小笠原諸島沖を航行する一隻の原子力潜水艦、通称ノーチラス号はアメリカ合衆国の庇護下にあり、航行の自由が保障されていた。
――はずだった。
しかし日米の交渉によって、この一隻の潜水艦は国籍不明の船舶と化した。
理由は明白で、刀剣類管理局の前局長、折神紫が乗船しているからに他ならない。
刀剣類管理局の維新派の実務を司る高津雪那は、紫の身柄を確保しようと、日本政府の外交手段を駆使してたった一隻を追い詰めた。
実に皮肉な話ではあるが、日本政府が米国政府に対して強く出た交渉の場は、ひとえに高津雪那という頭のネジが飛んだ実務家の手腕によるものだった。
首都高から一般道を経由し、東京から鎌倉方面へと向かう一台のレクサスが走行していた。
夕陽が傾き、茜色に空が染まっている。
車窓のすぐ近くを流れる河川敷は、金属板の表面のようにギラギラと光を反射させていた。
「それで、率直にお聞きしますがお話とは?」
山吹色のどてらを着た女性――刀剣類管理局の本部長、真庭紗南が真剣な表情で尋ねる。
携帯端末のスピーカーから男性の声が聞こえていた。
『アドミラル(提督)から連絡があってね。彼によると、どうやら我が祖国は、ノーチラス号を見捨てたようだ』
声の主は、アメリカ人の科学者リチャード=フリードマンだった。彼はエレンの祖父であり、かつ20年前の江ノ島で発生した大厄災の現場にも遭遇していた。
彼は、舞草の協力者として折神紫とイチキシマヒメを原子力潜水艦にて匿っていた。
――だが。
『国籍不明の潜水艦が拿捕されることになるだろう』
「――それも高津学長が?」
『ああ、そうだ。彼女にはぜひチェスの相手でもお願いしたいね』
皮肉交じりにフリードマンはボヤいた。
舞草側にとって行使できる手段は殆ど残っておらず、結果として大人しく折神紫とイチキシマヒメの身柄を提供する他にない。
『物事が進む時は一気に始まるものだね。いやはや……すまないが、此方で匿うのにも限界がある。それ以上の事はくれぐれも……』
「ええ、分かっています。早急に対処しなければ、タギツヒメ側に全てやり込められてしまいますから」
紗南はハンドルを強く握りながら、苦虫を嚙み潰したような顔で暫く黙り込んでいた。
Ⅰ
……夜。
その時間が来る度に、思い出す。
真っ赤に燃え盛る火炎の口と牙が、まるでわたし達を哄笑するように大音量で化け物が叫ぶ。
夜の森は不気味なほど真っ暗で、何も見えず、荒魂の放つ強烈な火炎以外には何もない。
痛い、痛い、痛い、怖い、怖い怖いッ!
一歩、一歩、荒魂は近寄り首を傾けた気がした。
この化け物の足元には、先程まで元気だった筈の刀使たちの亡骸が無残にも横たわっている。
怖気が一気に全身を支配し、硬直したように動かなくなった。
…………ワタシモココデ死ヌノ?
◇
「いやーーーーーーーーーーっ!!」
笹野美也子はベッドから悲鳴を迸らせて起き上がった。
滝のような汗をかいており、荒い呼吸で肩が上下に動き、喘ぐように空気を吸う。
すぐにサイドテーブルに置かれた錠剤の瓶を掴み、白い粒を口へ無理やり押し込む。水もなく呑み込むのは大変だったが、それよりも悪夢から早く醒めたい。
強い願いが彼女に更なる焦りを募らせた。
ごくん、の呑み込むと一息つく。
精神安定剤のデパスを服用し始めてから何年経つのだろう?
ふと、彼女は思う。
きっとあの日から――荒魂に片目と片腕を奪われたときからだ。
あの日、大規模な荒魂の巣を掃討する作戦に参加しなければ――――。部隊がはぐれなければ……。
「痛いっ、」
彼女は右目を抑える。
とっくに怪我は治っており、本来であれば痛みなど感じない筈だった。
――幻肢痛(ファントムペイン)
そう訳される症状は、本来であれば治っている筈の怪我を、脳が未だに痛みを感じさせる作用で、一種の精神病として捉えられることも多い。
彼女はこの四年間、この幻肢痛に苦しんできた。
心臓の鼓動だけが煩く胸の奥から鳴り響き、落ち着きを取り戻すために暫くの時間が必要だった。
(わたしは自分で志願して、ここに来たんだ……。)
真っ暗な部屋の小窓に射し込む一条の青い月光を、ぼんやりと眺めながら美也子は理由もなく泣きたくなっていた。
――その時だった。
コンコン、と部屋の扉をノックする音がした。
「……大声を出した。すまない」
美也子は扉の前にいるであろう何者かに対し、騒音だった事を謝罪する。
『う~ん? どうしました? 大丈夫じゃなさそうだけど、勝手に入りますよ?』
少年の声が心配そうに聞こえた。
「ああ、――百鬼丸くんか。どうぞ」
その返事と共に、入室した人物は部屋の電気を点けた。
長い白黒の髪の毛を後ろに乱暴に束ね、少年特有のあどけなさと歴戦の戦士だけが発する鋭い雰囲気……そんな、ちぐはぐな印象を美也子は持っていた。
痩せて猫背気味ではあるものの、しっかりと筋肉質な体格は数々の激戦を潜り抜けた者だけが獲得できる「戦うための肉体」だった。
「すまない。うるさくして」
「……いや、別におれは大丈夫ですよ。それよりも――あの夢、強烈でしたけど」
「えっ?」
百鬼丸の一言に、ドキリと心拍数が上がった。
(なんで知っているの?)
「もしかして、誰かにわたしの話を聞いたの?」
ベッドから起き上がり、努めて冷静さを取り繕った口調で訊いた。
百鬼丸は扉に近い壁に背中を預け、少しだけ考えこむように俯く。
「あれって、やっぱり荒魂に喰われた時の記憶――ですよね?」
率直な質問に、美也子は反論できずに無言で頷いた。
「……それを聞いてどうするつもり?」
「えっ?」
美也子は自分でも驚くくらい棘のある声音で百鬼丸を睨んでいた。勝手に人のデリケートな部分に土足で踏み入るような感じがして、彼女は心がかき乱されていた。
「可哀そう、って慰めにでもきてくれたの?」
「――」
百鬼丸はしばらく目を丸くして、美也子の次の言葉を待っていた。
(違う、この子は悪くない。……どうしたんだろう。)
さきほどから、自分はおかしい。
歯噛みしながらも、抑えきれない情動で百鬼丸を再び見据える。
「夜中に大声を出してごめんなさい。もうこれで、この話は終わり――」
会話を切り上げ、退出を促そうとした。――しかし。
「――痛いですよね。荒魂に体を引き千切られるのって。分かりますよ」
箇をあげた百鬼丸は、どこかやつれた表情の美也子を見返して苦笑いを零す。
「おれもパクパク食べられたんで分かりますよ。……ま、そもそもおれ〝たち〟は人間じゃないから同じではないですけど」肩を竦めて、気軽な感じをジェスチャーで示す。
「……君は確か、人の心が読めるんだと聞いたけど」
美也子は舞草の事前情報で百鬼丸の情報は知っていた。
「――ええ。」
「だからさっきの、わたしの悪夢も――」
「そうですね」
「……だったらごめんなさい。こんな悪夢――君にもみせてしまって。謝るから」
「いや、そーゆー事じゃないんですよ。良かったら、何があったか聞いてもいいですか?」
「――ッ!? ……はぁ、君には関係ないって言った。この話は終わり」
「でも……」
何か言いかけた百鬼丸を強く憎しみの籠った目で睨み、
「いい加減にして! これ以上あの日のことを思い出させないで! そりゃ、君みたいに強くないから――あんな事になったけど、荒魂に怪我を負わされたのだってわたし達が未熟で……」
気が付けば、無意識に胸元を右手が強く握り締めていた。
「……っ、もう関係ないでしょ」
「そうですかね。だったら、そんな錠剤はいらないでしょ?」
どこか馬鹿にしたような物言いで百鬼丸はサイドテーブルに近寄り、置かれた錠剤を掴み、シゲシゲと眺める。
「触らないで!」
「こんなモンに頼るって結構追い詰められてたんですね」
「こんなもの!? わたしの何が解るの?」
「だから分からないから聞いてるんですよ?」
「喋る必要性がないでしょ!?」
「……そうですか。でもあの悪夢を時々みるのはキツイですよね――あの時におれがいれば、あの程度の荒魂なら斃せたのになー」
呑気で、あの時の惨劇を軽く扱うような口調に、美也子は思わず立ち上がり百鬼丸の頬を思い切り叩いた。
「ふざけないで! 君にあの時のこと何が解るの! 人の命を、わたし達のことを馬鹿にしないで!」
美也子は怒鳴り、片頬が赤く染まった少年を正視した。
思い切り強くビンタしたらしく、百鬼丸の口端から血の細い筋が流れた。それを、彼は手の甲で拭い、
「……でもおれを助けに来てくれた時、トラウマを押し殺して夜の山に来てくれたんですよね? ありがとうございます。そんで、さっきの挑発するみたいな言い方、すいませんでした」素直に謝罪した。
「……どうして、そんなに知りたがるの?」
「おれ、決めたんです。なるべく多くの人と話して、人間を知りたいんです。本当の意味で人らしく生きていけるように。……突入作戦までで、時間は限られてますけど、人をもっと知りたいんですよ」
屈託ない笑顔で百鬼丸がいう。
美也子は大きく息を吐き出して、ピリピリと痛む掌を握る。
「取り乱してごめんなさい。わかった。あの時の事を…………君もあの悪夢をみたから覚えているでしょ?」
「ええ」
「四年前、近畿地方で大規模な荒魂の掃討作戦があったの。その時は折神家の無茶なノルマが課せられていて、荒魂の退治数が決まっていたから皆躍起になっていた。平城と援護として長船が近畿地方の掃討作戦に出た。まだ刀使を初めてから日の浅いわたしと、経験の浅い部隊で掃討作戦に参加したらどうなると思う? ……壊滅状態よ。人間は脆い。それを思い知らされた。わたしは幸いにして命こそ助かったけど、荒魂に片目と片腕をやられた。目の前で――」
自らの右目の眼球が、荒魂に喰われる光景。
ドロドロの粘ついた血液を滴らせた荒魂が、まるで見下すように一つの目玉を牙の間に挟み、口を動かす。
「ウッ、」
その光景を思い出し、話ながら吐き気がした。
「大丈夫ですか?」
百鬼丸は心配そうに背中をさすり、落ち着かせる。
「ごめんなさい。ありがとう、もう大丈夫だから――。あの時、もし連絡が緊密にできていれば、もし装備が十分だったら。病床で、いろんな〝もし〟を考えた。何度も呪った。刀使にならなければ、こんな痛い思いしなくて済んだのに。何度も泣いた。……でも、刀使を守るには、確かに君みたいに凄く強い人が必要だと思う。――でも、わたしの目指した方向性は、ある意味では君を否定することだと思う」
ベッドの縁に腰かけた美也子は、ペットボトルの水を口に含む。
何度か呼吸をして冷静さを取り戻した。――それから百鬼丸を見返し、
「……もしも、あの時、スーパーヒーローがいれば全部解決したかもしれない。でも、それじゃ意味がないって、ある時気が付いた。刀使の身を守るのは、刀使自身。そして、周りのサポートをする人間がしっかりしていれば、防げた事故だと思う。わたしは刀使が、本当に弱い人気の女の子だって知っている。――あの時、小さい子供みたいに泣き叫んでも誰も助けてはくれない。絶望的な状況にならないように、サポートする人間が必要なんだって。だから臆病って笑われてもいい」
「誰も笑いませんよ」
「――君みたいに誰しも強い訳じゃないんだよ、人間って。皆、ひとりひとりは弱いんだ。でも、だから支え合っていかないと、立っていられないんだって……」
情けないって、自分では思う。ポツリと美也子は皮肉っぽく吐き捨てる。
「百鬼丸くんに一つだけ聞いても?」
しばらく黙っていた百鬼丸は、顔をあげて、「なんですか?」と首を傾げた。
「強さって何かな?」
片目で百鬼丸を真剣に見据える。
「――――強さ、ですか? 難しいな。おれ頭良くないし。そんでも…………なんだろうな? スイマセン。おれ、多分だけど期待に応えるような事なんて言えません」
軽く失望したように美也子は俯き、首を横に振った。
「――ごめんなさい。忘れて。頭が混乱しているだけだから……」
自嘲気味に鼻を鳴らして息を吐く。
「そうなんですか?」と百鬼丸は後頭部をガシガシと掻いて、美也子の傍に歩み寄るとベッドの縁の位置と合うように膝を折り、彼女の両手をとる。
「苦しい記憶って突然思い出すんですよね。……誰かを支える――イイコト教わりました」
百鬼丸は屈託のない表情で、美也子を見上げる。
「落ち着くまで一緒に居ますよ」
2
『現在、房総半島沖を航行する国籍不明の原子力潜水艦一隻が、海面から浮上しました。……イチキシマヒメが乗っている可能性が高く、海上保安庁の監視船舶が警戒にあたっています』
新宿の街頭モニターに映し出された潜水艦の船影。
いくつかのサーチライトに照らされながら不気味にも、夜の海上を進んでゆく。
待ちゆく人々はモニターを見上げながら、不吉の種になりそうな自体に暗鬱な面持ちで見入っていた。
『依然として潜水艦は北上を続けており……』
アナウンサーの声は努めて冷静に、原稿を読み上げながら機械的に正確に発音する。
中継を眺める人々はただ、自分たちに出来る事はない…………ただ、事の推移を知るだけだ。そんな無気力感に苛まれていた。
『我はただ、人との融和を望むに過ぎない』
タギツヒメの会見での言葉が、今更のようにジワジワと群衆の耳に伝わり初めていた。それに代わって、荒魂被害を抑えるどころか失態を晒す刀剣類管理局と、政府へ厳しい目が向けられはじめていた。
◇
「――これは一体どういう事だ!!」
官邸で大声をあげ叫ぶ男がいた。
現在の官房長官である。普段、客人をもてなす部屋で窓を眺めながら憎々しげに文句を並べる。
彼はこれまで、この国難を乗り切るために様々な裏工作を行い、米国とも取引をしていた。あくまで、刀剣類管理局ではなく国家……ひいては内閣が主導権を握っている事が望ましい。
――だが。
日本政府と刀剣類管理局、海保、自衛隊以外では知りえる筈のない「ノーチラス号」の居場所を〝偶然〟マスコミが察知していたのだ。
「これはどういう事だ!」
官房長官は電話口で相手に詰問する。
『あらぁ? ふふっふ、そうですか。犯人捜しなんて今更無意味では?』
電話のスピーカーから女性の哄笑が聞こえた。
「どういう意味だ?」
努めて冷静に官房長官は、訊ねる。反応から察するに――いや、ほぼ確実に彼女が原因で間違いがない。
『そんな事はどうでもいいでしょう。それより、イチキシマヒメが衆目に晒された。政府があの危険な存在をどのように対処するか? 国民の信頼を失っている刀剣類管理局にこのまま任せるのか……それとも、政府が自ら管理下に置くのか。どちらが懸命かはお分かりですよね?』
「――君は我々を恫喝する気か? 高津雪那学長」
『ふふふ、米国と裏で工作までして……ご苦労様です。ですが、最早現状は予断を許さないのではなくて? でしたら、あなた方がとれる選択肢は限られていますが、いかがでしょうか?』
雪那は楽し気に、含みを持った言い方で切り返す。
「――――分かった」
官房長官は、全てを悟った。――政局がこのひとりの女によって転がされている事に。ただでさえ、数々の災害による対処の遅れを責められる政権は、支持率も低い。無難な国家運営を望む彼からすれば、確かに雪那の筋書きこそが、最善であった。
(まるで悪魔との取引だ……)
けだし、政府の意思決定が刀剣類管理局の一派閥に過ぎない維新派が握ったことを意味していた。
『それでは、また……ふふふふ』
不気味に笑う女は、精神のバランスが崩れているような印象すらうけた。
電話を終えた官房長官は、「くそっ!」と激しく壁を殴った。
米国との密約――すべてあの女に見透かされている。すでに、あの「刀剣類管理局維新派」はコントロールできる存在ではなくなっていた。
◇
錬府女学院で、ノーチラス号の行方を追う緊急中継を眺める可奈美と姫和は、不安げに画面を見つめていた。
他の三人は翌日の哨戒任務に備え、自室で就寝している。
学院の休憩室のTVモニターは、なおも緊迫した状況を伝える。
『依然としてゆっくりした速度で北上を続けており――』
現場のレポーターのマイク越しの説明を、気もそぞろに二人は聞いていた。
「……っ」
姫和は小さく俯き、何か考え込むような横顔をしていた。
「姫和ちゃん――」
ノーチラス号には、イチキシマヒメと折神紫が乗船している。
姫和にとって、一筋縄では感情の整理がつけられない存在だった。一方は、姫和の母である篝の命を縮めた元凶である荒魂であり、一方は、荒魂に蝕まれたと思っていた――女性。
拳を固く握って、真紅の瞳を瞬く。
可奈美の視線に気づいた姫和は無理やりに微笑して表情を取り繕い、
「私たちはあくまで刀使だ。……分かっている。護衛任務は遂行する」
硬い声音で返答した。
「うん……そう、だね」可奈美も、あえてそれ以上追求せずに頷いた。
「「……………」」
沈黙が降りた。
室内は、TVの中継報道の音声以外になく、不気味なほどの気まずい沈黙が二人の間を
流れた。
「――ねぇ、姫和ちゃん」
ふいに、可奈美が口を開く。
「……どうした?」
やや反応が遅れて姫和が問い返す。
琥珀色で美しい可奈美の瞳が暫く、姫和の両目を見据えていた。
「……ううん、なんでもないや。ごめんね」
「変な奴だな」
ふん、と不快そうに鼻を鳴らした。
(――可奈美は私の目を見て何を感じたんだ?)
濡羽色の長い髪を翻らせ、緑色のクッション部分が分厚いソファーに腰かけた。
『何か困ったら話くらいなら聞くけど?』
耳の奥から、少年の何気ない言葉が甦る。
「……困った時は話くらい聞く、か」
無意識に姫和は呟いていた。
「えっ? どうかしたの?」
可奈美は、不思議そうに聞き返した。
少しだけ口角をあげた姫和は、困ったように細く形の良い眉を下げて、「ああ、少しな。思い出したんだ」とはにかむ。
「百鬼丸の奴と、前に一度だけ私の実家に行ったことがあったんだ。母の遺品を捜す、それだけの事だ。――あの馬鹿者は頭が悪い癖に、妙に人の気持ちを読むクセがあるから、油断できなかったんだ。それでも、アイツから勝手に人の事情に首を突っ込んでくるような……無粋な奴ではないことだけは理解できたんだ」
あの日の夜、姫和自身は母が折神紫や刀使、多くの人々を守るために自らを生贄とした。――その後の運命を悟ったように、惜しげもなく命を差し出した。
(私は、そんな母が尊くて――刀使として尊敬している。……だけど、今更になって思うんだ。私は、尊敬できる母でなくてもいい……ただ、普通の人たちのように、生きていて欲しかったんだ)
初めて、他人に言葉にして本音を吐露した。
(私は、私は……尊敬できる母じゃなくて良かった。一緒に他愛も無い日々を過ごしたかっただけなんだ)
百鬼丸の義手を握りながら、記憶の中の母について語っていた。
そんな事を言っても今更仕方がないのかもしれない。……けれど、なぜかあの日の夜だけは違った。すべてを百鬼丸に訊いて欲しかった。
いつの間にか、姫和は懐かしむような表情で自らの右手をみた。あの時の義手は確かに冷たい質感で人の手の手触りとは違った。……夜に眠れず、握った母の温かな手とは異なる感覚だった。
それでも安らげたのは、今思い返しても不思議だった。
そんな横顔を眺めながら可奈美は、優しく笑いかける。
「そっか。……うん、でも解る気がする。百鬼丸さんって変わってるから」
ジト目になった姫和は、
「それをお前がいうか」と突っ込んだ。
「ええーっ、ひどいなー」
心外だ、とでも言いたげに眉根をハの字に曲げて桜色の頬を膨らませる。
「ふっ、当然の話だ。…………それに、昔のことも思い出したんだ」
「昔のこと?」
姫和は、今の自分の心境を正直に話したい気分で一杯だった。……なぜだろう? そう自問するよりも前に、口が素直に過去の記憶を手繰ってゆく。
「実家に辿り着く前に、あの馬鹿者に背負われて山道を抜けたんだ。その時に、昔――父に背負われていた時と重なった。それだけの話だ」
母よりも先に亡くなった父――。姫和は、実は父との記憶があまり残っていない。警察官であり、常に家を空けていた父は、時々帰ってきて遊んだ。それは覚えている。
だが、姫和からすれば数少ない家族団欒の記憶が、微かに残っている程度だった。
「そっか……」
深く事情を知らない可奈美は、微笑を浮かべて姫和の隣に座る。「それで、何を思い出したの?」と優しい口調でいった。
◇
……姫和は、幼い頃の朧げな景色を瞼裏に映し出した。
普段は家を空けていることの多い父と共に出かけていた時の記憶。長い石階段の上にある神社に初詣にゆく風景だった。幼い姫和は眠い瞼を擦って、父の大きく筋肉質な背中に背負われていた。隣を歩く母、篝が慈しみの表情で自分(姫和)を眺めていた。
記憶の中の姫和は、珍しく家族全員が揃っている事に嬉しさと気恥ずかしさを覚えていた。
そして、何より安心できる背中に、心地よさを覚えていた。――もし、ここで起きていることがバレてしまえば、背中から降ろされるだろうか?
幼いながらに考えた姫和は、寝たふりを続けていた。
(もう少しだけこのままで居たい……)
薄目を開いて、誰かの体温や呼吸を感じながら眠っていたい。父と母の愛情を――。
……だが、そんな日常の一コマは終わってしまう。
『――疲れてたら眠ってていいんだぞ?』
少年の声音が、父の姿を連想させた。
(ああ、そうか。私はあの時に奴とあの日を重ねていたんだ)
◇
「姫和ちゃん、大丈夫!?」
物思いに耽っていたらしく、姫和はハッと息を呑んで頭を上げた。
可奈美が心配そうに瞳を覗き込んでいる。
「ああ、大丈夫だ……なんだ可笑しな奴だな。私なら平気だ」
「でも……」
心配のし過ぎだ、と小言を言いかけて姫和は、自らの両頬が濡れている事に気が付いた。
「なんだ、これは……」
頬を伝う水筋は顎にまで達し、緑のスカートにポタポタと滴る。
「違うんだ――私はただ、」
手首で必死に目元を拭い、溢れる液体を押しとどめようと試みた。
だが、次々に溢れてしまい、どうしようもなかった。
『――どうして、運命は母を、私を構うんだろうな』
少年の義手を握りながら自嘲気味に呟いた言葉。
(抗いたかったんだ…………母の命を奪っていった、残酷な運命から)
「姫和ちゃん…………」
可奈美は考えるよりも先に、小さく肩を震わせていた黒髪の少女を抱き寄せる。