『明月記』――――とは、平安期の公家・歌人藤原定家が残した記録である。その彼が記述したものには天体に関するものが含まれている。
中でも、超新星の記録が目をひく。
――――寛弘三年四月二日(1006年5月1日)、西の空に超新星が現れた。
これはおおかみ座領域に現れた、記録上最も明るい星だったと考えられている。
どれ程の明かりかと言えば、深夜であっても地上に影が落ちるほどであったという。
混乱期や変革期には天文の変化、吉凶を予知すると言われてきた。どうやら、人類は広大な天体間の巨大な変化の一部を矮小に活動しているらしい、とようやく気付くのだ。
◇
この年(2018年)、火星が接近し11月には月が火星と土星に重なり合おうかとしていた。
まだ、人々は知らない。水面下で起こっている〝世界の終わり〟を。ただ日々を過ごす人間には危機を知る手立ては無い。
しかし、吉凶の報は古来より一目で解る。
禍々しい真紅の尾を曳いた流星が夜空に輝いた。日本各地の観測地点はもより、民間のニュースはTVやネットなどで騒がれた。
午後11時45分の空を約15秒ほど紅に染めた光は、やがて東の方角へと消え尽きた。
◇
「ゲホッ、ゲホッ、…………なんだ、これッ」
強烈な頭痛と共に吐き気が襲う。おれ(百鬼丸)は顔に浮かぶ無数の脂汗を拭い、奥歯を噛みしめる。
生唾を呑み込み、首を小さく振って立ち上がる。
朦朧とする視界の先には手紙を開き、音読する老人――――松崎虎之助と、彼の目前に膝で立つ巨像…………かつて、人であった頃「御門実篤」と名乗った男が言葉に耳を傾けていた。
生憎、どんな内容かはおれには聞こえない。
だけど、大体どんな内容かは察しがついている。
――――そして生々しい記憶がおれの脳内を一瞬だけ支配した理由も。
ちら、とおれは左腕の刃に目を向ける。
パァン、と乾いた音が広いドーム状の空間に反響する。
おれは足元に粉っぽく降りかかる破片が弾けるのを感じた。地面を一瞥すると、穴が小さく穿たれていた。……弾痕だ。
「「!?」」
手紙を読んでいた老人は、言葉を止め銃声の方角へと体をやった。巨像……もとい、御門実篤もまた同様に首だけを動かし、異変の方角を覗った。
――――――――。
――――。
―――――――。
「…………どういうつもり、って聞くのは今更ですかね?」
おれは、老人たちから10メートル以上離れた位置に居る人物に語り掛ける。
その人影は肩を竦めて乾いた笑い声を漏らす。
「――――最初から俺を始末するつもりだったんだろ? 百鬼丸くん」
拳銃(コルトパイソン)を構えた男が、首を斜めに傾けながら言った。
彼の左目は禍々しい色に染まり、片頬は人の皮膚ではなく硬質な黒鉄を貼り付けていた。
男は短い沈黙を破るように口をひらく。
「もともと、高速道路で走行中に君がこちらに接触した時から分かっていたよ」
「……まさかこんな時に行動に移すとは思わなかったですけどね、岳弘さん」
おれは、フリージャーナリストを名乗った柴崎岳弘という相手に強い目線を向ける。
「でも解らないな。どうして俺をここに連れてきたんだ?」
リボルバー方式の銃口がゆっくりとおれに照準を合わせる。
「――――さぁ、どうしてですかね。泳がせてた、って言ったら信じてくれますかね?」
「リスクが大きすぎる」
「……かもしれないですけどね。正直自分でも解らないんですよ」
「俺が荒魂に憑依された人間だと知っていたから首を斬る機会を窺っているものだと思っていたよ」
「確かに貴方の言う通りだけど、本当に自分がなんでこんな事してるのかわからないんですよ」
「ははは、まるで〝人間〟みたいなことをいうね。もちろん、俺もかつてはニンゲンだったよ」
どこか哀愁の籠った響きで答える。
「のう、柴崎よ。お主は……荒魂だったんか」松崎老人が落ち着いた声で、語り掛ける。
男は首を横に動かして、縦に首を振った。
「ええ、どうですか? 俺の本当の正体は? 醜いですか?」
「――――いや、や。あのお方…………折神黄泉様のように感情のある優しい目だ」
そういいながら老人は目前の実篤へ顔を向ける。「あのお方の、本当の名です」萎んだように声で囁く。
「―――――――。」巨像は俯いたまま「初めて、その名を知った」
と、一言つぶやいた。
◇
(――――私、何もできなかった。)
衛藤可奈美は市ヶ谷基地の庁舎エントランスを一人歩く。ふと、目線を左右に向けると既に負傷者の救護が終わり、その代わりに目立つガラス片や破壊された建物の壁などが床に散乱していた。
つい、2時間前に襲撃があったとは思えない不気味な静けさが広い空間に満ちていた。
可奈美はタキリヒメを失ったことにショックを受けながらも、精神は妙に冷静で現状を受け入れている。…………どこか冷酷な自分に気が付いていた。
そんな少女は今、自主的に巡回の役割を買って出た。
本来であればタギツヒメとの戦闘により消耗している筈なのだが、体が芯から熱っぽくて眠りにつけない。警備の人員が不足している話を聞いたとき、すぐに志願した。勿論周りは止めたが、彼女は曖昧な微笑で「――お願い」と呟いた。
『夜の風に当たりたいから…………』と、小さく付け加えた。
皆、彼女の意志を尊重した。
◇
外に出ると夜気が感じられ、火照った頬を鎮めてくれる感じがした。甘栗色の柔髪を一陣の風が浚う。長い上目の睫毛が二三瞬く。
交代の時間まであと三〇分ほど余裕がある。
エントランスを出、広場の外周に沿う遊歩道を歩きながら、
「〝無心なる時、皆あたる也。無心とて一切心無きにあらず。唯平常心なり。〟――――っか」
ひとり、暗唱を口にした。
柳生宗矩の『兵法家伝書』の一節である。
いまの可奈美にとって、かつて存在した実在の剣士の言葉が非常な身近さで感じられた。
美濃関の赤いプリーツスカートを小さく波打たせながら無言で進むと、外灯に当てられた木々の黒い輪郭が見えてきた。市ヶ谷基地の一角にも緑の憩う場がある。
芝生の辺りまで来ると、御刀を腰のホルダーから外して腰を地面に下ろした。《千鳥》を身に引き寄せながら体育座りで夜空を仰ぎ見た。
幾つかの星々が冷たい十字の輝きを放ち、油雲が一切ない。毒々しい紅の三日月が夜空の真ん中に掛かっていた。
「――――なんでかな?」
心臓の鼓動が高まりつつあるのを自覚していた。
タキリヒメ、タギツヒメ…………ふた柱と刃を交えた時、これまでに味わったことの無い感情と高揚感に包まれていた。それは、本気で『高み』を目指せる新たな領域への扉だった。荘厳な扉の前に立つ。
恐らく神と刃を交えた刀使は居ないだろう。
存在していたとしても、その神に近づきたいと誰か考えただろうか?
衛藤可奈美という少女は、ただ純粋過ぎる好奇心から理解しようとしていた――《万物》を。
それは他人の目からすれば、狂人の考えだと思われるだろう。
だが何と罵られても彼女は知りたかった。
――――自分が何者であるか、を。
剣を極める者にとって強さは“孤独〟を意味し、更に剣を探求すればするほど理解する者は消えてゆく。そうと知りながら、求めることを止められない。……恐らく刀使の役目を終えてからも続くだろう、可奈美は夜空を見ながら懊悩する自身の心の動きを、更に俯瞰した自分が眺めていた。
『おれに色々と教えてくれよ、可愛い師匠さま。な?』
カラカラと屈託なく笑う声が耳の奥から甦った。――自然と口角が釣り上がる。
くりっ、とした大きな目を細め、
「ねぇ、〝百鬼丸〟はコッチに来てくれるのかな?」低く囁くように言いながら、どこか妖艶かつ、蠱惑的な微笑を漏らす。もしも、この孤独の寂しさに耐え切れなくなった時、そのときに隣に居てくれるだろうか?
姫和も、恐らく居るだろう。しかし、一人では足りない。切り結ぶ相手は多ければ嬉しい。
否応なしに疼く胸の衝動を堪えながら、可奈美は小さく首を左右に振る。
「……どうしたのかな、今日の私。変、だな」
刀使である姫和とも違う戦闘スタイル、幼少の頃から命のやり取りをしてきた経験値が可奈美にとって肉薄する白刃のようにも感じられ、堪らなかった。
「百鬼丸さんだったら、ううん、違う。…………こんな考え止めないと」
教えればスポンジのように吸収し、さらに予想を超えて剣術を習得する“弟子〟との手合わせに思いを巡らせる。どんな奇策で弱点を衝くのだろう?
不意に可奈美の下唇は朱色に染まり、白魚のような滑らかな指で弧の形をなぞる。形容しがたい溶岩のような感情の滞留を胸奥に熱く感じていた。
タギツヒメ陣営との熾烈な戦闘はこの先も、必ず発生する。
(強い相手と、もっと――――)
妖しい流星の色が、静かな夜に満ちる。
見上げる大きな琥珀色の瞳に不気味な色を宿す。この時、名状しがたい気持ちに拍車をかけた。