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海辺の風が微かな音色を立て通用口に吹き付ける。松崎老人の正確な六分儀による観測によって地下の巨大な空間を把握し、潜入するルートを決定した。すぐ海の国道傍から延びた道路を小脇に入り、半地下のような入口が隠されているのを発見した。
土面に埋もれた鋼鉄の扉は錆びており、容易に開くことは出来ない。――が、百鬼丸の驚異的な膂力によって軽くこじ開けた。……突如現れた入口の四角を闇が黒々と満たす。段々と階段が連なり下界へ誘おうとしていた。
ピカッ、と白陽の如き明るさが階段の奥に蟠った闇を貫く。
ホームセンターで購入したルーメン値の高い懐中電灯である。その円形が強烈な光束を照射する。岳弘の首に防水シートで包んだライカのM型カメラは夜行性動物の肉眼のように、時々闇に閃く。
――このフィルム式カメラの代名詞と言って良いこのカメラは1950年代から60年代にかけて製造された。
高級な質感は、デジタルに移行した現代においても、その写真の精度の高さ味わい深さに於いて代替不可能である。いまでもプロで好んで使う人々が存在する程だ。
そのM型はとんでもなく高価なものである。学生時代に借金をしてまで買った彼、柴崎岳弘はこのカメラが半身のように感じていた。
ゴクリ、と生唾を呑む。
岳弘は緊張で口腔が乾燥しているようだった。喉の粘膜もヒリついて痛い。
「懐かしいなぁ……」
先導する松崎虎之助が感慨深い口調で呟いた。彼からすれば七〇数年の歳月を経ての潜入である。
「……ここからどのあたりに行く気で?」レンズのピントを調整しつつ訊ねた。
右手を壁に沿わせた老人の皺だらけの手が止まることなく進む。
「恐らくだが……この先は二キロほど長い通路じゃ。目的地は――――荒魂の研究施設。そこがこの地下の核を成しておる」
「研究施設? どういう事ですか?」
「…………。」
「…………。」
急な沈黙に、岳弘も同じく口を閉ざすしか方法がなかった。経験上、相手を無理に喋らそうとしても良い結果は生まない。
「そう言えば、百鬼丸くんはここにどんな用事が……?」
真ん中を歩く百鬼丸へ話を振る。
この少年は、この不気味な空間においても驚く程に落ち着き払っていた。
出会った時のような快活な雰囲気は鳴りを潜め、代わって軍人のような機敏さと警戒の鋭い佇まいを静かに纏っていた。
「――おれは、奪われた大事なヤツを救いに行くだけです」
低い声で答える。彼にはそれ以外の理由が本当にないらしい。しかし、不思議なのは、このような大昔の遺物になぜ人を助けにゆくのだろう? 岳弘は疑問に思いながらも、敢えて口に出す愚行は犯さず二人の後を歩く。
湿った圧迫感のある通路はどこまでも果がなく延びていた。時々、頭上から水滴が落ちるが、それも不規則であった。首を小さく巡らせ、
「しかし、百鬼丸くんが一緒だと心強いなァ……」
岳弘は本音を洩らす。正直、ここに彼がいなければ一刻も早く逃げ出したい気持ちで一杯だった。
閉所、暗闇、無音、無臭…………。様々な要因が精神の均衡を崩す要因となりうる。
「そうですか……おれからすれば、暗闇は心地いいですよ。静かにしていれば自分の呼吸しか聞こえない。誰とも関わらなくていい。だから――少なくとも、傷つくことはないから」
百鬼丸は、冗談とも本気ともつかぬ口調で言う。
まるでその口ぶりが、この空間を闇の胎母とでも言いたげであった。
「どういう意味だい?」
「……へへっ、な~んて。冗談ですよ冗談。あはは……早く助けてこんな所出ましょうよ」
「な、なんだ冗談か」
ワザとらしく明るく振舞い始めった百鬼丸の態度が気になりつつも、岳弘は頭と指先は緊張していた。カメラを壊さぬよう細心の注意を払い奥へ深部へ突き進んでいった。
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「お前は、いったい何なんだ……」
何度目とも分からぬ問いかけを、再び獅童真希は口にしていた。事実、目前の男――番人と名乗る男の得体の知れぬ行動の数々と態度に違和感を抱きっぱなしだった。
ドーム状の空間と周囲の壁を囲繞する電線に備え付けられた電燈の微光から相手を覗う他手立てがない。
…………しかし、遠目からでも解かる。
この番人という男は、尋常ではない精神力であることを。
閉鎖された空間で、絶え間ない荒魂の侵攻を孤独に防ぎ、また姿を現す荒魂を斬り伏せる。永久に終わらぬ労役の如く、ただ文句も言わず肉体を食い破られ、再生し、戦う――。
(こんなもの、単なる拷問ですわ――)
同じく、地面に身を転がしていた此花寿々花も真希と同様の類推をしながら、その冷酷な結論に暫く戦慄しつつあった。
彼女たちもまた、ノロという負の神性を肉体に受け入れた。その負のエネルギーと飢渇感は想像を絶するものだった。だからこそ、この目前の男の異様さが痛いほど理解できた。
番人――と、名乗った男の骨肉が徐々に形成され、逆再生のように戻ってゆく。食い破られた腕や顔の骨から修復し、筋肉皮膚の順番で元通りになっていた。
完全に戻るまで男は一言も発さず、さりとて悲痛という風でもなく俯き加減に待っていた。
寿々花は、番人とその傍らに突き立てられた二つの青龍刀の長さを使い手を交互に見比べる。
そして、ある仮説が彼女の中で閃いた。
「……折神家、二天一流の――」
無意識に記憶の奥底から嘗ての記録を手繰り寄せる。二天一流と一口に言っても、現在折神紫の使う二天一流は、開祖宮本武蔵の流派とは性質を異にする。
寿々花のつぶやきを聞いていた番人は、苦笑するように頭を上げて敏い少女へと視線を送る。
「そうか……知っていたか……。」
安堵するような不可思議な口ぶりで番人は穏やかにいった。
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「たっだいま~」
鎌府女学院の校門前で元気よく安桜美炎は叫んだ。
現在時刻は午後九時。校門の外灯が白い光で辺りを照らしていた。
たっぷり時間の暮れた空は、夜に染まっていた。
腕組みをしていた長船の制服を着た少女はあくまでも穏やかな口調で、
「おかえり、美炎ちゃん。遅かったのね」
笑顔で出迎える。――無論、この笑顔は偽物である。内心の怒りと比例して笑顔は凄味を持つ。
「あっ、あれ~? 遅れるって連絡したんだけどなぁ~あ、あははは……――」
昔からの付き合いで美炎は直感していた。この大人びた少女、瀬戸内智恵は一度こうなると絶対に言い逃げられない。滅茶苦茶怖いのである。
「美炎ちゃん……、どうしてお姉さんが怒ってるか解かる?」
「あははーー。やだなーちーねぇとわたしの仲だよ。分かるよ~」
「み・ほ・の・ちゃん……? ふざけないでくれるかしら?」
ゾワリ、鳥肌が粟立つ。背筋が凍った。
「…………はぃ、ごめんなさい」
大人しく、シュンとした様子で項垂れて謝罪する美炎。
その様子を流石に可哀想だと思ったのか、智恵は深い溜息のあと普段通りの声音に戻って、「どうして知らない人に付いていこうと思ったの?」と、嗜めるようにいう。
言外に、二度とするなと言っているのである。
美炎は軽く頭を上げ上目遣いで智恵を見る。
「う~んと、なんて言えばいいのかな? その人がちょっと可哀想だったから……危ない所で……こう、なんていうのかな? わたし馬鹿だからうまく言えないけど……ギリギリの所で苦しんでる気がしたから――かな? いつもの直感っていうやつなんだけどさ……」
年下の幼馴染の言葉はどこか真実味があった。とはいえ、
「直感――ねえ。美炎ちゃんの直感は鋭いけど、でもダメよ? 女の子なんだから……」
説教をしたいワケではない。単に心配だったのだ。
「はい、ごめんなさいちーねぇ」
「うん。それから後で六角さんにも謝らないとね」
「えっ? どうして清香に?」
「…………途中まで一緒に行動していたのに、急に美炎ちゃんがいなくなったって大騒ぎしていたのよ?」
「あ、あはは……そうだね。あとで清香にも謝らないと」
頬を指先で掻き苦笑いする美炎。
他にも言いたいことがあったが、呆れてしまった智恵は静かに首を振る。とにかく後にしようと決めた。