百鬼丸の身体は一本の矢の如く、澱んだ薄暗い空間を切り裂いた。
弓の弦から放たれた矢は一直線に軌道を描くように、百鬼丸の躰も又同様に物理加速を行いながら空気を滑ってゆく。
御門実篤は、百鬼丸の事前動作から敵の運動を予測し、構えを水平のものから、別の……
足摺をし、沈殿した薄暗い闇に息を潜める。
銀に閃く一本の線が実篤に迫る。
(疾いッ!!)
と、内心で思った。
これまで応戦したきた荒魂たちとは根本的に速度が異なる。当然質量こそ百鬼丸が軽いが――問題は、この少年の内包する無限の《殺意》が驚異であった。
荒魂は根本的に、「破壊する」ことである。
しかし、この少年こそは「殺す」ことを目的にしていた。
「うぉおおらあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
獣のような咆哮がドーム状の空間一杯に木霊する。鋭い針金のような響きが鼓膜に何本も突き刺さる、そんな錯覚すら感じた。
実篤の前には、既に百鬼丸の姿は無く気配も霧散していた。
……だが、
右斜め後方から躍りかかる姿。
実篤からすれば誠に小柄な人影が、掠れた輪郭で銀色の斬撃を放つ瞬間だった!
「何度も同じ手は喰わぬ!」
踵を返して、重ねた刃を百鬼丸の位置と直線になるよう体勢を保ち、大幅な青龍刀の刃を解き放つ。
バギッ、と短い金属同士の共鳴の後、赤い霧のような瘴気に包まれた《無銘刀》が双剣の狭間に入った。
速度と膂力こそ常人のソレと全く異次元のモノであり、繰り出された斬は衝撃だった。――だが、実篤にとって、それは単なる物理的な衝撃に過ぎない。
長い前髪を垂らした少年の顔は、窺い知ることは出来ないが、恐らく悔しがっているだろう。刃に乗った重みが、渾身の一撃だと思われた。
「よォ、たっぷり味わってくれたか?」
不敵に、百鬼丸は囁く。
実篤は一瞬理解ができず、受け止めた青龍刀の方へ視線をやる。何一つ変化などない。
――筈だった。
百鬼丸は言葉と同時に、両手で握った柄の左手を離し、素手のまま拳を握り殴りかかった。
瞬時に実篤は、右側の手甲と膝で百鬼丸の殴打を防いだ――、
しかし、結果は違う。
手足に挟んだ筈の彼の――上膊の腕部分のみが残され、百鬼丸の躰は依然として自由であった。
「……ッ、」
実篤は見た。
百鬼丸の左腕に新たな刃が燦くのを。
待っていたのだ、このタイミングを! この微かな空白を!
半身の重心を後方に溜めていたものが、一気に突撃として実篤の右肩に襲いかかる。
深く喰いこんだ左腕の《無銘刀》が、初めて実篤の肉体を捉えた。
「――成程、しかしこれで小生を止めたと?」
苦々しい表情で実篤は呟く。確かに一撃を喰らったのは意外だった。だが彼からすれば、七〇年以上も荒魂の鋭い灼けるような牙に喰われた経験がある。単なる刃物であれば、普段の事である。
クイッ、と百鬼丸は頸を小さく横に傾げる。
それはまるで、攻撃が当たっていないことを疑問に思う――雰囲気ではなく、ただ虫や鳥が習性として頸を曲げるのと同様、ただ、無機質な機械的な表情で頸を傾けたに過ぎない。
それは不気味だった。
感情の宿らぬ、異星人を相手にしている得体のしれなさだった。
直後――、実篤の右肩に変化が訪れた。
石化したように、赤銅色だった皮膚が灰に変色する。刃の喰いこんだ箇所から放射状に無数の細かい亀裂が走る。そこで漸く、実篤はこの刃が「消滅」を目的とした武器だと理解した。
麻痺した右腕を一旦、意識の外へ追い出して曲げた侭の右足を強く蹴り出し、百鬼丸の躰を蹴り飛ばす。宙吊り状態だった少年の肉体は巨体の放つ蹴りに、軽々と吹き飛ばされた。右手の《無銘刀》を簡単に手放して、引き抜けた《左腕の無銘刀》を空中で煌めかせながら、床に激しく叩きつけられる。
「ヌゥっ、」
と、思わず実篤は普段と異なる痛みに唸る。
蹴りによって抜けた刃だったが、その傷跡は深く右腕は指先まで麻痺して当分回復する目処が立たない。
ブラリ、とオブジェのように垂れ下がった右腕を一瞥し、己の甘さに自嘲気味に鼻を鳴らす。
「小生は、お主を無意識に侮っていたようだ。――」
深呼吸して、実篤は地面に転がる少年を眺める。
彼が束ねていた後ろ髪が千切れたのだろう、長い黒髪が腰にまで伸びていた。油の切れたロボットのようにヨロヨロ立ち上がり、猫背気味に頭をこちらに持ち上げる。
髪の間から光った少年の眼は、静かな憎悪と殺意に固まっていた。
細長い瞳孔は爬虫類のように気味が悪く、金と紅の混ざった光彩だけが異様に目立つ。
実篤は悟った。
自分が彼を侮っていたのではない。当初から見積もっていた戦力を大幅に上回る速度で彼は「人間の領域から離脱」しているのである。
最初に重ねた刃で相手の力量を測ってしまった軽率さに、実篤は後悔した。
彼は、本当に「人類」ではない。
先程の「異星人」だという感覚の方が正しいようだった。
人の理すら外れた存在。
ふと、足元に転がる刀の気配を感じた。まるで、この世界全ての怨念をそこに凝縮し、刀の形状に留めているような……危うい気配。
「お主、この刀に引っ張られておるな。このままでは引き返せなくなるぞ」
不意に、実篤は忠告を発していた。自分でも理解できなかったが、なぜか少年へと喋りかけていた。
――しかし。
かの者は、ただ先程と変わらず頸を横に曲げ、口端から大量の粘着質な涎を地面に垂らしながら、実篤を眺めているに過ぎない。およそ人語を理解しているとは言い難い。
弱々しい足取りで、百鬼丸は実篤に歩み寄り始めた。
実篤の蹴りは、1tの衝撃がある。それは彼もまた人外であるからだ。
「…………お主は、なぜ戦う?」
実篤は幽霊のように揺れる百鬼丸に対し、問いかけた。
確かに、殺し合いだけの世界にしか居場所のない存在として実篤と、百鬼丸。だが、戦場に立つ理由はまた、両者様々な理由がある筈だ。
たとえ、この少年に理由がなかったとしても――それでも、人語が解せなくなったとしても武人の礼儀として聞きたかった。
少年は足をとどめた。
『オレ……ノ? ……おレノ?』
長い肉食獣じみた長い牙を上下に生やした百鬼丸が、歯の間から掠れた呼吸から辛うじて声を漏らす。
両頬を裂いた口端から、唾液と涎が絶えず滴り地面に糸をひく。
いま、彼は人と化物の狭間を彷徨う不安定な状態に見えた。
『――――オレハ、だれ、なンだっ……』
声を震わせて、獣の呼吸と混ざった安定性に欠けた声音が喉から搾り出された。
おれは〝人〟じゃない――。
おれは、誰なんだ?
おれはどうして生命を与えられているんだ?
おれは、おれは……おれは、一体誰なんだ――?
中途半端に戻った人間性が現状の百鬼丸には最大の苦痛となった。獣性に身を任せれば、或は苦悩などしないだろう。堪えようもない絶望のような深淵が、暗黒の裂け目を覗かせた。
――――。
――――…………。
――――。
瞬時の沈黙の後にポッ、と柔らかな温度を知覚した。
温かな感触が不意に、腕から上ってくるのが解った。百鬼丸は、目をその方へ向ける。
左腕の、《無銘刀》が輝きを放つ――。
刃の表面と溝に彫られた古代の文字が白い輝きを発しながら、荒々しい興奮と獰猛に染まった百鬼丸の精神を鎮めた。
まるで、彼の暴走を抑制するブレーキのように、《無銘刀》が次第に百鬼丸という少年を人の側へと引き戻していた。
「はぁ……ッ、はぁ……ッ、」
混乱した頭に人間的な思考を取り戻したのだと理性に教えた。
わずか、三秒……。
この間の逡巡を御門実篤という男は、見逃した。
否、武人であるからこそ、彼は――敢えて見逃したのだ。
実篤は、目前の「人」と「化物」の狭間を漂うこの少年に興味があった。
それは、同族の哀れみかもしれない。だが、それ以上に武人として、剣士としての矜持が実篤を動かさなかった。
滝のような汗が、ぐっしょりと百鬼丸を濡らし、虚ろな眼差しで、
「なんでおれを斬り殺さなかった……?」
百鬼丸は、問うた。
この切り替わりの瞬間は確実に絶好の機会であっただろう。それを、相手の実篤はみすみす逃した。
実篤は、ただ――動かない右腕を庇う素振りも見せず、百鬼丸の視線を真正面から受け止めている。
「なぜ? なぜだろうな…………」
図らずも、実篤は本音を漏らしていた。
自分でも理解できない感情。これに果たして意味などあるのだろうか?
だがどうしても、知りたかったのだ。
「――お主が、獣から人になるその様を。もしかしたら……小生を……この肉体の牢獄から解き放ってくれるやも知れぬ、…………いいや……忘れろ。小生は剣士としての矜持がある」
百鬼丸と御門実篤の視線が一直線に絡み合う。
彼らの交わした言葉は、断片的であり本質的に分かり合うことが出来ない。が、それで構わない。一々殺す相手の全てを知ってしまえば、自分自身がおかしくなる。
……百鬼丸はこれまで辿ってきた肉体を取り戻す旅で、イヤという程味わってきた。
なぜ、この左腕の刃が百鬼丸を元に戻してくれたのか。その理由は知りようもない。だがこの世界に流れる運命のようなものが、辛うじて百鬼丸という少年を人として留まらせたのだと思った。
「少年、名を問うてもよいか?」
実篤が、静かに訊く。
百鬼丸は一瞬だけ、呆気にとられたが……微かに頸を左右に振って笑う。
「――おれの名前は百鬼丸。おれの肉体を奪った連中をブチ殺す旅をする者の名前だ」
「百鬼丸。そうか百鬼丸……いい名前だ。我が名は御門実篤。改めて貴殿に決闘を申し込む。いざ、参られよッ!」
使えなくなった右腕をブランと垂れ下げ、低い姿勢から構えをとる。
しかし。
――だが、しかし。
結果的に実篤の望みは絶たれた。
地下坑道全体を揺るがす巨大な揺れが襲ったのだ。全体的に軋む音。全てが揺れ動き、物質の輪郭線すべての軸がブレ動くようだった。巨人がキャラメル箱を掴んで激しく揺り動かす……そんな連想がした。
時間にしてわずか一五秒。
この間、地下坑道を覆う闇もまた流体のように蟠りを運動させた。
――揺れが静まった、それと同時だった。
鋭い気流が天井から一撃、降り注ぐ。
……気流が降り注ぐ? 実篤は、その非現実的なイメージを肉眼で捉えていた。
「グアッ………あああっ!!」
草刈鎌の刃に似た一撃の端が、百鬼丸の胴体を掠める。それと同時に彼岸花の花弁に似た繊細な飛沫を周囲に撒き散らす。
鋭利な筈の一撃だが、百鬼丸の胴体を切り裂いた斬撃は案外に美しい形状だった。
実篤は咄嗟に、頭を上に向けると、遥か上方に細長い鎌の刃に似た三日月型の裂け目が存在していた。二撃目が、容赦なくギロチンのように岩盤と半ドーム状の天井を突き破る。
その攻撃は……二つとも百鬼丸を正確に狙い打ち込まれていた。
地下に一気に新鮮な空気が流れ込む。…………ジェット気流のような轟音と共に、突風が吹き抜ける。
天井の一部が消え去っていた。
まるで巨大なハンマーが打ち込まれたようだった。
円筒のポッカリ空いた空間が、地上とこの地下空間を繋ぐ。最早、そこにあった地層や構造物の一切が神の振るう鉄槌によって消しさられたように、爆ぜた。
これが何者かによる恣意的な行為であることは疑いようもない。
実篤は、この空間……つまり、地上に居る誰かを見上げる。
円形の眩い地上の穴の縁に聳え立つ、巨大な像が視界に認められた。
尖った嘴の口を持ち、空の色のような胴体に背中を中心にオレンジ色の二層グラデーションの怪獣。そして、その怪獣のすぐ前に佇む人の小さな影。
「貴様は何者だ!」
思わず、実篤は吼えた。水を差された怒りが体の底から湧いてくるようだった。
『どうも、ごきげんよう。……突然で恐縮ですが……そこにいる百鬼丸を、ここで殺させてもらいましょうか。このバキシムで』
冷淡に、男の声が告げた。