一方その頃、同じ夜空の下で。
「ふぇ……っくちゅん!さ、寒ぅ……」
カラカルは寒さに包まれ、顔を真っ青にしながら雪原に縮こまっていた。
(つーかあの娘ったら、いきなり飛んでどこ行っちゃったのよ!?最初は足跡追ってけばいっかとか思ってたけどよくよく考えれば鳥のアニマルガールなんだから飛んでくに決まってんじゃない!しかも勢い余ってトツカ置いたまま飛び出てきちゃったし……もうほんとなにしてんのよ、私のばかぁ……!)
要するに彼女は、見事に追いかけていたアニマルガールを見失い、さらに来た道もわからなくなって完全に孤立し、只今絶賛後悔中な訳である。
「はぁ……」
(探すしかないかぁ。あんまり遠くに行ってなきゃ良いけど)
一旦状況とやるべき事を整理する。
まず、見失ったままのアニマルガールを探さなければならない。記憶が確かであれば、走り出していたときには既に弱っており、飛んでからも一直線だったため、方向を間違えなければ見つかるだろう。
次に、何とかして宿に戻る。これは、近くに宿へ通じる登山コース……らしきもの、を発見したので恐らくは問題なし。
(あ、でもトツカ……は、まだ寝てるだろうしいっか。後から探せば問題ないわね)
取り敢えずこうして優先順位はつけられた。頭の中でもう一度イメージすると、防寒着の確認も行って、彼女の捜索に戻ろうと森の方へ振り向く。
「さて、確かこの方向に──」
ドサッ
突然、向いた方向──森の奥から、大きな音が鳴り響く。そのあまりの大きさに、身体がつい動かなくなってしまう程の、重い音だった。
「……っ!?」
唐突に起きた出来事に、一瞬、カラカルの脳が追い付かなくなる。
ゆっくりと、何の音かを考える。何かが倒れるような、と言うよりも、地面にぶつかるような音。この音は恐らく、何かが落ちた音だ。それも、ある程度の大きさはあろうものが。
もしそれが、
「──まずい!」
急いで森の中へと入ろうとする。鬱蒼とした木々へ向かい、足を踏み入れようとして──
(……っ!)
──その足が、止まった。
行かなければならない。そう解っているのに、どうしても足を進められない。
動かないのだ。
(どうして……)
猫の眼を持ってしても先が把握できない道に不安と恐怖を感じた身体が無意識に歩を止めた。先程までなんともなかった全身が、いつの間にか小刻みに震えている。きっと、寒さのせいではない。
(……私、怖がってるの……?)
あの音が彼女のものであるかどうかの確証はない。例えそうであってもたどり着くまで無事ていられるかさえ解らない。森の中にどんな獣が居るかさえ、カラカルは知らない。
(あーあ……こういう時に限って、ガイドさんいないんだもんなぁ……)
何よりも、今のカラカルは一人だった。トツカが居ればまだ多少は安全だと思えたとしても、本当に彼女が落ちていたとしたら、今から戻れる時間は無いだろう。
(……でも、孤独なのは私だけじゃない。あの娘も、ずっと一人で……こんな気持ちだったんだ)
ならば、助けに行かない選択肢は無い。
気が付けば震えは収まり、手足も自由になっていた。
(それに、なんかあったら……悔しいけど、あいつが助けてくれるもんね)
大きく深呼吸して、気を入れ直し、決意を固める。目指すは彼女がいる場所、唯それのみ。
「……行こう」
そう呟くと同時に足の筋肉へ渾身の力を送り込み、全力で雪原を蹴り出す。しなやかな身体は針を縫うように森を進み、暗闇へと消えていった。
「はぁ……はぁ……」
暗く寒い闇夜の中を飛び続けて既に数分が経とうとしていた。先程までいた場所で回復していたはずの体力も、限界を迎えているのがわかる。
「それでも……いかなくちゃ……」
彼女には身体を犠牲にしてでも果たすべき義務があった。それだけが心の支えとなり、その為だけに自らの体を鼓舞し、体力が尽きようと構わないという覚悟を生み出した。
しかしその覚悟すら足蹴にする如く、冷気の突風が容赦なく突き刺さる。
「はやく、みつけないと」
一人だけで空を進みながら辺りを見回すが、見つかるのは鬱蒼として暗い木々と真っ白な大地のみで静かな空には彼女以外の存在は見られず地面を行くはずの獣達も光を吸い込む木葉の重なりに邪魔されて雪上だというのに足跡すらわからない。
この暗闇の中で、彼女は孤独だった。
「……だめっ、もう……!」
飛行したことは速度上昇のメリットを生んだが代償として冷たい大気に強く当てられることになった。風に当てられて体温が奪われて行き、飛行の姿勢は不安定さを露見していく。
まさに決死の行動であった。だが、その行動への対価はその姿をちらりとすら見せない。
「わすれてるはずないのに……どうして、みつからないの……!?」
早く見つけなければ、記憶は薄れていってしまうのではないか。そうなれば、本当にあの頃へは戻れなくなるのではないか。
そもそも、記憶は本当に正しいのだろうか。
「いや!わたしは、もどりたいだけなの!」
懐疑が不安を加速させる。不安により焦りが生まれ、焦りによって集中力が散漫していく。いつの間にか体力は完全に安定性を失い、それすらも把握できない程に心は乱れる。思考も、冷静さの欠片すら持てずに、荒れ果てていた。
ぐらっ
「なっ、つばさが」
遂には、華奢な体ではとても耐えられないほどに過酷な環境に、翼が音も無く悲鳴をあげた。
「きゃっ!」
ぐらりとかなり大きく全身が揺れる。バランスの崩れた身体は揚力を失った慣性に振り回され、視点はどの方向へも定めることは出来ず、まるで狩人に撃たれた鳥のように突然として高度を下げて行く。視界内へと消えては現れてを繰り返す地面に目を瞑り、衝突の恐怖が脳内を占めていく──違う。元々あった記憶としてフラッシュバックしている。
彼女は、この感触を知っている。
(……あのときも、たしか)
過去の記憶が網膜へと鮮明に投影される。
飛行技術も未熟だった頃、周りには多くの仲間がいてくれた。心配と信用の眼差しを向けてくれる仲間がいてくれた。仲間といることの暖かさで心が満たされていた。
でも今は?
自分を囲むのは暗い視線で睨み返す暗闇だけだった。心を覆い隠すのは孤独と恐怖だけだった。
(どうして、わたしはただ……)
恐怖に逃れようとして見開いた目に、迫り来る雪原が映る。
「しまっ……」
ドサッ
意思だけで全身を無茶に動かしていたことが祟ったのか、落ちていく姿勢を制御する力も出せず空中に不規則な軌道を描いて大きな音を立てながら地面に墜落した。
咄嗟に体を捻って衝撃は和らげたもののダメージは決して小さいとは言えない。今の彼女にとってはダメージを受けること自体ですら致命的だ。
「いっ……たぁ……っ」
全身を鋭く重い痛みに飲み込まれるのを我慢して、もう一度飛ぼうと、それが叶わなくとも何とかして進もうとありったけの力を込める。それでも身体は命令を受け付けず、ただ地面の寒さに体力だけが奪われていく。
「うごいて、よ……おねがい、だから……!」
倒れ込んだ身体の隅々まで意識を巡らせても、指先ですらほんのぴくりとしか反応しない。還ってくる冷たさと痛みにただ顔を顰め、身体中へ憎しみにも似た視線を送るのが精一杯でしかなかった。
(そんな……これまで、なんて……)
全身から力が抜けた途端にずっと忘れていたはずの寒さが込み上げてきた。敢えて無視し続けた感覚が一斉に全身を覆い尽くす。それはきっと、単に外気や地面に依るものだけではないことも、わかっていた。
(どうして……っ!)
悔しさに目を瞑る。小さく鋭い風が、耳元を通り過ぎて行った。
何も無く、そうして幾許かの時間が流れた。冷えきった空気と儚く過ぎ去って行く時間は体力を損なわせるにも拘らず、彼女の頭を最も効率良く冷却した。彼女が怯え否定した寒さは、皮肉にも彼女に必要だった冷静さを与えたことになった。
(…………なにしてたんだろ、わたし)
動かない腕とは裏腹に思考が鮮明に巡る。
(こんなになってまで……)
ようやく手に入れた冷静さが齎してくれたのは、それでも絶望だけだった。
(このさむさをわすれたくて、みんなをさがしたのに……そのせいで、みんなをわすれるんだ)
彼女は心の中で、自分を罵り、そして呪った。
自分は彼らとは全く違う姿へと変わり果ててしまった。記憶のなかに残っていた嘗ての仲間との会話も、理解できなくなってしまった。こんな自分を仲間と思ってくれるなど、到底思えない。
そもそも何故自分が捨てられないという確証があろうか。確かに、先程は一緒にいた彼女──カラカルの話を聞けば、これは偶然だったのだろう。ならば受け入れるしかなかったはずだ。
それでも認められなかった。自分の過ごしたあの日々を、確かにそこにあった日々を、疑うことはできなかったし、信じていたかった。
(もう、いやだよ……なにがほんとうなのか、わかんないよ……)
しかし縋るべき記憶すら失った今、気力も希望も、彼女には残っていなかった。ただ無気力感だけが胸のなかに渦巻いていく。
(だってわたしには、みんながいてくれて。
みんながいてくれると、とてもあたたかくて)
寒さから逃れるようにして小さく蹲る。薄く投げやりに開かれた両目は焦点が合わず、何処までも白い雪の大地を眺めているが、思考の海へと沈みきった彼女の瞳にはそれすらも写らない。
(だけど、それはわたしがおもってただけで、ほんとうはそうじゃなくて。
わたしは、ただ、ひとりがこわくて)
脳内の要領を全て思考へと割りきっていると言っても過言でない程に、唯々自問自答を繰り返す。
(だってしらなかった。
みんなわたしのまわりにいてくれたから、わたしはひとりじゃないってしんじてたから、みんなもそうなんだって、しんじてたから……)
──そうやってまた、皆のせいにするの?
自分を客観的に悲観する声が頭に反駁する。
突然だった。まるで嘲笑うような、蔑んでいるような声。
それは紛れもなく、この
(だって、こんなことなら、しりたくなんかなかった!しらないままでよかった!もう、なにもしりたくないの!)
──全部、知ってるくせに。
言葉はわからない。わからないのに、意味だけを頭が理解していく。有り得ない状況に余計に混乱する心は完全に制御を失った。
それ故に、視覚も聴覚も、ほぼ全ての感覚器官からの情報が拒絶され、肌を突き刺す寒さを残して大半が伝達されることなく行き場を失っていった。
(あなたにはわからない!わたしだって、くるしくて、つらくて、かなしくて……わたしのせいにしないで!)
──そうやっていつも逃げてる。
それ故に、彼女は気が付かなった。雪が踏み潰され、木が振動に揺らされる音に。不自然に傾き、掻き分けられ舞い落ちる木葉に。
そして……何者かが、近づいていることに。
(ちがう、ちがうの!わたしはあのころとかわってなんかない、みんなといっしょにいたのはわたしなの!あなたじゃない!)
──そう思ってるのは貴女だけ。皆と一緒に居たのは私だもの。
足音は段々と大きくなる。
(そんなはずない、わたしはちがう!わたしはみんなのなかまだった!)
──ううん、違くない。貴女はもう皆の仲間ではなくなった。
リズムはペースを早めて行く。
(わたしはずっといっしょだった!)
──貴女はずっと一人きりだった。
それは彼女の背後へ静かに歩み出て、小さく蠢く。
(わたしはずっとみんなといた!)
──貴女はずっと依存してた。
その細長い腕を、彼女へと伸ばして。
(わたしはずっと──)
──貴女はずっと──