地下、実験施設――。
季節外れの藤の花が、植物棚の上に被さるように掛かっている。妖しい花の香りが鼻腔を打つ。整然と並べられた棚にノロのアンプルが安置され、透明な円柱容器に入っていた。
カツ、カツ、カツ……ヒールの鋭い音を響かせながら、邪悪な笑みを浮かべつつ眺める。「人間」を――サピエンス種という動物の一類の枷から解き放ち、変貌を遂げさせようとする〝可能性〟
「素晴らしいと思わない? ねぇ、鈴本……ええっと、なんだったかしら名前? まあいいわ。その自我はどうせ消えるのだから」口端を大きく歪める。
高津雪那の背後には、拘束具に捕らえられた少女が、手術架台の上で強烈なスポットライトを浴びている。
少女は、
「んんんんッ、ん―――!!」
必死に抵抗を試みる。
彼女……鈴本葉菜は、綾小路武芸学舎に潜入した舞草のスパイである。彼女の主な任務は、綾小路で行われている研究(主にノロ関連)を探ることだった。
一体どこで正体がバレたのだろう? 今まで、尻尾を掴ませないように努力した筈だったが……そう、葉菜は己の能力に疑問を持ち、落胆を覚える。
目線を、自身を縛る拘束具の下にやると、小瓶が転がっている。薬品だ。神経を一時的に麻痺させる神経ガスの作用がある薬物…………、それを惜しげもなく使用したみたいだ。
記憶が混濁していて、その瞬間すら思い出せないが。
ヒールの踵を返して、葉菜へと近づく。
「ねぇ、貴女は特別ってなんだと思う?」
雪那は拘束具に抵抗する少女の耳元で熱い含みを持った吐息で訊ねる。
肩を大きく上下させながら葉菜は、横目で雪那を睨めつける。冷酷な印象は受けるものの、整った容姿の彼女は現在、妖しい光を帯びた眼差しで右手に持った注射器へと注がれている。
この人は頭がどうかしているんだ……。
葉菜は、一刻も早く報告しなければならない、そう決意する。だが一向に拘束具から逃れる方法が思い浮かばない。
「特別……人より優れていることってよく分からないでしょ? 人の世の中では特別は異端扱いされて結局同調圧力で潰されてしまうの。解るでしょ?」
まるで、それが呪いであるかのような口ぶりである。
猿轡を噛まされた葉菜は、口を唾液にまみれさせながら強い眼差しで更に狂った雪那を威圧する。
――その頑なな態度が気にったのだろう。
「あははははははははっ、そういい目……。一切情報を漏らすことのないんだから余程優秀な諜報員なのね。舞草もいい人材を育てた。そこだけは褒めるべきかしら?」
スッ、と鋭く細められた目は冷淡に、機敏に右手が動く。鈴本葉菜という少女のほっそりとした、白い首筋へ注射器があてがわれる。
「暴れると、血管を傷つけるわよ」
脅し、というよりも事実を告げるように言って、左手で愛撫するように少女の頬に触れる。髪の毛がサラサラと手の間を流れる。
「ンンんんんんんっっっ、」
冷たい感触が首を貫く。
――直後。
ドクン、と胸を打つ強烈な衝撃が全神経を支配する。ボロボロと自我が崩れ去って跡形も無くなるような、そんなイメージが脳裏を過る。
……いやだ、助けて、お父さんお母さん。まだ消えたくない、消えたくないよ……
急激な感情の不均衡が齎され、視界が曇ってゆく。
「ンンンンンン、ふーっ、ふーっ、んんんんん……………」
目を大きく見開き、大粒の涙を零す。塞がれた口からは酸っぱい唾液が止めどなく溢れ、拘束具のベルトの金属質なガチャガチャと騒がしい音が、激しくなる。
「死にたくない、そう思うでしょう? タギツヒメ様に貴女は身も心も忠義を誓う。それだけが、生き方になる……」
雪那の眼差しには、羨望にも等しい何かが宿っている。
「ふっふっ…………んんんん―――――っ」
両足が痙攣したようにビクビクと弾け、小刻みな身体の揺れが著しく発作を起こしたように架台の上で弓なりに体を曲げる。
もはや、叫ぶ余力を奪われた。
〝死ぬ〟
不吉な一言が、鈴本葉菜という少女の脳内に現れる。
それも身体的な死亡ではない、精神――自我の消失である。この共に生まれ育った肉体はこの世に残り、培った「自分」が消える。
恐怖であった。
「ンンン、んんん、んん………。」
理性が崩落する音がした。葉菜は、まるで助けを求めて縋るような視線で雪那へと頭を向ける。
「!?」
しかし、薄れゆく視界で捉えられた人影の像には能面じみた無表情な「ナニカ」が佇んでいるだけだった。
がくっ、と項垂れるように葉菜の頭は大きく垂れ下がった。筋肉が仕事を放棄したように頭と胴体をつなぐ首が弛緩しきって、胸元まで玉を垂れさせる。
肉体のあらゆる穴から液体が漏れていた。
瀕死の状態ではなく、健康な生体からの「己の意思によらない」貴重な実験データがとれた瞬間である。
高津雪那は一切の表情を顔に浮かべることなく、冷め切った様子で実験結果を頭に叩き込む。これは始まりでしかない。近衛隊の創設にはまだ人員が必要である。理想に近づくための一歩でしかないのだから。
1
荘厳な山々が青の巨影を連ねながら、朝靄の滞留を押し留めている。
限られた岨道をゆくと流水の裂ける音色がした。水の豊かな匂いが鼻腔に漂う。……山の湿った土壌は、昨夜の雨の名残だろうか。
神秘性というのは主観でしかない。ただ洋の東西を問わず人間は自然によって価値観と行動を規定される。もし、古代の日本人が現在と変わりない風景を見ていたとしても、何の不思議もないだろう。
「どうした? 少し速度早かったか?」
百鬼丸は背後を振り返りながら心配そうに尋ねる。
「はぁ……はぁ……煩い、無用な心配だ」と、前傾姿勢で息をつきながら濡羽色の髪の少女は不機嫌に答える。
「そ、そうか」
気圧されながらも百鬼丸は、道の側面にある岩伝いに下方へと降りてゆく。二人が移動しているのは未舗装の山地である。
敵は刀剣類管理でも「維新派」を標榜し、かつその背後には国の諜報機関がいる。ロクな考えもなしに行動してはすぐに捕まってしまう。
原子力潜水艦『ノーチラス号』は、イチキシマヒメを保護している関係で陸地に接近することができない。であれば、百鬼丸と十条姫和の二名で行動するより他ない。
ノーチラス号を離れる間際だった。
親衛隊の二人からは、
『結芽の手掛かりになるんだったらなんでもいい、とにかく轆轤秀光の尻尾を掴むんだ。頼んだ』と真希が真摯な眼差しでいう。
それを横目に、腕を組んだ寿々花は軽いため息を零す。
『そう簡単に見つかる、とは思いませんわ。ですが、このままアチラの思惑にハマるのも癪ですし、起死回生の一手を期待していますわ。百鬼丸さん』
ワインレッドの緩やかなウェーブを描く毛先を手慰みに、押し付けがましくいう。
「あーへいへい」と、百鬼丸はなるべく気負わない風を装い背中をみせながら手をプラプラと振る。途中――ブッ、と放屁をする。
真希は、鼻をつまみながら「おい」と強く叱責するような口調で睨む。寿々花は「下品ですわ」と、左手で鼻と口を塞ぐ。……共に嫌悪の視線を百鬼丸に向ける。
せっかくの真剣な会話も、彼の気の抜けた行動で、緊張した雰囲気が弛緩する。
「おお、すまん。すまん」
苦笑いを浮かべながら両手を合わせて謝罪した。百鬼丸はケツを掻いて照れる。
(よくわからん奴だ)
と、遠目から三人のやり取りを見ていた姫和は複雑な感情で観察していた。ついこの間まで敵だった相手となぜこれほど打ち解けることが出来るのだろう? ……可奈美もそうだ。自分だけがおかしいのだろうか? 不安が姫和の中で頭を擡げる。
「――なぁ、可奈美」
「ん? なに姫和ちゃん」
「お前たちはどうして、そんなに感情の切り替えができるんだ。折神紫の件もそうだ。私にはまだ色々と気持ちの整理がつかないのに……」
硬い表情の姫和を一瞥した快活な色の少女は「ふっ」と含み笑いを洩らす。
「な、何がおかしい!」
恥ずかしさをごまかすような声で、姫和は叫ぶ。
甘栗色の軽やかな毛束が左右に揺れる。
「ううん、違うよ。勘違いさせたらごめんね。――姫和ちゃんって、すごく不器用だなって思って。百鬼丸さんみたい」
言いながら可奈美は頭を百鬼丸の方へと動かす。彼女の薄い表情をからは、なんの情報も読み取れない。
しかし突然の指摘に、紅の瞳が周りを見る余地もなく憤慨する。
「どこがだ! あんな破廉恥ロクでなしで下品な……」
と、悪言罵倒の数々を言おうとした姫和は不意に口を閉ざす。
「…………いいや、お前の言うとおりなのかもな。背景は違うが使命みたいなものが人生の方向を決めたんだとしたら、私たちは似ていて、まさにその通りだ」
目を伏せて、左腰に佩いた《小烏丸》に意識を移す。ガチャリ、と鍔と鞘が鳴る。
「うん」と、微笑を浮かべた可奈美はただ頷く。
「姫和ちゃんに、やっぱり覚えておいて欲しいな」
「何をだ?」
「どんな運命でも、過酷な使命でも……重いんだったら私が半分受け持つ、ってこと」
くりっとした大きな琥珀色の瞳が、姫和を正視する。
「ああ、覚えておくよ」と、小さく返事をする。
――うん、と可奈美は首肯しながらも、どこか表情に翳りを帯びていたことを、姫和は見落としていた。
2
「本当に私の実家に、轆轤家の手掛かりがある――と信じてるのか?」
姫和は躊躇いがちな口調で、ひとりごちる。
彼女の母、篝の旧姓は柊。
柊家は元々古い家柄であり、折神家の裏方の職務を補佐する役割であった。一方、轆轤家は暗部を司る家柄だったと言って良い。つまり、裏方にも光と影あったわけである。
「それが未だに信じられん。轆轤という男が折神と柊に関係する家系だったとは……」
「ああ、おれもまだ信じらんねぇ」百鬼丸は怒りとも困惑ともつかぬ声音でいう。
あの時、脇腹を刺し貫いたあの男が自分に関係する? 有り得ない。
譬えそれが真実であったとしても、断じて奴だけは許すことが出来ない。今にも憎悪で腸が煮えくり返りそうだ。
だが同時に本能的に彼が自身の出生と繋がりのある人物であることも百鬼丸は理解していた。
ギッ、と自然に握る拳の力が強まる。
「…………。」
姫和はその拳を一瞥し、ただ何も言わず道の先を歩いた。
(いまの私には奴に言うべき言葉がない……)
何となくだが、姫和は百鬼丸の内心が解る気がした。今まで信じてきたものが崩れ去る恐怖と戸惑い。根底から覆される真実。それが一度にやってきて、頭の処理が追いつかないんだ。
「急ぐぞ。夜になると灯りがないんだ」
姫和は急かすように、背後の彼に告げた。
――ああ、分かったよ。
淡々とした反応が返ってきた。その声音に何故だか、姫和は胸が締め付けられる錯覚がした。