真空管ドールセレクション「アリシアンナ」   作:きゃら める

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第四話 「メモリー&ダイアリー」

 

 

   メモリー&ダイアリー

 

 

          * 1 *

 

 

 ガラガラという割と大きな音を立て、古い木製の引き戸が開かれた。

「いらっしゃいませ」

 ゆっくりした口調で、おっとりした声が、扉の方に向けてかけられた。

 声をかけたのは、濃い落ち着いた緑地に、控えめな花をあしらった和装を着、太ももにかかるほどに長い髪を軽く後ろで結っている女の子。

 真空管ドール、小菊。

 日本人形のように小さめで、愛らしい顔に笑みを浮かべる彼女は、静かな歩みで新たに入ってきたふたりを出迎えた。

「こんにちは。お邪魔するわね」

「今日も来てやったぞ、小菊!」

「ようこそいらっしゃいました、アンナさん、アリシアさん」

 にっこりとした笑みを浮かべ、小菊は空いているテーブル席へとふたりを誘導する。

 魔法町に隣接する飯田橋。

 古い町並みの中腹に位置する老舗甘味屋『紀ノ國』は、八つあるテーブル席のほとんどが客で埋まり、賑わいを見せていた。

 最初の店ができたのは旧時代どころか、サムライやニンジャが生きていた時代だという老舗で、いまの場所に店を構えるようになってからも二〇〇年近くなるほど。

 新素材で構成された積層する建造物の中にありながら、木がふんだんに使われた店内は、ここだけ違う時代であるかのような錯覚を覚えるほどの落ち着きと、時を経た風格が備わっている。

 厨房に入っていた小菊は小脇にお品書きの冊子を抱え、お盆に急須と湯飲みを乗せて木の椅子に腰を落ち着かせたアンナとアリシアの元を訪れた。

「今日は何にしましょうか?」

「んー。どうしようかしらね」

「悩むところだな」

 厚紙に和紙を貼ったノスタルジックなお品書きをそれぞれに受け取り、中を開いたアンナとアリシアは、小菊の声にうなり声を上げる。

「やはりここは抹茶ババロアは外せないところであるが、クリームあんみつも捨てがたい」

「お雑煮も食べてみたいけれど、寒い時期だけなのね。残念だわ。ちなみにお汁粉とぜんざいというのは、どう違うのかしら?」

「似たようなものではないのか?」

「確かに似ていますが、違いますよ。お汁粉は小豆の粒がないもの、ぜんざいは粒があります。うちではお汁粉には焼いたお餅を、ぜんざいには白玉を入れてあります。地方やお店によっても違うようですが、紀ノ國では代々そうなっています」

「なるほど。こしあんと粒あんの違いみたいなものね」

「つくり方などもそれぞれ違うんですが、わかりやすく言うとそんな感じですね」

 お盆を胸に抱いた小菊は、アンナの発した疑問にゆったりとした口調で解説してくれた。

「やっぱり、抹茶ババロアで」

「うむ。ワタシもそれで。これは何度でも食べたくなる味からな」

「そうなのよね。スイーツと言えばケーキやクッキーって印象だったのに、和風の甘味も侮れないのよね」

「メニューを制覇したくなるな。だが、定番メニューに戻りたくなるのだよな」

「ありがとうございます。抹茶ババロアふたつ、承りました」

 注文を手元の紙に書きつけた小菊は、にっこりとした笑んでから、厨房の方へと下がっていった。

 それから大きな急須を手にまた表に出てきて、他の客の湯飲みに煎茶を注ぎ足していく。

 この場所に流れる時間のように、ゆっくりした動きで店内を巡っていく小菊の姿を目で追いながら、向かい合う席に座るアンナとアリシアは少し身を乗り出し潜めた声で話す。

「とりあえずは大丈夫なようだな」

「そうね。でもあれからまだ三日だから、まだ様子を見なければならないけど」

「そうだな。できれば店主のお婆さんにも、様子を聞きたいところだな」

「えぇ」

 店内をひと回りし終え、厨房に下がっていった小菊のことを見つめながら、アリシアもアンナも、眉根に深いシワを寄せていた。

「できる限りのことはしたけれど、やはり不安ね」

「こちらもだ。全力を尽くしたが、どうなるかは経過を見なければわからんからな」

 他の客には聞こえないほど小さな声でふたりが話し合っている中、奥から小菊が姿を見せた。

 お盆に器をふたつ乗せ、しずしずとした動きでテーブルに近づいてくる彼女。

「お待たせいたしました。抹茶ババロアになります」

「待ってましたっ。んーーーっ、この鮮やかな緑のババロアと、小豆色の粒あん、生クリームの白のコントラストが素晴らしいな!」

「盛られた柿茶色の器も渋くて素敵ね」

 さきほどの潜めた声をやめ、アリシアとアンナは自分の前に置かれた器を見て、嬉しげな声を上げる。

 添えられた木のスプーンで早速食べようとしたとき、目を細めた小菊がふたりに声をかけてきた。

「あの……、お客様として来ているときに済みません」

「どうしたのだ? 小菊」

「なにかしら?」

 少し緊張した面持ちで、しかし目を細めて嬉しそうな笑みを口元に浮かべる小菊は、ふたりに向かって言う。

「アリシアさんとアンナさんには、改めてお礼を言いたかったんです。――わたしが、またこうしてこの紀ノ國でマスターと一緒にお仕事できるのは、おふたりのおかげです」

「いいのよ。せっかく知り合えたのだし、こんなに良いお店を知るきっかけをくれたのだから」

「うむ。いまは店員と客という関係ではあるが、すでに我々と小菊は、友達でもあるのだぞ」

「――ありがとうございます」

 礼の言葉とともに、小菊は長い黒髪を揺らして深々と頭を下げる。

 それから顔を上げた彼女は、とても朗らかで、明るい笑顔を浮かべた。

 

 

            *

 

 

「ありがとうございましたー」

 ゆったりとした口調で店を後にする客を見送った小菊は、一度店から出て左右を見回し、入ってこようとしている人がいないことを確認してから、店先ののれんを取り込んだ。

 食事処が盛況な時間帯である夕方の入りしなが、甘味屋である紀ノ國の閉店時間となる。

 引き戸に鍵をかけ、テーブルをひとつ残らず綺麗に拭いて、すべての椅子をテーブルの上に上げた小菊は、綺麗に店内を箒で掃き清めた。

「小菊、夕食にしましょ」

「はいっ」

 厨房の方から声をかけてきたのは、年老いて腰が曲がりつつある和装のお婆さん。

 小柄と言うより、小さいと言った方がふさわしいシワだらけのお婆さんがつくってくれていた、出汁の香りが漂うサツマイモと卵の雑炊と、炭火で炙ったあじの干物を、小菊は厨房に置かれた作業に使う机に運び、沸かしていたお湯でお茶を淹れ、夕食にする。

 枯れた葉のようなシワシワの手をしながらも、器用な手つきで干物を食べ、芋雑炊を口に運ぶお婆さんが、小菊のマスター。

 紀ノ國がいまのこの場所に店を構えてから七代目の店主であるお婆さんが、小菊のマスターになってからはもう十年近く。

 いまこの店は旧店と呼ばれ、紀ノ國はこことは別にもう少し新しく活気のある場所に新店ができて、そちらが本店となっていた。

 本店では地球の人間だけではなく、宇宙からの来店者向けに、硝酸シロップの甘味や、青白く光る放射性かんてんを使ったメニューなど、幅広い人に向けたものを出している。

 もう年老いたお婆さんは、そうした新しいものに携わるのは難しいと、娘である新店舗の店主に言い、経営の一切を譲って、昔ながらのやり方のまま身体が動く限り旧店の営業をしていくことにした。

 隠居者の道楽に近い店は、新店ができてからはさすがに客足は減ったが、それでもお婆さんと小菊のふたりがつましく生きていくには充分な利益を生んでいる。

「それではここの片付けと明日の仕込み、それから帳簿の整理がありますから、マスターは先に休んでください」

「ありがとうね、小菊。お願いするわ」

 嗄れた声をし、腰が曲がりつつありながらも、にっこりとした優しい笑みを浮かべたお婆さんは、しっかりした足取りで厨房の奥へと下がり、二階にある寝室へと向かっていった。

「さて、と」

 気合いの声を出した小菊は、雑炊を炊いていた鍋やお皿を洗い、午前中からとなる明日の営業に必要な仕込みに、和服の袖をまくり上げて縛ってから、手早くとりかかる。

 すべての準備を終え、ゴミの処理も終えた小菊は一階の電気を消し、自分も二階へと上がった。

 狭い廊下といくつかの障子の扉がある二階は、元々ここが本店だった時代には座敷席として使っていた場所。

 いまはそれほどの客は来ないため、店舗は一階のみとし、二階はお婆さんと小菊の居住スペースに改装してあった。

 奥手の部屋の電灯が消え、お婆さんがすでに静かな寝息を立てていることを音で確認した小菊は、手前の部屋に障子を開けて入った。

 文机と腰までの高さの和箪笥、押し入れがあるだけの四畳半の狭い部屋が、小菊の私室であり、店の事務室だった。

 和箪笥の引き出しのひとつを開け、中に入っている、それだけ新しく厳重な鍵がかけられた金庫を、指を滑らせ生体認証を通し、帳簿を取り出す。

 他にも店にとって大事なものが入っている金庫を閉じてから、小菊は壁沿いに置いてある文机の手前に置いてある座布団に正座した。

 今日の売上金額や概算の利益、購入したもの、支払いしたもの、新たに加わったやるべきことを書きつけ、帳簿に書きつけるべきではない事柄は文机に置いてあるメモに書いて添えておく。

 最後に今月の状況を大まかに計算して、小菊は口元に小さな笑みを浮かべた。

「大丈夫ですね」

 新店が分離して本店になって以降、旧店の客足は減っている。

 しかし十分な利益があるため、時期的な問題や突発的な問題があっても、しばらくは支えられる程度に貯金もある。

 あまり遠い未来のことはわからなかったが、お婆さんが確実に元気であろう五年先なら、大きな事件や事故でもなければやっていける状況にあった。

「けれどこの辺りはどうなってしまうのでしょう……」

 仕事のために髪留めでまとめていた髪を解き、長くしっとりとした髪を軽く指で梳きながら、小菊はつぶやく。

 いま飯田橋のこの界隈は、再開発の予定が立っている。

 この町並みが形成されて以来、長い時間が経った。とくに積層建造物の中でも比較的初期時代のものである紀ノ國が入っている建物は、経年劣化により倒壊の危険が出始めているとされる。

 遠くなく建て直すことは行政でも決まっているが、建造から古いがために、モジュールごとの所有や賃貸関係の複雑な建物は、たくさんいる権利者の問題で具体的な時期や目処はついていない。

 そうしたところに目をつけた裏世界の人々や、悪徳な不動産屋が目つきの悪い人々を歩き回らせて、この界隈の治安も低下しつつあった。

「そのとき、マスターはどうするのでしょう?」

 帳簿を閉じて顔を上げた小菊は、小さくつぶやく。

 身体が動く限り店をやると言い、旧店を始めた小菊のマスター。

 しかし建て直しが決定すれば、店は否応なく閉店に追い込まれる。

 店舗モジュールの売却金と貯金で、新しい店はおそらく出せる。

 けれども小菊には、一度閉店してしまったら、マスターであるお婆さんは新しい店を建てて再出発はしないような気がしていた。

「ふぅ……」

 真空管ドールはマスターの意向に従うしかない。

 小さくため息を吐いて帳簿を手にして立ち上がった小菊の目に、自分の手首が目に入ってきた。

「まだ、残っていますね」

 見えた手首には、それほどはっきりしたものではないが、修復痕がある。

 人間の怪我と違い、縫い合わせたのとは違う、接着したような筋が残っている手首。

 新品の真空管ドールにもあるそれは、時間が経てばゲル状の皮下ナノマシンが完全に癒着して薄くなっていく。

 けれども大きな怪我をして後から修復した小菊のこの痕は、新品のドールとは違い、この先もうっすらとは残っていくはずのもの。

 それは先週のこと。

 小菊は事故に遭い、大きな怪我をした。

 腕や脚が千切れ、身体がバラバラになるほどの大怪我。

 人間ならば確実に死んでいるはずの怪我だが、小菊は真空管ドール。

 運良くちょうど通りがかったアンナとアリシアが、真空管ドールにとって大事な部分をいち早く保護してくれたために、小菊は死なずに済んだ。

 メーカーに送られていたら、大量生産品である小菊は、確実に廃棄を勧められていただろう。

 一時はボディに内蔵されているストレージも使い物にならなくなり、記憶が失われるかも知れなかった。それほどの怪我も、アンナとアリシアの技術と尽力によって、かろうじて直すことができた。

「まだ学院を卒業してほんの少しなのに、アンナさんとアリシアさんは本当に優秀ですね。ふたりと出会えて、本当に良かった……」

 ささやかな胸に手を当て、小菊は安堵の息を漏らす。

 修復された身体には、動きにも機能にも不都合は感じない。

 廃棄されそうなほどの怪我を、アンナとアリシアは完全に修復してくれた。

 昨日から仕事にも復帰して、問題なくお店に出られている。

 最初に駆けつけてくれたのがふたりでなかったら、おそらくいまの小菊はなかった。

 事故の詳細は知らされてない。

 記憶も曖昧で、思い出すこともできない事故のことは、小菊にもわからない。ショックを受けるかも知れないからと教えてもくれず、もしかしたら記憶ストレージにマスクがかけられているのかも知れなかった。

 ――でも、そのことはいい。

 いまもまたこの店で、長年連れ添ったマスターと仕事ができること。

 それが小菊にとっての幸せだった。

「あら?」

 帳簿を箪笥に仕舞った小菊は、半ば無意識のうちに文机に立てられた、一冊の本に手を伸ばしていた。

 膨れるほどに分厚く、革の装丁に鍵がかけられたその本は、日記帳。

 手に取ったそれをしばらく眺めて、ふと思い出したように帯飾りとともにつけておいた小さな鍵を取り、文机の前に座って日記帳を開く。

「そうだ、日記を書かなくてはいけなかったんですね」

 昨日はまだ本調子ではなかったからか、すっかり忘れてしまっていた。

 開いた日記帳には一ページに一週間分、細い罫線で一日ほんの四行ずつ、お婆さんをマスターにした直後からのことがずっと書かれていた。

 バインダー式になっている日記帳にページを足しながらずっと、希に抜けている日もあるが、ほとんど欠かさず小菊は日記を書き続けてきていた。

「つらいことも、悲しいことも、いっぱいあったんですね。でも、楽しいことも、嬉しいこともたくさんあったようですね。……あれ?」

 日記を読み返していた小菊は、不思議な感覚を覚えて首を傾げた。

 何かが、おかしかった。

 書いている内容におかしなところはない。

 真空管ドールである小菊は、ページをめくって書かれた内容を読めば、そのときのことをはっきりと思い出すこともできる。

 すべてメモリーに残っている通りの、メーカーから出荷され、紀ノ國にやってきてからの、途切れることなく続いている記憶の通りの日記だった。

 人間よりも遥かにはっきりした記憶を残すことができる真空管ドールの小菊が日記をつけ始めたのは、お婆さんに勧められたから。

 憶えていることと、記しておくことは、また別のことだと教えてもらったから。

 いまこうして日記を読み返してみても、確かに記憶に残っているその日のことと、日記に記した短い文章とでは、何かが違っている気がしている。

 それが何なのかは、具体的にはわからなかったが。

「ん……。そのことを書いておきましょうか」

 日記帳を開いてからずっと感じている不思議な感覚の正体は、小菊にはわからなかった。

 忘れてしまっていた昨日や、事故の件で空白になっている項目もまたいで、大怪我をしてしまったこと、アンナとアリシアに直してもらったこと、店に復帰できたこと、それからいま感じていることを書きつけた小菊は、日記帳を閉じて鍵をかけた。

 帯を解き、店に出るとき用の着物を脱いで綺麗に釣った小菊は、寝る用の和装に着替えて押し入れから出した布団を敷いた。

 電灯を消して布団の中に入った彼女は、大きなため息を漏らした。

「この不思議な感覚は、事故の影響なのでしょうか?」

 胸にはわだかまりはない。

 身体にもおかしなところはない、

 それなのに、後ろ髪を引かれるような奇妙な感覚に、小菊は布団の中で目を細めていた。

 

 

          * 2 *

 

 

 アリシアが自室を出て共有スペースであるダイニングに顔を見せると、テーブルのところに人影があった。

 アンナの他にもうひとり、頭に真空管を生やした女の子が、熱心に手元の書類を読んでいる。

「なんだ? 客か?」

 言いながらアリシアはキッチンへと入り、冷蔵庫から取りだしたボトルの中身をコップに注いでダイニングへと向かう。

 若干不快そうな顔を向けてくるアンナの正面に座っているのは、小柄な女の子型の真空管ドール。

 ピンク色の短めの髪を頭の左右で縛った、ツーサイドアップにまとめ、スリムなワンピースの上に、よく見るとレースがあしらわれ密かな可愛らしさを演出する白衣を羽織っているその子。

 真空管ドール、フェルミ。

 ちらりとアリシアの方を見るフェルミだが、小さく可愛らしいものの、量産型であろうと思われるその顔にはアンナと同じく不快そうな表情が浮かんでいる。

「失礼よ、アリシア。わざわざ私が頼んで来てもらったのよ」

「アンナが? そのちっこいのは量産型のドールだろう? イグルーシカのアンナ様とあろうお方が、量産型のドールに頼ることがあるのか?」

「アリシア!」

 鋭く叱責するアンナの声に、眉を顰めるアリシアは若干困惑した表情を見せている。

 手元の資料をひと通り読み終えたフェルミは、角を揃えてアンナに返し、それから顔を上げてアリシアを睨みつけた。

「アンナさんから事前に聞いていましたが、失礼な人ですね! わたしにはフェルミって名前があるんですっ」

「フェル美?」

「フェ・ル・ミ、です!!」

 自分がしていることを理解できていないらしいアリシアは顔を顰め、目尻をつり上げるフェルミは鋭い視線を投げかけている。

「フェルミさんは電子部品の老舗、春月電子に長く勤めているベテランドールよ。確か、一〇年くらいでしたっけ?」

「もうそれくらいになりますね。でもベテランだなんて……。店にも、この魔法町にも、もっと凄い人はたくさんいますし」

「私の知り合いの中では一番のベテランよ」

 アリシアと話していたときとは違い、アンナに褒められたフェルミは顔を赤く染めて、頭を掻いて照れてみせる。

「春月電子だと? よくお世話になっている店ではないか! 十二分の一フィギュアのビアンカが今度入荷するという噂は本当か?!」

「来週入ってくる予定ですけど、品薄なので本当に少量ですよ? うちもとある問屋の注文間違えで残っていたものを押さえられただけですし」

「よっ、予約は――」

「ダメです! 本当に少ししか入ってこないんですから、正確な入荷日も秘密なんですっ」

「くぅ……」

「アリシア、それだけ春月電子に通ってるなら、フェルミのことも見てるでしょうに」

「わたしはまぁ、アリシアちゃんのことは見かけてますし、レジで応対したこともあるんですけどね」

「済まん。本当にぜんぜん憶えてない……」

「まったく、貴女って人は……」

 アリシアの言葉にフェルミは苦笑いを漏らし、アンナは肩を竦めていた。

 残念がるアリシアはうつむいていたが、眉根にシワを寄せて顔を上げる。

「しかしアンナ。あの春月電子のベテランドールなのはわかったが、なぜそのフェルミを頼る? この件に関しては解析の能力も、調整の技術も我々の方が上なのではないか?」

 テーブルの上に置かれている、フェルミが先ほどまで読んでいた書類を見、アリシアはそんなことを言う。

 碧い瞳を細めたアンナは小さくため息を吐いた。

「確かに私や貴女には、初期状態で量産型の真空管ドールよりも高い性能や機能があるわ。内蔵されてる知識についてもそうでしょう。体力測定を行えば、フェルミさんに圧勝できると思うし、同じ精密な単純作業でも負けないんじゃないかしら?」

 アリシアのブラウンの瞳を見つめ、アンナは言葉を続ける。

「でもね、アリシア。私も貴女も、そしてフェルミさんも、単純作業をするロボットではなく、真空管ドールなの。アナログAIで稼働する私たちは、経験によって変化もするし、成長もするわ。変化や成長には造られた時点での差もあるでしょうし、真空管ごとの個体差もあるわ。けれど時間とやってきたことで得られる経験は、性能差も凌駕する貴重なものなのよ」

「そういうものか?」

「えぇ。フェルミさんは春月電子に勤め始めてから、一〇〇〇台を超える真空管ドールのメンテナンスや修理に携わってきてるの。どのドールにどんな機械的特性があるのか、破損状況に応じた対応方法など、マニュアル化されていない事柄も無数と言って良いほどあるわ」

「なるほど。経験の差か……」

「そんな、アンナさん。持ち上げすぎですよー」

「そんなことはないわ、フェルミさん。私の持ってる知識のいくつかは、フェルミさんに教えてもらったものだもの」

 恥ずかしがっているフェルミに、アンナはにっこりとした笑みを投げかける。

 腕を上げ、顔の横に拳を軽く当てて考え込むアリシアに、アンナは続けて言う。

「魔法町にはこの辺りの平和を守っているΩドールがいるのは知っている?」

「噂には聞いたことがあるな」

「Ωドールは運動性に優れていて、ドールとしては価格も手ごろで、戦闘用のソフトもデフォルトで組み込んでいることが多いこともあって、警備や戦闘などの荒事があるような仕事がしていることが多い。それこそ、治安の外にいるような人々の間でもよく使われてるくらい。けれど魔法町の平和を守っているΩドールは、長い時間をかけて截拳道を修得し、いまでは勝てる者のいない最強の真空管ドールとさえ言われているわ」

「それは凄まじいな。量産型のΩドールでありながら、経験によってそれだけの力を手に入れることもできるのか……。うぅむ」

 感心したように頷くアリシアに、アンナは小さく笑みを向けていた。

「しかし、どうしても基本性能というのは関わるのだろうな。その最強のΩドールも、そもそも運動性が高かったからこそ、それだけの強さを持つことになったのだろうし」

 左手で右肘を支え、右手を顎に添えるアリシアは、アンナの顔を見つめた後、視線を少し下にずらした。

「なぜ、あそこの部分の基本性能は、アンナに比べて劣っているのだろう」

「設計者の思想なのかも知れませんね。コンパクトでありながら同等の性能、というのはロボットの優位性を示すことができますし」

「しかしなぁ……。うちのマリーもそこの性能は、ヘタをするとアンナ以上だからなぁ」

「マリーさんですか。彼女も確かに凄いですね……。その気になれば後から改造できることもわかっているんですけれど、小さいことはある種のアイデンティティというか、なんというか」

「そうなのだ。せっかく造ってもらった身体を、個人的な感情でいじるというのも気が引けるのだよな」

「えぇ。まったく同意です。アリシアさん」

「うむ。仲良くなれそうだな、フェルミ」

「ちょっ、ちょっと! どこを見ているのよっ」

 アリシアとフェルミのふたりから見つめられていた胸を、アンナは両腕で抱きしめて隠し、身体ごと見られないようにそっぽを向ける。

 小さく舌打ちしたアリシアは、フェルミと向き合い、固い握手を交わしていた。

「それはともかく。小菊さんの件について、意見を聞きたいのですよね、アンナさん」

「えぇ。できる限りのことは私とアリシアで施したけれど、正直どうなるか予測がつかないのよ。貴女の意見が聞きたいわ、フェルミさん」

「確かにまだどうなるか不安だな、小菊については」

 気を取り直してフェルミと向き直ったアンナ。

 彼女の隣でアリシアもまた、難しい表情を見せている。

「処置内容は見せてもらいましたが、本当のところ、わたしでも予測がつきません」

「フェルミさんでも?」

「はい。かなり酷い状態の真空管ドールの修理をやったこともありますが、紀ノ國の小菊さんに施した処置は、私でもここまでのことはやったことがありません」

「フェルミでもそうなのか」

「小菊さんのマスターに請われてやったのでしょうけど、これだけのことをして、以前通りの状態で稼働できたことの方が奇跡に近いと思います。普通ならば廃棄か、メーカーで造り直すレベルの処置ですから」

 くすんだエメラルド色の瞳を細めて、フェルミは黙り込んだ。

 アンナは唇を噛み、アリシアは腕を組んで、同じように沈黙した。

「割と最近の話なのですが、真空管ドールに寿命がある、という説が出ていることをご存じですか?」

 出されていたお茶を飲み干したフェルミは、沈黙を打ち破ってそんなことを言った。

「真空管ドールに寿命? 真空管の経年劣化による寿命か?」

「私たちに使われている真空管は、人間の寿命の何倍かくらいかかるそうだけれど、経年劣化で使えなくなると言う話なら聞いたことがあるけれど」

「それとは違います。――いいえ、それにも関連しているようなんですが、わたしたち真空管ドールも、スパン的には長くても、人間と同じように老化をする、とする説なんです」

「なんだと? 我々が老化する? 聞いたこともないぞ」

「えぇ。私も初耳よ」

 テーブルの上に両手を出して組み、うつむき加減になっているフェルミを、アリシアとアンナは見つめた。

「まだはっきりと観測されているわけではないんですが、真空管ドールの真空管は、経年劣化以外にも変化があるらしいんです。それと、私たちの記憶や経験は、すべて内蔵されたストレージにのみ記録されるものと考えられてきましたが、それだけではないらしいということがわかってきたんです」

 ワンピースの上から自分の胸に手を当て、フェルミはアリシアとアンナに視線を投げかけてきた。

 真空管ドールはその構造上、頭部には量子処理装置や目や耳などのセンサーを内蔵している。処理装置は発熱が大きいため、冷却システムが集中している。

 記憶などを保存するストレージは、熱からの隔離と、安全性の面から、多くのドールが胸部に搭載していた。

「ストレージ以外の記憶領域を我々が持っているということか? 一時記憶ならばメインメモリーにあるが、あくまで一時記憶だからな。それが残っていたと言うことではないのだろう?」

「はい。例えば何らかの理由でマスターが変わるため、ストレージを初期化することはわたしたちにはあり得ることです」

「譲渡手順にもよるけれど、前のマスターの情報を保護するために初期化するというのは、普通の処置ね」

「えぇ。そのときに、記録はすべて消えているにも関わらず、前のマスターのときに獲得した性質が部分的に引き継がれるという現象が確認されています。初期化はされているので思い出すということはありませんが、例えば前のマスターの元で勉強の楽しさに目覚めたドールが、次のマスターでも勉強好きだったり、ということがあるそうなんです。別の例だと、事件や事故により特定の対象に対する恐怖症を、初期化後も保持していたり。獲得形質の継承が、初期化したドールに起こっているということなんです」

「それは、どういう原理で発生するものなのだ?」

 アリシアの問いに、フェルミは表情を曇らせる。

「まだはっきりとはわかっていないんです。そうしたことがあると、はっきりわかり、調査が始まったのも最近なので」

「普通のロボット、真空管ドール以外のデジタルAIのロボットだとそれは起こり得ないわよね?」

「起こり得ませんね。ボディの個体差に由来する性質差はありますが、デジタルAIのロボットの場合、初期化によって完全に獲得形質は消去されます」

「ふぅむ。真空管ドールにだけ起こる現象、か」

「いいえ、それが違うんです」

 考え込み、うつむいていたふたり。

 エメラルド色の瞳で、顔を上げたアリシアと、アンナを見つめたフェルミは言う。

「人間と真空管ドールで考えれば、それはあり得ることなんです」

「人間と、真空管ドールで? どういうことなのだ?」

「なるほど。記憶喪失ね」

「えぇ。人間の場合、真空管ドールと違って記憶を完全に消去すると言うことは簡単ではありません。ですが怪我やストレスなどで記憶を失うことがあります。そのとき、人間は記憶を失う前の性格をかなり残しています。それは経験によって性格が形成される際、記憶を司る海馬だけでなく、思考を司る部分の神経接続にも変化があるからとされています。それに照らして考えてみると、真空管ドールもストレージ以外に、性質が保存される場所があると考えられます」

「ストレージ以外に性質が保存される場所……。それが真空管か」

「真空管だけでなく、ボディも含めて、ですね。真空管ドールの真空管は、経年劣化だけでなく、時間を経ることで真空管に、人間の神経接続が変化するように、わずかな変化があると考えられます。同時にボディにも、同様にわずかな変化があるようです。人間のそれとは同一ではないと考えられていますが、真空管ドールも老成していくと予想されています。そして人間と同じように、真空管ドールも機能的な死だけでなく、性質的な死があるものと想像されています」

「性質的な死、か……。なるほどね」

「本当に起こるものなのかどうか、よくわからんな」

「経験から言わせてもらえば、死があるかどうかはともかく、そうしたものに近いことはあると感じています。仕事柄真空管ドールの初期化には何度も携わっていますが、初期化後も性質を残しているドールは少なからずいます。とくにロールアウトから時間が経過していればしているほど、それは色濃いと思います」

 自分たちですら把握していない真空管ドールの性質の話に、フェルミも、アンナもアリシアも、重々しい表情で見つめ合う。

 エメラルドの瞳と、碧い瞳と、ブラウンの瞳は、それぞれの困惑の色を湛えていた。

「ボディにも、記憶が保存されるものなの?」

「それについては人間の場合も含め、諸説あります。人間でも大きく欠損した身体を修復した場合は、記憶は失われませんがしばらくは違和感があります。それは使い慣れていない部品が引き起こす一種の不具合で、あくまで記憶ではないとする場合もあります。それを含めて獲得形質と考えることも可能ですしね」

「ちょっと待って……。その説が本当だとしたら、もしかして?!」

「はい。そうなんです」

 何かに気がついて椅子から立ち上がったアンナ。

 驚愕に染まる彼女の顔を、フェルミは静かに見つめる。

 顎に手を添えて考え込んでいたアリシアも、同じことに気づいたらしく、顔が強ばっていく。

「――小菊は、どうなってしまうのだ?」

「わかりません。小菊さんに施した処置は、わたしも経験がないんです。ですが選択を迫られることになると思います」

「選択? どういうこと? フェルミさん」

「わたしの経験からの想像に過ぎません。小菊さんがこのまま普通に生活していける可能性もあります。でもたぶん、小菊さんも、彼女のマスターも、そしてアンナさんやアリシアちゃんも、選ばなければならない時が来ると、そんな予感がしているんです」

 眉根に深いシワを寄せているフェルミの言葉が、部屋の中に重々しく響いた。

「覚悟は、しておいてください」

 エメラルドの瞳は、水底のような深い色を宿していた。

 

 

            *

 

 

 ――これは、何なのでしょう?

 できあがった甘味をお盆に乗せて店内を歩きながら、小菊は心の中で小首を傾げていた。

 今日もいつも通りに始まった店の営業。

 いつも通りに仕事をして、いつも通りに接客をして、いつも通りに片付けをする。

 もう何年もそうしているように、営業終了後に厨房でマスターのお婆さんと向かい合い、夕食を摂る。

 なにも変わらない、ずっと続いてきた静かで、楽しく、穏やかな一日だった。

 それなのに小菊は、箸を右手に持ちながら首を傾げてしまっていた。

「やっぱり、建て直しは遠くなさそうだねぇ……」

 小さなお茶碗をテーブルに置き、お婆さんはため息とともに諦めきったような言葉を吐き出した。

 今日の昼間、お婆さんは小菊に店を任せて、地域の会合に出席していた。

 議題は、おそらくこの建物の建て直しについて。

 紀ノ國がある建物は、地上から屋根までの高さは約八〇〇メートル。町並みに沿って建てられたために厚みはさほどなく、一棟の全長は五〇〇メートルほど。隣接するいくつかの建物と橋で連結されている。

 ここ一〇〇年ほどの間に建てられた建物の多くは一〇〇〇メートルを超えているため、それに比べると低めだった。

 比較的低いために、増設に次ぐ増設で一〇〇〇メートルを超えている魔法町の古い市街とは違い、同じくらいの時代に建っていても低層の治安は悪くない。

 しかしながら道幅が狭かったこともあり、充分な補強もできなかったため、劣化とともに限界に達しつつあるという話を、小菊は聞いていた。

「やっぱり、難しそうですか」

「えぇ。新しく、基礎部分に亀裂が見つかったそうよ。補強が入っているところだからすぐに危険ということはないそうだけれど、取り壊しは決定になったのよ。でも、うちもそうだけれど、古い地主が多い地域だからねぇ、なかなか話が進まないわ。それでもあまり柄の良くない人たちが歩き回ってるから、早めに店を畳んじゃったところも出てきて、街自体が閑散としてきそうなの」

「そんな……」

 小菊も買い出しなどで街を歩いているとき、何度も目つきの悪い人や、身体をいかつい機械にしている、一般人とは思えない人を見かけていた。

 無理矢理でも土地を買い取って、建て直しの前や後に大きな利益を得ようとしている地上げ屋の人々だ。

 ふたりとも夕食を食べ終えて、片付けをしなければと小菊は思っていたが、この場に流れる沈黙に動けなくなる。

 深くうつむいているお婆さんは、寂しげな表情を浮かべている。

 小菊が来てからでも一〇年近く、それ以前の、若い頃から店で働いているお婆さんは、生まれて間もない頃から紀ノ國にいたのだ、その寂しさは小菊には想像できないものだろうと思った。

 ――わたしはこの店がなくなったら、どんな仕事をしましょう?

 箸を置き、肩を震わせているお婆さんを見ながら、小菊はそんなことを考えていた。

「え?」

 思わず声が出る。

 自分で驚いていた。

 紀ノ國がなくなれば、本店には行く気がないお婆さんは、どこか静かなところで本格的な隠居生活を始めるだろう。

 娘が現役で働いているし、これまでの紀ノ國で働いて貯めてきた財産があるから、隠居生活を始めたとしても不都合はとくにないはず。いまのところ自分で身の回りのことを全部できるお婆さんは、店がなくなったらおそらく小菊を手放すと思われた。

 そうなったら小菊は、新しいマスターを探さなくてはならない。

 理屈の上ではそれだけのことだ。

 けれど小菊は、そんなことを考えている自分自身に、驚愕していた。

「どうかしたのかい? 小菊」

「いっ、いえ……。何でもありません。ここは片付けますから、先に休んでください」

「いつもありがとうね、小菊」

「はい……」

 いつもよりも元気のない足取りで、お婆さんが奥へと下がり、階段を上がっていく音が聞こえてきた。

 食器をまとめて流しに置き、洗い始めながら、小菊はまだ表情が強ばるのを止められないでいた。

「わたしは、どうしてそんなことを考えているのでしょう?」

 手はいつも通りに動かしながら、小菊はそんなことをつぶやく。

 マスターが真空管ドールを手放すのならば、次のマスターを見つけて新しい仕事を始める。

 それは当然のこと。

 しかしながら小菊は、メーカーから出荷されてからずっと、決して短くない時間、この店で仕事をしてきた。

 楽しいことがたくさんあった。嬉しいこともいろいろあった。

 苦しかったりつらかったりしても頑張ってきた。

 いまのマスターのことも、大好きだった。

 そうだと、記憶していたし、日記にもそう書いていた。

 それなのにいまの小菊は、まるでメーカーから出荷された直後のように、この店に愛着が生まれる前かのように、乾いた思考で次のことを考えていた。

 仕事が身体に染みついているのは、いまも、そして修理が完了して数日店に出ていても感じられた。

 この店とマスターのことが大好きなのは、記憶にもあったし、日記にも書いてあった。

 理解できているのに、思考がそれに追いついてきていない。

「いったいわたしは、どうなってしまったのでしょう?」

 怖かった。

 ただただ、怖かった。

 震える手で水切りに洗い終えた食器をすべて並べ、小菊は両腕で自分の身体を抱きしめる。

 身体は震えている。

 怖いという状況だというのは理解している。

 それなのにいま小菊は、そんな自分のことを冷静に見つめていた。

 わけがわからなくて、以前の自分だったら泣き出してしまいそうだと考えているのに、いまの小菊は、涙ひと粒零すことができないでいた。

 

 

          * 3 *

 

 

 紀ノ國の入っている建物の取り壊しは、早くて二年後と決められた。

 すぐさま倒壊するほどに劣化しているわけではなく、居住者との調整が必要ということで、町内会での決定が出た。

 ただ、最低二年で、最長については行政の方から五年後と通達がされている。

 五年以上になると倒壊の危険度が高くなりすぎるため、半強制的に行政が乗り出し、補償はあるものの建物の取り壊しは開始する、ということだった。

 ――でも、最低二年、最長五年ほどは、この仕事を続けられますね。

 心の中で安堵の息を漏らしている小菊は、食事を終えたお客さんの会計を終え、にっこりした笑みで送り出した。

 今後のことについては本店の娘さんと話すとお婆さんも言っていたし、これまでとは少し違う流れができることは否めないが、しばらくはいまの生活が続けられる。

 いろいろと思うところはある。

 それをしばらくは保留にできることに、小菊は安堵を覚えていた。

 けれど――。

「まだこの店は営業してんのかぁーーーっ!!」

 だみ声とともに乱暴に開かれた入り口の引き戸。

 入ってきたのは、柄物のスーツにサングラスをかけ、ポケットに手を突っ込んだ角刈りの男を筆頭に、両腕を機械化している男と、妙にほっそりしている黒いスーツの男の三人。

 ひと目で堅気の人間じゃないと小菊は理解した。

 ――地上げ屋の人たち。

 店内にいるのは大声に硬直している客は八人。それと厨房から顔を出したお婆さん。

「なっ、なにしに来たんですか!」

「うっせぇババア! ここでの営業はやめろって言っただろうが!!」

 一番前に出ていた小菊の隣に立ち、泣きそうに顔を歪めながら叫び返すお婆さんに、それ以上の大声をぶつけてくる角刈りの男。

「マスター、お客様を裏から。それと、いつもならそろそろアンナさんとアリシアさんが来られる時間なので、近くにいたら連れてきてください」

 お婆さんの耳元でささやき、店内に入ってこようとする男たちの真正面に立つ。

 ――怖い?

 両腕を広げて奥に行こうとする男たちに立ち塞がる小菊は、自分の身体が震えていることに気がついた。

 サングラスを取って顔を近づけてくる角刈りのクサい息に、小菊は彼に以前も会ったことがあることを思い出した。

 この辺りにうろついている地上げ屋。

 何度か店に来て、出した注文に文句をつけて椅子を投げたりして荒らして帰っていったことがある。

 ――この人たちは、怖い人。

 そう、記憶が叫んでいる。

 身体が恐れて震えている。

 それなのに小菊は、ちらりと後ろを見て客とお婆さんが厨房の奥にある裏口から外に出て行ったことを確認するくらいには、余裕があった。

 ――やっぱり何か、ヘンです。

 男たちに殴られたことがあった。

 店を荒らすのを止めようとしたら、踏みつけられたこともあった。

 戦うのに適していない小菊は、腕力はあまり強くない。力を振るってくる男たちに、力で対応することはできない。

 やられた記憶が身体を震わせている。恐怖を呼び起こしている。

 なのに小菊の思考は、怖いという感情が横滑りしている感覚があった。

 身体と記憶は恐れているのに、感情は恐怖を感じていなかった。

「てめぇ、相変わらず生意気だな!」

 言いながら着物の襟をつかんでくる角刈り。

 震えながら、過去を恐がりながらも、気持ちがそれについていかない小菊は、睨みつけてくる男の視線を、しっかりと睨み返していた。

「しかし、なんでてめぇがまだここにいるんだっ」

「え? それはどういう――」

「この前みてぇに、完膚なきまで叩き壊してやろうか!!」

「――あ」

 その言葉で、小菊は何かを悟った。

 記憶には、ない。

 けれど大きく震えた身体が覚えている。

 ――わたしは、事故じゃなく、この人たちに壊されたんだ。

 小菊はいまはっきりと、それを理解した。

 ――そうか……。そういうことだったんだ。

 怖くはなかった。

 感情が着いてきていなかった。

 つかんでいた襟を乱暴に突き放した角刈りに代わり、両腕を機械化している男が前に出てくる。

「今度は修理できないくらい、粉々にしてやるよ」

 倒れた小菊の首を鷲づかみにした機械の男が、右腕を振り上げる。

 ――わたしは、わたしは、違ったんだ……。

 ストレージに残っているメモリーと、身体が覚えている記憶と、そして真空管により発生する感情のバランスが取れなくなった小菊は、気が遠くなっていくのを感じていた。

 ――また、壊される。……また?

「あんたたち、何をしているの?!」

「小菊、無事か?!」

 どこか遠く、けれど扉のところから聞こえてくる、アンナとアリシアの声。

 聞き慣れたその声を耳にした小菊は、安心を覚えて遠退いていく意識を手放した。

 

 

            *

 

 

「……ここは?」

 目覚めた小菊の目に飛び込んできた天井は、見慣れた二階の自分の部屋だった。

 意識を失っている間に着替えさせたのだろう、寝る用の和装を着、敷かれていた布団に横たわっていることに気がつき、小菊は身体を起こす。

 お婆さんや客は無事だったのか、駆けつけてきてくれたらしいアンナとアリシアはどうなったのか、店はどうなっているのか。

 メモリーからロードされたいくつもの物事が、頭部に内蔵された電子頭脳を駆け巡るが、真空管までは届かない。

 心配であることは確かだ。

 けれど、友達や、ましてやマスターを心配するのとは違って、報道番組を通して知った事件の被害者を心配しているような、そんな間遠さがあった。

「はぁ……」

 小さくため息を吐いた小菊は、布団から抜け出し、文机に立ててある日記を手に取る。

 机に置いてあった帯飾りにつけた鍵を使って開き、正座をして最初のページから読み始める。

 短く、簡潔で、ささやかなことしか書いていない日記。

 それなのにこの日記には愛が溢れているのを感じる。

「本当に、本当にマスターとこの店を愛していたんですね」

 直接的な言葉ではひと言も書いていないのに、書いていない言葉から伝わってくる、マスターへの愛。そして店と仕事への想い。

 それから、マスターから小菊への愛。

 それはまるで物語を読んでいるようで、身体も記憶も震えてるのに、ストレージに記憶された感情を伴わないメモリーより、よほど小菊の心を震わせていた。

「やっぱり、そういうことなんですね……」

 日記を読んでいるうちに、小菊ははっきりと理解する。

 自分に何があったのかを。

 正確には、自分でなかった自分に、何があったのかを。

「目が覚めたのだな、小菊?」

「大丈夫?」

「小菊や、まだ寝ていなさいな」

 口々に言い、部屋に入ってきたアリシアと、アンナと、お婆さん。

 彼らの方を振り向いた小菊は、笑んだ。

 嬉しくて。

 それから、悲しくて。

「お願いがあります」

 小菊を寝かせようと伸びてきた手が肩に触れるよりも先に、身体ごと振り向いた彼女は、表情を引き締めて言った。

「お願い?」

「はい」

「わかった、聞こう」

「お願いします」

「こ、小菊?」

 突然の言葉にも驚いた様子もないアンナと、聞いてくれるというアリシアは、正座をし布団を挟んで小菊と向かい合う。

 マスターのお婆さんは困惑した表情を見せつつも、三人が座ったことで、一緒に座って小菊の顔を見つめた。

「わたしのストレージを、初期化してください」

 はっきりとそう言って、小菊はにっこりと笑む。

「ストレージを初期化って……。小菊、何を言っているんだい!」

 身を乗り出して来、膝の上で組んだ小菊の両手に手を重ねてくるお婆さん。

 泣きそうに顔を歪めているお婆さんの顔を見ても、小菊が笑みを崩すことはなかった。

「わたしが壊れてしまったのは、事故などではなく、さっきの地上げ屋さんたちに壊されたから。違いますか?」

「そっ、それは……」

「そのとき、真空管も割られてしまった。そうですね?」

 大きく目を見開き、お婆さんはわなわなと震える。

 けれども小菊の問いに、お婆さんが引き結んだ唇を緩めることはなかった。

 そんなお婆さんを悲しげに見つめる小菊は、答えを促すことなく話し始める。

「ここのところ、おかしかったんです。マスターのことも、お客さんも、アンナさんやアリシアさんのことも憶えていますし、仕事の手際が落ちることもありませんでした。でも修理されて戻ってきてから、違和感があったんです」

「どんな違和感なのかしら?」

「マスターと過ごしたり、仕事をしているときに、記憶の中ではいつも感じていた、楽しいとか、嬉しいとか、幸せだとか、そんな感情が湧いてこなかったんです。修理してもらう前であれば、口に出さなくても常々、そう感じられていたのに」

「なるほど。これまでと物事の感じ方が違ってきてしまっているのだな」

「決定的だったのはさっきの、地上げ屋さんに会ったときです」

 年老い、シワだらけになっている唇を噛みながら見つめてくるお婆さんを、小菊は優しい色を瞳に浮かべて見つめる。

「記憶では、怖い人だと見た瞬間に思い出せました。酷いことをされたのだと、身体が震えてしまいました。――それなのにわたしの真空管は、少しも彼らに対し感情を抱くとができなかったんです」

「小菊……」

「記憶と、身体と、心がちぐはぐになってしまったのは、わたしの真空管が交換されたから。そういう結論に達しました」

 じっと小菊を見つめるお婆さんは、唇を震わせていた。

 横に並び、右と左の肩に手を乗せてきてくれたアンナとアリシアを見、お婆さんはふたりの頷きにひと滴の涙を零す。

 そして小菊の手を自分の手で包み込んだまま、深くうつむいて話し始めた。

「そうよ、小菊。貴女はあの人たちに身体がバラバラになるくらいに壊されて、そして……、真空管を割られてしまったの。お店を閉めた後の会合の日で、店に帰ってきたときには遅かった……」

 崩れ落ちそうになる身体をアンナとアリシアに支えてもらうお婆さんは、しゃくり上げてそれ以上話すことができなかった。

「それでたまたま、早仕舞いを知らずに店に来たワタシとアンナが、店主にお前を直してほしいと頼まれたんだ」

「そうだったんですね」

「うむ……。どうしようもないパーツもあったが、できうる限り破損したパーツも修理して使っているから、それほど違和感はなかったと思うが」

「はい。身体自体の違和感は、いまから考えると不思議なくらいありませんでした。真空管の方は?」

「本来ならば他のメーカーの真空管なんて手に入るものではないのだけれどね。私のお父様が貴女の開発者と個人的に面識があって、手を回してもらったの。いくつか選ぶことができた中から、以前の貴女に一番近い固体のものを選んで、さらに調整まで加えてからとりつけたのだけどね……」

「ありがとうございます。けれどやはり、新しい真空管を取り付けたわたしは、以前のわたしとは違う小菊になってしまったんです」

 言って小菊は、お婆さんの手を握り返す。

 顔を上げ、涙に濡れた頬を見つめて、優しい笑みを浮かべた。

「小菊……」

「わたしは記憶も、身体も、以前のままの小菊です。けれどわたしは真空管ドールです。真空管を取り替えてしまったら、たとえ同型のものであっても、別人になってしまうんです」

「別人だなんてっ」

「以前の……、わたしではないわたしは、言うなればお姉さんです。妹であるわたしは、たとえお姉さんの記憶と身体を持ち、同型の真空管ドールであっても、別の人格を持った、別人なんです」

「そんな……、そんなっ」

「貴女と一〇年間一緒に過ごした小菊・紀ノ國は、――死にました」

 そう言った小菊は、目を細め、清々しい笑みを浮かべた。

 お婆さんは引き結んだ唇を震わせ、アンナは目をつむって片手で顔を覆い、アリシアは唇を強く噛んで目を逸らした。

「貴女と一緒に過ごしてきていない妹のわたしには、姉の記憶は重いんです。わたしは新しい自分に、本当の自分になりたいんです」

「だったらもう、貴女とは一緒に過ごすことはできないの? 小菊っ。貴女がいなくなったら、わたしは……」

「大丈夫ですよ、マスター」

 お婆さんの手を握ったまま顔の前まで持ち上げた小菊は、にっこりと笑った。

「初期化が終わって、目が覚めたら、一番に声をかけてください。それから、これを読むように言ってください」

 片手を伸ばして、小菊は文机から日記を取り、お婆さんの手に持たせる。

「これは姉が遺した、この店への、そしてマスターへの想いです。記憶ほどの情報量はありません。けれど書いていないたくさんの言葉が、記憶よりも暖かく、姉が抱いていた愛を教えてくれます。だから、目覚めた新しいわたしに、読ませてください」

「小菊……」

「それから、もう一度わたしのマスターになっていただけませんか? 最初は姉ほど充分に働けないと思います。でもわたしは、この姉の身体と、想いを抱いて、貴女と一緒に働きたいんです」

「わかった……。わかったわ、小菊!」

 涙を流すお婆さんは、小菊を引き寄せ、抱きしめた。

 小菊もお婆さんの身体に手を回し、抱きしめる。

「これからも、よろしくお願いします、マスター」

「うんっ、うん……。よろしくね、小菊」

 シワだらけの手で、決して強くない力で抱きしめてくるお婆さんのことが、小菊は愛おしくて、嬉しかった。

 泣きそうな顔になって見つめてきているアンナとアリシアに微笑み、頷いて見せると、ふたりも頷いてくれた。

 そんなみんなに、小菊は朗らかに笑む。

 

 

          * 4 *

 

 

「それじゃあお願いね、フェルミ」

「つつがなく頼んだぞ」

「はい、わかりました。アンナさん、アリシアちゃん」

 にっこりとした笑みとともに返されたフェルミからの言葉に、アンナとアリシアも笑みを浮かべて頷きを返した。

 春月電子の上階、研究所となっているスペースの一角、メンテナンススペース。

 研究中と思われる機械や様々な機材が雑多に置かれたスペースのベッドに、小菊が寝かされていた。

 たくさんのケーブルが接続された小菊は、目をつむり、もう意識はない。

 付き添うお婆さんは、片手で小菊の手を握り、片手で遺された日記を持っていた。

 初期化が始まった小菊にちらりと視線を送ってから、アンナとアリシアは研究所を出、外階段を下りる。

「このまま、なにもせずに放っておくつもりか? アンナ」

「まさか。姉の小菊にも、妹の小菊にもあれだけのことをしてくれた地上げ屋さんたちを、このままにしておけるとでも?」

 金属の高らかな足音を立て、並んで階段を下りていくふたりは、攻撃的な笑みを交わし合う。

「そちらの首尾は? アリシア」

「ちょうどマリーが帰ってきているのでな、最優先で動いてもらっている。いまからワタシも合流する。そういうアンナは?」

「必要な情報は集め終えて、ソフィアに渡したわ。物理的な地上げ活動だけじゃなく、いろんなことに手を出してくれていたから、簡単な仕事だったのよね」

 ニヤニヤとした笑みを浮かべるふたりが階段を降り立った、春月電子の裏路地で待っていた人々。

 マリー・サマーフィールドは相変わらずメイド服でアリシアに寄り添い、笑む。

 小さくため息を漏らして見せるブロッサムは、アンナに拳を握って見せた。

 少し苛立ったような顔を見せているソフィアの後ろには、黒いボディスーツとヘルメットに身を包む三体のアンノウンが控えている。

 他にも学院時代の知り合い、学院を卒業してから知り合った人々、小菊の知り合いたちが路地から溢れるほどに待っていた。

「さぁ、とんでもないことをしてくれた人たちに、罪を償わせに行くわよ」

「あぁ。ワタシの友達であった小菊と、新しい友達である小菊を酷い目に遭わせてくれた奴らが、二度と同じようなことができないようにしてやるぞ」

 アンナとアリシアのかけ声に、集まった人々は一斉に鬨の声を上げた。

 

 

            *

 

 

「ぬぅ……。どうしてこんなことになっているのだ……」

「仕方ないですよ、アリシアさん。なんというか……、わたしたちとは違いますから」

「納得いかんっ」

 パラソルの刺さった白い丸テーブルで、トロピカルジュースをストローですするアリシアは、うなり声を上げ続けていた。

 彼女の視線の先にいるのは、サマーベッドに横たわっている、アンナとマリー。

 今日はアリシアと小菊、そしてアンナとマリーの四人で、魔法町の近くのレジャープールを訪れていた。

 平日である今日は、本来であれば紀ノ國旧店は営業日。

 しかしながら今日、紀ノ國は営業していなかった。

 かなり強引で酷い活動をしていた地上げ屋が複数、一斉に摘発されてから数日、平和になった飯田橋旧市街界隈は、突然の事件に見舞われた。

 建物の基礎に、複数の致命的な亀裂が発見されたのだった。

 先日補強されていた部分に亀裂が発見されたため、大規模な調査を入れたところ、他にもいくつもの損傷が発見され、町内会も行政も急ぎ建て直しが必要と判断した。

 現在、移転地や金銭面の交渉が行われるのと同時に、急ピッチで引っ越し作業が、建物に入っていたすべての店や住宅で進められている。

 大きな地震でもあれば崩壊が始まりそうな建物は、今月内にも取り壊しが始まり、早ければ年内にも新しい建物が建つ。

 新店の人員を動員してあっという間に引っ越しを終えた紀ノ國旧店は閉店となり、店主だったお婆さんはいま、娘から慰労の意味で贈られた地球&太陽系一周旅行に旧友とともに出かけていた。

 しかし、悪いことばかりではない。

 再び小菊がマスターになったことと、閉店が突如決まったことで、お婆さんが奮起。

 建物が再建された後、店を再開し、足腰が立たなくなるまで続けると宣言したのだった。

 小菊はいま、お婆さんが帰ってくるまで新店の手伝いと、再建される旧店の監督のために残っていた。

 そんなこんなで、いまはまだそれほどやることがない小菊は、アンナやアリシア、次の仕事に行くまでのしばらくの間滞在するマリーとともに、魔法町にあるレジャープールに来ていた。

 そしてすぐ隣のサマーベッドでは、きわどいビキニの水着を着ているマリーと、シンプルながら純白のワンピースの水着を着ているアンナの元に、たくさんの男たちが集まっている。

「やっぱり胸ですかね?」

「胸だな、胸」

 黒いシンプルな水着の小菊と、赤いフリル付きの可愛らしい水着のアリシアは、そんなことを言い合い、自分の胸元を見下ろす。

 それからお互いの胸を見て、それから男たちに取り囲まれているアンナとマリーを見、ふたりして大きなため息を吐いた。

「しかし、こんなに羽を伸ばして良いんですかね? わたし」

「いいんじゃないか? 来週からは新店の方で仕事なのだろう?」

「そうなのですが、わたしはまだ、マスターを得たばかりの真空管ドールですし……」

「いいのよ、小菊」

 そう声をかけてきたのは、男たちを追い払ったアンナ。

 両手に飲み物を持ったマリーとともに空いた席に座ったアンナは、両肘を着いて組んだ手に顎を乗せ、微笑みを浮かべて小菊のことを見つめる。

「話した通り、憶えていなくても貴女にはいろいろあったのだからね」

「うむ。休むときは休む。働くときは働く。メリハリをつけねばな」

「わたくしもそう思いますわ」

「そうですかね……」

 みんなから言われ、小菊は複雑な表情を浮かべた。

 ストレージの初期化が終わり、姉の記憶がなくなった小菊には、遺された日記を渡し、さらに何があったのかも説明してあった。

「ご自分で言っている通り、メリハリをつけていただければ良いのですが……」

「マリー。何かワタシに言いたいことでもあるのか?」

「えぇ。ちゃんとメリハリをつけてほしいものね」

「アンナ様。明日は頼まれていた通り、アンナ様の部屋をお掃除する予定ですが、大丈夫でしょうか?」

「うっ……。な、なんでもないわ……」

 マリーににっこりした笑みを向けられ、アンナもアリシアも目を逸らすしかなかった。

 そんなやりとりの間も、小菊はうつむいて唇を引き結んでいる。

「なんだ? 不安なのか? 小菊」

「不安、なんですかね……」

「仕事を続けていけそうにない? それならマスターとの契約を――」

「いえ、それはありませんっ」

 勢いよく顔を上げた小菊は、長い黒髪を勢いよく揺らしながら顔を左右に振る。

「再建され、新しい店になったとしても、紀ノ國と、わたしのマスターは、姉の愛していたものです。姉の想いを受け取ったわたしに、不安などありません。わたしはわたしとして、姉の愛したものを愛していきます」

 その答えに、アリシアとアンナとマリーは、それぞれの笑みを小菊に見せた。

「それなら大丈夫だろう」

「えぇ、大丈夫よ」

「そうですね。大丈夫ですよ、小菊様」

 みんなに言われた小菊は、ふと自分の身体を見下ろす。

 腕に残る、修理痕。

 よく見ればわかる程度のうっすらとした筋は、腕だけでなくお腹や肩にも残っている。

 このボディが、姉から引き継いだものであることの証。

「そうですね……。その通りですね。わたしは姉とともに、マスターと紀ノ國を、守っていきます」

 言って小菊は、朗らかに笑む。

 

 

                    「メモリー&ダイアリー」 了

 

 


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