……いつからだろう?
一体いつから自分の、この腕が届かないと思ってしまったのだろう。
どれだけ伸ばしても届かないと分かっていても、それでも諦めなければ良かった。
――――でなければ、本当に大切なものを守ることが出来ない。
本当に大切にしたかった彼女ですら、この掌で繋ぎとめることが出来なかった。
今まで、御門実篤という一個の人間は私心を持ってはけないと教えられてきた。
だから全部を社会や弱い人々を守れる人間であるべきだと、自らに責務を課した。
だが、しかし。
世の中は残酷だった…………。
軍隊という社会に入っても、それは世俗の社会となんら変わりなどなかった。
ひたすらに、弱い人々が虐げられる。
なぜ、人は努力をして己の力で道を切り開こうと試みる者に対して惨い扱いを受けるのだろうか。
神や仏が居るとして、それらはどうして彼らを助けなかったのだろう。
――であれば、《負》の神性を帯びた荒魂の方がよほど、全てを破壊し尽くす存在として信仰の対象たりうるではないか?
この、地下の暗闇で永遠に等しい時間を、拷問のような戦いを繰り広げながら考えていた。
かの大戦で、大勢の人々が焼け死んだ。
軍人ならばともかく、死ぬべきではない女子供も死んでしまった。
まだ、生まれたばかりの赤子ですら、その人生に愉しみを見つけることもなく、容赦なく命が奪われた。
なぜ、人はこの世界に生を受けるのだろう……。
――――善人から死んでゆくではないかッ!!
慟哭したいような声すら、マグマのように腹の下に滞留していた。
――――――。
―――――――――。
――――――。
◇
◇
「オレを殺すか、百鬼丸ぅ!! はははっ、どうだ? お前の力なら今すぐオレの首を刎ねること位は簡単だろう」
挑発するように、柴崎岳弘と名乗っていた『荒魂』が喋る。
コルトパイソンを構えた右腕が素早く、数メートル離れた百鬼丸から、一般人である虎之助老人へと照準を動かす。
「おい、どうした百鬼丸? お前は今すぐオレを殺さなければいけない筈だぞ、ええ?」
唇を舐めながら、何度も催促するように言い募る。
「―――――。」
百鬼丸は迂闊に行動が出来ず、その場で立ち止まっている。
もし、仮に今飛び出せばヤツを仕留めることは可能。だがしかし、その前に虎之助老人が撃たれた場合は? そんな危惧が百鬼丸の脳裏を掠める。
「チッ、無視か。まあいいさ…………、じゃあもう終わらせようか」
目前の少年の行動を注視していた岳弘だったが、興味が失せたように首を横に振って冷淡な口調で告げる。
――――そして、一瞬だけ、虎之助老人の近くに膝を屈して石像の如く聳える「御門実篤」へと視線を移す。
…………まるで、懇願するような、そんな目を岳弘は向けた。
「…………――――。」
その視線を確かに、御門実篤は受け取っていた。
たっぷり、息を吸い引き金をひく動作をした男。
3、
2、
1、
とカウントしながら岳弘は道化(ピエロ)を演じるような狂気に満ちた声で叫ぶ。
『やめろぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!!』
百鬼丸は最早、理性を超え片足の加速装置に力を籠める。
キィィィイイイイン、と甲高い音と共にリボルバーが回転し、瞬発的な加速を実現させた。
レイリー・ブラッド・ジョーと名乗る科学者の手によって改造された《加速装置》は、少年の体を羽のように軽くした。
従来の長距離専用の加速装置ではなく、ただ《戦闘》に特化した加速装置は、中短距離を確実に縮める強い意志とのタイムラグ無く高速化させる。
たった数十メートルを縮めるのに時間など必要ではない。
…………だが。
百鬼丸の体は余りに直線的に素早く移動した為に、岳弘の真横を過ぎた。
凄まじい風圧によろめきながらも、
「おいおい、どこに移動しているんだぁ?」と、驚愕と嘲りの交じった表情で怒鳴る。
――――が。
百鬼丸は無心で体を丸めて宙から一八〇度反転した。その際に足場に利用したのが、通称《音の壁》と呼ばれる白い〝ナニカ〟であった。
音速=マッハ1付近に到達した際に発生する現象であった。
この壁を超えることは「音の壁を超える」と言われた。
百鬼丸はその壁を自らの足場として利用し、空中にて方向転換のため活用したのだ。
無論、すべて今初めて行ったものである。
彼の場合、頭ではなく「体」が命じるままに、戦闘を構築する。
当然そのような速度は尋常ではない。だからこそ、百鬼丸は生身で全ての衝撃を受けている。しかも、重傷の身で、である。
少年は左腕の刃を器用に操り片翼のように煌めかせる。
岳弘の構えた腕めがけ、瞬きする余裕もなく腕を切り落とした。
「―――――――ッ、熱いっ」
岳弘はそう叫びながら、自らの切断された腕から溢れた滂沱の血液を左の掌が受け止める。
岳弘の切り落とされた腕は、銃を掴んだまま地面に転がり、死後硬直するように痙攣して跳ねていた。
顔を朱に染めながら百鬼丸は容貌が変化した岳弘を見下ろす。
「百鬼丸、どうした? オレも他の連中と同じようにすぐに殺さないのか? ああそうか。いたぶってから殺すのが趣味なのか?」
激痛に耐えながらも、既に荒魂に体を乗っ取られた岳弘は、非難して叫ぶ。
百鬼丸は硬い表情で俯き、長い黒髪を翻す。
足元に転がった片腕に掴まれた銃口からは火薬の匂いと共に一筋の白い烟を細く昇らせていた。
「…………っ!?」
もう、発射していたのだろうか!?
冷や汗と共に百鬼丸は老人たちの方角へと体を向けると、そこには、虎之助老人を庇うように自らを盾として立ちふさがる巨大な石像のような影を認めた。
番人……そう、自らを呼んだ男が、かつての部下を守るように己が身を盾にした。
彼の銅色に輝く皮膚と筋肉の一部から、弾痕である穴が肩の方に穿たれていた。
背後で守られていた老人がただ、茫然とその巨大な背中を見詰める。
「なぜ、なぜこの老いぼれを助けたのですか」
口元が震えながら、老人は訴える。
あの日、敗戦したあの日、自分は図らずも生き残ってしまった。多くの同胞、戦友が散った。何もかも、全てが失ったと思っていた。
だが、他でもない彼、御門実篤という男が「生きる」という道を示してくれた。だからこそ、苦渋の日々も過ごすことができた。
その恩を返す時を、憧れるように待っていた。
松崎虎之助という、一人の男として、部下として尊敬すべき人物へと。
…………だが、結果は違っていた。
「なぜ、またこんなワシのような者を、守るのですか?」
そう聞かずにはいられなかった。
それまで、厳しい顔だった石像のような男が首を巡らせ、口元を綻ばせた。
「小生は、ただ弱い者を守りたかった。だから剣を、武術を極めようと思った。もし、許されるならば、たった一人の女性を救いたかったんだ」
はじめて、優しい表情で実篤が微笑んだ。
七〇年以上にも及ぶ、苦難の末にようやく本心を語ることが出来た。
たとえ、慕う相手がこの世から消えたとしても。
たとえ、この世界に救うべき存在がいないとしても。
それでも、後悔はしたくないと思ってきた。
そして、かつての部下であり、地下牢に閉じ込められていた「少年」を守ることができた。
『その人はもう、救われている…………、』
百鬼丸は、実篤に向かって片方の肉眼から涙を流しつつ呟いた。
実篤は前へと首を動かし、
「―――――。」
ただ無言で、百鬼丸を見据える。……否、正確に言えば彼の片腕へと視線が釘付けとなっていた。
彼の片腕に装着された刃からは明るい光が放たれていた。
その眩い光は、実篤の方に呼びかけるように何度も点滅を繰り返しながら、何かを伝えようとしていた。
「…………そうでしたか。貴女はそこにおられたんですね」
実篤は、悠久にも思える時間を超えて、再び出逢った。