――――……まるで深い暗闇に落ちてゆくようだ。――――……それでもいい。
ただ、誰かを守れるのならもう一度、おれは獣の姿になろう。寿命でもなんでもいくらでも捧げてやる。どうせ、おれは「二度と」人間になることが出来ないのだから。
今だけは、おれ自身の価値である「強さ」に頼ろう。この身が朽ちるその時まで。
朦朧とした意識の中で、おれは、再び《無銘刀》の柄を握り締め、刀傷の深い怪我の箇所に深く突き刺す。……金属の冷たい感触が体内に感じられ、細胞の一つ一つが活性化するみたいに沸き立つ。
(ああ、もうおれ――――本当に戻れねぇなぁ…………。)
フワフワした頭でおれは、血が伝う刀身を掴んで、もう一度刃を腹部に押し込む。内臓を傷つけたのかも分からない。
――――だけど、気が付いた時には、おれは『醜い』姿に変わっていた。
Ⅰ
『テメェの相手はおれだァ!!』
空中から飛び掛かった半獣の悪魔は、鋭い牙と爪を閃かせながら襲い掛かる。
細い瞳孔は爬虫類のようで、金色の瞳がひと際目立って光る。
「――――お前か」
つまらなそうに、悠然と闊歩した十臓は足を止め、『裏正』を振るう。
斬撃に当たる寸前で身をひるがえし、地面に着地する。喉の奥を鳴らして低い声で唸り、威嚇した。
「どうだ百鬼丸。貴様はその恰好になって楽になったように思えるが?」
『そうかもなぁ…………少なくとも、テメェみてぇな糞野郎を思い切りブチ殺すことが楽しみで仕方ねぇ』
キヒヒヒ、と牙の奥から笑う。
「ふっ、そうか。だが生憎、お前のような獣じみた奴を相手にする気はない―――――衛藤可奈美、お前こそが俺の求めた相手だ」
首を巡らせ、倒壊しかけた渋谷駅の方角を見やる。
可奈美は、背後の女児を庇うように立ちふさがり、正眼に《千鳥》を構えている。
「―――――。」
一言も発さずに、亀裂の走ったバイザー越しに鋭い眼差しで十臓を見据える。
「そうだ、その目だ……………」
しかし、十臓の言葉を無視するように、可奈美は背後の女児に微かに頭を動かす。――――本来は戦闘時に意識を外す行為は自殺に等しい。それでも、可奈美は安否を気遣うように短い瞬間を、不安でいっぱいの女児へと向けた。
「大丈夫…………? 怪我はない?」
「うん」
「そっか。よかった――――偉いね。ひとりで、よく頑張っったね」
可奈美は微笑を浮かべ、口元を優しく綻ばせた。
泣きはらした瞼をつよく擦りながら、
「おえねぇちゃん、だぁれ?」と、聞いた。
「私は…………刀使、だよ。刀使の衛藤可奈美」
「かなみおねーちゃん?」
「うん、そうだよ。ごめんね、すぐにお母さんを一緒に探してあげられなくて」
「まぁま……」
泣き枯らした声で、再びしゃくりをあげ、可奈美の赤いプリーツスカートにしがみついた。
「えっと、」
戸惑ったように形の良い眉をハの字に曲げて苦笑する。――――本来であれば危ないから離れるように注意をするのだが、幼い子供がスカートの端で涙を拭う姿を見ると、優しい言葉をかけたくなってしまう。
『―――――衛藤可奈美、お前は何をしてるッ!!! 剣を、殺意を俺に向けろッ!』
真正面から圧倒的なプレッシャーが感じられた。
亜麻色の髪を揺らし、前を向くと、白く邪悪な骨と甲冑の融合した異形の殺人鬼が、悲鳴に近い声で叫んでいた。
キッ、と表情を鋭く変えて半眼になる。
「――――ごめんね。ちょっと、危ないから離れててね?」
そう言いながら、自らの足元でシクシクとしゃくりをあげる女児の頭を優しく撫でて、ゆっくり、自分から遠ざけた。
しかし、女児は不安で、スカートの端からなかなか手を離そうとしなかった。
亜麻色の髪に雪片が舞い降りる。……呼吸を一つ。
「――――大丈夫だから、ね」
明るく元気な声音で、笑顔で女児に笑いかける。まるで、真夏に咲いた向日葵のように華やかで生命力に満ちた雰囲気に、女児も寂しさを忘れて無心で頷いた。
安全な距離まで離れたことを確認してから、可奈美は呼気を整え、S装備のバッテリーが残り少ないことに気が付いた。すでに、稼働時間の限界を迎えようとしている。
本来は、窮地である。
しかし、現在の彼女には、それが危機には感じられなかった。
―――――なぜならば……………。
「十臓、さん? …………確かに貴方のいう通り、私は剣術で孤独に感じて、冷酷になるかも知れない」
誰にも、これから自分の孤独を分かち合える存在が居ないのかもしれない。
確かに、彼のいう通り、殺人剣を究めようとしている相手と剣を重ねることで、まだ見ぬ境地に達することが可能かも知れない。
…………だが、可奈美は首を左右に振る。
「私、気が付いたんだ。この剣は、誰かを守るための力だってこと…………確かに、剣術だけなら貴方のいう通り、どこまでも探求できるかも知れない。でも、私はそんな剣を究めたいと思わない。誰かを守れる剣が、誰か大切なものを、この手で守れるって純粋に嬉しいことだって……………あの子に教えてもらったから! だから、私は貴方の望みは叶えられない!」
啖呵を切るように強く、硬い意志で十臓を見る。
「ククク…………そうか。お前もやはり、凡俗の人間の側に身を落ち着けるか。そうか。ならばよい。この世界でやることは一つ。柳生の剣をへし折り、強い者を捜すだけだ」
乾いた笑いを漏らしながら、『裏正』を構える。
百鬼丸は、十臓の油断や隙を衝いて攻撃を仕掛けようと低い姿勢からタイミングを待っていた。
チラ、と目線を百鬼丸の方に流した可奈美は、
「百鬼丸さん、お願い。剣での決着は私につけさせて」
と、攻撃を制した。
『グルル、――――ああ』
喉を鳴らして不服そうに半獣の悪魔は頷く。
少女の決意を、百鬼丸は知った。だから手出しをすることを控えた。これから行われるのは《活人剣》と《殺人剣》の両極に位置する者同士の激突だ。
「お前は、必ずその決意を後悔する時がくるッ! その時がきて後悔しても遅いぞ」
真紅の顔面は、最後の忠告とばかりにいった。
――――だが。
「うん、確かに貴方のいう通り後悔するかも知れない。でも、それでも、今、この時に誰かを守れない事の方が、もっと後悔するから。――――私の剣が何を斬るのか、私が決めるから。この思いが伝わるように」
《千鳥》の切先から鎬にかけて、やや変色した刀身の鈍い光が、可奈美の頬に反射する。
ガァアアアアア!!!
激しく叫びながら、十臓は得意の袈裟斬で可奈美に襲い掛かった。距離などものともせず、一心不乱に刃を振り下ろす。
凹凸のある…………通常の刀身でいう峰の側から鉈の如く振り下ろされた斬撃を、可奈美は打ち流すように、刃先で滑らせ、柳生新陰流の神髄である反撃(カウンター)を仕掛ける。
ガラ空きとなった胴体へ一閃――――を打ち込む筈が、十臓はすかさず体を捻り、斬撃を避ける。鞭のように撓る足で可奈美の左脇を蹴り上げた。
バリィィン、と硝子が砕けるような高い音色が鳴り響く。
《写シ》が破られた。
強大な衝撃がろっ骨に襲い掛かる。可奈美は、一瞬、意識が飛びかけた。しかし、再び《写シ》を貼り、すぐさま十臓の喉元目掛けて突きを繰り出す。
刃の届く寸前で十臓は宙に浮いた躰を器用に後退させ、突き技を避けた。
――――しかし、瞳の光彩が一層輝きを増すように、可奈美の両目に宝石のような煌めきが閃いた。
燕飛之太刀、とよばれる攻守一体となった剣技で、次々と剣の軌跡を繰り出す。流石の十臓でさえも、防戦に回らざるをえず、しかし、力をためて『裏正』の切っ先を可奈美に送り込む。
―――――それを読んでいたかのように、可奈美は簡単にいなして、十臓の右腕の肘に一撃を加える。更に、《千鳥》は十臓の喉元に迫る。
「くっ、」
十臓は苦し気に呻きながら――――影抜きをしようと左上段に剣を掲げる。
――――この時を待っていた。
天狗抄、否――――奥義(極意)之太刀と呼ばれる、柳生新陰流の極意、動作の前の心の働きを読む。そんな超人じみた方法で、かつ、十臓の影抜きを見て学んだ可奈美は掌で柄の持ち替えを行い、左右の腕関節を一刀のうちに叩き込む。
いくら硬い十臓の腕とはいえ、何度も斬撃を喰らえばひとたまりもない。しかも洗練された太刀筋により、深い亀裂が走り、手から刀が滑り落ちる。動きが鈍る。すかさず、切先を喉元に寄せた。
「降参してください」
冷静な声で、可奈美は告げた。
だが相手は、――――ククク、と喉の奥で不気味に笑う。
「ハハハハ、お前の力は確かだ! 兵法の極意を味わうとは! もっと、もっとだ! もっと俺を切り刻み、俺の血肉に変われ! 衛藤可奈美!」
言いながら、十臓は可奈美の隙を衝いて下顎を掴み、自らの視線と合わせる。
「トドメを刺せ。成程、俺は慢心していた。己の技術のみに固執して新たな技を覚えることを怠った。さぁ、喉に突き刺せ。その刀を! どうした? お前はやはり、自分の手を汚すことが嫌なのか? …………どうした?」
可奈美の眼は目を細め、《千鳥》の柄を握ったまま、止まっている。
「勝負はつきました」
「まだだ! お前が俺の命を奪う。それが本当の剣というものだッ!」
『うるせぇ、だったらおれがお前に引導を渡してやるよ』
十臓の背後から半獣の悪魔が、佇み、耳元でささやく。まるで、十臓にやられた仕返しとばかりに、黒い腕が十臓の右肩を掴み、地面に落ちた『裏正』を刃で胸を貫く。
「たっぷり味わえよ、テメェの剣だ。持ち主の血をたっっくさん味わうんだぞ」
グリグリ、と胸の真ん中を捻りなるべく苦しむように、突きさす。
半獣の悪魔――――百鬼丸は、十臓の頭に口を寄せ、可奈美に聞こえない声で呟く。
『――――テメェにコイツの剣は汚させない。汚れるのはおれだけで十分だ。……その罪も咎もおれが背負う。だから、てめえの目論見なんぞ糞くらえ』
百鬼丸の言葉を聴きながら、十臓は自らの胸を貫く刃を壊れかけた腕を動かし、指先で触れる。
「…………なるほど、お前のような異形の生き物が、その醜悪な姿を晒しながら戦う。そういう事か。俺はお前を見くびっていた。そして、何より、衛藤可奈美。この娘の剣への飽くなき探求心に、――――強さに俺は負けたのだな。ふははは、愉快だ。俺は魂や志ではなく、強さに説得された。それだけだ」
満足そうに言い、真正面の可奈美へと視線を向ける。
驚愕の表情を浮かべた可奈美が、刀を喉元に寄せたまま固まっていた。
「なん、で……?」
「ふははは、お前は純粋だ――――そして純粋なお前の強さに俺は負けた」
十臓は、噛みしめるように己の敗北を味わう。トドメこそ百鬼丸に刺されたが、それ以前に多彩な剣技と、心理をうまく利用されたことに、言いようもない満足感を味わっていた。そして何より、人斬りをして満たされなかった飢渇感が、不思議と今は癒えていた。
ゆっくり、蜘蛛の卵のような目で、胸の裏正を見る。
この刀で二〇〇人を斬り殺してきた。そして、最後にこの身を貫くことで、現世の人斬りを終えようとしていた。
「…………まさか、お前に最後に引導を渡されるとはな」
感慨深そうに、彼は反芻する。
かつて、長屋にて人斬りを止めようとした「妻」の面影を。ただ、貞淑に夫に仕える良妻賢母としてあろうとした、面白味のない女だった。常に、人斬りを諫め、人斬りの罪悪を説き伏せようとし、泣いていた弱い女。
――――だが、その妻を斬るという選択肢までは現世では思いつかなかった。
あるいは、いつでも殺せると思っていたのかも知れない。
『裏正』が妻であることを承知で、人を殺してきた。
…………ただ、己が身を貫かれたこの瞬間、本当に達成感のような感情が溢れていた。
「あぁ、そうか――――俺は外道だ。地獄に堕ちるなら、今度は地獄の獄門を支配しようか。なぁ、『裏正』」
優しく語り掛けるように、愛おしく裏正の凹凸部分を撫でる。体液で粘つく指先。
『じゃあな――――テメェを先に地獄に堕としてやるよ』
半獣の悪魔―――――――もとい、百鬼丸は無感情に言って、裏正を引き抜き、十臓の首を思い切り刎ねた。