鎌府女学院の校舎は、前身である鎌府高等学校からの校舎をそのまま引き継いだ。……関東全域を警護の領域に収めるため、規模も人員も他の伍箇伝とは異なり、巨大である。しかし、明治維新の学校令の段階から刀使を育成する機関として創設された歴史を持つ。
午前も終わりに近い時刻。
穏やかな日差しが鎌府の学内に降り注ぐ。緑青に蝕まれた某かの銅像に濃い色の影が落ちる。銅像の指先に宿った紋白蝶が、飛び立つ。
赤い壁を蝶は漂う。
モダン様式な赤煉瓦の壁面や中庭を庭園風に設えられた校舎は、随所にその歴史的な息吹を感じさせる。――が、無論それだけではない。
学内の平和な風景の一角に、ミスマッチな直線的な輪郭が覗える。現代的で無機質な象徴とも言える灰色のコンクリートの構造物である。それが鎌府の敷地内に聳えていた。
ここは主に荒魂の研究を目的とした研究棟である。
その入口を進むと、すぐに階段が現れる。
ヒヤリ、冷気が皮膚を撫でる。
奥を進むと非常灯が点るばかりで、お世辞にも居心地の良い空間ではない。無限に続くと思われるほど長い廊下の両側に配された扉。
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廊下の深部を閉ざす重苦しい扉。
この奥には、真っ暗な空間に青白いディスプレイの光が無数に点る。大掛かりな機械の駆動音が騒がしい。血管のように床に張り巡らされた電源を繋ぐコード。
その地下研究棟の深層……と噂される空間で、粗雑な風体の少年が不満の声を上げる。
「…………なんで、おれを呼んだんだ?」
百鬼丸は、腕を組んで口を〝へ〟の字に曲げる。彼はとーっても不機嫌だった。それはもう大変な不機嫌である。
目前の、
「まあまあ、落ち着いて」
若干気抜けのした少女が宥める。
少女、播つぐみはトレードマークとも言える黒髪のおかっぱ頭を軽く指先で掻いて、少年を観察していた。
彼女、播つぐみは鎌府でも有数の優れた研究員であり技術者とも言えた。だが同時に学内では圧倒的な変人としても有名であるため、あまり人が寄り付かない。その彼女が百鬼丸に興味の眼差しを向ける。
「う……なんだよ」
眠たげな半眼の目つきは、薫を彷彿とさせるが、その眼差しの奥に潜む冷徹なまでの技術者としての〝分析〟をしようとする意思を感じた。不気味だがある種の熱意がヒシヒシと伝わる。
百鬼丸の発言に対し、
「七之里さんにお願いするつもりだったんですが……今回は断られましてね。ですから百鬼丸さんに御足労頂いたのです」
「――御足労? おい嘘つけ。殆ど脅しだっただろ! なんでおれが〝単純セクハラ物所持罪〟とかいう意味不明な怪文書を回収するハメになるんだ! しかも、紙を回収していくとなんでか知らねーけどこの場所にまできちまったじゃねーか」
「まあまあ落ち着いて」
「落ち着けるか! そもそも、さっき可奈美にボコられてクタクタなのになんでこんな目に遭わにゃならんのじゃい!」
――先程、道場で可奈美に殴られたあと、その足でここに来たのだ。
鼻息の荒い少年を両手で「どうどう」と言いながら批判を躱したつぐみは内心、
(あれは、鎌府の噂を寄せ集めただけなんですけど……この様子だと真実らしいですね)
と、思った。
つぐみはビラの紙面を眺めつつ、仕方なく彼のフォローを入れる。
「まあ、誰でもパンツを盗んだとか言われれば誰でも怒りますよね」
「それは本当だ」
「えーっと、だったら女性の胸部に顔をうずめて……」
「あ、それも本当だ」
「だったら……」
「見てないけど多分本当だろうな。おれがやった気がする」
「…………。」
「なんだよ、そんなゴミを見るような目は」
「よくわかりましたね。わたしの表情を見分けることができる人は少ないのですが」
「いや、今このタイミングでわからねー方がおかしいだろ!」
「そうですか。あくまで嘘をつくつもりはない、と」
「まあな」
ドヤ顔で百鬼丸は腕組みをして、なぜが清々しい顔をしている。「おれのモットーはつまらない嘘はつかない、だ!」
(こんな下らない内容ならば、むしろ嘘でもついた方がいいのでは?)
つぐみは素直な感想を持ったが、面倒なので喉元で言葉を飲み込んだ。
「いや今はそんな事はどうでもいい。本題だぞ。なんでこんな姑息なマネをしてまで俺をここまで誘い込んだ?」
「ああ、そうでした。実はですね、百鬼丸さんに飲んでいただきたいモノがありまして……」
説明しながらつぐみは机の上に試験管を置いた。中身は濃い緑をしていた。
「荒魂研究の副産物なんですが……試しに飲んでみて下さい」
「なんの説明もなしかよぉ!」
「はい」
「……即答ってマジでクレイジーだなお前」
ジト目で、非難がましく抗弁する百鬼丸。ばっちモノを見るように横目でビーカーを一瞥しながら、
「これの効果はどんなもんを想定してるとか――」と、呟く。
その言葉に反応して顎に手を当てて考え込むつぐみ。
「百鬼丸さんとノロの反応をヒントにしたんです。その時に現出するいわゆる〝催淫効果〟に等しい快楽物質を検知しましたので、惚れ薬の一種だと思ってもらって構いません」
「えーっ、やだ」
「そう言わずに」
「や!」
「そこをなんとか。…………キャー百鬼丸サンカッコイイー(棒読み)」
「いやいやいや! お前のそのクッソ無表情かつ棒読みで誰が『よーし、頑張っちゃうゾ』ってなるんだよ!」
「……そうですか。やっぱりわたしのお願いはダメですかね?」
目を伏せて、少し寂しそうな表情が浮かぶ。しかし付き合いの余りない人間からすれば普段の表情と遜色ない。例えば、つぐみと長い間柄の七之里呼吹でなければ分からない変化である。
しかし。
「………………飲むだけでいいんだな? 効果なくても知らねーぞ」
居心地悪そうに、百鬼丸は試験管ビーカーを掴んで一気に飲み干した。少年は、人の放つ感情や無意識に敏い。それは、彼の特質に由来する。
液体を全部飲み干したあとに「やってやったぜ」ってドヤ顔で親指を立てて微笑む。
「えっ、全部飲んだんですか?」
飲み終わってからつぐみは反応した。いい飲みっぷりに素直に感心していたらしい。
「ファッ!? えっ、なに? これ全部飲むんじゃねーの?」
コクンと頷くつぐみ。
「…………どーしよ」
百鬼丸は冷や汗を頬に垂らしながら、呆然とした。多分激ヤバな戦闘でもこんな焦燥感に駆り立てられないだろう。
「どどど、どーしたらいい?」
狼狽して頭を抱える百鬼丸は、助けを求めた。
眉間に小さな皺を刻むつぐみは、再び考え込むように推測する。
「恐らくですが……催淫効果と言っても、個人差がある筈です。セロトニン、ドーパミン、あと考えられる物質では……ああ、脳内麻薬だと言えば分かりやすいですかね」
〝脳内麻薬〟とか物騒な単語が彼女の口から放たれた。
「お前は鬼畜か!」思わず百鬼丸は叫んだ。人をあろうことか実験動物のように扱うとは何事だ! と、文句を言いたかった。
「おれはこのあと予定があるんだ!」
「そうなんですか? そういえば今日は休日でしたからね」
「そうだ! お前のようなマッドサイエンティストにかまけている暇なんてなかったんだぞ!」
「そんな照れます」
エヘヘとはにかむ。
「照れるなよ! どっちかって言うと悪口の類だぞ……」
呆れ返る。それと同時に精神疲労が募って、最早これ以上喋る気力がない。
「ご予定というのは、もしかして〝異性との行動〟ですか?」
「う、うん。なんで?」
「いいえ、それだとこの実験に丁度いいと都合がいいですね。ラクトンC10の分泌されるのは丁度刀使の少女期間と重なりますからね」
「ほーん、つーことはさ。お前からも分泌されてんじゃね?」
「あ」
「あ、じゃねーよ!」
「まあまあ。効果の発言する時間がどれくらいか分からないので楽しみですけど」
「それを時限爆弾というのでは?」
「……テヘッ☆」
つぐみは無理やり表情を使っているせいで、頬といい筋肉がピクピク痙攣している。
「テヘッ、じゃねーーーーー。まったくこのお茶目さん、ってレベル超えてるぞオイ」
百鬼丸はふと視線を下げた。――そして、つぐみの脚部辺り、つまり『膝小僧』を発見した。不健康に青白い肌に、半月板。丸みを帯びた関節の骨が殊更に美しく見えた。
ゴクリ、と思わず百鬼丸は喉を鳴らす。
「? どうかされましたか?」
「ひ、一つ質問だ。人体のパーツにも興奮する催淫効果ってあると思うか? おれは今、お前の膝小僧に滅茶苦茶興奮しているみたいなんだが……」
「有り得ますね。膝裏には汗腺がありますので、そこから分泌される汗に含まれたホルモンの匂いで興奮する、もしくは膝小僧で興奮しているという事実から刷り込みが短時間で行われた可能性もありますね。……えっ?」
長々と説明した挙句、つぐみは珍しく驚いた。
「いまなんと言われましたか?」
「お前の膝小僧、滅茶苦茶に興奮するぜ。思う存分ベロベロ舐めてみたいぜ」
「…………すごく気持ち悪い発言で驚いたのですが――わかりました。研究の為なら仕方ないですね。どうぞ存分に」
つぐみは逡巡を短く切り上げて覚悟した。
「おお、マジか! さすが膝小僧だ」
「ええ、これも研究のためですから仕方ないので……」
『っんな訳あるかボケーーー』
唐突に研究室の出入り口から、盛大な突っ込みがきた。
二人が目をやると、そこには七之里呼吹がいた。
そういえば、どろろ最終回良かった(今更)。
最後のどろろのシーンもさることながら伏線回収に余念がなくて素晴らしかったですね。2クール目はオリジナルが多かったですが、うまくまとめた気がします。