小学生のときにいじめられて以来、人と深く関わらないようにしてきた。自分の発言や行動を不快に感じる人間がいて、それが自分を傷つけることに繋がるのだと、おしゃべりだった少年は悟った。
人と関わらないようにするために、まずは自分に出来ることを増やすことにした。なるべく人に頼らなくてもいいように。今でも、料理と数学は苦手だが。
孤独であることが、いじめられる条件になりうることを分かっていた俺は、友達を作ろうとした。けれど、人との距離感の掴み方と、接し方が分からなくなってしまった俺は、それにさえ苦労した。そうしてなんとか人付き合いを続けているうちに、自分は人に頼られやすいということが分かった。誰かに頼るという形で、人と関わることを避けるために、やれることを増やしたのに、皮肉な話だった。それからは、なるべく人に頼られないように立ち振舞った。
けれど、羽沢さんに出会ってから、俺は少し、いやかなり変わった。初めて人に頼られたいと思った。この人のことをもっと知りたいと思うようになった。だから、暇なときは積極的にバイトをするようにした。そうして羽沢さんと交流を重ねていくうちに、人と関わることに、前向きになっていた。
何より俺は、羽沢さんの、誰かのために頑張る姿に心惹かれた。羽沢さんは、自分は普通だと言っていたけれど、それは違う。誰かのために頑張れることが、どれだけ美しく、尊いことなのか、羽沢さんは知らないのだ。
だからこそ、いつも頑張っている羽沢さんを、支えてあげたいと、そう思ったんだ。
* * *
雨音が聞こえる。ここのところ、ずっと雨のような気がする。
羽沢さんが倒れてから、二日経った。上原さんさんから聞いた話によれば、倒れた原因はやはり過労だそうだ。幸いなことに、症状はさほど重くなく、二、三日すれば良くなるとも。電話をしてきた上原さんは、声だけでも堪えているのが分かったが、その時の俺に、彼女のフォローをしてあげられる余裕はなかった。宇田川さんが上手くやってくれたと信じたい。
この二日間、意味の無いことだと思いつつも、自分を責め続けた。俺は羽沢さんの負担を減らしていた気になっていただけだった。肉体面よりも、精神的な支えになってやるべきだったのに。
俺には、羽沢さんのために出来ることがあるのだろうか。人と関わろうとしてこなかった俺が、誰かを助けたいだなんて思っていいのだろうか。
そんな思いが胸の中を渦巻いて、今、目の前の扉をノックできずにいた。
——何を躊躇ってる。
とにかく、羽沢さんの様子を確かめるだけでもいい。中に入ろう。コンコン、とドアを叩いた。
「どうぞ」
ドアの向こうから聞こえてきた声は、想像していたよりも、ずっと力があって安心した。意を決して、ドアを開く。
「! 寺崎くん……」
「こんにちは、羽沢さん。調子はどう?」
俺の顔を見た羽沢さんは、驚いたあとに悲しげな表情をして、目を伏せた。俺が来たのがそんなに嫌だったのだろうか。申し訳ないことをしてしまった。
「うん、もう大分いいよ。疲れて熱が出ただけみたい」
「……そっか」
沈黙が続く。俺も、話すことをまとめないで来てしまったために、口を開けずにいた。そんな中、羽沢さんがぼそっと、呟くように言った。
「……ごめんね」
それは謝罪の言葉だった。けれど、俺は謝られるようなことをされた覚えはない。
「どうして、謝るのさ」
「お店のこととか、せっかくやってくれたのに、私、倒れちゃって……」
「そんなの、気にしないでいいよ。俺が好きでやってることなんだから」
だから、そんなに悲しそうな顔をしないでくれ。
「そんなの、無理だよ……。寺崎くんだけじゃない、私、いろんな人に迷惑かけた。みんなに置いていかれないように、練習してたのに、結局はみんなの邪魔をしただけだった!」
羽沢さんの慟哭が響く。そこいたのは、自分の失敗を嘆き、後悔の念に押し潰されそうな、一人の少女だった。
その姿を見て、思い出した。
そうだ。俺がするべきことなんて、初めからから決まっていたじゃないか。
「私、どうしたら……」
「羽沢さん」
俺に出来ること。
「俺さ、羽沢さんを支えたいんだ」
一番最初に抱いた、その思い。もう、迷いは消えていた。
「羽沢さんは、何でもかんでも一人で抱え込んじゃうし、何も言ってくれない」
羽沢さんは、どんなに辛い時でも、笑顔を絶やさなかった。弱音なんて吐かなかった。誰も心配させないように。それはきっと、仕方のないことで、俺なんかにはどうにもできないことかもしれない。
「でも、俺にはそれが悪いこととは思えないんだ。だからこそ、俺を使ってほしい」
この役目は、俺じゃなくても出来ることだ。たまたま、今この瞬間、俺が成れているだけかもしれない。
それでも構わない。ただ、俺は。
「心が折れてしまいそうなくらい辛くて、でも誰にも言えない時は、俺が羽沢さんのそばにいるよ」
羽沢さんに笑っていてほしい。あんなに、辛そうな声で泣く羽沢さんを、見たくない。そんな、身勝手な理由だけれど。
「今だけでもいい」
ほんの少しでも、君の支えになれたなら。
「君の一番近くで、君を支えさせてほしい」
雨音はもう、聞こえなくなっていた。
*
その後に羽沢さんはひとしきり泣いた。今まで一人で貯めてきた分、感情が爆発したのだろう。それは全然いいことで、むしろ喜ばしいのだが、今の問題はそこではなかった。
「……」
「……」
昂っていた感情が冷めて、二人とも冷静になった。
まあつまり、何を言いたいのかと言うと。
——滅茶苦茶恥ずかしい。
今、冷静に考えて見れば、とんでもないことを言ってしまったのではないだろうか俺は。何だよあの台詞。告白なんてレベルを軽く超えて、プロポーズの域に片足突っ込んでる。羽沢さんなんか顔を真っ赤にして俯いている。ああでも、このままでも話が進まないのも事実で、もうこれ以上恥をかくこともないだろうと、腹を括った俺は、意を決して切り出した。
「羽沢さん」
「は、はい!」
何もそんなに驚かなくても。
「これからどうしよっか」
俺は羽沢さんを支える。その言葉に嘘はない。だからこそ、羽沢さんがどうしたいのかを知っておかないと。
「謝るよ、みんなに。迷惑かけてごめんなさいって。とりあえずは、そこからかな」
羽沢さんの表情に、先程のような悲しみはなく、ただ穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「ああ、わかった」
俺もとりあえずのところは、今まで通り羽沢さんの負担を減らす方向で良さそうだ。ああそうだ、一つ言い忘れていた。
「羽沢さん。頑張りすぎるのを悪いなんて言うつもりはないけど、それでも、今回みたく倒れるなんてのはやめてよね。本当に心配したんだから」
「あ、あはは。ごめんなさい……」
それからは、時間いっぱい話した。俺も羽沢さんも、話したかったことは色々あって、話題が尽きることはなかった。
そして、面会時間もそろそろ終わりに差し掛かってきた頃、羽沢さんから予想だにしない話が出てきた。
「あ、あのさ寺崎くん!」
「何?」
「わ、私達、知り合ってから結構時間が経つけど、未だに名字で呼びあってるよね?」
「ああ、そうだね。でも、それがどうかしたの?」
羽沢さんが何を言いたいのか、見えてこない。
「下の名前で呼びあってみない!?」
「……」
俺は思わず固まってしまった。確かにいつまでも名字で、というのは他人行儀かもしれないけれど、今更下の名前で呼ぶというのも、気恥ずしいところがあった。
「ダメ……かな?」
いえいえ全然ダメじゃないです。
羽沢さんの上目遣いと、猫撫で声の最強コンボに勝てるはずもなく、俺はあえなく撃沈した。
「いや、全然大丈夫だよ。これから改めてよろしくね、つぐみさん」
さん付けはしてしまったけれど、これくらいは許してくれるだろう。むしろ、一回も噛まずに言えたのを褒めてほしいくらいだった。
「うん! よろしくね、一兎くん」
家族以外にそんなふうに呼ばれるのは、随分と久しい気がして、また顔が赤くなっていくのを、俺は感じていた。