――海の最強の生物をレヴィアタンだとするならば、陸上最強の生物をベヒモスだという。《神》が創造せし最高の作品であるとも言われるベヒモスは、死ぬまで戦わされ、最後に残った躰を「選ばれた者」によって喰われる。
これは、旧約聖書の簡単な逸話だ。
少なくとも多くの人間はそう思うだろう。〝俺〟以外は――。
1
『本日の天気予報は午後から俄雨にご注意下さい。冬も本番の寒さです。日本列島は各地で……』
と、カーラジオから漏れる情報に耳を傾けながら童顔の男はハンドルを握る。
「ふぁーあ、ねみーなオイ」
軽くハンドルを叩きながら目をこする。
彼――柴崎岳弘。二十八歳、独身。現在フリーランスの記者をやっている。
つい二年前に東京の三流雑誌社を退職し、半分ニートのような状態で仕事をしている。
いま運転している車もホンダのシビックだが、これは退職前に先輩から安く譲ってもらったものだ。
岳弘は、昨日の国際展示場で開催された異文化展示会に取材をしていた。……まあ、実際は会社から縁故でおこぼれの仕事をもらったに過ぎない。
元々はヤバい潜入取材を得意にしていた雑誌社もめっきり発行部数の減少と共に、記者たちをフリーにしている現状を考えると何とも切ない、と岳弘は思った。
時刻は午前五時三〇分。
未だ暗い空の下を走行する。
数日前に高速道路をボロボロにされ、現在も首都高の一部区間が工事中との事だ。何でも〝荒魂〟に憑依された人間による犯行なのだという。最近ではめっきり人間に憑依した荒魂なんて話は聞かなくなったが、珍しいこともあるもんだ。
オレは、薄暗い曇り空から微かに滲み始めた東の方角を一瞥する。
海風が激しい。
横なぶりの風は車体をフラフラさせる。
「チッ、あーあ。マジででかいスクープとかこねーかなぁ……」
オレの頭ん中は貯金の残だけ。いまはまだ蓄えがあるが、あと数ヶ月で底をつく。その前にドでかいスクープで、一旗あげないと死ぬ。飢え死にだ。
「チッ、困るよなぁマジで」ボヤきながらブラックコーヒーの缶を手に取る。
しかし、苦い雫すらも残っていなかった。試しに一口だけ吸うが、やっぱり無駄。
「PAかSAに寄るかー」
東名高速を走りながらオレは本日の目的地、名古屋までの距離を数える。……まだ全然遠い。ここはまだ海老名だ。
と、ドン!!
激しい落下音が車両の上に響いた。
「うぉおお!」
オレは思わず情けない声で怯えた。夜みたいな視界に強烈な振動と音。怖くない訳がない。
一瞬だけ「落石か?」と思ったが、誰か人間の気配のようなものを感じた。
冷や汗が背中を流れる。
人の心配をよそに、コンコンと車窓を叩く音がした。
オレは目だけ助手席側にやると、黒髪を激しく靡かせた少年が頭を出して何か喋りかけていた。異常な光景だったが、その時のオレは「――なんだ、人間か」と異常な事態をそのまま受け入れていた。
窓を下ろすと、激しい風の音と共に少年の声が聞こえた。
「今から東京の、海側に向かって欲しい」
突然の申し出に思わず、
「はぁ!?」
オレは声を上げていた。
2
「えーっと、そんでさ。キミだれ?」
最寄りのSAに車を停めたあと、店舗の前にあるベンチでオレは訊ねた。
缶コーヒーのトップルを開くと一口啜る。
……苦い。
夜風に似た風が吹き付ける。SAの駐車場は大型車両の車影が無数に並んでいる。ヘッドライトの強烈な光が交錯していた。
寒い、と愚痴をこぼしながらオレは、首を振る。
オレは真横の少年……を恐る恐る覗った。
少年はベンチに腰掛けながら遠くの風景を眺めているようだった。それからオレの質問が遅れて耳に届いたように、
「あ、おれですか? おれは百鬼丸って言います」と、言った。
意外にも律儀に名乗った。あんな非常識な方法で出会って窓から軽業師みたいに入車してこられた時は警察に電話しようかとおも思ったが、何となく、下品な記者としての根性が思いとどまらせたようだ。
「へぇ、百鬼丸くん――キミはなんで東京に向うのかな?」
はっきり疑問を口にする。あんな常人離れした身体能力だ、今更普通の回答なんて期待してない。
百鬼丸少年は困ったように笑いながら、
「ええっと……答えないとダメですかね?」と、ポリポリ頬を指先で掻いた。
「うーんと、まあダメではないけどね。もし乗せていくにしてもだよ、理由が分かんないとね。コッチにも用事がある訳だしさ」
「用事? ですか……。」
「ああ、うん。ホラ前にさ、名古屋の荒魂とかを研究している施設が謎の怪物に襲われた事件があっただろ? ようやく今週から一般の取材OKになったんだよ。なんでも、あの柳瀬財閥の支援で新しくなった直後の事件だろ? んで、取材だよ取材」
百鬼丸少年は「へぇ」と意味ありげに頷き、それから不敵な笑みを口端に浮かべる。
「なるほど。じゃあ取引しませんか?」
彼は、そう言いながら前傾姿勢になって、背中を丸く曲げる。
「取引、だと?」
「ええ、その取材内容ですけどおれにツテがありますから」
「はぁ? 何を言ってるんだキミは。いいかい? 前の首都高の事件もそうやって民間人がネットに虚実の混ざった情報を垂れ流したお陰で今、捜査機関は滅茶苦茶なんだ。いくらキミみたいな子供でも、言っていいことと悪いことが――」
「首都高? あ、アレですか……」
その単語を聞いて、百鬼丸少年は表情を翳らせる。
「ん? 何かあったのかい?」
「ええっと……まあ、それなりに……」
口を噤む。
オレはピンときた。……記者のカンという奴だろうか? とにかく、第六感がオレに告げている。
〝――コイツは、何かを本当に知っている奴だ〟と。
「ひとつ、話を聞かせてくれないか? キミはそもそも何者なんだい?」
「おれですか?」
「ああ、普通じゃない。悪い意味じゃないよ。でもなんていうのかな……反社会的勢力とかとは違う、本当に危険な臭いがするんだよキミから。なんでかな?」
その言葉に感化されたように百鬼丸少年は、自分の両脇に鼻を近づけて臭いをクンクンと嗅ぐ。
「臭いますかね?」
「ああ勿論。プンプンだ」
実際体臭も獣みたいに臭い。だが、面白いことになりそうだ。
「喉渇かないか?」
「は? ええ、まあ」
――待ってろ、と言ってオレは自販機でコーラを買う。すぐに踵を返して戻ると百鬼丸少年に投げた。彼は器用に片手でキャッチして、戸惑った顔をしていた。
「なんですか、これ」
「安いが前払い金だ。いずれ、取材費は払うから……頼む。キミの話をいえる部分でいいから教えてくれ。そしたら、向かう。必ずキミの行きたい場所に連れてく。それでどうだ?」
顎に手をやり暫く考え込む百鬼丸少年だったが、やがて「むむむーー」と唸り首をひねる。
「分かりました。とにかく、行きましょう。あと、行く前に少しだけ準備してからですかね」
途端に百鬼丸少年の顔色が変わった。まるで歴戦の戦士のような、精悍な顔つき。黒曜石に似た丸い瞳がキラと一瞬青い光を反射する。
ゴクリ、喉を鳴らしてオレは気圧される。
「……あと、聞きたいんだけど、キミは刀使でもないのにどうして刀を持っているのかな?」
オレは無意識に手を伸ばす。
しかし百鬼丸少年はサッ、と刀を遠くへ置いてオレを強く睨む。
「これは触らないで下さい。……それも含めて、まあお話できる所はします。ただおれの言うことは絶対に聞いてください。いいですか?」
厳しい口調。それ以上に、彼の睨みは絶大な効果を発揮した。オレはすぐに発汗作用を起こして、足元がガクガクと震えた。まるで子供に戻ったみたいだ。
「わ、分かった」
戦場カメラマンは、こんな危険な場面にも遭遇するんだろうな、と漫然と思った。