「父さん、この病院のようですよ」
都内有数の規模を持つ大病院『阿波田大学付属病院』。その入口の前に、鬼太郎は立っていた。その髪の毛の中には、目玉おやじもいる。二人が病院などという場所に来た理由はただ一つ。妖怪ポストに手紙が来たため、その差出人に事情を聞くためである。
「ウム。では鬼太郎、早速手紙の差出人に会いに行くとしよう」
「はい、父さん」
目玉おやじに促され、病院の敷地内へと入っていく鬼太郎。病院の建物の中へ入ると、受付を目指した。
「すみません。面会を希望したいのですが、よろしいでしょうか?」
「はい。どちらの方の面会でしょうか?」
「小児科に入院している、この手紙に書かれている名前の子です」
そう言って鬼太郎が取り出したのは、一枚の紙だった。これは、妖怪ポストに投函されていた便箋である。そしてその末端には、差出人の名前が記載されていた。
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
受付の係の女性看護師の指示に従い、待合席に座る鬼太郎。病院内は、都内で発生している連日のウイルス騒動の影響で慌ただしくなっており、まだしばらくは時間がかかりそうだった。その間、鬼太郎は手紙の依頼内容について思考を走らせる。
(この病院に、妖怪がいるという話だったが、果たして本当なのか……)
差出人が小児科の入院患者の子供だっただけに、信憑性については心もとない。しかし、子供というものは大人よりも霊的な感覚が鋭く、お化けや妖怪といった存在を感知する能力が大人に比べて高い。子供の戯言と馬鹿にできないことを、鬼太郎はよく知っていた。だからこそ病院を訪れてまで、その真偽を確かめようとしているのだ。
仮にこの病院に妖怪が潜んでいるならば、どこにいるのか、何が目的なのか。まだ見ぬ、いるかどうかも分からない妖怪の正体について思考を走らせていた。
すると、その時だった――――――
「!」
それは、突然だった。鬼太郎の妖怪アンテナが強い妖気を感知し、逆立ったのだ。発生源は、間違いなくこの病院の中。しかも、近い。
「鬼太郎、もしや今のは……」
「はい。間違いありません」
目玉おやじと小声で言葉を交わした鬼太郎は、待合席から弾かれたように立ち上がり、妖気を感じた方向を目指す。途中、看護士や医師からの病院内を走るなと注意を受けたが、構わず走り続けた。階段を上り、廊下を駆け抜けることしばらく。鬼太郎はとある病室へと辿り着いた。
「ここですね」
「鬼太郎、気を付けるのじゃぞ」
「はい、父さん」
目玉おやじの言葉に頷いた鬼太郎は、電気の消えている病室の扉を開け放った鬼太郎は、廊下から差し込む電灯の光に照らされた仄暗い病室へと視線を巡らせた。そして、いくつものベッドが並んだ病室の中、一つだけカーテンが掛けられたベッドを見つけ、そこへ近づくと、カーテンを開いた。すると、そこには一人の入院患者がベッドの上で横になって寝ていた。別段変わったことの無い、普通の入院患者にしか見えない目の前の人間に……しかし鬼太郎は、ただならぬものを感じていた。
「ただの入院患者にしか見えんがのう……」
「この患者自体はただの人間です。しかし、身体からは妖気が感じられます」
恐らく、先程までこの場所にいた妖怪の仕業だろう。一体、この場所で、この患者に対して何をしていたのか。それは現時点では分からない。しかし、これで確信が持てた。この病院には、間違いなく妖怪が潜んでいるのだと――――――
「一先ず、待合席に戻るのじゃ。まずは、手紙の差出人から情報を聞いて情報を集めねばならん」
「分かりました、父さん」
目玉おやじ言葉に従い、病室を後にした鬼太郎は、一階の受付の傍にある待合席へと戻った。すると、ちょうど時間だったらしく、受付から呼び出しがかかった。
「お待たせしました。担当の七ヶ浜と申します。案内いたしますので、どうぞこちらへ」
「……よろしくお願いします」
受付へと向かった鬼太郎を出迎えたのは、七ヶ浜と名乗る中年の女性看護師だった。たかが一人の見舞客に、何故案内人を付けられるのか。疑問に感じた鬼太郎だったが、その答えは案内の最中に七ヶ浜看護士本人から説明された。
「あなた、小児科の子供達から手紙を受け取って来たんでしょう?」
「ええ、まあ」
「やっぱりそうだったのね。実は、あの子達に『ゲゲゲの鬼太郎』の話をしたの、私なのよ。入院中で退屈してた子供達に、ちょっとした怪談として聞かせてあげようって思ってね。そしたら本気にしちゃって、お見舞いに来た学校の同級生に手紙を出してくれなんて頼んじゃったのよ」
看護士の説明に、成程と鬼太郎は納得した。何故入院中の子供達が『ゲゲゲの鬼太郎』の話を知っていたのか、どうやって妖怪ポストに手紙を出したのかが疑問だったが、この看護士が噂の出所で、見舞い客の同級生に頼んだということならば合点がいく。
「それにしても、あなたも大変ね。あの子達のために、ゲゲゲの鬼太郎の恰好をして、お見舞いに来てくれるなんて……」
そして、この看護士は鬼太郎が本人ではなく、子供達のために仮装して見舞いに来た友人であると思っているらしい。目玉おやじに出てきてもらい、本人であることを告げても良かったが、わざわざ看護士を驚かせてまで認識を改めさせる必要性も感じなかったので、そのままにすることにした。親子そろって人間に対する配慮に欠けていると、ついこの間、手紙の差出人である人間の子供から指摘されたこともある。
そして、そうこうしている間に、手紙の差出人である小児科の入院患者の子供が入院している病室へと案内された。
「ほら皆、ゲゲゲの鬼太郎が皆に会いに来てくれたわよ」
看護士が病室の扉を開いてそう告げると、それまでベッドに横になっていた子供達が一斉に起き上がり、一斉に鬼太郎の方へと視線を集中させた。それと同時に、喜色満面で、
「わぁっ!ゲゲゲの鬼太郎だ!」
「本当にちゃんちゃんこ着てる!」
「下駄も履いてるぞ!」
「目玉の親父は!?」
目を輝かせながら、次々に質問を投げ掛けてくる子供達の勢いに気圧されて、若干たじろぐ鬼太郎。そんな子供達の反応を見て、七ヶ浜看護士はくすりと笑うのだった。
「それじゃあ、皆。鬼太郎さんとお話しするのも良いけど、病院だから静かにね」
子供達へそれだけ言うと、七ヶ浜看護士は病室の扉を閉めてその場を立ち去るのだった。
残された鬼太郎は、子供達からの質問に若干辟易しながらも適当にあしらい、手紙の差出人を探すことにした。
「この手紙を僕に送ってきたのは、誰だい?」
「はい!僕が書きました!」
鬼太郎が手紙を取り出して尋ねると、それまで騒々しかった病室の子供達は一斉に静かになり、それと同時に差出人の少年が名乗りを上げた。子供達の反応から察するに、この手紙は病室にいる全員の意思のもとに書かれたものらしい。腕白な子供達が相手では中々話が聞けないのではと不安を覚えていたが、これならば話はスムーズに進むだろう。そのように考え、安堵しながらも鬼太郎は質問を続けた。
「今日は、この手紙に書かれていることについて聞きに来た。手紙の内容によれば、この病院には悪い妖怪が棲みついていて、病気をまきちらしていると書かれているが、これは本当かい?」
「本当です!この病院には、病気をばら撒く妖怪がいるんです!」
鬼太郎の質問に対して力強く答えたのは、手紙の差出人を名乗った少年だった。その答えに対し、他の入院患者の子供達も頷いていた。
「俺も聞いたぞ!この病院には、病気を操る妖怪がいて、患者を酷い病気にしているって」
「しかも、お医者さんに化けているっていう噂だよ」
「ニュースで話題になっているウイルスも、そいつの仕業だって言ってた」
どうやら、手紙に書かれていた妖怪の噂は子供達の間でも有名らしい。次々とその妖怪に関する情報が出てきた。
それらを整理すると、この病院には病気を操る妖怪が潜んでおり、病気を患者にしているということだった。しかもその妖怪は、その病気を他の病院にも撒き散らして世間を騒がせているという。人間界の世情には疎い鬼太郎だったが、この病院に来るにあたり、人間界のことをよく知るねこ娘からそのあたりの情報については聞いていた。
(しかし、新型ウイルスを撒き散らす妖怪、か……)
人間を病気にする妖怪はいくらでもいるが、治療が困難な伝染病を操れる妖怪はそうはいない。仮に今世間を騒がせている新型ウイルス騒動が妖怪の仕業ならば、相当強力な妖怪ということになる。子供が聞いた話故に、確たる証拠は無く、信憑性に欠けているが、慎重に調べる必要がある。そう考えた鬼太郎は、さらに詳しい話を聞くことにした。
「それで、病気をばら撒いている妖怪は、この病院のお医者さんに化けているっていうことだけど……それが誰なのかは、分からないかい?」
「う~ん……名前は分かんないや」
「確か、とっても凄いお医者さんだとか……」
「失敗したことが無いお医者さんって聞いたことがある」
話を聞くに、相当な名医なようだが、名前が知られていないということは、小児科の担当医ではないようだ。ともあれ、病院に潜み、病気を撒き散らしているという妖怪についての情報は得られた。子供達の噂ではあるが、確かに病院に潜伏するならば、院内を自由に動き回れる医師に化けるのは合理的である。ならば次は、医師の中に潜んでいると思しき妖怪医師の正体を突き止めねばならない。
改めて妖怪の正体を突き止めることを決意した鬼太郎は、情報提供者である子供達に別れを告げると、院内を回って聞き込みを開始することにした。特に子供達から齎された情報を重視し、院内でも有名な医師について調べる必要がありそうだ。そう考えた鬼太郎は、看護士達が頻繁に行き交い、情報収集に適している思われる受付へと戻ることにした。そして、七ヶ浜看護士に案内された道を逆行し、受付があるエントランスへと差し掛かった、その時だった。
きゃぁぁああああ!!
「!!」
突如病院内に響き渡る悲鳴。それを聞いた鬼太郎は、反射的にその方角へと走り出した。何が起こったかは、まだ分からない。だが、自身がこの病院を訪れた理由とは無関係とは思えない。そう直観した鬼太郎は、考えるよりも先に動きだしていた。
悲鳴が聞こえた方向へと振り返る入院患者や看護師、医師といった職員の間をすり抜けて辿り着いたのは、待合時間に妖気を感じた病室と同じ階だった。だが、現場はその病室とは反対側の廊下だったらしい。鬼太郎が向かうと、廊下を塞ぐように人垣が既にできていた。それを掻き分け、一体この場所で何が起こったのかを確かめようとした鬼太郎が見たもの。それは、衝撃の光景だった。
(まさか……!)
鬼太郎の目の前、周囲の人々が遠巻きに見つめる場所には、一人の少女が倒れていた。小柄な金髪の少女で、片目が隠れる程に長い前髪が特徴的な少女である。その顔や手足、服の隙間から見える肌には、無数の豆粒状の隆起――丘疹が発生していた。
明らかに何らかの重篤な病気に侵されていることが分かるその少女の服装や髪型には、鬼太郎は覚えがあった。顔をはじめとした肌は無残な姿になってしまっていたが、間違いないと直感していた。
「小梅……!!」
呆然とした鬼太郎が口にしたその名前に……しかし、廊下に倒れ伏した本人は一切の反応を見せることは無かった。
「ほら、加蓮!早く行くよ!」
「ちょ、ちょっと待ってよ、凛!」
鬼太郎が阿波田大学付属病院を訪れてから然程経っていない時間帯のこと。新たな来客が三人、病院の入口に姿を現していた。346プロのプロジェクトクローネの看板ユニット『トライアドプリムス』の凛と加蓮、奈緒である。
「今更ビビってるわけにはいかないだろ?片思いの先生に、ライブに来てくれって言ってチケット渡すんだから」
「む~……奈緒ってば、普段はツンデレ全快でヘタレ極まる弄られ役のくせに生意気よ」
「んなっ!……おい加蓮、それどういう意味だよ!?」
二人に促される形で、ライブの招待チケットを直接渡しに病院まで来た加蓮だったが、やはり直接会うことにはまだ抵抗があるのか、その足取りは重かった。そんな加蓮を、凛と奈緒は病院の中へとぐいぐい引っ張り、押していた。しかし、凛はともかく、奈緒に急かされるのはやはり癪に障ったらしく、いつもの通り弄っていた。だが、いくら奈緒を弄ろうとも、病院まで来てしまった以上、会わないわけにはいかない。何より、自分の用事のために、この二人を――真意はどうあれ――巻き込んでしまっているのだ。
病院の入口を潜り、受付が間近になったあたりで覚悟を決めた加蓮は、受付に尋ねる。
「すみません……」
「あら、加蓮ちゃん。今日はどうしたの?」
「その……山井先生に会わせていただけませんでしょうか?」
「ああ、山井先生ね。今はちょっと忙しいみたいなんだけど……少し待っていてくれる?」
入院時代から顔見知りだった受付の看護師のお陰で、どうやら山井医師に会うことは叶いそうだ。安心半分、不安半分の心境のまま、加蓮は看護士に言われた通り、待合席へと座った。両側の席には、当然のように凛と奈緒が座っている。
「それにしても、良かったな、加蓮。その先生に会うことができそうで」
「奈緒……」
「ああ、いや、からかっているわけじゃないんだ。ただ、病院の中が、思ったより慌ただしかったもんだから、もしかして会えないんじゃないかって……」
「気持ちは分かるけど、奈緒だってここまできて加蓮をからかったりしないよ。だから、今の内に心の準備とかしておいたら?」
「……そうさせてもらうわ」
「もしあたし達が邪魔で話ができないってんなら、凛とあたしは先に美穂のお見舞いの方に先に行ってるけど、どうする?」
「ううん。やっぱりちょっと不安だから……悪いけど、一緒にいてちょうだい」
奈緒と凛が、美穂の見舞いへと先に行き、加蓮と元主治医との再会の場からは席を外そうかという奈緒の提案を、却下し、付いてきて欲しいと頼んだ。
その後、加蓮は深呼吸をすると、これから会う元主治医に対し、どのようにチケットを渡すかについて考え始めた。入院中は散々顔を合わせた山井医師だが、退院してからは電話もほとんど繋がることは無く、直接会うのは数年ぶりである。もしかしたら、自分の顔すらも覚えていないかもしれない。医師という職業を、病気を治療するためだけのものと割り切っている山井医師ならば、あり得ないとは言い切れないだけに、不安は拭えなかった。
半ば好奇心に動かされる形で凛と奈緒が申し出た同行を断れなかったのも、そういった不安があるが故だった。
「北条さん、お待たせしました。受付へどうぞ」
「ほら加蓮、行くよ」
そして、そんな不安をどうにかすることもできないまま、再会の時を迎えてしまった。凛と奈緒に引っ張られ、受付へ向かった加蓮は、診察を一通り終えた山井医師の居場所を確認するのだった。
その後、看護士から聞いた、山井医師の休憩場所を目指して三人揃って移動を開始した。山井医師がいるのは、病院内にある休憩室ではなく、屋上なのだという。やや広い病院故に、屋上へ行く経路も少々複雑だったが、ここで加蓮が入院していたことが役に立った。入院中、病院内の部屋や階段、エレベーターを把握していた加蓮が先導することで、後ろから続く凛と奈緒は、一切迷うことなく屋上へ至ることができたのだった。
「いよいよだね、加蓮」
「頑張れよ!」
屋上へ続く扉の前に立つ加蓮に対し、凛と奈緒が声援を送る。ここからが正念場である。入院中の、抜け殻同然だった自分をやめて、アイドル・北条加蓮としての人生を送っていることを伝えるとともに、ライブのチケットを――当日に来てもらえるかどうかは別として――渡すのだ。
「……行ってくる」
扉のノブに手をかける前に、一度深呼吸をして気を落ち着けた加蓮は、後ろの二人にそれだけ言うと、遂に扉を開いた。
屋上へと踏み込んだ加蓮の目に映ったものは、病院を囲むように屹立していたビルや高層住宅。そしてそれらを照らし、巨大な影を作り出す夕日だった。そして、そんな黄昏の景色の中、屋上のコンクリートの床の上に立つ、人影が一つ。
白衣を纏った、細身のシルエットの短髪の男性。夕日を見つめながら缶コーヒーを飲むその姿は、この光景に見事に合致する程に黄昏ているように感じられた。
(ああ、やっぱりあの人だ……)
何の特徴も無い、希薄で不思議な存在感を纏ったその男性は、間違いなく加蓮が会おうとしていた、かつての主治医だった。夕日を見つめるその後ろ姿を目指し、十数歩程度近付くと、加蓮は意を決してその名前を呼んだ。
「お久しぶりです、山井先生」
名前を呼ばれた医師――山井は、ピクリと反応すると、ゆっくりと加蓮がいる方へと振り返った。後姿の細いシルエットだけではなく、若干鋭い目つきに、痩せこけたように見える顔立ちまで、加蓮の記憶の中の山井のままだった。
加蓮を見た山井医師は、ほんの少し驚いたような表情だった。どうやら、加蓮のことは覚えていたらしい。
「北条か……。私に一体、何の用だ?」
「あの……山井先生に、渡したいものがあって……」
山井の問い掛けに対し、若干委縮しながらも、加蓮はどうにか要件を口にすることに成功した。声も表情も変化に乏しく、死人や幽霊を彷彿とさせる佇まいの山井を相手に話すのが、加蓮は昔から苦手だった。一生治らないと思われていた病気に自暴自棄になっていた頃の方が、色々と抵抗無く口に出して言えていたのだから、皮肉としか言いようがなかった。
ともあれ、今更苦手意識を持って委縮している場合ではない。意を決した加蓮は、自身が出演する次のライブのチケットが入った封筒を、山井へと差し出した。
「山井先生には、前から送ってたんだけど……私、アイドルになったんだよ。それで……先生にも、一度で良いから、私が出るライブを見に来て欲しくて……」
まるで、ラブレターを初恋の相手に渡す少女の如く、たどたどしく、端的な言い方になってしまっていた。しかし、必要な意図は伝わった筈であると、加蓮は思った。あとは、山井医師がチケットを受け取ってくれれば、目的は果たされる。だが……
「悪いが、私をはじめ病院内は、連日のウイルス騒動で非常に慌ただしくなっている。そのライブに行くほどの余裕は、持ち合わせていない」
封筒を差し出す加蓮に対してそれだけ言うと、山井は横を素通りしていった。
一方の加蓮は、予想はしていた反応だったが、やはりショックだったのだろう。チケットを差し出した体勢のままで、横を通り過ぎる山井を呼び止めることもできなかった。
だが、そこへ、
「ちょっと待ちなよ!」
屋上と階段を繋ぐ扉の傍でその様子を見ていた凛が、山井の前に立ち塞がった。隣には同様に事の成り行きを見守っていた奈緒の姿もあった。
「加蓮は、あんたにライブに来て欲しいって思ったから、チケットを渡しに来たんだよ。行けるかどうかはともかく、受け取りもしないなんて……そんなのって無いよ!」
「そうだ!加蓮の気持ちを何だと思ってるんだ!」
患者に対して人もなげな態度を取るという事前知識はあったものの、実際に山井の加蓮に対するぞんざいな対応を見て、余程頭にきたのだろう。二人揃って怒りを露に山井へ食って掛かっていた。
「行けない身の人間が、チケットなど貰っても意味が無いだろう。空席を作るくらいならば、学校の友人でも誘った方が有意義だと思うが?」
「そういう問題じゃないわよ!加蓮は、あんたに助けられた命で精一杯生きて、アイドルとして頑張っているんだよ?あんたにとっては、たくさん診てきた患者の一人でしかないのかもしれないけど……だからって、加蓮の気持ちを無下にするようなことをするなんて……」
「凛、もう良いよ!」
新たに現れた凛と奈緒を前にしても、眉一つ動かさずに否定の意思を示す山井に対し、尚も怒りのままに言い募る凛だったが、それは加蓮によって止められた。チケットを持っていた手を下ろし、ゆっくりと山井や凛が立つ場所へと振り返った。
「仕方ないよ。山井先生は凄腕のお医者さんで、忙しいんだもの……」
「けど、加蓮……それで良いのかよ?チケットを渡すために、ここまで来た筈だろうに……」
正確には、チケットを渡すことが目的ではないのだが、本当にこのまま、チケットも気持ちも受け取ってもらえずに終わって良いのかという、奈緒の問い掛け。それに対し、加蓮は首を横に振った。
「ライブに来て欲しいっていうのは本当だけど……やっぱり、無理強いはできないよ。それに、山井先生には、私みたいな患者を助けて欲しいって……そう思っているから」
本当は、もっと色々と伝えたい想いもあっただろうに、加蓮はそれを口にすることなく呑み込んだ。それに、自分のような患者に希望を与えて欲しいという気持ちもまた、嘘偽りの無い……加蓮の本心なのだ。
そんな複雑な想いを抱きながら、加蓮は若干無理をした様子で笑みを浮かべた。それを見て、加蓮の内心を察した凛と奈緒は、それ以上何も言うことができなかった。
「話は終わりだな。なら、私は院内に戻らせてもらう。休憩時間も、短いのでな」
「はい。せっかくの休憩中に、呼び止めてすみませんでした」
山井は自身の持ち場に戻ると口にすると、そのまま加蓮達の方へと振り返ることなく、屋上を出て行くのだった。残された三人は、行き場の無い思いを抱えながらも何を言葉にすることも、行動に移すこともできず、ただ立ち尽くすのみだった――――――
「まさか、小梅がこの病院に来ていたなんて……」
「奇妙な偶然じゃのう」
悲鳴を耳にして駆け付けた先の廊下に倒れていた小梅は、鬼太郎が現場に来た直後に、この病院の職員によって隔離病棟へと運ばれた。その様子を見送った鬼太郎は、目玉おやじと共に、現場たる阿波田大学付属病院の中に残っていた。
「父さん、小梅の身体からは、微かですが妖気が感じ取れました。」
「ウム、間違いない。小梅ちゃんは、妖怪に襲われたのじゃろう。そして、一連のウイルス騒動は、やはり妖怪の仕業で間違いない」
小梅が倒れている現場に駆け付けた時に分かったことは、二つ。
一つは、小梅の身体――正確には、小梅の肌に発生していた丘疹――からは、以前会った時には無かった、禍々しい妖気が放たれていたということ。
二つ目は、小梅が発症した病気は、昨今世間を騒がせている新型ウイルスによるものということ。これは、鬼太郎に次いで現場に駆け付けた医師が口にしていたことだった。
以上の事実から、鬼太郎と目玉おやじは、一連のウイルスによる騒動が妖怪のものでありその妖怪はこの病院内に潜んでいるという確信を得たのだった。
「しかし、何故妖怪は小梅を襲ったのでしょうか?」
「恐らく小梅ちゃんは、妖怪の姿を見てしまったのじゃろう。そして、その口封じのためにあのような目に遭ったと考えられる」
「成程、それなら合点がいきますね。しかし、件の妖怪はこの病院に潜んでいるのは間違いないとして……一体、どこに潜んでいるのでしょうか?」
「子供達が口にしていたじゃろう。妖怪は、この病院に所属している、凄腕の医師に化けていると。となれば、この病院に勤めておる看護士に話を聞けば、噂の人物を特定できるやもしれん」
「成程……。分かりました、父さん」
「ウム。既に多くの人間が発症している以上、早く探し出さねばとんでもないことになる。急ぐのじゃ、鬼太郎!」
目玉おやじの指示に従い、鬼太郎は病院のエントランスへと向かった。とりあえず、受付にいる看護士に話を聞いてみよう。そう考え、受付を目指して歩きだす。するとその途中。
「あら、鬼太郎君じゃない」
「七ヶ浜さん……」
この病院を訪れた際、小児科へ案内してくれた七ヶ浜看護士に呼び止められた。その隣には、同僚の看護師が立っていた。
「まだ病院に残ってたんだ。けど、早く帰った方が良いわよ。ここだけの話、例の新型ウイルスに感染した患者が、この病院で見つかったっていうから」
「その話なら、僕も聞きました。ところで、子供達が言っていたんですが……一連のウイルスの騒動は、妖怪の仕業で、しかもその妖怪はこの病院の凄腕医師に化けているとか……」
鬼太郎が口にした言葉を聞いた、七ヶ浜看護士等は揃ってクスリと笑った。当然のことながら、やはり二人とも、子供達の話を本気にはしていないらしい。
「そんなの子供達が作った噂話よ。それに、今まで出た患者さんは、この病院以外の病院で発症しているわ。まあ、今回はこの病院でも感染者は出ちゃったけどね」
「けど、それも案外馬鹿にできた話じゃないですよ、先輩。今まで都内の病院で例のウイルスの感染症を発症した最初の患者さん、この病院から転院した患者だとかって話じゃないですか。しかも、ここに入院していた時にはあの先生が主治医をしていたっていう噂ですよ」
七ヶ浜看護士を先輩と呼ぶ若手看護士の言葉に、鬼太郎と、鬼太郎の髪の中に潜んでいた目玉おやじがピクリと反応した。
「しかも、今日見つかったっていうウイルスに罹った女の子、あの先生の部屋の前で倒れてたって聞きましたよ。案外、あの噂は本当なんじゃないですかね……」
「そんなわけないじゃない。まあ、確かに偶然にしてはちょっと出来過ぎている気もするけど……きっと全部、出鱈目な嘘よ。あの先生が、病気をばら撒いている“妖怪”だなんて……」
七ヶ浜看護士とその後輩看護士が口にする『あの先生』という医師。二人は所詮は噂話と軽く見ているようだが、鬼太郎にはそうは思えない。恐らくこの噂話の中には、今都内を騒がせているウイルス騒動を……その元凶である妖怪の正体を突き止めるための、重要な手掛かりがあるに違いない。そう考えた鬼太郎は、さらに二人に詰め寄った。
「その話、詳しく聞かせてください」
「なあ、加蓮。本当に良かったのかよ?」
「……別に、気になんてしてないから。それに、忙しくて来れないことは、話をする前から分かっていたことだもの」
山井医師にライブチケットを直接渡すという試みは結局失敗に終わった。その後、偶然にも同じ病院に入院していた美穂の見舞いを済ませた加蓮、凛、奈緒の三人は帰路に就こうとしていた。
ライブのチケットを受け取ってもらえなかった加蓮は、気にしていないとは言っているものの、その表情は暗かった。口ではこうは言っているが、やはり本心ではチケットを受け取ってもらいたかったのだろう。
「ここに来る前に行ったけど、山井先生は私の病気なんて、全然問題にならないくらいに凄いお医者さんだもの。ライブに来てる暇があるなら、もっとたくさんの人を助けるために動いてもらった方が、有意義じゃない?」
「いや、来れる、来れないの問題じゃないだろう。せめてチケットを受け取るくらいの誠意は見せても良いんじゃ……」
「山井先生が診てきたたくさんの患者の一人に過ぎない私が、そんな誠意とかを求めるなんてできないって。それに、山井先生にそんなのを求めても無駄だから」
「けど……」
尚も言い募る奈緒の言葉に対し、加蓮は仕方が無いと繰り返していた。尤も、奈緒に言い聞かせているように見える加蓮だが、その実は加蓮自身に言い聞かせていたのだった。
「ただでさえ忙しいは山井先生だけど、今は新型ウイルスが流行っているんだから、猶更無理だよ。まあ、今回は無理でも、きっとその内……」
「加蓮」
明らかに無理をして気にしていない風を装っている加蓮を、凛が呼び止めた。その声色と表情は真剣そのもので、有無を言わせない強い意思を宿していた。
「本気で、このまま帰るつもりなの?」
「い、いや……だって、断られちゃったものはしょうがないし……」
「そうやって仕方ないって諦めて引き下がっているようじゃ、この先もチケットを受け取ってなんてもらえないよ」
「けど……山井先生は………………」
凛が真正面から放つ言葉に圧され、話す言葉が尻すぼみになってしまう加蓮。反論の言葉が出て来ないのは、凛の剣幕が激しいというだけでなく、加蓮自身も自覚している、痛いところを突かれているが故のことだった。
「本当に自分の気持ちを伝えたいって思っているなら、相手の都合ばかり考えてたら駄目だよ。それに、来てくれないだろうとか、受け取ってもらえないだろうとか考えても駄目。気持ちを伝えるっていうことは……お互いの気持ちを理解し合うっていうことは、そういうことだよ」
「凛……」
「私も、卯月が抱えていた悩みとか不安に気付いてあげられなかったことがあったから分かるんだ。今まで隠してた弱音とか本音とかを実際に口に出して言って、ようやく分かり合えた。今思えば、もっと早く言うべきだったと思うよ。でなければ、あんなに拗れることも、卯月を不安にすることも無かった」
凛の言葉に込められた重みに、加蓮は何も言えずに立ち尽くすしかできなかった。加蓮は知らなかったが、凜の言っていることは、少々極論ではあるが、大凡正しくもあったからである。
山井医師にチケットを渡したいと考えていた加蓮だったが、本心では受け取ってもらえない、興味を持ってもらえない、忙しくて無理等の考えがあった。そんなことでは、ただでさえ患者への興味が薄い山井医師が相手では、凜が言うように、伝えたいことなど伝わる筈も無い。難しいことだと分かっていた筈なのに、たかがチケットを渡す程度のこと、失敗しても何も問題は無いなどと考え、知らずに逃げていた。そんな自分の覚悟の甘さを、凜の言葉によって加蓮は改めて痛感していた。
そんな加蓮の手を、凜は握り、先程までの剣幕とは打って変わって、優し気な表情で言葉を掛けた。
「だから、もう一度会いに行こう。今度は正真正銘の本気で、ぶつかってみなよ」
「……うん」
凜に叱咤され、励まされた加蓮は、決意を新たに頷いた。その目からは、この病院に来た時にあった迷いや不安は、既に消えていた。
「けど、どうやって渡すんだよ。もう時間は夕方で、病院の受付は終わっちまってるぜ。それに、さっきは休憩時間だったから良かったけど、次はいつ会えるのか分からないぞ?」
「……山井先生は、車で病院に出勤してる。車の車種は、入院している時に見て覚えているから、乗り換えていなければ分かると思う」
「それじゃあ、駐車場で待ってようか。受付が終了してから時間はそんなに経っていないから、多分まだ間に合うでしょ」
凜の意見に賛成した加蓮は、入口を出て駐車場を目指して歩きだす。加蓮は入院生活を送っていたことで病院内の設備については把握しており、駐車場の場所まで迷うことなく辿り着くことができた。
二十台ほどの車を停めることができる職員用の駐車場の片隅には、数台の車が停められていた。加蓮はその中から、隅に停められていた一台の黒い車を見ると、口を開いた。
「あの車、山井先生ので間違いないわ。駐車スペースも、いつもあそこだから」
「あ、誰か来たみたいだぞ」
奈緒が指差す方、建物の中に通じる職員用の通用口を見ると、ちょうど扉を開いて誰かが出て来るところだった。現れたのは、今日見知った痩身の医師――山井だった。
「山井先生……!」
「ほら加蓮、行ってきなよ」
「お前の本気、見せてやれ!」
凜と奈緒に背中を押され、山井のもとへと踏み出していく加蓮。山井は仕事を終えて、これから帰るところなのだから、恐らくはこれが最後のチャンスだろう。凜と奈緒が背中を押してくれている以上、これ以上逃げ腰ではいられない。そんな強い決意のもと、一歩一歩、山井のもとへと足を進める。そして、車に乗ろうとしていた山井に声を掛けようとした――――――その時だった。
「リモコン下駄!」
車に乗ろうとしていた山井に対し、突如として上空から響き渡った少年の声とともに、空中から高速で飛来する何か。それは、四角い木製の板上のもの――下駄だった。
山井はそれを視認するや、車のドアノブに掛けていた手を放し、車と距離を取る形で後方に跳躍。飛来する下駄を回避した。突如起こった奇怪な出来事と、山井が見せた常人離れした身のこなしに、加蓮は勿論、後ろの凛と奈緒も驚愕に目を剥く。だが、三人が驚いている間にも事態は進む。
山井が回避した下駄は、空中を旋回すると、上空に滞空していた所有者の足へと戻った。下駄を放った少年――鬼太郎は、山井を睨みながら向かい合う。その髪の毛の内の一つは、静電気を帯びたように逆立っていた。
「噂は本当だったか。まさか、医師に化けて病院に潜んでいる妖怪がいたとはな」
「ゲゲゲの鬼太郎……か。遂にここまで来たか」
「僕が来ることを予想していたようだな。やはり、この病院で……いや、都内で発生したウイルス事件についても、無関係ではなさそうだな。まずは、話を聞かせてもらおうか。山井医師……いや――」
――妖怪・疫病神!
鬼太郎が口にした、妖怪の名前。対する山井医師――疫病神は、自身の正体を暴かれたにも拘わらず、微動だにせぬままその場に立ち尽くし、その冷徹な雰囲気を纏った瞳で鬼太郎へと向けるのだった。