「エヴァ。……いる?」
本来は「ナイチンゲール」に割り当てられていたはずの一室。車椅子のうえに看護師の付き添いがあるものの、病室から出られた真緒は、そっと中にいるはずのエヴァに声をかけた。
だが、返ってくるのはすすり泣く声だけだ。
「おかあさん……おかあさん――」
「……エヴァ」
付き添いの看護師に尋ねるが、エヴァの怪我は重くないそうだ。ただ、食事も睡眠もとろうとしないのだという。
うすぼんやりと覚えている。暴走した自分が「ナイチンゲール」を撃ち落とした時、間一髪でエヴァを逃がしていた。
最期まで、彼女は母だった。だが子にその気持ちは伝わっていないようだ。
そばにいることこそ、エヴァにとっての母だった。
「フーヴァー」に押し付けられたタブレットの中では、リアルタイムで行われている話し合いの内容が更新され続けている。
E遺伝子の正体。「コロンブス」の存在。そして「ナイチンゲール」の正体――「織田信長」ではなくなってしまった自分には関係ないとまでは言わないが、疲れ切った頭と体が情報を受け付けなかった。
「アヴィケブロン」は体力の消耗こそ激しかったものの、どうにか会議に参加するくらいには回復できたようだ。しかし実戦に戻るにはまだ時間が必要だろう。
「ジャンヌ」はまだ目覚めていない。さっき病室に寄ったが、酷いやけどで、見事な金髪も燃え落ちてすっかり短くなってしまっていた。
「ジャック」はこの通りで、今は何もしてあげられない。
自分は信長のE遺伝子が体を活性化させていた影響か、疲労こそあるものの傷は深くないのだという。怪我の功名とでも言おうか。それでも、大事な力は失われた。
「全滅、じゃな」
ふざけて信長の口調をマネても、ひとかけらの熱すら感じない。
それどころか、嫌悪感が胸中を埋め尽くした。自分で捨ててしまったも同然の力に、今更すがろうというのか。
「……看護師さん。病室に、戻ります」
今はもう、何もできない。
*
『八年前。2005年、まだ「ダ・ヴィンチ」や「シェイクスピア」すら参加していなかったころのことだ』
土偶は語りだした。
『ついに恐れていた日がやって来た。太平洋でプランクトン状の進化侵略体が発見された。日を同じくして、DOGOOの設立に向け、各国への交渉を本格化させ、指令を目覚めさせた。そんな時だ。……ロンドン郊外の診療所に、幼児を連れた、奇妙な女性が現れたという報告があったんだ』
「フーヴァー」が聞く。
「それが――」
『ああ。彼女はジャックと名乗った。私にしかわからない、合言葉を添えてね』
土偶は思い出す。1888年、五人目の娼婦を救えなかったあの日、そして八年前に
『私にはこの名前がふさわしい』、と。
*
エヴァは思い出す。
母と父を喪った。もう顔も思い出せない。十年前――三歳か四歳。自分が自分であると、ようやくわかりかけていた頃。
事故だった、とのちに聞いた。でもその時、自分が感じたのは、ただただ恐怖と寂しさだけだった。
両手をつないで持ち上げてくれる存在が、いっぺんに失くなってしまった感覚。今日から支え無しで、この細い両足だけで歩かなくてはならないと突き付けられた。
引き取ってくれた親戚は、きっと親切だったのだろう。でも、両親に甘えてばかりだった自分が、両親を失ってどうなったのかは想像に難くない。
今のように、ずっと泣いていたのだろう。
何度止められても、家を抜け出してロンドンの郊外にある両親のお墓に通った。
一人で靴も満足にはけないから、裸足で、靴下で、服が汚れるのも構わずに通った。
ついには里親から墓守に話が行ったのだろう。正面から入ると止められるようになった。だから墓地の裏から、藪を突っ切って、傷だらけになりながら通った。
両親は星になった。そう里親は言っていたと思う。でも信じられなかった。
夜空に向かって手を伸ばしても、冷たい空気をひっかくだけだった。
それよりもお墓の方が確かだった。だってここにおとうさんとおかあさんが入っていくのを見たんだもの。
何度も何度も十字架の根元を掘り返した。不気味がって、近所の人がみんな自分を避けた。
どうして?
おとうさんとおかあさんに会いたいだけなのに。
一か月が過ぎ、半年が過ぎ、手がどんどんボロボロになって、里親に何度も叱り飛ばされて、ようやくわかった。
もう、会えないんだ。
だったら、もう、生きていても――。
『そんなことを、言わないで』
自分の内側から声が聞こえたのはそんな時だった。厳しくも、どこかぬくもりを感じるその声に、思わず自分は名前を付けた。
『おかあさん』
『いいえ、私はあなたの母ではありません』
間違いなかった。おかあさんが、帰ってきてくれたのだ。星になったなんて嘘だった。お墓の下にもいなかった。ずっと、そばにいてくれたんだ。
『おかあさん』
呼べば呼ぶほど、存在が確かになっていった。
『おかあさん』
鏡に映っているのが見えるようになった。
『おかあさん』
躓いた時、とっさに支えてくれるようになった。
『おかあさん』
話しかけたら必ず返事をしてくれるようになった。
『おかあさん』
そして――。
ある日、おかあさんは二つになった。
*
『2005年。「ジャック」自身の願望、そして時を同じくして侵略体が地球に訪れ、E遺伝子が活性化していたのだろう。その偶然の一致が、彼女に第二の生を与えた』
土偶は語る。
『ついに「ジャック」のAUウェポンとして実体を得てしまった「ナイチンゲール」は、自分がE遺伝子らしさを失ったことを悟った。侵略体を殺す「切り裂きジャック」としての自分と、エヴァに寄り添う「ナイチンゲール」として分離してしまった、と』
「じゃあ、「ジャック」の背後にいたものは……」
『そうだ、「ビリー」。それこそがフローレンス・ナイチンゲールのE遺伝子の一部。「切り裂きジャック」としての断片だ。……続きを話そう』
AUボールが部屋のスクリーンに映し出された。
『「ナイチンゲール」は、もはや「ジャック」を普通の子供として育てることはできないと悟った。不完全に実体化した彼女は、ろくに動かない体に鞭打ち、里親と話をつけたそうだ。そしてDOGOOに助けを求めた。私は彼女にAUボールを与えた。その結果、車椅子と言う形ではあるが、彼女は何とか一人で行動できるようになった』
「おかしいとは思っていたんだがね」
そう「ダ・ヴィンチ」は言う。
「侵略体と戦う組織に入ったら、先輩が車椅子の看護婦と五歳児だっていうんだから。ま、当時は両方とも表立って参加していなかったけれどね」
『ああ。もはや普通に暮らすことはできなかったが、それでも「ナイチンゲール」はエヴァ・ミューアヘッドを一人の子として育てようとした。だが思わぬ弊害があった。彼女自身の一部、「切り裂きジャック」としてのE遺伝子の断片だ』
「それが、エヴァの混乱の原因か」
『そうだ、「アヴィケブロン」。年々、「ナイチンゲール」の存在が確固たるものになるにしたがって、エヴァの背後の「切り裂きジャック」もまた、純粋にE遺伝子としての性質を深めていった。日に日にエヴァの戦闘に対する欲求は増すばかりだった。おまけに、「ナイチンゲール」が止めようとすると、エヴァはパニックを起こすようになった』
「フーヴァー」が、先ほど映し出した二つのE遺伝子の波形を見て言う。
「同一人物だから、か」
『ああ。同じ存在から、「戦え」と「戦うな」という二つの行動を示されたエヴァはどんどん精神の安定を欠いていった。E遺伝子の影響もあったのだろう。精神的な発達が遅い傾向にあった彼女は、とうとう戦うことでしか自分を保てなくなった。そこで、「ナイチンゲール」は特殊班として裏方に。エヴァは「ジャック」として表で戦うようになり、距離を置いた』
「そして、私たちの知っている状況になったと」
『そういうわけだ。……知りたいことは、これで全部かい』
「お前たちはどうだ」
「フーヴァー」は一同を見渡した。
誰も口を開かない。それを確かめ、「フーヴァー」は静かにうなずいた。
『長い話になってしまったな。……もう一度言おう。もう、話せることはすべて話した。この星を救うためと言う大義名分に任せて、君たち自身に関わることを、ずっと伏せていたことを謝るよ。私を信じられないというなら、いつでも言ってくれ』
返事を待てなかったのだろう。土偶はそう言い放つと通信を切った。
彼の姿が消え、会議室に光が戻る。「フーヴァー」は深々と息を吐くと、残された指令に声をかけた。
「……指令。巻き込んですみません」
「いいえ、「フーヴァー」。私も同罪です」
「フーヴァー」は指令の細い肩に手を乗せようとしたが、「ジェロニモ」がそれを制した。
老女の肩は震えていた。
「……ごめんなさい。みんな。今は、一人にしてください」
*
会議室を後にしたホルダーたちは、ひとまずラウンジに腰を落ち着けた。
誰かが言う。
「実際、どうする」
全員の、全員に対する問いかけ。誰もが明確な答えを持たない中、胸を張る少女がいた。
「ネロ」だ。
「……戦わなくてもいいと言われようと、余の答えは一つだ。余が戦わねば、世界は救えぬ。たとえこの身に宿る力が何であれ――そのせいで、「沖田」や「信長」が悲劇に見舞われようと、それは変わらぬ。余は行くぞ」
そう言い、さっさと歩き出してしまう。
「……そういやオレら、当番でヤヴィンに来たんだっけか」
「僕は覚えていたよ、勿論ね。さあ、サンノゼの警戒に行こうか」
そして、「ロビン」と「アマデウス」もそれに続いた。
彼らの足音がすっかり遠ざかってから「アヴィケブロン」がつぶやく。
「……戦おうにも、ボロボロでね。おまけに他のメンバーもあの調子だ」
「じゃあ、私が代わりに入ろう。その提案もかねての訪問でね」
「そうか。それは助かる。君ならば頼もしいよ、「ダ・ヴィンチ」」
「あとは――「ヴラド」でも呼び戻そうか。第五小隊も四人いるし、いけるだろう」
「彼か。懐かしいな」
「アヴィケブロン」と「ダ・ヴィンチ」が席を外した。
それを見て、「三蔵」が勢いよく立ち上がった。
「こうしちゃいられないわ! 鍛え直さないと!」
「全く、お師さんは変わらんな」
「まあ、それでいいんじゃねーの?」
「同意」
第三小隊の面々がトレーニングルームに向かう。
そして、「メリエス」たちも仕方なく動く。
「地元帰っても、仕事ないですし……」
「世知辛いね。そういう僕も、母さんに無理言って故郷を出て来たから」
「■■……」
「「ロボ」は……まあ、聞くまでもないか」
第一小隊の面々も歩き出した。
残ったのは、「サンソン」と「フーヴァー」、そして「シェイクスピア」だ。
「おい、スランプ作家。結局こうなったわけだが、お前はどうする?」
「吾輩は、しばしここにとどまりましょう。新たなホルダーも見つかっておりませんし、いざとなれば――」
しかし、その手は震えていた。
「無理をするな。ストーンフォレストの時は、結局ハコを作るので精いっぱいだったんだろう。本当の闘いになったら、出られるのか?」
「ははは……情けない」
「では、しばらく僕らが特殊班と言うことで。僕も、こっちで解剖の仕事を進められるように手配しましょう」
ホルダーたちの中には、土偶を信じきれないものもいたかもしれない。
だが、この状況で言い出すものはいなかった。
世界を守るための戦士としての義務感――あるいは、「ナイチンゲール」が示した、母としての在り方に希望を見出してか。
E遺伝子ホルダーたちは、それぞれの方向に向かって歩き出した。
*
「……みんな、結局戦うことにしたんだ」
手元のタブレットの画面には、ホルダーたちのひとまずの意思が示されていた。
もはやE遺伝子ホルダーではなくなってしまった真緒は、それをぼんやりと見つめていた。
体調は想像以上に良いようだ。
三日後、真緒は故郷に帰る。
親友も、戦友も、もういない日本へと。