刀使ト修羅   作:ひのきの棒

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第165話

 ぽちゃん、と水音が聞こえた。

 息を潜めて低灌木に身を隠した少年は体を硬くした。急ぎ目を細め、音の方に細心の注意を向けた。

 

 野生動物の蹄に弾かれた小石が川面に落ちた音らしい。――その生き物「カモシカ」は俊敏な動きで軽やかに山道を進む。

 

(あいつの肉は丁度食べごろだな…………。)

 

 少年――――百鬼丸は、値踏みするような目つきでカモシカの臀部を眺める。蠱惑的に揺れ動く後ろ足が非常に魅力的だった。

 

 ぐぅ、と不意に空腹が鳴った。

 

 舌を舐め、右腕を噛む。スラリ、と刃が現れた。刀身は金属の光沢の艶を消す独自の油を塗っていた。

 

 左手で加速装置のリミッターを外し、一気に距離を詰めて仕留める。

 既に脳内で狩りの計画は終えていた。あとは素早く仕留めるだけ。

 

 百鬼丸が更に身を低く地面スレスレにまで姿勢を落とすと、頬に冷たい感触がした。

 

 新雪の結晶が頬に当たり、水滴になったようだ。

 

 ――――初冬。

 

(もうそんな時期になるのか。)

 柄にもなく感傷的な気分に浸った。だが空腹は満たされない。

 キィィィン、と甲高い耳鳴りに似た音がする。野生動物は「音」に敏感だ。この時点で既に気付かれているだろう。

 

(一気に決める)

 

 飛び出すと同時に、カモシカの太い首が後ろを振り向いた瞬間。

 地面を蹴る直前、左手で拾い上げた小石を投げカモシカの注意を逸らす。その間、加速装置によって宙を浮くように移動し、鈍色の刃を閃かせる。――刹那、逃げ遅れたカモシカの喉元に切っ先を突き刺す。

 

 上手く刺さったらしく、鮮血が噴き出すこともなく絶命させた。

 生命を奪った感触は無い。ただ肉塊を突き刺した感じが腕に伝うだけだった。

 

 冬は匂いが消える。「無」の世界に似ていると、百鬼丸は思った。

 

 やがて、山々は雪化粧を施して何もかもを覆い隠すだろう。そうなれば食い物は絶無と言って良い。だから今は、保存食の確保が最優先となる。

「ふぅ、大物だな」

 刃を引き抜きながら仕留めた獲物を一瞥する。はやく血抜きと内臓処理をしないと干し肉にならない。…………それに、燻製にする場所まで持っていくのに時間もかかる。

 

 

 自然の世界に生きるという事は、命を奪うという事だ。

 当然だが、生きることに遠慮はいらない。

 ただ強い者が奪い弱い者が奪われる。それだけのシンプルな世界観。一切の同情や憐れみなど介在する余地がないのだ。否、それこそが合理的な自然界の摂理。

 …………だから、奪う事に躊躇してはいけないのだ。

 なぜなら、己もいつかは奪われる対象になるのだから。

 

 

 それが幼い頃から経験で体に覚えさせてきた掟。

 

「じゃあ、頂きます」

 光を失った瞳のカモシカを眺めながら一言、少年は呟いた。

 

 

 

 ◇

  百鬼丸は長い階段を上り終えると、海風に運ばれた潮の匂いが鼻を打つ。

 「海が近いのか」

 真っ暗な通路の最奥には、四角の光が満ちていた。恐らく出口だろう。

 ひゅううううううう、と烈風の激しい音が笛の音色に似て出口から聞こえてくる。疑似的な聴覚には砂嵐の混ざった感じに変換された。

 

 歩きながら思う。…………一体、どの臓器が戻り、どの臓器を失ったのか。それは自分でも解らない。

 

 ただ、普通の人間であれば本来は取り戻すというバカげた行為などしないでいい。全て最初から揃って「当たり前」なのだ。むしろ、一部でも欠けている方が不自然であり、四十八箇所も失っていた自分は、文字通り空っぽな存在だった。

 

 

 義父、橋本善海の与えた疑似的な肉体部位はどんな時でも優秀に機能している。問題などない。

 本当であれば、全て奪い返す意味もないのかも知れない。

 ただ、生きるだけならば多くの困難や苦痛に耐えなくても良いのかもしれない。

 

 

 ――――どうして、おれは肉体を奪い返すんだろう。

 

 百鬼丸は歩きながら不意に疑問が脳裏に浮かぶ。なぜ執拗に体を取り返そうとするのだろう。

 自分の肉体だから奪い返す?

 たったそれだけの理由で苦しみを味わうのか。何度も何度も激痛に耐え、殺した相手の記憶を継承しながら戦わなければいけないのか?

 

 時々、自分が誰だか分からなくなる時がある。

 

――――おれは一体何者なのか。

 

 

 

 この体も記憶も、もしかしたら全部別人のモノなのかもしれない。

 そんな不安が襲ってくる。

 確実なモノなんてない。ひたすら足掻いて、藻掻いて何かをつかみ取るしか道がなかったのだから。

 

 だから戦う。争い、戦って、戦って、奪い取る――――。

 

 

 戦いは麻薬だ。

 特に、目的が手段となった場合は最悪だ。

 最初にその快楽を知ってしまえば、あとの後遺症などお構いなしに「行為」を繰り返してゆく。それが癖になって、習慣になる。

 

 

 

 百鬼丸は通路の出口から外に足を踏み出すと、東京湾を一望できる場所に佇んでいた。

 「――――。」

 あの地下で、どれくらい時間が経過したのだろう。

 たった2、3時間かもしれない。

 「どうだっていいよな」百鬼丸はキョロキョロ首を動かし、現在地を把握する事に努めた。

 

 品川埠頭。

 

 ここが、東京湾の一角に面していると理解するのに時間は要らなかった。

 

 百鬼丸は地下に潜る前にコンビニで売られていた地図を大量に記憶、地理を把握していた。自然界で生きていれば、地名など分からない。ただ特徴的な山や場所を覚えても、位置が変われば、すぐに分からなくなる。その点、都市は楽だった。地名と方角さえ知れば迷うことはない。

 

 

「とりあえず、移動手段が欲しいな」

 バイクがいい、と百鬼丸は思った。

 疾駆する瞬間、スピードに身を任せる感覚、どれも抗いがたい魅力で満ちている。

 

 橋を見上げながら少年は、動きだす。

 

 


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