授業の終わりと、放課を告げるチャイムが鳴った。
「起立」
日直のその声に従って、1時間近く椅子に拘束され、凝り固まった体を、先生に文句を言われない程度の動きでほぐしながら立ち上がる。
「礼」
適当なお辞儀をして、すぐに再び着席し、俺はテキパキと帰り支度を始める。机の中から、今日出された課題に必要なものを取り出し、長年愛用しているトートバッグに詰め込む。そうしてトートバッグを肩にかけ、教室の喧騒に紛れながら、既に開けてあったドアを通った。
今日は、待ちに待った新作ゲームの発売日で、いつもならそこそこ真面目に受けている授業の内容は、全く頭に入ってこなかった。いつもの通学路上にあるゲームショップに、普段よりも早足で向かい、店に入っても他の商品には目もくれず、レジに直行。店員に予約商品の引換券を差し出し、代金を払う。そして、またもや早足で店を出た。
帰宅してすぐにトートバッグを机の上に置き、部屋着に着替える。ゲーム機を起動し、その間にソフトを開封する。パッケージからディスクを取り出し、もともと入っていたディスクと入れ替える。そして視線を上げれば、買ってからだいぶ経つモニターに、画面が映し出される——はずだったのだが。
「……あれ?」
おかしい。モニターが起動しない。何度電源ボタンを押しても、プラグを抜き差ししても、真っ黒な画面があるだけだった。
——もしかして、壊れた?
最悪だ。なんで、よりにもよってこんなタイミングで。しかし、いつまでも悲嘆にくれている訳にもいかない。すぐに気持ちを切り替えた俺は、近くのリサイクルショップに向かうべく、まずはトートバッグから財布を取り出し——取り出したところで、思い出した。もう今月はあのゲームを買うだけの金しか確保していなかったことを。つまり、今の財布はすっからかん。なんとも言えない悲しさに襲われた俺は、ある決意をした。
「……バイト、しよ」
*
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
バイトを始めてしばらく経つが、ようやく苦手だった接客も板についてきた。正直に言って、接客は羽沢さんに任せて、俺はレジ打ちをやった方がいいと思うのだが、それは俺の安いプライドが許さなかった。
席についたお客さんに対して、定型文をなるべく丁寧な口調で伝え、その場を離れた。
前はこれをするだけでかなり精神的につらいものがあったのだが、今はもう慣れた。
ふと羽沢さんの方に目をやると、俺に微笑みかけてくれた。そんな羽沢さんを見るだけで、バイトの疲れなんて軽く吹き飛んでしまうように感じる俺は、もう結構アレだと思う。
扉に吊るされたプレートを『OPEN』から『CLOSE』に変え、店の中に戻る。お金周りのことは羽沢さんのご両親に任せて、俺は掃除を始める。こんなことを言うのもどうかと思うが、このバイトを始めて一番身についた力は、清掃能力ではないだろうか。
そうこうしている内に、俺は清掃を終えた。厨房の方の清掃を担当している羽沢さんとは、大体同じくらいのタイミングで終わるのだが、今回は俺の方が早かったようだ。羽沢さんの手伝いをしようと、厨房に向かう。そこで皿洗いをしていた羽沢さんの隣に立つ。
「手伝うよ、羽沢さん。俺が洗うから、羽沢さんは拭いてくれる?」
「え、でも……」
「いいからいいから。いつも羽沢さんには助けられてるんだから、これくらいのことはしないと」
「じゃあ……お言葉に甘えて」
それから程なくして皿洗いを終え、控え室で一息ついていると、俺の目の前のテーブルにマグカップが置かれた。視線を上げると、そこには羽沢さんがいた。
「お疲れ様、寺崎くん。さっきはありがとね。お礼って言ったらなんだけど、コーヒー、飲む?」
どうやら、目の前のコーヒーは羽沢さんがいれてくれたようだった。羽沢さんは時々、こうしてコーヒーをいれてくれる。せっかく羽沢さんが作ってくれたものをいただかないなんて俺には出来ないし、するつもりもないので、その都度美味しく飲ませてもらっている。
「ああ、ありがとう羽沢さん」
そう言ってマグカップを持ち上げ、1口飲んだ。
「うん、相変わらず美味しい」
「そう? なら良かった」
それからもしばらく羽沢さんと話していると、もう30分近く経っていた。そのことに気づいた羽沢さんは慌てた様子で俺に謝ってきた。
「わっ、ごめんね! こんなに長く話しちゃって……」
俺からすれば、羽沢さんは謝る必要なんて微塵もない。むしろ、感謝したいくらいだった。
「全然大丈夫だよ。羽沢さんと話せるの、楽しいし」
羽沢さんに謝る必要はないと伝えようして、口をついて出た言葉がかなり気持ちの悪いものだったことに気づき、後悔した。
恐る恐る、羽沢さんを見てみると、
「え、えっ、ほ、ほんと?」
そこには、少し頬を赤らめ、こちらを見つめる羽沢さんがいた。
——あ、あれ? なんか思ってたのと違う。
俺としてはもっとこう、なんだこいつキモ私こんなやつと一緒に働いてるのかよ、みたいな反応を予想していたのだが。
「あ、ああうん」
「そっか……そうなんだ……えへへ」
——天使かよ。
じゃなくて! なんだこの甘酸っぱい雰囲気は。誰か助けてくれ。
「つぐみー? ちょっと来てくれない?」
俺のその願いが通じたのか否か、外から羽沢ママの呼ぶ声が聞こえた。それで羽沢さんも正気に戻ったのらしく、さっきよりも一層赤くなり、
「あ、ご、ごめん! 行ってくるね!」
そう言ってたどたどしく去っていった。
「……俺も、帰る準備するか」
*
俺は基本的に、休日は家で過ごすタイプだ。外出するなんて以ての外。まあ、別に休日に限った話ではないが、とにかく家で過ごしたい。何かの行事で、土曜日に登校しなければならない時の金曜日の夜は、それはもう憂鬱だった。
何が言いたいのかと聞かれれば、そんなタイプの人間である俺が、わざわざ貴重な土曜日に、バイトのために早起きをしているのには当然理由がある。
話は変わるが、俺がバイトを始めた当初の目的は、もう既に果されている。それではなぜ、今もバイトを続けているのか。
もちろん、羽沢さんに会うためだ。
「おはようございます」
従業員用の入り口から中に入り、羽沢さんと、羽沢さんのご両親に挨拶してから、更衣室に向かった。そこで、いつも着ている赤のエプロンに袖を通し、開店の準備を進める。いつも通り雑巾を手に持ち、テーブルを丁寧に拭いていく。
俺の仕事は主に、清掃と接客だ。たまに厨房に立つこともあるが、余程のことがない限りは、店内を駆け回っている。最初は接客を回避するために、厨房の仕事をしようと思っていたのだが、まともにこなせるのが皿洗いくらいしかないことに気づき、なくなく、というわけだ。
そんなこんなで開店準備を終え、プレートを『OPEN』に変える。
今日も一日がんばるぞい!
ドアベルの音が店内に響く。ドアから通ってきたのは、今はもう見慣れた、ピンクの髪をした女の子だった。
「いらっしゃいませ、上原さん」
「うん、おはよ! 寺崎くん」
まだ店内に人がいない、開店してからさほど時間が経っていない朝方に、上原さんが店に来る時は、大抵、愚痴を聞いてほしいときだ。
その内容は、上原さんたちの幼馴染たちに関するものがほとんどだ。上原さんたちは、上原さんと羽沢さんをいれた幼馴染5人で、Afterglowという名前のガールズバンドを組んでおり、そのリーダーを務めているのが上原さんだ。彼女らには、俺も何度かあったことがあるが、まあ、我が強いというか、個性的というか——主に二人だが——そんな面子をまとめるわけだから、当然、愚痴をこぼしたいときだってあるだろう。
女子の愚痴というのだから、俺は最初はどんな刺々しいものが飛び出てくるのだろうかと、耳を澄ませていたのだったが、いざ聞いてみれば、彼女たちの中の良さを感じさせるものばかりで、女子の愚痴というのだから、かなり衝撃を受けた覚えがある。うちのクラスの女子にも見習ってもらいたい。
それはともかく、今日も愚痴を聞いてもらいにきたのかなと思い、俺が言うまでもなく、空いている席に座った上原さんを見てみると、背負ってきたリュックからノートやペンケースなどを取り出していた。勉強しに来たのかな。気になった俺は、注文を聞きに行くついでに、確かめてみることにした。
「上原さん、いつものでいい?」
「うん、ありがとー、寺崎くん」
「いえいえ。それで、今日は勉強?」
「そうなの! 家だとなかなか宿題が進まなくてさー」
やはり勉強をしに、というか課題を片付けるために来たらしい。俺も力になれるかもしれないと思い、テーブルに広げられた参考書の類を覗いてみるが、表紙に印刷された”数学”という二文字を見て即撤退した。
羽沢ママに注文を伝える。それから、三十分程たった頃、カウンター付近でぼうっとしていると、またもやドアベルの音。ドアから出てきたのは、銀髪の女の子、青葉さんだった。
「寺崎くん、おはよ〜」
「うん、おはよう青葉さん。珍しいね、この時間帯にくるの」
青葉さんが店に来る時間は、まちまちなのだが、朝にやってくることは少なかった。
「実は、ひーちゃんに宿題手伝ってって、お願いされてさ〜。あたしも終わってなかったし、ちょうどいいかなーって」
上原さんは青葉さんを援軍に呼んだみたいだ。確かに、一人でやるんだったら家でするのとあまり大差ないだろうしな。
頑張ってね、と一言エールを贈って、上原さんのテーブルに向かう青葉さんを見送った。
「あ、モカ! もう、遅いよ~!店開いたらすぐやろうって言ったのに!」
「まあまあ、ひーちゃん、落ち着いて。あんまりイライラすると、集中できないよ〜?」
「モカのせいなんだけどね!」
うんうん、今日も元気でよろしい。彼女たちの会話を聞くことは、俺のバイト中の楽しみの一つでもある。
そしてそこに、上原さんの頼んだものを持ってきた羽沢さんが合流する。
「はい、ひまりちゃん」
「うう、ありがとうつぐ……」
「モカちゃんも、あんまりひまりちゃんをいじめちゃだめだよ?」
羽沢さんの溢れんばかりの母性にはさすがの青葉さんも敵わず、は〜いと、いつもののんびりとした口調で返事をしていた。しかしそれも束の間、すぐさまいつものいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「ねえつぐ〜。最近さあ〜」
「寺崎くん、今大丈夫?」
「あ、はい! すぐ行きます」
タイミングよく羽沢ママに呼ばれてしまい、俺がその先を聞くことはかなわった。
「ねえつぐ〜。最近さあ〜、寺崎くんとはどうなの~?」
「え? いや、どうって言われても……」
モカちゃんの質問の意図が分からず、私は困惑した。すると、モカちゃんはいつもよりも一段とニヤニヤした表情を浮かべた。
「だからー、寺崎くんとの関係に、何か進展あった〜?」
その言葉を聞いて、自分の顔が熱くなるのが分かった。何か言わなければと思い、口を動かそうとするも、上手く動いてくれない。
「おお〜。赤くなっちゃった〜」
「ねえ、モカ。寺崎くんとつぐがどうしたの?」
「あれ、ひーちゃん知らないの~? つぐはねー、寺崎くんのことが——」
流石にそれ以上のことを言われるのは私にもマズいと分かったので、止めに入った。
「モ、モカちゃん! それ以上はだめ!」
「ええー、なんで〜?」
「だめなものはだめ!」
何とかモカちゃんを止めることに成功した私は、ふぅ、っとため息をついた。もうひまりちゃんには分かられてしまったかもしれないけれど、直接言葉にされるよりかはマシだった。
「あ、寺崎くん、戻ってきたよ〜」
用事を終え、再びカウンターに戻ってくると、何故か羽沢さんが赤くなっていた。
「羽沢さん、どうかした?」
「あ、ううん! 何でもないよ!」
そう言って厨房の方に行ってしまった。本当にどうしたのだろう。何故かニヤニヤしている二人に聞いてみる。
「上原さん、青葉さん、何かあったの?」
「いいやー、何も無かったよ〜。ねー、ひーちゃん」
「ねー」
この二人の妙な一体感からしてみても、俺がいない間に何かあったことは間違い。けれど、幼馴染同士、積もる話もあるだろうし、それを詮索するのは野暮というものだ。俺は大人しく引き下がることにした。
それから、今日一日、羽沢さんに避けられてるような気がして、あれ俺なんかしたかなと落ち込んだのは別の話。