雨雲を告げる、雷鳴。黒く鈍い雲が扁平に空を押し広げて太陽を隠す。
熊笹が騒がしく揺れる。
「イヤな雲行きだねぇ……」
湿り気を帯びた大気の匂い。
禿頭の、やや後頭部の長い畸形な風貌の老人が山の隘路をゆきながら呟く。彼は盲人であった。その証拠に、開かれた眼は白い膜が張っており瞳は虹彩が失われている。
彼の右手には竹竿が一本握られており、頻りに地面を叩く。障害物の判断を行っているようだった。
また、「チッ、チッ」と舌打ちをしながら反響する音で周囲の状況を理解しているようだった。
この行動は、例えばイルカやクジラの用いるソナー効果と等しい。
盲目の老人の背中には、琵琶が背負われていた。ボロボロの袈裟から裸の肩が半分出ている。お灸の跡が肩にいくつか点在している。
――祇園精舎の鐘の声、沙羅双樹の響き有り…………
平家物語の冒頭の一節を、飽きもせずつぶやき続ける。
ふと、畸形の禿頭の男はぴと、ぴと、滴る雨が鼻先に落ちたのを感じ、空を仰ぐ。
「百鬼丸――お前が、このイヤな風を連れてきたんだねぇ……キヒヒ」
唇を剥いて歯抜けの口で笑う。
1
原子力潜水艦『ノーチラス号』は、小笠原諸島から北上し八丈島を経由して西日本の海域へと赴いた。冬の日本海は殊に海潮が変わりやすく、また荒れやすい。とはいえ、それは海上での出来事であり、深層へと潜るノーチラス号には関係がない。
……余談になるが、日本国の領する海域は世界でも有数であり、四隣を海に接する島国であれば自然漁業が盛んになっている。しかし、近年の日本食ブームを背景とする魚介類への関心は高く、逆に欧米風の食生活に慣れ始めた日本では魚介類の消費は減っている。
また、一次産業の労働者不足により更に経済規模は収縮するだろうと予想されていた。
西日本、例えば古代から中世の近畿地方は豊富な平野と関門海峡を入口とする瀬戸内海から安定した航路で海運の富を齎す。――奈良時代、未だ日本という国が大らかであり、東日本の富士の辺りまでアイヌ人が存在し、富士山が活火山で活発に噴火する頃。
小烏丸と云う鋒両刃造りの刀剣は、かような時代に産声を上げた。伝承によれば、桓武天皇が作らせた、とも言われている。事実は分からない。
ただ平将門の戦役の際に天皇より拝領を賜る程の刀剣であったことは間違いがない。
西暦四世紀~から一〇世紀は丁度小氷河期に当たり、また現代と異なり寒冷に弱い米などの稲作は収穫を減らした。屡々、このような天変地異を鎮めるために刀剣を神に奉納し、国家的な事業の一つとして寺社仏閣の建立にも捧げられた。
武器――の側面としては、刀剣は役割を「槍」や「弓」へと譲る格好となっていた。それでも人々は刀剣に神性さを見出していた。
弘法大師空海、という日本史史上でも比類ない大天才は水利の事業を得意とした。彼の生きた時代には平安京に遷都途中の平城京での学生生活であった。
奈良の山麓ではこの時代ごろ作られた、穴ボコのようなものが散見される。これは、穴窯といい、原始的な方法で陶磁器の製造に用いられた。登り窯の登場以前のものであり、単に穴へと薪を焼べて昇温させる、非効率的なものであった。地下水の湧く山では、あまり成功率は低く、また木々の伐採は自然に大きな悪影響を与えた。
これは、すなわち、陶磁器以上に火力を必要とする刀剣の場合においては、窯は関係ない。――だが火の燃料となる供給源は重大な課題であった。
だからこの時代の刀工たちはまず、材料や燃料の面において苦悩を強いられた。
刀工たちの文化圏を気づきあげた備前長船、美濃関、現在の長船女学園と美濃関学院である。刀使の発祥は諸説あるが、歩き巫女(これは、本来的に売春を生業とした諜報員とも言われている)が各地から御刀を齎すきっかけとして、二つの土地から持ち帰ったのかも知れない。
2
「本当にいいのか?」
百鬼丸は心配を含んだ声音で訊ねる。
潜水艦の廊下の壁に背中を預けた少女……十条姫和は、薄く閉じた目を横にやって頷く。
「ああ。お前に何か関係する事柄が解るんだろう?」
「その可能性が高いだけだ。確定じゃない……だが、手掛かりになりそうなんだ」
己の本当の出自に近づけるような――そんな予感を持ちながら、はやる気持ちを堪えて静かに説明する。
「そうか」素っ気なく姫和は首肯する。
「い、いやでもそんなに簡単に許してくれていいのか?」
あまりに呆気ない返事に百鬼丸が逆に驚いた。
「なんだ、不満か?」
目を開いて百鬼丸へ頭を向ける。姫和自身もまた、何か蟠りを残したような顔つきであった。
姫和自身もまた、折神紫という個人と会話を交わしたことで心ここにあらず、という状態になっている。御膳試合の決勝であろうことか折神家当主を斬りつける凶行に及んだ、彼女自身は一歩間違えばテロと変わりない。
それも、タギツヒメという大荒魂の討伐の為と、使命感に駆られたからに他ならない。
こんな大目的を果たした――そう思った矢先に、予想外の事実を突きつけられる。気持ちがまだ整理できていないんだろう。
百鬼丸はそう、推量する。
その証拠に、先程から平然とした様子を装いながらも意識が遠くに置かれているような反応を繰り返すばかりであった。
(参ったなぁ……)
百鬼丸はすっぱり困ってしまい、後頭部を乱暴にガリガリと掻く。
「なあ、ぺった……姫和」
「どうした?」
「その御刀……小烏丸は、突くことに主眼を置かれた刀剣なんだよな?」
「ああそうだ」
迅移による次元の狭間を利用する高速移動で、荒魂に憑依された人間ごと次元の彼方へと連れ去る…………その為に、突に特化した小烏丸はまさに最良の道具と言えた。
「姫和の母さんはどんな気持ちで、そいつ持ったんだろうな」
百鬼丸はまるで独り言みたいに、つぶやく。全くなんの意見もない。ただ、純粋な疑問を口にしたのだ。
「…………。」
その時、姫和は初めて意識を肉体のある位置へと戻した気がした。冷水を浴びたように、皮膚が一瞬冷たくなり、小烏丸を身に引き寄せる。
「その資料の在り処は知らない。だがもし、それを残していれば少しは母の気持ちが汲み取れると思うか?」
左右に静かに首を振る百鬼丸。
「わからん。そればっかりは直接本人に聞かないとな」
と、百鬼丸は廊下の角に二人とは別の人の気配が感ぜられた。
「出てきたらどうだ?」
気楽に、威嚇する風もなく百鬼丸は告げる。
廊下の角から出てきたのは、衛藤可奈美だった。
「えへへ~、バレちゃった」
桜色の舌をぺろっと出して、含羞む。彼女がなぜこの場にいるのか何となく予想はついていた。
だから百鬼丸は嘆息混じりに、可奈美を見据える。
「話を全部聞いてたんだよな?」
バツが悪そうに、盗み聞きした事実を少女は俯き加減に頷いた。
「……うん、ごめんなさい。でも私も姫和ちゃんと百鬼丸さんの力になりたくて……一緒に付いて行ってもいいかな?」
まるで縋るような眼差しで、百鬼丸を見上げる。
百鬼丸は可奈美の言いたいことも気持ちも理解はできた。――だが。
「無理だ。いいや、多分、世の中の事情が許さないだろうな」
「ど、どうしてっ!?」
目を大きく瞠り、ショックを受けたような表情を浮かべる可奈美。
「お前は、刀使の中でも特別に強い。今、主力で活躍してる刀使の中でも可奈美が一番だ。それに姫和が抜けたらどう考えてもタギツヒメの襲撃に対応できないだろ? 姫和は何とかおれと行動できても、可奈美も一緒には無理だ……」
百鬼丸の冷静な分析に、反論する余地すらない。
甘栗色の、可愛らしい少女は、だから少しだけ口端を悔しさで歪める。――本当はそんなこと言われる前から理解していた。だが改めて他人の口から言われると、疎外感に似たなにかが黒い濁った水のようにポッカリ開いた胸腔の部分から溢れる気がした。
無理やりに頭をあげて、寂しそうに微笑む。
「うん、そっか……そうだよね。ゴメンね無理言って」
(そっか、私は強いんだ…………。)
自分自身が剣術を好きで、好きで堪らなくて、他の強い相手がいれば技を盗んで改良して……気がつくと周りには、誰の姿も無くなっていた。最近は時々実感する。強くなると、寂しい風景が見えるってことを。
「済まん、可奈美。でもお前にしかできない事なんだ。皆を守る為だから……」
「大丈夫だよ百鬼丸さん。ねぇ、それよりまた今度帰ったら剣術の稽古しようね」
可奈美は空虚な笑顔で百鬼丸にそう念押しする。
「お、おう。また色々と教えてくれ師匠さま」
からかい半分に、百鬼丸も応じる。
しかし、両者の交錯する視線は硬く決して本心を見せないようなものが感じられた。
ただ、黙って背後に控えていた姫和は二人の微妙なすれ違いに気がつかず、ただ黙然と手慰みに小烏丸の鍔を弄ぶ。
(――私は、母の本音を知りたい)
その思いで頭は一杯だった。