彼を好きになったのは、いったい何時からだろう。
最初に会ったときは、不思議な人だと思った。何でも出来るのかなと思ったら、料理はてんでダメで。何処か距離を感じさせる人だった。
時間が経つにつれて、優しい人だと考えるようになった。私が困っていると、いつも助けてくれた。一緒に解決策を考えてくれた。ガルジャムとか、いろんなことで大変だった時に、お店のことは任せてほしいと言ってくれたときは、申し訳なくもあったけれど、それ以上に嬉しかった。結局、倒れてしまったが。
いつもはひた隠しにしている、私の弱い部分も、彼にだけは、何故かすんなり打ち明けられた。今思うと、随分みっともない姿を晒したものだ。
彼を好きになったのは、いつからかは分からない。最初からではなかったような気もするし、しばらくしてからかもしれない。大事なのは、今、私の胸の中にあるこの気持ちだ。彼と話すと、大きく暖かくなる。子供ながらして、幸せって、こういうことを言うんだろうなと思った。彼が、私の知らない女の子——あとから聞いた話では、クラスメイトらしい——と話しているところを見たときは、胸が痛くなった。だから、彼が好きな人はいないと言ったときは、本当に安心した。
いつか、この気持ちを彼に打ち明けたい。その先に待つ未来が、明るいものでなかったとしても。
* * *
今日は羽沢珈琲店の定休日だ。もちろん、つぐみさんの面会に行こうと思ったが、あんまり早くに行くのも迷惑かな、と思い、少し遅めにすることにした。荷物をまとめ、イヤホンを耳に突っ込んで、家を出る。いつも聞いているゲームミュージックをBGMに、ふと思い出した。
つぐみさんのことでいっぱいいっぱいだったから、完全に忘れてきていたけれど、上原さん達はどうしているのだろう。上原さんとは、あの電話を貰った時以来話していないし、他の面々もそれは同じだ。今回のことが原因で、みんなの中が悪くなるようなことにならなければいいのだけど。
*
つぐみさんの病室の前に立ち、ドアをノックする。ここに来る前、婦長さんからあまりうるさくしないようにと注意されたのだが、どうして今更そんなことを言われてしまったのだろう。何かあったのかな。
「はい、どうぞ」
つぐみさんのその声を聞いてから、部屋の中に入った。つぐみさんを見ると、嬉しそうににこにこしていた。可愛い。
椅子に腰掛けてから、そのわけを聞いてみる。
「つぐみさん、何かあった?」
「うんっ、実はね——」
羽沢さんの話を聞くに、俺の心配は杞憂に終わったようだ。もしそうでなかったとしても、俺が力になれたとは思えないが。それと、婦長さんに注意された理由が分かった。
「ああ、だからか」
「? 一兎くん?」
一人で納得していていると、つぐみさんに怪訝な顔をされてしまった。いかんいかん。
「いや、何でもないよ。そういえば、ライブはいつなの?」
「えっとね……あと二、三週間後くらいかな」
ふむ。そう遠くない。実を言うと、俺はガルジャムを見に行こうと考えていた。最近まではそうとは思っていなかったのだが、俺なりにいろいろ思うところがあって、そういうことにした。もっとも、そのことを今のつぐみさんに伝えるつもりはない。今は、しっかり休むことに専念してほしいというのが、俺の願いだった。もちろん、退院してからは言うけれど。
「私ももうすぐ退院できるし、また練習頑張らないと!」
つぐみさんの言葉に、以前のような焦燥感は感じなかった。俺はそれが嬉しくて、つい笑ってしまった。
「うん、俺も応援してる」
つぐみさんも、もう無理はしないと言っていたし、心配いらないだろう。
「それでね、一兎くん。お店のことなんだけど、やっぱり私も手伝うよ」
つぐみさんがそう言うなら、俺にそれを拒否する権利はない。でも、理由は聞いておかないと。
「どうして?」
「いくらガルジャムが近いからとはいえ、一兎くんに任せっきりっていうのは申し訳ないよ。それに……」
その続きは、つぐみさんが何故か顔を赤くして黙り込んでしまったために分からなかったが、理由は分かった。
「分かった。それじゃあ、また一緒に頑張ろうね、つぐみさん」
「うん!」
* * *
ガルジャムまで、残すところあと一週間ほどとなった。
つぐみさん達も、今まで以上に気合いを入れて練習しているらしく、時たま店に訪れる彼女達からも、それは感じ取れた。俺はというと、つぐみさんにガルジャムを見に行くと伝えるタイミングを完全に逃してしまい、どうしようどうしようと慌てていた。もういっそ行くのやめようかななんて、やけになりなって歩いていたら、やまぶきベーカリーに寄った帰りらしい青葉さんに捕まり、近くの公園まで連行された。幸い、まだバイトが始まるまでは時間があるので、別に構わないのだが。ベンチに腰掛けて、さあ何を話そうかと意気込んでいたら、青葉さんの方から話を切り出してきた。
「寺崎くん、最近、つぐとはどんな感じ〜?」
「どんな感じって……。特に変わったことはないと思うよ」
「ええ〜、ほんと〜? 名前で呼び合うようになったのに〜?」
「そ、それは……まあ、そうだけど」
確かにそれは、大きな変化の一つだろう。
「寺崎くんはさ〜、つぐのこと、好きなんだよね〜?」
「ああ、そうだね」
「……」
青葉さんは、不満げな顔をしていた。
「ど、どうしたの?」
「なんか、すっと言っちゃうんだなあって思って〜」
「今更恥ずかしがるようなことでもないからね」
「ふ〜ん。そうなんだ〜」
それから青葉さんは、少し間を置いた。
「じゃあさ〜、つぐに告白とかって、しないの〜?」
告白。そんなこと、考えてもみなかった。でも俺はただ、今だけでもつぐみさんのそばにいられれば、それで満足だった。
「今のところはないかなあ」
「どうして〜?」
「俺は今のままでも満足してるし」
青葉さんは何故か、大きくため息をついた。
「でも、つぐはそうは思ってないかもよ〜?」
「? それってどういうこと?」
「さあ? どういうことでしょ〜」
この話は終わってしまい、その意味を聞くことは叶わなかった。青葉さんとは少し話をした後に別れた。
公園から、羽沢珈琲店までの道を歩きながら、考える。つぐみさんに、告白する。確かに、つぐみさんと恋人になれたなら、それは最高だ。けれども、そんな都合のいいことになるとは限らない。つぐみさんが俺の告白を断ったら、間違いなく今の関係は維持出来なくなる。それは、俺にとって非常によくない事態だ。だって、そんなことになれば、つぐみさんのそばで、つぐみさんを支えるということが出来なくなってしまう。そのことを考えると、どうしても告白する気にはなれなかった。
でも、もし。もしも、なんて考えることがどれだけ意味のないことかなんて、分かってる。それでも、考えずにはいられなかった。今だけじゃなく、これから先も、ずっとつぐみさんのそばにいることが出来るなら。
全く、自分が嫌になる。告白する気はないなんて、青葉さんに言っておきながら、この有様だ。
こんな状態で、気持ちがまとまるはずもなく、取り敢えず、ガルジャムを見に行くことは、今日のうちに伝えようと決意した。