ソフィア・レインブルー
* 1 *
朝からちらちらと降っていった小雨は、アッという間に土砂降りの雨になった。
魔法町の中でも古い街並みであるそこは、数百メートルから千数百メートルが積層して建ち並ぶ建造物群の中にあって、中途半端な高さの、尖塔のように細い建物が多くあった。
きっちりとしたパンツスーツを纏い、決して小さくないはずの胸を動きやすいようシャツとベストで拘束しているソフィアは、傘を差さずにショートの黒髪を雨に濡らす。
尖塔のように細い建物のひとつ、広場とも言えない建材が剥き出しの屋上に立つ彼女は、自分の足下をじっと見つめていた。
そこにあるのは、どこからか落ちてきたか持ってきたらしい瓦礫と、ゴミの類い。
それから、茶色のコート。
無造作に屋上に落ちている幾筋ものシワのある古風なトレンチコートも、濡れて顔にぴったりと貼りつくソフィアの髪のように、水を吸っていた。
そして血溜まり。
コートの胸元と、その下の屋上には、大きな血溜まりができ、雨ににじんで広がり、流れ出しつつあった。
人ひとりの致死量に充分であろう大量の血。
両手を握り締め、震わせているソフィアは、コートと血溜まりを、じっと見下ろす。
おもむろに、高速で強力な蹴りを繰り出すためのヒールつきの靴を鳴らし、ソフィアは一歩踏み出て腰を屈め、コートに手を伸ばした。
持ち上げたコートは滴るほどに水と血を吸っている。
一番血が濃く残っているのは、胸元に空いている小さな穴の辺り。
銃痕。
そうだと思われる穴が、コートの胸元に空いていた。
「刑部(おさかべ)さん、貴方はいま、どこにいるんだ……」
つぶやきを漏らしたソフィアは、愛おしそうにそのコートを胸に抱いた。
*
「ありがとう、アンナ・フロイド」
「……いいえ」
ティーバッグで淹れた紅茶のカップをアンナが差し出すと、そう言って彼女は口元に笑みを浮かべながら受け取った。
真空管ドール、ソフィア。
私立真空管ドール学院卒業と同時にマスターとする人物を見つけられなかったアンナが、開発メーカーであるイグルーシカのお父様こと開発者に手配してもらい、猶予期間と決められた一年を住むことになった部屋。そこに今日はソフィアが訪ねてきていた。
用事があって来たとしかまだ言っていない彼女に、アンナは困惑の目を向けつつ、自分の椅子に座る。
共有スペースとなっていて、自室はともかく私物を置かないことを取り決めているため、かろうじて片づいているダイニングにはもうひとり、アンナの隣の椅子にアリシア・ストリンガーが着いていた。
濃い黄色に近い、金色のツインテールを左右に流しているアリシアは、どうやらこのソフィアが誰であるのか理解していない様子で、片眉をつり上げて不思議そうな顔を見せている。
「アンナよ、このソフィア型ドールはお前の知り合いか?」
「……あなたねぇ」
口元に手を添え、そんなことを耳元でささやいてくるアリシアに、銀に近い金糸のような髪を掻き上げながら、アンナは思わず大きなため息を吐いていた。
ふたりの正面に座るソフィアも、ショートの黒髪を揺らしながら苦笑いを漏らす。
「貴女、学院在学中にさんっ……ざん! お世話になったでしょう? このソフィアに!!」
「お世話に? ん?」
首を大きく傾げ、まだ思い出せないらしいアリシアに、半眼になったアンナは説明してやる。
「彼女はソフィア・刑部(おさかべ)。魔法町の警察署に勤める刑事よ。主に真空管ドールが関係する犯罪捜査の、ね。学院の生徒だったとき、町でトラブル起こして捕まったり、説教されたりしたの、本当に憶えていないの?」
「おぉ、なるほどっ。あのときの公僕か!」
手を打って納得した顔をしているアリシアを見るアンナは、顔を片手で覆いながら大きなため息を漏らした。
「彼女に何回捕まったと思ってるのよ。片手じゃ済まなかったでしょう?」
「そんなに多かったか?」
「両手にも収まっていなかったな」
「うっ……。その節は本当に申し訳なかったわ」
「まぁ、原因は主にアリシアにあったことは、こちらも理解しているのだがね」
「ワ、ワタシかぁ?」
アンナとソフィアから睨みつけられ、アリシアは大きく身体を引いて視線から逃れようとする。
「貴女が学院の外でバトルを仕掛けてきたりするから、捕まえられたんじゃないのっ。それさえなければ私は少なくとも学院の外では平穏な生活ができたというのに……。大きな問題にならなかったからよかったものの」
「そうでもないぞ、アンナ。一番大事になった万世橋上での喧嘩、憶えているだろう? あれにより万世橋上層が倒壊しかけたからな、さすがにお前たちへの解体命令を出そう、という話まで署内では出たくらいだ。それも万世橋そのものの老朽化が関係していたのと、お前たちの開発者や会社の取りなしがあって、署内の話題だけで済んだがな」
「――本当に申し訳ない。はぁ……。本当にっ、アリシア! 貴女のせいよ!!」
「ワタシのせいか?! アンナだって、ワタシの挑発を買っていたではないかっ!」
「こちらとしては、アンナが喧嘩を買わずに逃げていてくれれば、事件にならずに済んだというのもあるのだがな」
「ほらっ、言われておるではないか」
「うっ……。本当にごめんなさい、ソフィア。でも貴女にそんなこと言われる謂われはないわ、アリシア!」
「と言って、イグルーシカとシルクドール両社にとっては、そうしたお前たちのトラブルも含めて、ドールの性能を証明するプロモーションとして利用していたみたいだがな」
苦笑いを浮かべているソフィアと、頬を膨らませて不満を表しているアンナに見つめられるアリシアは、そっぽを向いて素知らぬ顔をしていた。
「貴女、けっこう人脈はあるのに、どうしてこれだけお世話になったソフィアのことは憶えていないわけ?」
「ふんっ。知り合いや大切な関係の人物を憶えるのは苦でもないが、公僕なんぞ興味がないからな。記憶する価値のない相手のことなど憶えてはいないわっ!」
「貴女ねぇ……」
身体を守るように腕を組んで唇を尖らせるアリシアに、アンナは三度ため息を吐くしかなかった。
「それはまぁ、ともかくとして、ソフィア。今日はどういった用向きで?」
「ここのところはトラブルは起こしていないぞ?」
「――つい先日、宅配貨物強盗事件の捕り物現場にいたそうじゃないか、アリシア? アンナ? それはトラブルを起こしていないと言えるのか?」
口元に笑みを浮かべて見つめてくるソフィアに、今度はアンナも一緒に素知らぬ顔で視線を逸らすしかなかった。
「その話は後回しだ」
「……後でするつもりなのか?」
「ふふんっ。それよりも今日来たのはまずは別件だ。――エンジェルドリーム、という名前を知っているか?」
顔を引き締めたソフィアが出した名称に、アンナは表情を険しくした。
アリシアの方と言えば、雰囲気を読み取って目を細めているが、アンナの顔を窺う彼女はそれが何なのかを理解している様子はなかった。
「エンジェルドリーム……、通称AD。確か五年ほど前に蔓延しそうになったあれでいいのよね?」
「そうだ。そのエンジェルドリームだ」
「聞きたくはない話ね」
顔を顰めて吐き捨てるように言うアンナ。
その様子を見つつも、アリシアは気安い口調で言う。
「なんだか可愛らしそうな名前ではないか」
「名前だけはね。けれどADはつまり、麻薬よ。相当強力な、ね」
眉根に深いシワを寄せたアンナは、うつむき顔にかかってきた髪を指で掻き上げながらアリシアに説明してやる。
「五年ほど前、私や、たぶんアリシアもまだ魔法町に来る前、この町で一時深刻な蔓延を見せつつあった麻薬なのよ。けれどADのシンジケートは当時貴女たち警察が壊滅に追い込んで、撲滅されたはずよね? 世界的にはまだシンジケートの残党がいて、製造を続けているという噂は聞くけれど」
「その通りだ。ADのシンジケートは五年前に我々が摘発した。しかし、海外に残存した構成員が再起を図ったらしく、またぞろ蔓延が始まっている」
眉を顰めたアンナとソフィアは、そう話し合って視線を交わす。
しかしアリシアは、不思議そうな顔をして小首を傾げているだけだった。
「何故そこまで深刻な顔をしている? アンナも、ソフィアも。確かに麻薬というのは人間にとっては恐ろしいものだが、我々真空管ドールには関係のないものだろう? この身体には化学物質による麻薬など通用しないのだからな」
「……本当に、自分の興味にかからない問題は無勉強ね、アリシアは」
「なんだと?!」
「その通りでしょう? まぁでも、ADはこの一〇年ほどで出てきて、ちょうど私たちがロールアウトする前後には沈静化していたものだから、触れていないのも仕方ないかも知れないけれど。でもね、ADは私たち真空管ドールにとっても脅威なのよ」
「ふむ。どういうことなのだ?」
煽られると激しく反発するアリシアであるが、アンナとソフィアの深刻そうな顔を見て、素直に聞く体勢に入り、表情を硬くした。
「人間が反重力や魔法を得ていまの世界を形づくる前、遥か昔からあった化学物質を摂取するタイプの麻薬、いまではレガシードラッグと呼ばれるそれとは、ADは大きく違うのよ」
「どう違うのだ?」
「そうだな。いまならば匂いを使ったスメルドラッグ、音を使ったサウンドドラッグなどがあるのは知っているな? アリシア」
「それは知っているが……。アーティストがつくった安全なものについては娯楽の一種として認められていたと思ったが? 確かにノイズに近いものの中には精神的高揚を引き起こすものがあって、禁止されているものもあるが、確かそれらも我々にはたいした効果はないと聞いたことがあるぞ」
「そうね。真空管ドールにはスメルドラッグもサウンドドラッグもたいした効果はない。製造の段階で動作不良を引き起こす要素になるそれらに対する耐性が組み込まれているし、そもそも構造的に人間ほどの効果が見込めるものではないからね。ADはそれらとも一線を画する、インフォメーションドラッグと呼ばれているものなの」
「情報麻薬? 情報そのものが、麻薬となるものなのか?」
「その通りだ。しかし情報と言っても単純なデータではない。魔法が精神物理学の生み出した光の成果とするなら、インフォメーションドラッグは精神物理学の闇が生み出した落とし子と言えるものだ」
アンナとソフィアが交互に説明する中で、アリシアもまた徐々に深刻な顔となっていく。
「ADは人間に与えた快楽による精神状態を脳内から複製し、それを編集して圧縮したものだ。人間が摂取するレガシードラッグと違い、肉体的な依存性はないが、その強力な快楽作用は、効果の弱いものであってもたった一回で精神的に依存状態になってしまう」
「そして私たち真空管ドールのアナログ人工知能が生み出す精神は、ほぼ人間と遜色のないものよ。快楽状態の精神そのものを流し込むADは、私たち真空管ドールにも効果があるのよ」
「ワタシたち真空管ドールにも効果がある、か……。恐ろしいものが存在するものだな」
そうつぶやくように言ったアリシアは、口元を手で覆い、目を細めた。
アンナとソフィアもまた、眉根にシワを寄せていた。
「実際前回の蔓延の際には、ADの中毒患者となった真空管ドールがマスターの元を離れ、ADを得るために犯罪に手を染める事件が起こっている」
「私たち真空管ドールにとって、命の繋がりにも等しいマスターとの契約を無視させるくらい強力だなんて……」
「あぁ。だからこそADは恐ろしいのだ。強烈な快楽が、我々の存在の基礎であるマスターとの契約という部分すら破壊してしまう。そして快楽というのは同様の強さでは満足がいかなくなるもの。中毒患者となった者は、より強い効果のADを求めるが故に精神のたがが外れてしまう。蔓延すればこの魔法町はとんでもない事件を引き起こす中毒患者の巣窟となってしまうんだ」
「本当に恐ろしい話だな……」
「その通りだ。ただ、ADの製造には精神のコピーという、簡単ではない工程を必要とするため、かなりの規模の施設が必要となる。それに記憶などの情報と違い、精神は完全なコピーがいまもって行えない。現状出回っているのは七次コピー辺りの、かなり効果の弱いものだが、これから先、二次コピーや三次コピーといった、強力な奴が出回るようになれば、魔法町は崩壊の危機に曝されることになる」
「確か精神麻薬にはデモンペインというものもあったわよね? 強烈な苦痛でトリップさせてしまうという奴。前回は確か同時期に出回っていたと思ったけれど、あちらはどうなの?」
「苦痛でトリップするような者もいるものなのか?」
「人間の嗜好というのは様々だからな。そちらの方は別組織のようだから、いまのところ出回っている情報はない」
碧い瞳に困惑の表情を浮かべるアンナは、軽く曲げた人差し指を唇に添えてしばし考え込む。
深刻な話だとは思ったが、ソフィアがわざわざここにしに来る話ではないように思えていた。
「けれどソフィア。確かにADは真空管ドールにも関わる問題だけれど、貴女は真空管ドールが起こした事件、もしくは被害者となった事件専門の部署でしょう? 麻薬捜査は専門ではないのではないの?」
「そこが今回と前回の違う点なんだ。ADは製造の過程で、極度の快楽を人間に与える必要がある。それにより製造の被験者となった人間は確実に廃人になるし、ADの効果の強さは被験者の精神の強さが大きく関係する。しかし今回、製造にはどうやら人間よりも強い精神を持つ、真空管ドールが使われるようになったらしいのだ」
「真空管ドールが使われている、だと?!」
顔を怒りに染め、アリシアは椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がった。
「あぁ。すでにおそらく被験者として掠われたのだろう、真空管ドールが行方不明になる事件が魔法町でも何件か発生している。早めに工場を突き止めて撲滅したいのだが、新たなシンジケートは警察のやり方がわかっているかのように、我々の裏をかいて活動を行っている。真空管ドールを製造に使用したADは、人間を使ったものよりも一段も二段も効能が上がってもいる。我々警察はできるだけ早急な対策が求められているんだ」
そこまで聞いたアンナは、肩を怒らせているアリシアとは逆に、唇に指を添えたまま首を傾げていた。
「けれどソフィア。貴女は今日、その話をしにここに来たの? 捜査に協力でもしろということかしら? もしそうだとしても、麻薬捜査は警察の管轄でしょう。私たちでは捜査権はないのだから、あまり役に立てないと思うわ」
「アンナ! 我々真空管ドールの危機なのだぞ? そんなことを――」
「もちろんいまの話は前振りだ。さすがに捜査にヘタに手を出してもらっては、現場が混乱するばかりだ」
怒りをアンナに向けたアリシアは、ソフィアにじっとりとした視線を向けられ、言葉に窮して椅子に座った。
「今日、ここに来たのはやってもらいたいことがあったからだ。もちろん、麻薬の捜査とは別に、な。これを見てくれ」
「写真?」
「ふむ。冴えない男だな」
ソフィアがジャケットのポケットから取り出したのは、一枚の写真。
そこに写っているのは四〇歳前後の茶色いトレンチコートを着、苦笑いのような表情を浮かべている痩せた男だった。
写真でもわかるほど独特の雰囲気を放っているものの、若干ガラがよくなさそうで、金持ちでも人付き合いが上手そうにも見えない男の姿に、アンナとアリシアは顔を見合わせてからソフィアに目を向ける。
「彼の名前は刑部亮治(おさかべりょうじ)。元わたしの同僚だ」
「刑部……。もしかしてこの人、ソフィア、貴女の?」
「察しが良いな、アンナ。刑部さんはわたしのマスター……、いや、マスターだった人だ」
そう言ったソフィアは、寂しげな笑みを浮かべた。
「元々警察向け真空管ドールの養成学校に講師として来ていた人でな、他の講師と違いあまり真面目な人ではなかったが……、実は彼は誰よりも平和を愛し、熱意を持って仕事をしている刑事だった。わたしは当時、警察や警備、官憲など用に造られた自分に対し、不満と疑問を抱いていてな。だが刑部さんの端々から感じる平和を愛する心、人を守りたいという熱意に影響されて、いまのような自分になれたんだ」
「恩人と言える人なのだな。ソフィアにとって、この刑部という男は」
「あぁ。刑部さんに養成学校を卒業するときに声をかけてもらって、彼をマスターとしたわたしは、彼から警察の精神から捜査のイロハまで、様々なことを学ばせてもらった。彼がいなければわたしはいなかったと言えるくらいの、大恩のある人だ」
写真に手を伸ばし、苦笑いを浮かべている刑部の顔を撫でているソフィアは、懐かしそうに、そして優しい笑みを口元に浮かべている。
「けれど、マスターだった人ってことは、もしかして……」
「その通りだ、アンナ。いや、確定はしていない。五年前、刑部さんはADを流しているシンジケートを捜査する途中で、大量の血痕と銃痕のついたコートを残し、失踪した」
「そうだったのか。マスターを失うとは、さすがにつらいな……」
「いや、刑部さんの遺体は見つからず、警察内では大量の血痕から死亡として扱われることになった。だがわたしは、彼が生きている気がして仕方がなくてな。いまも新たなマスターを捜さず、あの人の名前をそのままにしているのは、どうしても諦めきれないからだ。そしてADが再び蔓延しつつあるいま、彼が戻ってきているような気がして仕方がないんだ……」
悲しげな笑みを浮かべていたソフィアは表情を引き締め、顔を上げた。
「ふたりには刑部さんを捜してもらいたい。報酬は……、たくさんは支払えないが、できるだけ出す」
「人捜しか。ふむ……」
「手伝えるなら手伝いたいところだけれど、人捜しはあまり得意分野とは言えないのよね……」
ソフィアの頼みに、アリシアもアンナも難色を示し表情を曇らせる。
ADの捜査は警察の仕事で、生きているかどうかもわからない人を捜すのは、決して簡単なことではない。報酬を支払うと言っても、無駄足になる可能性が高かった。
「もちろん見つからなかったとしても報酬は支払う。死んでいたとしたら、その確認が取れるだけでも構わない。必要経費は……、ある程度ならば許容しよう」
「条件は別に、良いのだけれど……」
「うむ。手伝いたいのは山々だが、我々向きの仕事ではないな」
なおも拒絶の言葉を返すアンナとアリシアに、それまで悲しげな瞳をしていたソフィアは、冷たい視線をふたりに向けた。
「先日の宅配貨物強盗事件、警察としてはもう少し泳がせた上で、上位組織までを一網打尽にする予定だったのだ。それが実行犯のみを捕まえることになってしまって、少々問題になっていてな」
「へっ、へぇー。そうなのか、大変だな、ソフィアも」
「そうね……。まぁ私たちは、たまたまあの場にいて協力することになっただけで、たいしたことはしていないのだけれど」
「宅配業者の者たちは、お前たちにずいぶん感謝の言葉を述べていたぞ」
「そうかそうか。思いのほかワタシたちが役に立ったということだな。なぁ? アンナ」
「えぇ、良かったわ。偶然、本当に偶然居合わせただけだったけれど、お役に立てて良かったわ。ねぇ? アリシア」
「現場で見つかった破損したZダム。それが掛け金を外してお前たちが踏み込んできた、という話を犯人がしていてな」
「……」
「……」
ソフィアの言葉に、アリシアもアンナも、口を閉じて黙ってしまう。
「まぁさすがに、それはあまり重要な問題ではなく、犯人グループが犯行を繰り返していたこと、彼らが捕まったことが重要で、Zダムは一応押収はされているが、調査はされていない。だがもし、積極的な捜査妨害があったとわかった場合には……」
椅子から立ち上がり、テーブルに手を着いて、まるで容疑者に尋問しているかのように、ソフィアはふたりに顔を近づけていく。
小さくなって震え、互いの両手を重ね合わせるアンナとアリシアは、返す言葉もなく黙るだけだった。
「保留にしてあるZダムの鑑定、鑑識に回してもいいかな?」
「くくっ。や、やめてくれると助かる……」
「えぇ……。負けたわ。でも貴女がこんな強引な方法で迫ってくるというのは、意外だったわ」
「そうか? まぁ、捜査にも柔軟性が必要だということだ。在学中の事件から、割とわたしは柔軟に対応してきたつもりだがな。それに、金銭的にはたいした報酬は出せないが、とりあえず一週間、刑部さんの捜索をやってそれなりの実績を出してくれれば、先日の事件で新しい事実が判明してもどうにかできるよう、取り計らってやるぞ」
「ありがとう、ソフィア刑事。ありがたくて涙が出るわ」
「あぁ、本当に。恩に感じなければならないな」
ニヤニヤと笑っているソフィアに対し、アンナは肩を竦めて答え、アリシアは天井を仰ぎながらため息を漏らしていた。
そうして、アンナとアリシアによる、刑部亮治の捜索が始まった。
* 2 *
「そろそろかしらね」
そうつぶやきながら、片付けを絶賛放置中の自室を出て、金糸のような髪をなびかせながらアンナが共有スペースに踏み込むと、すでにテーブルにはアリシアが座って待っていた。
「まだ届かない?」
「そうだな。おそらくもうすぐだろうが」
一昨日やってきたソフィアからもらった前金で、今日は豪勢に夕食として宅配ピザを頼んでいた。
具材ハーフで二枚、喧嘩にならないようちゃんと六枚切りではなく八枚切りに指定したピザは、三〇分で届くということだったから、あと数分で届くことだろう。
待ち遠しいらしく、アリシアはブラウンの瞳を輝かせながらツインテールを揺らして嬉しそうにしている。
そのアリシアが、表情を引き締めて正面の椅子に座ったアンナに問うてくる。
「成果はどうだ?」
「刑部刑事の捜索の件? こちらはあまり成果はないわね。そういうアリシアの方は?」
「こちらもだ。さすがに五年前のこととなると、ADのことを憶えている者は見つかったし、おそらくその刑事と思われる男が捜査をしていたという話は聞けたが、当日のこととなると失踪現場の周辺も人が入れ替わってしまって、手がかりになりそうな情報は出てこなかった」
「仕方ないわね……」
ソフィアに依頼されて早速調査を始めたが、最初からわかっていた通り、難航していた。
五年前に失踪した人間ひとりを捜索するというのは簡単なことではない。当時は警察も捜して見つからなかったほど、痕跡のなかった人物のことだ、いまさらアンナとアリシアが捜しても、かろうじて当時の情報が少し見つかる程度だった。
「ただね、アリシア。いま広まってるADに関する情報は、色々と集められたわ」
「どんな感じなのだ?」
持っていた幾枚かの紙の束をテーブルに置き、アンナはアリシアにそれを見せる。
AD絡みとは判明していないが、魔法町内で失踪している真空管ドールは、このひと月の間に五人。
稼働中の真空管ドールが突発的な故障や事故、事件によって稼働停止になるなどして失踪することは、そう多くはないと言ってもあり得ないというほどの自体ではない。
しかしこの一ヶ月で五人、それも捜索しても見つかっていないという状況は、過去ではそうないほどに多い人数だった。
「AD自体も、かなり広まっているのだな」
「えぇ。かなり急速にね」
プリントアウトしたそれに関する情報を見て、アリシアは眉を顰めていた。
ADの中毒患者として捕まった人は、今月だけでも一〇人を越え、うち真空管ドールが三人含まれている。新たに魔法町に進出してきたと思われるシンジケートは、ソフィアの言っていた通り巧妙に警察の裏をかいており、売人の尻尾すらまだまともにつかめていない状況だった。
潜在的なAD中毒患者は、おそらくいま捕まった人数の数十倍から百倍以上に上ると予想されている。
「いまのところ得られた情報はその程度ね。組織の実態はほとんど見えてないわね」
「可能ならば、我々の手でシンジケートを――」
「それはダメよ」
ブラウンの瞳に真剣な色を浮かべて言うアリシアの言葉を、アンナは鋭い声で制した。
「しかしアンナ――」
「ダメよ。真空管ドールを狙った犯罪に怒りを覚えるのはわかるけれど、本当に危険なの。わかったことをソフィアに伝えるくらいならともかく、直接手を下すなんて、ヘタをすれば私たちが捕まって中毒患者にされたり、製造のための被験者にされかねないわ」
「……心配してくれるのか?」
「貴女の暴走に巻き込まれるのがイヤなだけよ」
ニヤリと笑ってみせるアリシアに、頬を膨らませたアンナは腕を組んでそっぽを向いた。
「でも恐ろしいな。警察でも尻尾をつかみかねているシンジケートが魔法町に跋扈しているというのは」
「確かにね。それより刑部刑事の行方がまったくつかめないのがね……」
「そんなもの、最初から見つからないだろうことはわかっていたのだ。ソフィアだってさほど期待はしていないだろう。あとは適当にして、わかった範囲で報告書をつくれば良いのではないか?」
「んー」
まだ二日目とはいえ、刑部の消息はわかる気配がない。
そして一週間かけてもおそらくいま以上の情報を得るのが難しいだろうことは、アンナにもわかっていた。
結果が同じならば、サボり宣言ではあるが、アリシアの提案もわからなくはない。無駄なことに力を入れる意味は、さほどないのだから。
「でも、貴女はそれで納得できる? アリシア」
「納得、か……。確かにあまり気分の良いものではない。強引に受けさせられた依頼とは言え、な。AD蔓延に関係している可能性がある、ということも考えるとな」
「そうなのよね」
ふたりして同じような体勢で腕を組み、考え込み始めるアンナとアリシア。
昨日からやっているような地道な調査では、おそらくADのことも、捜索対象である刑部亮治の所在もつかめないだろうことはわかっていた。かといっていまのアンナの情報網でも、アリシアの人脈でも、これ以上の情報を得られるとは思えない。
「ならば少し、正攻法以外の方法を使ってみるか」
「正攻法以外の方法?」
「うむ。以前少し入手しにくい部品を手に入れるために、マリーに頼んで手配してもらったのだが、そこに行けば何かわかるかも知れない」
「……その部品って、もしかして私に戦いを仕掛けるために入手したもの、とか?」
「いや……、えぇっと、それはまぁ、ともかくとしてだな……。空振る可能性もあるが、表ではあまり手に入らない物品や情報を手に入れるには良い場所なのだ。ただちょっと、護衛役がひとりくらい、連れて行きたいところだがな」
「護衛役ね……」
マリーはしばらく帰ってくる予定はなく、アンナもアリシアも性能は高いと言っても、直接的な荒事に慣れたドールというわけでもない。
護衛役ができる人と考えると、アンナには適した知り合いがすぐには思いつけなかった。
そんなとき、呼び鈴とともに声が聞こえた。
『アンナー、アリシアー。ピザ持ってきたよー』
「……ちょうど良いところに、良さそうな人物がやってきたな」
「確かにね。彼女なら腕っ節はかなりだし、サバイバルゲームで鍛えた目と動きがあるし、良いんじゃないかしら?」
玄関モニタに映ったピザ屋の制服を着たブロッサムを見つめながら、アリシアとアンナはそう話し合っていた。
*
そこは薄暗く、晴れているはずなのに陽射しも届いてはいなかった。
魔法町最下層。
この街に生まれた人間は地上を見ることなく死ぬことも少なくなったこの時代にあって、落下防止の柵から身を乗り出して下を見れば地面が見えるほどの低層地域。
陽射しが届かないだけでなく、風は通らず、湿気が多く、上層を支えるため無造作に増設された建物や支柱によりホウキでは飛べないほどに雑多で、見える場所には上層から落下してきた瓦礫やゴミが散乱している。
高速な反重力エレベーターも通っておらず、運が良ければ旧時代のエレベーターが使える程度で、自分の足でたどり着かなければならない場所に、アンナは踏み入れていた。
「本当にこんなところに、貴女の言っていた場所があるの? アリシア」
「もちろんだとも。こんなところだからこそ、生きていける人種や、取引される物品があるというものなのだ」
反らしているのにあまり膨らみを感じない胸を張り、得意げな口調でアリシアは話す。
不安を覚えながらも、アンナは彼女の言葉を信じるしかなかった。
ブロッサムに同行を頼み、休みの日に予定を合わせて訪れた魔法町最下層で、アンナとブロッサムはアリシアの案内で目的の場所を目指していた。
アリシアの言っている通り、こんな場所であるのに人は住んでいるらしく、少ないながらも所々点いている街灯の他にも、明るい光を放っている場所は、どうやら何かの店舗のようだった。
一歩踏み出すごとに湿った感触があり、落下物を避けなければならない細い道を進み、どうにかたどり着いた一軒の店の前。
「邪魔するぞ」
物怖じすることなく暖簾をかき分けて入っていったアリシアの後を、気まずそうな顔を見せているブロッサムと一緒に着いて行く。
その店は、太っていると通れないほどの幅で、天井に着きそうな高さの棚が置かれ、そこには大小の細長いものが差し込まれていた。
「……ビデオテープ?」
奥に進む途中に見た、サイズもバラバラなパッケージやケースに収められたそれは、どうやらビデオテープのようだった。
何世紀も昔に使われていたVHSが主であるようだが、βやDAT、そのほかにも何種類かある様子のテープメディアたちは、市販のパッケージに収められているものも多いが、白地にラベルテープが貼られているものであったり、手書きでタイトルが書かれているものも多かった。
ジャンルも雑多で、映画やドラマを収録したもの、成人向けのもの、ホームビデオらしきものから、どうやら法律的に問題がありそうなもの、ジャンルコードのような文字列が書いてあるだけのものまで、本当に多種多様だった。
「久しぶりだな、オバサン」
「……なんだい、あんたか。ここはあんたみたいな小綺麗な子が来る店じゃないと前にも言っただろう」
客はアンナたちの他にひとりもいない様子で、乾燥し少し肌寒いくらいの店内の奥、少し広くなっている場所にあるカウンターの内側では、胸にボリュームがあるだけでなく、お腹も腕も脚も巨大と言えるサイズの女性がだらしなく椅子に腰掛けていた。
「この前連れていたメイドはいないようだが?」
「うむ。今日は所用でここにはいない。代わりに連れと一緒だ」
「ふんっ。ここは仮装行列を見せにくる場所じゃないんだがね」
店員にあるまじき不遜な態度を見せるオバサンは、アンナの隣に立つブロッサムをじろりと見つめる。
今日のブロッサムは、一応護衛役ということで、黒のパンツスーツの上下に、大きめのサングラスをかけていた。
トレードマークである赤髪のツインテールはそのままで、アンナやアリシアに比べて大柄な彼女は、服装だけなら裏世界の人間だが、雰囲気はチンピラ風のコスプレをした学生だった。
「まぁいいがね。さすがにブロッサム型の腕力で暴れられたら店がメチャクチャになるし、世界に名立たるシルクドールのアリシア・ストリンガーと、技術の最高峰と言われるイグルーシカのアンナ・フロイド相手に大立ち回りする気はないさね」
「貴女、私たちのことを?」
「もちろん知ってるさね。こちとら情報の速さが重要な世界で生きてるからね」
嗄れた声で言うオバサンに、アンナは不審の目を向けた。
外見的にはそこらで家政婦でもしていそうな服装であるのに、彼女の放つ雰囲気は犯罪を犯していても不思議そうではないほどに鋭く黒い。
「ここは何なの? アリシア。情報屋とか、そういうところ? あのお婆さんはいったい何なの?」
「お婆さんとは心外だね。あたしゃそんな年齢じゃあないよ。それにここは情報屋なんかじゃない。レンタル屋さ。ただまぁ、ビデオのレンタルの他に、情報とか物品とか、形あるものないもの、いろんなものを貸したりして商いしてるのさ」
「そうだ、アンナ。おそらく我々よりかは早くに生まれているだろうが、年齢はそう大きく変わらないはずだ」
言われてアンナが見てみると、オバサンの頭の真ん中には真空管が刺さっていた。
彼女は真空管ドール。
どう見ても雰囲気はただのオバサンか、お婆さんにも思えるのに、彼女は自分と同じ真空管ドールであることに衝撃を覚えていた。
「ビックママ型真空管ドール、その名もレンタル屋のオバサン」
「……いや、名前そのままじゃない」
「名前なんてどうでもいいのさ。あんたらみたいなユニークドールならともかく、あたしみたいな量産型のドールは、同型と区別がつく名前さえあればそれで充分さね」
「まぁ、一理あるね」
アンナとアリシアは、固有の名称を持つユニークドール。
対してビックママと、彼女の言葉に同意したブロッサムもまた、魔法町に同型が多くいる量産型のドール。モデル名などにはさほどこだわりもなく、カスタマイズされていなければ外見も同じである彼女たちにとって、マスターが変われば変更になることも多い名前は、自分と同型の他人を区別するためのものという認識が強いのかも知れなかった。
「それにあたしゃあ名前からしてオバサンだが、これでも家政婦とかメイド用ドールだよ」
「メイド……」
その言葉で想像するのは、アリシアの傍にいることが多いマリーとか、店員をしているのをよく見るフローラ型、それに役割や仕事にしているわけではないがコスプレをしているのを見かけるユリア型くらいだった。
家政婦と言えば納得がいくが、ビックママにメイドのイメージは、アンナにははっきり言えば、ない。
「そんなこたぁどうでもいいんだよ。シルクドールのアリシア様が、またもやこんな最下層に何の用事だい? この店で用意できるものは、本来あんたらが使うようなものじゃないよ」
「今日はこの男の情報を借りられないかと思ってきたのだ」
言ってアリシアは、ポケットから写真を取り出し、ビックママに手渡した。
イヤそうな顔をして刑部亮治が写っている写真を手にしたビックママは、それをちらりと見、それからすぐに顔を近づけてじっくりと眺め始めた。
「こいつのこと、お前たちはどれくらい知っているんだい?」
先ほどの尊大な様子とは違い、緊張を孕んだ声で、写真に目を奪われたまま問うてくるビックママ。
「その人は――」
説明しようとしたアンナを、アリシアが厳しい視線と、唇を押さえつけてくる人差し指で制した。
「その男の素性ならこちらから提供できるぞ。それと、よく知る人物を紹介することもできる」
「なるほど……」
ビックママは写真をアリシアに返し、厳しく眉を顰めながら言う。
「こちらからできる限りの情報をあんたたちに貸し出そう。ただし、お代はエンジェルドリームの撲滅だ。いいね?」
そんな提案をしてきたビックママに、アリシアとアンナは顔を見合わせ、頷いていた。
* 3 *
「警察というのはアシダカグモ、不快害虫だと、わたしは刑部さんから教えてもらったよ」
雲ひとつなく晴れ渡った空の下、ひと際高い建物の上から、下にある倉庫地帯の建物を見下ろすソフィアは、独り言のようにそんな言葉を発した。
「捕まえられる犯罪者からは当然の如く嫌われ、守るべき市民からも煙たがれることが多い。感謝の言葉を告げられることもあるが、基本的にはすべての人たちから嫌われる仕事。それが警察だ、と」
いつものパンツスーツに、シワの着いたよれよれの茶色いトレンチコートを羽織るソフィアは、語り続ける。
「だから警察というのはアシダカグモ。人間に害を為すわけではなく、ゴキブリども害虫を捕食して生き、エサになる害虫がいなくなれば去って行く。もちろん我々は人間であり、真空管ドールであるから、ゴキブリどもに唆されたり迎合したり、組織の力を自らの力と誤認して溺れ尊大になってしまう者もいる。しかしどんなに嫌われようとも、アシダカグモの誇りを失うな、とわたしはあの人から教わったんだ」
「良い警察官だったのね、刑部さんという人は」
「あぁ」
「確かに警察というのは近くにいてあまり気分のいい存在ではないな。けれど、いてくれなくては困ることも多い」
「その通りだ。すべての人間が犯罪を犯さないのであれば、我々はほとんど仕事がなくなる。しかしそうならないから、どうしても必要になるのだ」
ソフィアが刑部を失ってなお守ってきた誇り。
それをいま語る彼女に、アンナとアリシアは微笑みを向けていた。
いま彼女たちがいるのは、レンタル屋から提供された情報を元に発見した、エンジェルドリームの製造、複製工場。
見下ろす工場地帯には数多くの人間の捜査員、そして真空管ドールが密かに配置され、突入の合図を待っている。
かなり大規模な捕り物が予想されている現在、犯人グループから察知されない距離には、戦闘に特化した部隊も集結していた。
「さて、我々も自分たちの役目を果たしに行こう」
「えぇ、そうね」
「うむ。わかった」
ソフィアの合図に応え、アンナとアリシアは自分たちの行くべき場所に向かって歩き始めた。
*
「ちっ」
小さく舌打ちした男は、部屋の中でカードゲームに興じる他の男たちに声をかけようと腰を浮かしたところで、目を細めて画面を見直した。
建物の近くにいくつも配置してある監視カメラ。
その映像を映すたくさんのブラウン管モニタが設置されたその部屋は、AD製造工場で働く者たちのたまり場であり、監視室でもあった。
冴えない五〇絡みの男の他にモニタに注目している者はおらず、若い者から壮年の者まで、スキンヘッドだったり髪を逆立てていたりする堅気ではないことがひと目でわかる男たちは、手にしたカードにばかり目を向けている。
「ちょっくらトイレ」
「おう」
タンクトップや柄物のシャツを着る男たちの中で、ひとりねずみ色のスーツを着ている冴えない男は、そう声をかけてシワだらけのスラックスのポケットに手を突っ込みながら席を立った。
扉から出しな、他の男たちがこちらに注目していないことを確認した彼は、静かに扉を閉めて廊下を早足で歩き始める。
いまは組織の幹部クラスも工場内にいて、製造に携わる者たちを監視しに来ていたりするが、朝早いこの時間はまだ貴賓室と通称される区画で眠っていることだろう。
「ありゃあ完全に囲まれちまってるな。遂にここもバレたか」
監視カメラに写ったのは、捜査員と思われる目つきの鋭い男だけじゃなく、黒一色のボディスーツとヘルメット姿の真空管ドール、アンノウンもだった。
見えたのはそのふたりだけだったが、男はすでにこの工場が包囲されていることを悟った。
そしてそのことを瞬時に把握できない他の者たちでは、いまさら逃げ出すことはできない。そう判断した。
廊下の一番奥にある、いくつもの鍵で厳重に封鎖された扉に取りつき、人影も物音もないことを確認してから素早く鍵を開けて部屋の中に滑り込む。
監視室と変わらぬ実用一辺倒の簡素な部屋の中には、大きな机が置かれ、その上にはアタッシェケースがあった。
ケースを開け、指先ほどの色分けされたカートリッジと、それを装着して使うための小さな針のついた注入器が入っているのを確認し、閉じる。
それはエンジェルドリームのファーストコピー。
被験者から直接取り出した精神情報であるそれは、複数人分が現在そこに保管されている。
本来幹部しか入れない部屋である保管室に、男は操作パネルによる鍵の解除方法を調べ、入室する方法を探り当てていた。
一発で人間でも真空管ドールでも廃人にすることができるほど強力なファーストコピーは、だからこそ価値が高い。それこそ全財産を投じ、正常に生きていけなくなることがわかっていてもほしがる人がいるほどに、それは凄まじい快楽を得ることができるものだった。
「さて、突入が始まる前に脱出せにゃあな」
男はつぶやきを漏らして保管室を出て、監視室とは違う方の道を辿り、階段を下りて下層エリアに踏み込んでいく。
すぐ側にあった外に繋がる通用口には目もくれず、さらに細く通りにくい階段を下りて小さな扉を開けたそこは、機械室。
元々何かの製造工場だったこの建物は、稼働していた頃の機材がそのまま放棄されて残っている。
すべて古びて使えなくなっている機械群を避けて奥に進み、壁際までやってきた彼は、そこに置いてあった機械のパネルを蹴り飛ばしてどかした。
現れたのは、人がやっと通れるサイズのメンテナンスハッチ。
本来外から操作するためのスイッチパネルが設置されていたハッチだが、いまはダミーで何の機能もないパネルを置いていただけ。冴えないその男だけが知っている、秘密の脱出口だった。
「まぁ、潮時だな」
幹部からも下っ端の男たちからも信用も信頼もされていなかったが、ADの新たな製造方法に関わる情報を渡したことで、男は充分過ぎる金と待遇を手に入れいていた。
しかし警察もバカではない。
販売方法も製造場所の隠蔽方法も、警察の裏をかくよう色々と手を尽くしてきたが、工場が囲まれてしまったのでは終わりだ。
あとはここで最も価値のあるファーストコピーを持って逃亡に成功すれば、別の組織に入って再起も望める。いまは逃げるのが一番やるべきことだった。
「ん?」
内側から開けられるようにしてあったハッチのロックを解除しようとして、男は疑問の声を口にした。
外に開くはずのハッチが、ビクともしない。
つい先週には開くのを確認していたから、錆びたりしたわけではなく、おそらく外から開けられないように封がされたということ。
「ちっ」
舌打ちした男が急いで振り返り、別の逃走路に向かおうとしたとき、行く手を人影が阻んだ。
「てめぇか、クソッ」
人影を見た男は、そう吐き捨てて悪態を吐いた。
三人の人影。
ソフィアと、アンナとアリシア。
「お久しぶりです、マスター……。いや、刑部さん」
そう男に声をかけたソフィアは、悲しげに笑んだ。
「てめぇ、令状もなしに踏み込んできたのか?」
「まさか。すでに上層での突入は始まっていますよ。わたしがここに踏み込んだのは、突入が始まってからです。ただちょっと、民間人がイタズラ目的で入ってきていたようでしてね、後で叱っておかなければなりません」
肩を竦めながら言ったソフィアは、左右に立つアンナとアリシアに笑みを向けていた。
「真面目でお堅かったお前が、ずいぶんと丸くなったじゃねぇか」
「刑部さんがいなくなってから、わたしにもいろいろあったんですよ。経験は人を丸くする。……ですが、そういうところも含めて、貴方に習ったことですよ」
口元に笑みを浮かべている刑部の言葉に、ソフィアは鋭い視線を返す。
「現実と建前も、言い訳の仕方も、狡猾な犯罪者の意外な逃走経路の押さえ方も、貴方に習ったものだ、刑部さん」
言ったソフィアは、左脇に手を入れ、右手で拳銃を取り出し彼に向けた。
それでも怯まず唇に笑みを浮かべる刑部は、ソフィアに向かって言う。
「俺のことを恨んでいるのか?」
「いいえ、貴方に恨みはありません。ですが、疑問はあります」
引鉄に指をかけ、すぐにでも弾丸を発射できるよう構えたソフィアは、しかし視線をうつむかせながら言葉を続ける。
「確かに貴方は、態度はあまりほめられるような警察官ではなかった。ですが熱意と、仕事への誇りは、誰よりも強く持っていた。だからこそわたしは、貴方のことをいつも尊敬していた。それなのに何故、そんな貴方がエンジェルドリームの製造に関わるようになってしまったんですか?」
視線を上げ、真っ直ぐな目を刑部に向けるソフィア。
それに応えるように視線を返してくる彼は、まるで自分を皮肉るように唇の端をつり上げた。
「人間って奴はな、自分が死にかけたときには必ず後悔するんだよ。こうすれば良かった、こうしていればもっと良い人生が歩めたんじゃないか、ってな。俺はあのとき殺されかけて、三文芝居のヒーローみてぇに格好良い台詞を吐いて死ぬことができなかったんだよ。もっと生きたい、もっと面白いことして、楽して生きたいと思っちまったんだよ。だから命乞いをして、組織の連中に命を救ってもらって、持ってる情報を渡していまの地位を得たんだ」
言いながらアタッシェケースを床に置いた刑部は、それを開いて中のカートリッジと注入器を取り出す。
「エンジェルドリームってやつはすげぇんだよ。人間がほしいって思ってる快楽を、たった一本のカートリッジで体験させてくれるんだ。俺が使ったのは五次コピーだったがよ、もうやめられなくなっちまったさ。人間ってなぁ変わるんだ。いつまでも正義を持って、死ぬまでいい子じゃいられねぇんだ」
銃口を向けられながらも、刑部はファーストコピーのカートリッジを注入器に装着する。
「実現したいことがあってもな、老人に片足突っ込んだ俺じゃあできることはもうたいしてない。身分も立場も捨てて、新しい身体で新しい人生を歩むには、警察官の給料じゃぜんぜん足りやしねぇ。エンジェルドリームはそんな俺みたいな奴に、究極の快楽を与えてくれるものだ。お前だって一回使ってみりゃわかるぜ? ははっ」
言いながら刑部は、後退しつつある生え際に注入器を近づける。
「やめてください、刑部さん」
「はっ。いまさらだろ、ソフィア。聞きたいことはそれだけか?」
「やめてください」
「俺にゃあもうたいした未来はない。直接じゃあなくてもな、俺は中毒患者を増やすのにも、製造のため使った真空管ドールを殺すのにも荷担しちまった。お前に捕まって処刑されて死ぬより、このファーストコピーの究極の快楽に溺れて死ぬさ」
そこまで言って、注入器の後端にあるスイッチをぐっと押し込んだ刑部。
時間が凍りついたような一瞬。
ソフィアも、アンナも、アリシアも動かず、そして刑部もまた、動かなかった。
けれどそんな時間が過ぎ、刑部の顔が驚愕に染まっていった。
「なんでだ?」
来るはずの究極の快楽が注入されてこないことに、刑部は驚きの声を上げる。
それに答えたのは、苦笑いを浮かべるアンナとアリシア。
「ごめんなさい、刑部さん。鍵のかかった部屋にちょっと面白そうなものがあったから、先に入って持って来ちゃったのよ。代わりのものとすり替えてね」
「せっかく持ってきたというのに、ソフィアに全部没収されてしまったがな」
「……てめぇらっ」
睨みつけてくる刑部に、アンナとアリシアは笑みで応えるだけだった。
「殺せ、ソフィア! 俺はもう何人もの人間を、真空管ドールを殺した! 未来もねぇ、死ぬこともできねぇ、生きる価値なんてありゃしない、死に損ないだ! 俺を殺さねぇなら、てめぇの真空管を引っこ抜いて俺がお前を殺してやるっ。だから俺を殺せ!!」
注入器を投げ捨てた刑部は、両手を構えてソフィアに近づき、彼女の首を絞め始めた。
しかしソフィアは抵抗することなく、拳銃を彼に向けることなく、力なく手を下ろしているだけだった。
「イヤです、刑部さん。貴方には、貴方が犯した罪を必ず償ってもらいます」
「ちっ。頑固で真面目なところはいまでも変わらないってか? だったら死んじまえっ!」
強く首を絞めてくる刑部に、ソフィアは哀れみの目を向けていた。
「いまは害虫になってしまった貴方だが、わたしは昔の、不快害虫だった頃の貴方のことを憶えています。あのときの言葉を忘れていません。わたしは、貴方が語ってくれたアシダカグモの誇りを、忘れることはありません」
ソフィアがそこまで言った瞬間、彼女の後ろからアンノウンたちがなだれ込んできた。
黒いヘルメットと黒いボディスーツに身を包む三体のアンノウンたちは、ソフィアの首を絞める刑部を引き剥がし、両腕を抱えて拘束する。
「くそっ! 俺を殺せ!! ソフィア、お前の手で俺を殺してくれ!」
「連れて行け」
涙声になりながら懇願してくる刑部を、ソフィアはアンノウンに命じて外に連れ出させた。
上層からは、そろそろ捕り物が終わったのだろう、一時は騒がしい音が聞こえて来てはいたが、それも沈静化しつつあった。
刑部の声も、アンノウンたちの足音も聞こえなくなり、機械室に残されたのは、ソフィアと、アンナとアリシアの三人。
ソフィアは深くうつむき、肩を震わせていた。
「今日は雨ね」
ぽつりと、アンナがそう言った。
アンナに驚きの目を向け、それからソフィアの方を見たアリシアは、目を細めて言う。
「そうだな。この土砂降りの雨は、しばらく止みそうにはないな」
小さな嗚咽が聞こえなくなるまで、アンナとアリシアはソフィアの傍を離れることはなかった。
* 4 *
「さて、報酬についてだが――」
「待っていたぞっ」
シンジケートの幹部逮捕まで至ったAD工場突入作戦。
刑部が主導して裏をかかれたり陽動をかけられて工場特定まで時間がかかっていたのが、彼の存在を知り、レンタル屋の情報を得てからは早かった。
突入からはまだ一週間足らず。
シンジケートの全貌はまだまだつかめていなかったが、新たなADが魔法町に出回ることはなくなった。
地道な捜査の合間にふたりが同居する部屋にやってきたソフィアの言葉に、アリシアは嬉しそうにブラウンの瞳を輝かせる。
「金額的にはこれだ」
「ん……。入金は確認しているわ」
「たったこれだけ?!」
アンナの口座に完了している振込用紙をテーブルに出したソフィア。
すでにそれを確認しているアンナは涼しい顔でそれを認め、アリシアは大口を開けてがっかりとした表情になる。
「ひ、ひと桁足りていないのではないか?」
「貴女ねぇ……。ソフィアは警察官で、刑事だけど、言うほど高給取りってわけではないのよ。警察自体、リスクに見合わない給与だと指摘がある上に、真空管ドールなんてロボットなのだから給料なんて必要ない、なんて批判があるくらいよ。いったいどれだけの金額を期待していたの?」
「うぅ……。し、しかしだな、公務員なのだからもう少し高いものかと……」
「はははっ、済まないな、アリシア。公僕というのは薄給なんだ」
苦笑いを浮かべているソフィアに対し、アリシアは呆然とした顔で力なく椅子に身体を預けていた。
残念がるにはあまりに衝撃を受けすぎている様子に、アンナは彼女に指摘する。
「まさか貴女、報酬を当て込んで、何か高いものでも買ったりしてないわよね?」
「いっ、いや! ……まだ予約は取り消せるしっ」
「そんなだからお金が貯まらないのよ? 足りなくなっても貸さないわよ」
「うぅ……」
泣きそうな勢いで顔をうつむかせているアリシアに、アンナは盛大なため息を漏らさずにはいられなかった。
「金銭的にはわたしの懐も厳しいのでこれが限界だが、他にお前たちに良いものを持ってきた」
「良いものだと?!」
「こらこらアリシア、ガッつかないの。……その、良いものって?」
悲しげな様子から一転、テーブルに身を乗り出したアリシアをたしなめつつも、アンナもテーブルに腕を着きソフィアに注目する。
ソフィアが懐から取り出したのは、カード。
アリシアとアンナにそれぞれ一枚ずつ、いつの間に撮影していたのか、顔写真まで印刷された免許証のようなカードをテーブルに置いた。
「これはなんなのだ?」
「私設、調査事務所許可証?」
名前とともに書かれた許可証の名前に、アリシアもアンナも大きく首を傾げる。
「これは司法職以外の人間に、限定的ながら捜査権を与えることを許可した証明書だ。いわゆる探偵事務所の許可証だな」
「探偵事務所の許可証だと? なかなか格好良いか? いや、うぅむ……」
「別にこんなもの望んでいなかったのに、どうしてこれが報酬になると言うの?」
「なかなか便利なものだぞ、これは。探偵以外にも便利屋などを行政公認を謳ってやっても問題はないし、民間人からの依頼を受けるのはもちろん、警察や行政から下請けの調査業務を回してやることもできる。本来ならば二、三ヶ月は審査にかかるところを、わたしの権限を最大に使って、過去に遡って許可していたことにしたのだ」
「……ずいぶんと、柔軟な対応をしたのね」
「まぁな」
魔法町で探偵ができる許可証だということは理解したふたりだったが、望んでもいなかったこれが報酬となり得るのかが理解できなかった。
困惑の表情を向け合うアリシアとアンナに、苦笑いを浮かべるソフィアは言う。
「最初に言っただろう? 先の宅配貨物強盗事件、あの警察を介さない捕り物がお前たち主導で行われたらしいと言う話になって、けっこう問題に発展していたんだ」
「もっ、問題になるような悪いことはしていないだろうっ」
「えぇ、市民の協力の範囲でどうにかなるものではないの?」
「その辺は警察組織の問題でもあってな。もっと上位組織の尻尾をつかみたかった者もいる。令状なく司法権も持たないお前たちが真っ先に踏み込んだことを問題視している者もいる」
「あれはたまたま、ワタシたちの荷物があそこにあるとわかったからで……」
「不可抗力みたいなものよ。盗まれた荷物が運び込まれた場所がわかっていたら、訪ねていくことくらいはするでしょう? それでまぁ、あちらが力に訴えてきたから……」
「こちらとしても押さえられないわけじゃない被害拡大に目をつむって、組織を潰すことを優先するのに関する是非はあるんだがな。まぁ何にせよ――」
指摘されて答える言葉から徐々に力が失われていくふたりに、ソフィアは微笑みを見せていた。
「そんなこんなで、お前たちふたりに調査事務所免状が発行されていた、と言うことにすれば丸く収まるという寸法だ」
「なんだか納得いかないけれど、受け入れるしかないのね……」
「うぅ……。そういうことならば仕方がないのか」
「ブロッサムから聞いた話だと、お前たちは浪費で食事にも困る状況だそうじゃないか。バイトもしていないそうだし、その免状を使って仕事をして、上手く軌道に乗れば生活には困らなくなるぞ? わたしもお前たちがやるのに適した仕事があれば、優先的に回してやることができるしな」
「うぅうぅぅぅ……」
「はぁ、自業自得というやつかしらね……」
ソフィアのニッコリとした笑みに、アリシアとアンナはあきらめのため息を漏らしていた。
「それにお前たちは魔法町では微妙な立場だったからな」
「微妙な立場? どういうことかしら」
「本来、わたしたち真空管ドールは個人でも組織でも、マスターに仕えてこその存在だ。一応お前たちは製造会社をマスターにしているわけだが、何かあったとき責任を取るべきマスターがそう簡単に駆けつけることができない場所にいるというのは、ちゃんとしたマスターがいる真空管ドールに比べ、どうしても身元の面で問題が発生しやすい」
「そういうものなのか?」
「うん。その免状は警察が発行するものだからな、身元確認を求められたときはしっかりとした証明となる」
「確かにそういう面では便利ね」
「うむ。だがなぁ……。ん?」
自分の許可証を手に取り、そこに書かれた内容を読んでいたアリシアが、疑問の声を上げた。
「アンナ、ちょっと見てみろ」
「どうしたの? アリシア」
アンナのカードを彼女に無理矢理持たせて見せたアリシアは、気がついたところを指で指し示す。
「なっ、何なの?! これはっ」
「いったいどういうことなんだっ、ソフィア!」
許可証に書かれているのは、許可証名、個人名、有効期限、住所、それから調査事務所の名称など。
調査事務所の名前は「アリシアンナ」となっていた。
「なぜ調査事務所の名前が『アリシアンナ』になっているのだ!」
「えぇ。どうして私がアリシアなんかと探偵をやらなければならないのっ」
「何を言っているのだ? お前たちは」
ふたりから向けられる批判の言葉と視線に、ソフィアは不思議そうな顔をして首を傾げる。
「お前たちが名乗った名前だろう? それは」
「私たちが名乗った?」
「いつの話だ! そんな憶えはないぞっ」
「いや、宅配貨物強盗から得られた証言で、お前たちは彼らに対し『アリシアンナだ』と名乗ったと聞いているぞ」
「え? あっ!」
「そっ、それはそういう意味ではなく、だな……」
「てっきりお前たちがそういう名前でユニットを組んだからそう名乗ったのだと思って、そのままつけたんだが、問題あったか? あ、ちなみに、事務所名は免許更新まで変更は利かないからな」
「あり得ない!」「あり得ない!」
声をハモらせて叫ぶふたりだったが、ソフィアは動じることなくニヤニヤした笑みを浮かべるだけだった。
「それともうひとつ気になるのだけど……」
「どうした?」
「私のもアリシアのも、肩書きが所員になっているけれど、事務所の所長という肩書きもあるものなの?」
「本当だっ。ふんっ、所長になるならば当然ワタシだな!」
「いや、許可証をつくるときにシルクドールとイグルーシカに問い合わせたのだが、所長は両社一致でマリー・サマーフィールドということになった」
「マリーが所長だとぉう?」
「うっ。なんかもう、見透かされたような配置ね……」
脱力したアリシアとアンナは、椅子に座って揃って深く頭を垂れた。
「あとは現金ではないが、これをやろう」
「なんだ? これは」
「食券?」
ソフィアがテーブルの上に取り出したのは、小さく切り取ることができる細長い紙。十一枚綴りの食券だった。
「魔法町の大きな警察署には職員用の食堂があってな、二十四時間いつでも利用できるようになっている。体力勝負の仕事だからなにより量が多いし、味もそこそこだ。そして一番に、安い。そこらの食堂の半額ほどで定食が食べられるぞ。お前たちに渡した許可証を提示すれば、一般人では入れない区画にある食堂にも入っていけるしな」
「量が多くて味もそれなりなら、悪くないわね」
「量はあまりいらないが、安いのは良いな。味はまぁ、許容するしかあるまい」
「お前たちは自分では食事がつくれないと聞いている。最低限食べられるものをつくれるようになっておくべきだと思うが、まぁつくれるようになるまでの期間は、食堂を利用するといいだろう」
「ご配慮ありがとう、ソフィア」
「なかなか気が利くではないか」
それぞれの笑みを向け合う三人。
そのとき、ソフィアは表情を引き締め、椅子を引き、深々とふたりに頭を下げた。
「今回は本当に、ふたりに手伝ってもらって助かった。AD工場発見の情報もそうだが、警察官としてではなく個人的に、わたしはあの人との決別を――、マスターとの関係に区切りをつけることができた。ふたりには言葉では言い表せない感謝をしている。本当にありがとう」
ひと息に言い、頭を下げ続けるソフィア。
誠実で、真面目で、頑固な真空管ドールの刑事を、目を細め碧い瞳に優しい色を浮かべて見つめるアンナは言う。
「いいえ。知らない仲ではない貴女だったのだから、当然のことをしたまでよ」
口元に優しい笑みを浮かべ、新しい一歩を踏み出した真空管ドールに、ブラウンの瞳に優しい色を浮かべるアリシアは言う。
「アンナの言う通りだ。ワタシはソフィアにいろいろと世話をかけているし、恩もある。受けたものを返すのは当然のことだ」
「……あぁ、ありがとう。ふたりに頼んで、本当に良かった」
顔を上げたソフィアは、自分を見つめてくるまだ若いふたりのドールに、ニッコリとした笑みを返していた。
「それで、あの人とは区切りをつけたと言うけれど、いまはその……、どうしてるの?」
「うむ。死亡が確認できなかったからマスターをそのままにしておいたのだろう? 生存は確認されたが、逮捕された人間を警察管がマスターにはしておけないだろう」
「もちろんだ。いまは、こういう名前になっている」
言ってソフィアは、懐から警察手帳を取り出し、広げてふたりに見せた。
書かれている名前は「ソフィア・奥山」
「人間と真空管ドールだから生まれてからの年齢はあちらの方が上だが、まだやっと刑事になったばかりのひよっこなんだがな。新しいマスターを捜していると言ったら、猛烈なアタックを受けて、断り切れなかった」
「なに? そういう関係? 昔の男と決別したと思ったら、すぐに新しい男?」
「なかなかやるではないか。真面目そうな顔をしているのに」
「うっ……。ちっ、違うっ。そうじゃない! あ、あくまで仕事上の関係でのマスターだ!」
顔を真っ赤にして弁解するソフィアを、アンナとアリシアは、しばらくの間弄って遊んでいた。
*
清々しい笑顔を残してソフィアが帰っていった後、アンナとアリシアはテーブルに突っ伏して脱力していた。
いろんなことにひと区切りついて、どっと疲れが来ていた。
並んだ椅子に座り、テーブルに身体を乗り出す形で突っ伏しているふたりは、ひと言も言葉を発せず、寝ているように身動きもしなかった。
けれど――。
「お前のか? アンナ」
「何を言ってるのよ。貴女もでしょう? アリシア」
ほとんど同時に、空腹を伝えるお腹の音が鳴った。
エネルギー不足の状態を本人以外にも認識できるようにするために搭載している機能で、ふたりはお互いがお互いに空腹であることを知った。
「どうする? 何か食事でもつくるか?」
「やめてよ。食材ならまだ残っているけれど、私がつくっても貴女がつくっても、ろくなものはできやしないわ」
「だったらどうする? アンナ。出前を頼むにしても、あまり長く待っていたくはないぞ」
「確かにそうね。ブロッサムを呼ぶのも少し時間がかかるだろうし……。早く美味しいものを食べたい気分だわ、私も」
突っ伏したまま顔を突き合せて話をするふたりは、お互いの顔の間に置かれているものに気がつく。
「どうだ? せっかく食券があるのだし、早速警察署の食堂の実力を見てみるというのは」
「悪くないわね。量も多いし味も悪くないようだし。そろそろブロッサムも確かバイトが終わる時間だったはずだし、手伝ってもらったのだから呼んでみましょう」
そう言い合ったふたりは、それぞれの食券の綴りを手にし、身体を起こして椅子から立ち上がる。
「でも、仕方なく貴女と一緒に住んでいただけなのに、仕事まで一緒にすることになるなんてね」
「それはこっちの台詞だっ。なぜお前と仕事などしなければならん!」
頬を膨らませてアリシアはアンナのことを見上げ、アンナは眉根にシワを寄せてアリシアのことを見下ろす。
「だが依頼が順調に来るようになれば、仕事をするのは面倒だが、いまのように食事に困窮することもなくなるだろうな」
「そう上手くいけばいいけれど。始めたばかりの仕事でそんなに順調に依頼が来るとは思えないわ。営業活動でもしなければならないかも知れないわね」
「営業活動? 何をするのだ?」
「そうね。思いつくところでは、駅前でティッシュやチラシを配ったりかしら? 私たちが調査事務所をやっていることを知ってもらって、連絡先を憶えてもらわないと、依頼なんて来るわけがないのだしね」
「そういう面倒なことはお前に任せた、アンナ」
「やるときは一緒にやるのよ、アリシア」
言い合いながら玄関に向かい、自分用のホウキを手にして外に出た。
「まぁしかし、マリーばかりに仕事してもらうわけにはいかないからな」
「仕送りがあると言っても、本当に最低限だしね。小遣い程度は自分で稼がないと、やりたいこともできないわ」
玄関前で不満そうな視線を向け合うアリシアとアンナは、同時にため息を漏らして向かい合った。
「何にせよ、やるしかないのだな」
「そうね。ふたりでやっていくしかないわ」
「ならば、あまり本意ではないが、よろしく頼む」
「こちらこそ、貴女となんて気分良くないけど、よろしくお願いするわ」
どちらともなく、ふたりは右手を上げた。
唇の片端をつり上げて笑むブラウンの瞳と、目尻を下げて笑む碧い瞳の真空管ドールたち。
「ちゃんと役に立てよ、アンナ」
「あなたこそ、失敗してわたしの邪魔をしないでね、アリシア」
「ふんっ。ワタシを誰だと思っている」
「そういう貴女も、私を誰だと思っているの?」
ハイタッチ。
勢いよく手のひらを重ねて小気味の良い音を立てたふたり。
それから互いのホウキにまたがり、夕闇に沈みつつある魔法町へと舞い上がっていった。
「ソフィア・レインブルー」 了