東京湾を車窓から眺めつつ、
「そんで、どーすんだお前たち」
松崎虎之助――と名乗った老人は、後部座席から訊ねる。
「…………おれは助けたい奴がいるんだ。爺さんなら解るだろ? 地下坑道の内部が複雑だって事」百鬼丸は助手席で、腕を組み何かを考えるように答える。
車が揺れるたびにガサゴソうるさい。
既に、百鬼丸の要望通りホームセンターで必要な道具は買い揃えている。車の収納スペース一杯に用具を詰めていた。
「ウウム」
「だったら話は簡単。爺さんの目的は分からないけど、協力して欲しいんだ」
「――フム? と言っても内部はもう当時のままかわからんぞ」
「それも織り込み済みだ」
二人の会話をずっと聞いていた柴崎岳弘は、小さく首を振る。
「あくまでコッチとしては取材をしたいんだけどね……ま、そんな東京の地下に巨大な空間が広がってるってのは俄に信じがたいんだけど」
その一言に、虎之助はピクと片眉を跳ね上げる。
「……帝都――今の東京は、昭和一〇年に地下要塞を作り始めていた」
「あはは、まさか――だってどこにもそんな資料は……」
「ある筈がない。あそこはいわばこの国の〝禁忌〟となってしまったからな」
「〝禁忌〟? なんだそりゃあ。当時の状況からして本土決戦の為とか陸作戦に備えて色々準備とか――?」
「いいや。最初は違った。一時的な避難民の……関東大震災の教訓から、単なる退避壕のとしての意味合いでしかなかった。だが、いつしか別の意味で注目され、戦時体制に入ると、本格的な地下要塞になった」
まさか、有り得ない。岳弘は頬の痙攣を抑えて、笑おうとした。
だがこの老人の言葉には不思議なほどの真実味が感ぜられた。
バックミラーを一瞥する。虎之助老人はコンビニで買った塩カルビ弁当をモグモグ食べていた。
「どうして今更そんな話をペラペラと? 戦後にだってそんな話いくらでも出てきそうなもんですけどね」精一杯の皮肉っぽい口調でハンドルを握りながら聞く。
「――ふん。信じるかはキサマら次第だ。だがこの先の話は日米にとっても連合国にとってもマズいものだからだ」
「…………というと?」
『〝ノロ〟による人体強化計画』
虎之助老人は、ポツり呟く。
「「なッ―――!!??」」
その単語が、岳弘と百鬼丸の言葉を失わせた。
「ははは……まさか。ノロは折神家の管轄だから――」
「勿論当時の状況からして折神家は参与していた。だがそれ以上に折神家の裏として暗躍していたのが轆轤家じゃ。現在の影宰相と呼ばれる轆轤秀光が当主を務めるあの、家だ」
「…………百鬼丸はどう思う?」
喉の粘膜が乾いて、生唾をゴクリ呑みながら隣の少年へ話をむける。
「おれの予想とはすこし違ってましたが――成程。でも腑に落ちない。どうして爺さんが今更地下に行きたいんだ? さっきの《心眼》でみたのはほんの一部だったんだ」
百鬼丸は長い前髪を梳くように後ろに流して、口を結ぶ。
先程まで饒舌といってもよいほどに喋っていた虎之助老人は、ふと口をつぐんだ。目を伏せ、割り箸を弱々しく握る。
たっぷり時間をかけて息を吸ったあと、老人は憂いを帯びた眼差しで前方を見る。
「ワシはただ大尉殿を……探したいだけなんだ」
大尉殿、と言った虎之助老人の言葉にはいくつもの感情の篭った熱を感じられた。
「あんなとこを人探しって……」岳弘は目を細める。
「深くは言えん。だが、ワシは大尉殿の遺骨を拾う約束をしたんじゃ」
老人は、それが揺るぎない覚悟と意思であるように、バックミラーを睨みつける。
「ここでゴチャゴチャいっても仕方ないな。じーさんおれはアンタに協力する。だから行こう。コッチはもう覚悟してんだ。どんな奴がきてもおれがブチ殺す。その準備はしてんだ」
そう言いって、百鬼丸は包帯でグルグル巻いた腕を触り内部の仕込み刀と、脇に抱えた《無銘刀》の鞘に触れる。……内部に潜む凄まじい暴力的な〝渇き〟を感じていた。
2
すぅー、すぅー、と可愛らしい寝息をたてる少女を抱き抱えた轆轤秀光は、地下坑道の深部にある広い空間に繋がる長い階段を下りていた。
燕結芽は撫子色の柔らかな髪を揺らし、眠り姫のように目を閉じていた。
結芽は幽閉された部屋から出される際に、強力な睡眠導入剤によって意識が奪われた。……無論意識を奪ったのは、ニエである。
軽い彼女を運ぶのは簡単だった。
羽のように軽い体重。その結芽の寝顔を、秀光は慈しみをもって見守っていた。
「ニエ。貴様はどう思う?」
背後に付いてくる足音に問う。
「どう思う、と言いますと?」
新雪のように純白の髪と素肌、そして眩い輝きを放つ橙色の瞳が疑問に動く。
「察しが悪いな。彼女の延命治療だ。まず上手くいく。……彼女のように、幼く才能に恵まれた刀使は得がたい。しかし、それだけではない。これは私個人としてのエゴだ。延命などしても、本来的に意味があるのか……」
「…………〝父上〟の仰られることは難しく、この〝ニエ〟程度では分かりかねます」
「――フン。そうだったな。貴様のような出来損ないにはその程度の知能しかないだろう」
嘲りを込めた言葉で一方的に会話を打ち切った。
冷気の湛えた巨大空間には大掛かりな機械や水槽、計器盤…………そして、ノロのアンプルをいれた容器が並べられた棚があった。
太いコードが床に張り巡らされている。
濃い緑の液体の中には、人間の手足のようなものから臓器まで、気泡をあげながらカプセル型の水槽に収められていた。
その中央に祭壇のように設えられた寝台が一つ、部屋の中央にあった。
夢はその寝台にゆっくりと置かれると、秀光はゴム手袋などを手にはめて準備を始めていた。
「――彼女の命を救うことができてよかった。…………これは、私の数少ない罪滅ぼしになるか……ふん、年をとると独り言が増えたのかな」
自嘲気味に、鼻を鳴らす。
「――父上。幸い、百鬼丸の〝パーツ〟が彼女の肉体を延命させているようですね」
ニエが遠くから冷静に意見を述べる。
秀光は頷きながら手術の為の準備を着実に進めていた。
「そうだな。奴にしては唯一褒めるべき部分かもしれんな。まあ、一時しのぎに過ぎんがな」口端を歪め、その口をマスクで覆う。
「ニエ。貴様は侵入者を排除するかタギツヒメの余興でも手伝ってやれ。だが、一番は百鬼丸の討伐。それが最優先だ。まず貴様が負けることはないだろうがな」
一回も振り返らず、秀光は告げる。
「そのために色々と根回しをしてきた。この国は余りにも多くの善良な人間の犠牲に成り立ち過ぎたんんだ」
彼、轆轤秀光の数少ない本音だった。ニエは彼の語を聞き頷いた。
「分かりました父上。この未熟な存在にお任せ下さい」
真っ白な髪を振って、踵を返すと暗闇の中へ沈んでいった。
気配が消えたことを確認した秀光は、小さく息を吐いてゴム手袋越しに手の甲で結芽の頬を軽く撫でる。
「君はよく頑張ったね。こんな方法で連れ出したのは許して欲しい――これは自己満足だ」
秀光は言いながら、今まで命を奪ってきた刀使たちの顔も同時に思い浮かべていた。
グッ、と唇を噛み締める。己の力不足によって誰ひとり救えず、結果として殺すしかなかった自身を、何度も呪わしく思っただろう。
「おれは間違いなく地獄にいくだろうな。だが百鬼丸――貴様も道連れだ」
憎しみの篭った目には煮詰まった歪な光が宿っている。
3
双葉が山城由依とバスで離別する少し前――――
「ええっ!? 双葉ちゃんと二手に別れる? って本気!?」
山城由依はトレードマークの黒髪ポニーテールを大きく揺らし動揺を示した。
京都市内を巡回するバスの中、隣の座席で車窓に額をつけて眠っている橋本双葉。彼女に憚るように口元に手を押さえ、声を潜める。
「……それで、どうして葉菜ちゃんは今まで連絡くれなかったの?」
『――ずーーっと、タギツヒメ側の行動を監視してたんですよ。ボクも一応近衛隊に入隊して内情を探っていたから随分手こずって……』
これまで綾小路の内情をつぶさに連絡してきた優秀な諜報員である鈴本葉菜のことだ、信用に足るだろう。そう判断した由依は電話越しに頷く。
「それで、今の話は本当?」
『はい、山城さんの妹さんは綾小路の特別医療施設に身柄をうつされました。恐らく、ノロの研究……とか、その類だと思います』
「――――ッ」
由依は、背筋に恐怖が張り付いた。頬から冷や汗が流れる。
言葉にならない衝撃が頭を直撃する。
「で、でもまだ確証が……」
『残念ですがボクがこの眼で見ました。確かに病院からの連絡はなかったかもしれません。でも――綾小路の系列で医療機関を通せば、警察権の一部を持つ伍箇伝ですから……』
「…………。」
今まで、刀使として活動してきたのはひとえに妹の医療費の捻出にほかならない。それ以外にも理由はあるが、やはり由依自身が強い原動力としているのは、妹だった。
「でも、どうして双葉ちゃんと一緒じゃダメなのかな――?」
『考えてみて下さい。彼女は親衛隊の側だった人間ですよ? いつ裏切るか分からない相手と一緒にいる方が寧ろ不思議です』
――確かにそうだ
横目で、双葉の寝顔を一瞥した由依は疑念が頭を擡げた。
信じたいとは思うものの、折神家で舞草と対立していた経緯がある。双葉は馬鹿ではない。個人的には相性も合う。だが、それとこれとは話が別だ。
『それに、ボクが援護するので早く妹さんを奪還する……この方が先決だと思います』
念押しするように、葉菜が告げる。
携帯端末を持つ手が、つよくなる。
(確かに葉菜ちゃんのいう通り……。)
『いいですか、山城さん。仮にボクの言っていることにリスクが大きいと思うなら、リスクを分散させると思えばいいんですよ。ボクたちがダメでも双葉さんが何とかする。――どうですか?』
この提案が決めてになった。
由依はうつむき加減に立ち上がり、降車ボタンを押した。
「ごめんね、双葉ちゃん――あたし、行かないと。あたしお姉ちゃんだから、さ」
無理やりに作った笑顔で眠る双葉に笑いかける。
そのまま、彼女は夜の市街へと消えた。
4
結局、双葉はバスの運転手を半ば脅すようにして山間の大学病院へと向かわせた。その理由はただ一つ、山城由依の妹の安否を確かめる為だった。
恐らく、由依が消えた理由は「妹」という要因が大きいだろう。相手もそこを十分に理解している筈だ。
歯噛みしながらも、双葉は到着した夜の病院へと赴く。
「おい、お嬢ちゃん! 一体なんなんだよ!」
背後から投げかけられる疑念の言葉は、走り去ろうとする双葉の足と一時的に留めた。
「先程も言いました、わたしは刀使です――必ず、皆さんの安全は守りますから。ごめんなさい。今は説明できませんが失礼します」
肩ごしに強い口調でいう。
その気魄に気圧された運転手は、無心で頷いて少女が門に消えてゆくのを無言で見送った。
長い廊下……不思議と、大学病院だというのに、人の気配が感じられない。しかも電気は点灯しておらず、非常用蛍光灯が廊下に連続して点っている。
靴音だけが聴覚を支配する。
「なんなの……、どうして――?」
まさかこの場所に来ることを予期していた? だとすれば、こんなにも大規模な方法でたった一人の刀使を出迎えるのだろうか?
――有り得ない。
しかも、この病院はノロの濃密な匂いがする。
双葉自身、ノロの残滓を躰に宿している為にわかるのだ。
嫌な雰囲気の中で、扉の前にかかったプレートを一瞥する。
(ここか……。)
由依の妹が入院していると思われる病室。
呼吸を整え、スチール質の把を握る。
真鍮色の鈍い光が輝いている。手中の冷たな硬い感触が不快だ――。
扉。ただ、空間と空間を仕切るだけの四角い物体が、今は異様な響きを持って聳えて見える。
最初に人間が「人間種」としてこの地上に生を受けたのは、一体いつ頃なのだろうか?
そんな他愛もない空想を時々する。
なぜ、人間が氷河期を超えどんな確証があって――この世界を巡ったのだろう。
『……やはり、貴女が来ましたか』
無為の思索を破るように、背後から声が聞こえる。
たっぷりと息を吸って、双葉は振り返ることにした。
「お久しぶりですね。夜見さん。――ここに居るってことは、全部お見通しってことですよね。わたしの考えも全部」
冷や汗を頬に感じながら、尋ねる。
相手は廊下の夜闇の奥に潜んで姿が見えない。けれども変わらぬままだ、と直感で双葉は思った。
「多分、山城由依の妹が病院に居るのを拉致する……そういう流れだと〝思わせる〟ことが夜見さんの目的だったんですよね?」言いながら双葉はすでに抜刀している。
相手の構えを見据え、
「ええ。流石です。この短時間でこちら側の意図を読んだのは素直な賞賛に値します」
無感情に、夜見は冷たく言い放つ。
「――っ、いい加減にしてください! 夜見さんは一体なんの為に闘っているんですか? タギツヒメの目的だって分からないのに……こんな、無意味なことをしてどんな意味があるんですか!?」
正眼に構えた御刀の鋒が震える。
刀は心を正直に映し出す鏡。すなわち、双葉の心の揺れが直接伝わっているのだ。
「――双葉さんにはどうでもいいことです」
そう言って、一歩二歩、と確実に歩を進める。闇から現れた皐月夜見は、以前と変わらぬ得体の知れない雰囲気を醸し出していた。ただ、今回は彼女の周囲に鋭い殺気を纏っている。
ゴクリ、と思わず双葉は唾を呑む。
これが本気の皐月夜見。
親衛隊第三席と言われながら実力を公に示す機会がなかった不遇の人。
――だが。
双葉は誰よりも知っている。
彼女が一流の剣士であることを。だからこそ、始めて真正面から対峙した時に、こうして肝が冷えるのだ!
「一つ、忠告です。貴女では私に勝てません」夜見が降伏を勧告する。
「お気遣いどうもありがとうございました。丁重にお断りさせていただきますね」
なるべく陽気に双葉は軽口を叩いた。
「わたし、ここで勝ちますから。……勝ってもう一度、親衛隊の皆さんの所に連れ戻しますから。覚悟しておいて下さいね」
本音をぶつける。そして、《写シ》を体表に貼り、固い決意をした。
「…………私にはもう関係がありませんので」
小さく、微かに聞こえないように夜見は呟く。口角が一瞬だけ痙攣するように動いた気がした。
直後、鋭い共鳴音が病院の廊下に谺する。
金属同士の激しい衝突、撒き散らされる火花。夜に小さく咲いた線香花火の繊細な花弁すら連想させる形状をしていた。
「っ、やっぱり強い!!」
夜見の斬撃を受け止めながら双葉は、苦く呟いた。……実際、彼女の力は刀使の中でも有数のものである。だが自己評価の低さと裏方の任務ばかりで、その能力が過小に評価されているに過ぎないのだ。
「……どうされましたか?」
普段通りの表情。
普段通りの言葉で、双葉に尋ねる。
(――っ、この人本気だ! 本気でわたしを殺しにきてる!)
分かってはいたが、実際に剣を合わせることで彼女の決意が理解された。甘い、戯言の期待は打ち砕かれた。
それと同時に、
「……だ」双葉は拒絶する。
「……?」
不審に首を軽く傾け、夜見は距離をとる。なにか双葉が起こす可能性を考慮した為である。
「いやだ! いやだ! 絶対にいやだ! 夜見さん、ねぇ帰ろう? 一緒に……。本当は斬り合いなんてしたくない! あの時……百鬼丸にいさんに出会って取り乱してた、わたしの失敗も優しく受け入れてくれた夜見さんと、こんな事したくない! 貴女がなんとも思ってなくてもいい! お願いだから、お願いですから一緒にきて下さい」
震える声を励まし、双葉は目端に涙を浮かべ、手を差し伸べる。本心から夜見を救いたいと思ってしまったのだ。――一方で、現状でなんと甘いことをしているのだ! と理性が叱りつける。
けれども、双葉は切り合って思い出した。過去の記憶が鮮烈に次々と蘇ってしまうのだ。
皐月夜見とは一旦決意すれば、翻らない。容赦がないのだ。
「……一度、剣士ならば御刀を抜いた瞬間から我々は敵同士です」
冷淡に告げ、夜見は《迅移》を発動させる。
不意を衝かれた双葉は防御をしようと御刀を上げるも、その手首を瞬時に握られ、容赦なく横薙ぎ一閃に斬を喰う。胴体が真っ二つに、白い幻影体が薄れ消えた。
「……がはっ」
写シが解除された。激痛が全身を支配する。
ドサッ、という全体重の質量で床面を叩き双葉はうつ伏せに倒れる。痺れた脳内で必死に打開策を考えるが、すぐには思い浮かばない。
「終わりです」
夜見は最後だ、とでもいうように刃を双葉の背中に突き立てる。
骨肉を貫く、ブシュ、という音と共に鮮血が背中から溢れ出した。夜闇の廊下に差し込む紅の月。雲間から不吉な月面が姿を見せた。
――瞬間。
「――ッ!!」
夜見は四肢を襲う激痛に思わず、呻きを上げた。
視線をすぐに激痛箇所にやると、白蛇の巨頭が深く夜見の骨肉を噛み込んで離さない。鋭い牙によって楔を打ち込まれたのだ! 《写シ》を貼っていなければ、まず致命傷になりえた。
すぐさま御刀を旋回させ、白蛇の胴体と頭部を切断する。
「貴女も、ちゃっかりしていますね……」
苦々しい口調で、賞賛する。気が付くと、夜見は《写シ》が自動的に解除された。斬撃によって消え去った蛇の頭部の噛み跡には、真っ黒な血が溢れていた。……ノロを受け入れ続けた結果が、液体として目に見える。
全身に細かな痺れが伝播した。
双葉の蛇が放った毒の影響であろう。
「へっ、へへへ……夜見さんが教えてくれたんじゃないですか。油断を作り出すのが戦い方だって……」
目を眇め、激痛に歪む表情をこらえながら必死に双葉が喋る。
「絶対に、助けますから……わたし、しつこいですから。あの百鬼丸の妹ですから……」
次第に薄れゆく意識の中で、双葉は傷口から飛び出した白蛇を背中の辺りで待機させる。夜見の再攻撃を用心してのことらしい。
「……………。双葉さん。貴女はとんでもなく愚かですね」
頸部に狙いを定め、突き刺そうとした夜見の指先が神経麻痺の毒によって、言うことを聞かない。双葉の刺殺を諦め、足を引きずる。――退却を始めた。
「……貴女と私が出会うことは、二度とありません」
そう言い残して、闇の蟠った奥へと姿を消した。
背中の刺し傷から生温かい血潮が暴走するように溢れ出ていた。
「絶対、絶対に助けますから……」
血の水溜りになった床に中に顔を埋める双葉。弱い呼気を励まし、夜見へ必死に願いを伝え続けた。
生温かい紅の絨毯が妙に心地良い。意識の滑落に抗うように、双葉は手を指先を伸ばした。
5
まず、最初に持った感情は〝憧れ〟だった――。
何にもないと思っていたあの時のわたしは、きっと空っぽな存在だった。
だから、折神家親衛隊に所属できると告げられたときは、青天の霹靂という言葉が当てはまる程に驚いた。
その日、鎌府の学長室で知らせを受けたときの高津雪那の表情は無機質だった。
「貴女の他にも一人……この鎌府から親衛隊に人間を送っている。分からないことがあれば皐月夜見を頼るように。いい?」
ぞんざいな物言いで、机の上に積まれた資料に素早く目を通す彼女。
「はい」
わたしは、頷いた。
この時期のわたしが生きる意味は全て――義兄百鬼丸へ復讐することでしか、意味を見いだせていなかった。
――だから、あの日。
初めて折神家に配属されたとき、桜が散って綺麗な青空と梅雨のせめぎ合う季節。
『貴女が鎌府から推薦された橋本双葉さんですか』
生気のない両眼には、一切の感情が宿っていない。……どこかその雰囲気が儚げに感じて、荒んでいたわたしには、親近感を持った。
白い髪は老人のようなのに、若い顔がアンバランスな印象を受ける。
……きっと、《あの》の影響だ。
事前に、親衛隊所属の前に特秘事項として知らされたことは一つ。
肉体に、ノロを宿すこと。
わたしは直ぐに了承した。怖くはなかった。だけど、不思議な気持ちになった。実父の善海が研究していた分野の、被検体のようなことをするのだ……少しだけ可笑しかった。
それを、夜見さんに伝えると、
『そうですか……』
とだけ、返事をして会話が終わった。
『わたし、復讐がしたいんです。でも今は力がないし、何にも足らないんです』
なぜだか、出会ったばかりの人間に今まで誰にも語ったこともない本音を漏らしていた。
でも、どんな時でも皐月夜見という人間はただ――
『そうですか……』とだけ、返す。
普通の人ならば機嫌を悪くするだろう。だけど、空っぽだったわたしみたいな人間にはただ「話を聞いてもらう」ことがどれだけ助かったのか分からない。
ただ一度だけ、夜見さんがわたしに向かって言った言葉があった。
「貴女は選ばれる――ということをどう思いますか?」
「選ばれるですか? やっぱり特別な才能とか……他の人にはないモノがある人とか」
「ええ、そうです。選ばれる……どれだけ努力しても得られない。もし仮に選ばれたのなら――本来選ばれる筈もなかった人間が〝選ばれた〟場合、どうすればいいと思いますか?」
「哲学的なお話ですか? うーん、分からないですけど、でもやっぱり無理しちゃうから、いずれ破綻するんじゃないですか?」
その瞬間、夜見さんは珍しく目を見張って驚いた様子をした後……口元に苦い微笑を浮かべた。
「ええ、そうかもしれませんね。仮にそんな人物がいれば、いずれ破綻するのかもしれませんね。……ただ、それ以外に生き方を知らない人間には本望でしょう」
その時だけは、ロボットみたいに無機質だと思っていた夜見さんの顔が、年相応の柔らかい表情に戻った気がした。
――それと同時に、わたしの胸は苦しく切なくなった。
どうしてだか、理由は今も分からない。
だけど、守りたいとも思った。はるかに強い夜見という刀使の事を、なんとかしたいと思ってしまった。