分断される。結果、眷属は細かな立体パズルの破片のように分解され、[
(!!)
渚の盛大な戦果に、ニファーナの表情が思わず歪む。『現女神』との交戦は"陰流"としか経験していないが、その戦いの中でも決して経験したことのない、絶大な破壊力!
しかし、ニファーナは直ぐに表情を見下した笑みに染める。一撃で結構な数の眷属をやられたものの、絶滅したワケではない。消滅を免れた眷属達は、当然ながら戦意を喪失することもなく、果敢に従順に、渚を討ち取ろうと四方八方から襲いかかる。
英雄が手にした聖剣。魔術師が放つ強烈な魔法砲撃。ドラゴンが吐き出す地獄の業火。そのような攻撃が止まない雨んも如く、渚へと降り注ぐ。
対する渚は、派手な一撃を放った直後にも関わらず、ツバメ返しの言葉の似合う敏捷性でクルリと体勢を立て直す。そして、片手の螺旋状の錐、他方の獣面の籠手、そして両脚に鍵状の尾も加えて、眷属達の攻めを
いや、阻むどころか、反撃さえ加えて、着実に数を減少させている!
英雄の剣をスルリとかいくぐり、蹴りを顔面に叩き込む。元より病的な面持ちをしていた英雄の顔面は破砕されて歪んだかと思うと、その中央に錠前が出現。それが勝手に外れると共に、英雄の体は砂のように分解してしまう。
魔術師の魔法砲撃を身を低くしてかわし、そのまま地を蹴って一気に肉薄すると、螺旋の錐で顎を貫く。加護を得ているはずの魔術師の肉体だが、豆腐に
ドラゴンの炎に至っては、渚の体の手前にガラスのように青く透き通った大きな扉が出現し、それが盾の役割をして熱も光も完全に防いでしまう。この扉は渚の『
ドラゴンは強大な存在であることの意地でもあるのか、虚しい努力で扉に火焔を与え続ける。その徒労を横目に渚はドラゴンの脇に接近すると、獣面の籠手をつけた左手で固い拳を握り、強烈な回転を加えながら殴りつける。ドラゴンの肉体は凄絶な螺旋を描いて歪むと、螺旋の中心に錠前が出現。その開封と共に、ドラゴンの巨体は砂と崩れて消えてゆく。
――このような具合に、渚は満身創痍とは思えぬ手際と破壊力を携え、眷属の数を見る見る内に減らしてゆく。
ニファーナの表情は、いよいよ
とは言え、やはり"神の座の再臨"を自称する存在だ、心はたやすく折れない。苦い表情の中に、悪足掻きの嗤いを浮かべて、次なる策を取る。
(急
だったら…!)
ニファーナは宙に浮く一対の手を合わせてから、ゆっくりと開いてゆく。すると、両掌の間に漆黒を呈する粘土状のエネルギー物質が出現。両掌の距離を離すのに比例して体積を増加させるそれは、最終的に直径6メートル程の球となる。
球は不意に、ボトン、と床に落下する。自身の粘性によって上下方向に少し縮んだ後、今度は逆に波立つようにグニョリと伸び上がって体積を更に増す。そのまま渦巻くようにして形状を変化させ――遂に出来上がったのは、少し歪んだ球形の体に一組ずつの手足がついた巨人だ。頭部に当たる部分はないものの、球形の体に所狭し浮かび上がる、ヒトを始めとする種々の生物の頭骨が顔面の代わりを勤める。
ビデオゲームの世界を
渚が残り6体まで眷属を減らしたところへ、巨人はその体積に見合わぬ素速さで一気に接近。握った拳を大きく振り上げ、眷属達が渚を囲んで乱戦しているのにも構わず、霹靂のように振り下ろす。
(むうぅ!)
渚は即座に反応し、尾を振り回して眷属達を一気に吹き飛ばしつつ、地を蹴って後方へ跳び
飛沫は単なる肉体のロスではない。宙に在る内からグニョリと形状を変えて鋭い
(悪くない細工じゃが…!)
渚は地を蹴り翼を打って、即座に飛翔。飛来する漆黒の
渚の飛行速度は、音速に近い。衝撃波が発生しないのは、彼女の『
一瞬にして巨人の懐へ飛び込んだ渚は、螺旋を描く錐と化した右拳を突き出し、巨人を刺し貫こうとするが。転瞬、巨人の体が地に落ちた水滴のように破裂し、大小の漆黒の飛沫へと分離。渚は虚しく宙空を過ぎるだけだ。
(ほう、優秀な回避能力があるのじゃな。
じゃが、守るべき主を差し置いて自分が逃げてしまうのは、いかんわな!)
巨人が体を分離して回避することで、ニファーナ本体を遮るものが無くなった。そこを好機と渚は飛翔を続け、ニファーナへ螺旋錐の右拳を突き立てようと試みる。
対してニファーナは、回避行動を取る素振りを見せない。渚を真っ向から睨みつけているだけだ。二柱の女神による正面切っての肉弾戦を引き受けようと言う意志の現れか――と、思いきや。
ガツンッ! いきなり、渚の右拳が"見えない壁"に激突。渚の飛翔が止まる。
(!?)
渚が眼を丸く見開いていると、ニファーナがしてやったりとニンマリ嗤いを浮かべる。
ビデオゲームの世界は、必ず有限だ。どこまでも広がっているように見える3Dのマップでも、ある地点まで到達するとシステム上の制約を訴える"壁"が現れて移動を制限する。
古い時代のビデオゲームの中には、画面が箱庭として全ての世界であり、プレイヤーはその外側に出ることは出来ない。もしくは、出れたとしても命を一つ失う事になる。
ニファーナが成したのは、このシステムの応用だ。
渚は今、ゲームと同様、広大に見えても見えない"壁"の存在する領域に隔離されたのだ。
ゲームにおけるプレイヤーである渚は、この制約を超えることはできない――はずである。
(
じゃがな、相手が悪かったのう。わしなら、この程度の障害、いくらでもやりようはある!)
渚は右拳の螺旋錐の形状を変化させ、ギザギザとした激しい凹凸を有する、剣にも似た鍵へと成すと。それを用いて、"障害の排除"を行おうと右腕を高く振り上げる――。
しかし、彼女がそれを成し遂げるよりも早く。渚の背後に、漆黒の巨大な腕が伸びてくる。それは、先に飛散した粘体の巨人が変形したものだ。腕や指に種々の動物の頭骨が浮かんでいるのが、その何よりもの証拠である。
(!)
渚に対応する暇も与えず、腕は渚の全身をむんずと掴むと。そのままブン、と大振りしてニファーナから遠ざけつつ、床に強かに叩きつける。
「ガハッ!」
渚は頭から床に叩きつけられ、衝撃が
腕は、渚を叩きつけても尚、満足せずに彼女を掴んで離さない。それどころか、手の形状を変化させて巨大なスライム状になり、渚の全身を覆って床に張り付ける。
そこへ、残存する眷属6体がすかさず飛びかかり、動きを封じられた渚を八つ裂きにせんとする。
ニファーナはニヤリと嗤いを浮かべて、この光景を小気味良く見守っている。
対して、渚は窮地に追い込まれた――はずであった、のだが…!
- To Be Continued -